はるの
2022-08-08 22:34:31
28617文字
Public スタートレック
 

触れて繋いで認めて抱いて

全年齢|AOS spirk|2021.3.20|STBのエンディング周辺、マッコイがいないと明日も見えないジムとスポックの、それぞれの本音と覚悟の話。思うよりたくさんの愛情(https://privatter.me/page/65a92eff41f42 )からの続きの話になっています。



 予定どおり、翌日には退院して艦隊支部に顔を出したスポックは、カークの嬉しそうな姿に出迎えられた。頑丈だなあ、としみじみ言いながら、隠し扉でも探すように体のあちこちをノックしてくる彼を好きにさせつつ、随行して領事者会議に出席する。
 パリス提督は、建造途中の航宙艦が完成次第、エンタープライズとリネームし、キャプテンとクルーたちを乗せて未開の宇宙へ叩き出す気満々だった。意味ありげなアイコンタクトをカークと交わし、お互いに少し口元を上げるようなしぐさをしたので、自分の知らない間に我らの船長が根回しをしたのだろう、とスポックは考える。こういった、艦長として頼りになりすぎる彼の振る舞いを目の当たりにするたび、スポックは昔日の彼を思い出して、胃の中に蝶を飛ばすことになる。良感情だが、どこか不安な気持ちもあるそれを、スポックはここ1年ほど持て余していた。
 議題に挙げられたそれは、もちろん即時決定できることではない。建造を進めている理由は多岐に渡るため、関係各所との折り合いをつける必要がある。最終決定にはしばらくかかるだろうが、話を聞いている限りでは、この案で進めてもらえそうだった。隣からほっとした気配がして、スポックも小さく息を吐く。彼がファイブ・イヤー・ミッションの継続に安堵している、ということは、とてつもなく大切なことのように思えた。
 その後、ほとんど難民のようになってしまったエンタープライズのクルーをどうするか、アルタミッドに墜落したまま放置されているエンタープライズをどうするか、といったことを話し合い、全面的にこちらに好意的な案で方針が決められた。自分たちがヨークタウンの命の恩人である、ということを差し引いても、このステーションを切り盛りしている人々は、一様にしておおらかかつフラットである。『自分の所属は自分で決める』という流儀に則った人工惑星だからだろうか、カークともよくよく意見が合うようで、始終なごやかな会議だった。



 保安部からアルタミッドの軍事的な無力化報告を受けて、一度エンタープライズを検分しに行くプランが立てられたとき、真っ先に立候補したカークに倣って、スポックも強く立ち合いを要望した。保管庫の回収が主な名目ではあるが、何をどこまで回収できるのか、はっきりと自分の目で確かめたかったのである。同じ思いのクルーは多く、ヨークタウンの小型船で、何便かに分かれて向かうことになった。クラールに引きずり込まれた、ジェイラのような境遇の者が土着化しており、話し合いを持たずに襲い掛かってくる可能性がある、とのことだったが、厳重な装備の保安員が組織的に付帯した集団に対して、よほどのことはけしかけてこないだろう。私は絶対に戻らない、とかたくなに言い放ったジェイラ本人からも同意を得られたので、おそらく間違いはないと思われる。
 小型船に乗り込んで、何が回収できるか、あれは残っているだろうか、と雑談をするクルーに対し、カークは気まずそうな顔で、船ごとひっくり返したからあんまり期待しないで、と小さな声で告白した。
 途端に、船ごとひっくり返した? という全員の叫びに問い詰められて、カークは小さく丸まってしまう。そんな彼とクルーとのやり取りは、いつものごとく微笑ましいものだったが、さすがに現地でかの船の最期を目の当たりにすると、全員が言葉を飲み込んだ。
 焼け焦げ、崩れ落ち、砂礫にまみれて伏している、かつてのホーム。
 エンタープライズが大好きだと言った、カークがこれを最初に見たときの気持ちを、スポックは慎重に思案した。
 彼がひとりでなく、そこにチェコフがいて良かったと思う気持ちと、そこにチェコフでなく、自分がいられれば良かったと思う気持ちが、同時に現れて、静かに心に沈着する。
 カークを見やれば、彼はこちらを向いていて、少しだけ困ったような調子で笑った。ぽん、と肩を叩き、すでに現地入りしている保安員へと近づいていく。スポックもそれに続き、ほかのクルーと共に、船の状態を仔細に聞いた。アンカーは打ってあるが、二次災害の危険性が皆無ではないことを言い含める彼らに同意して、慎重に船へ入る。どこもかしこも壊れていて薄暗く、天井を踏んで歩くことへの違和感が強かった。
「無事なのは保管庫だけかな、これはさすがに」
「保管物も一部は破損しているでしょう。0より1であることを喜ぶべきかと」
「そりゃ、無限に喜ばしいな」
「どちらへ?」
「長くかかりそうなのはあとだ。先に部屋行っていいか? たぶんちょっと見るだけで終わる」
「同意します」
 彼の軽口が、本心なのか、ふりなのかは分からない。けれどカークは至極穏やかな表情で、ひょい、と小さな穴を飛び越えた。他のクルーも各自の判断で動いており、そのうち保管庫周辺で集合することになるだろう。危険性を考えて、滞在時間は決められている。各個人の優先度を尊重する、と取り決めたのは、出発前のキャプテン自身だった。
 斜めになって閉じている自室のドアまでたどり着いて、カークはぽかんと口を開ける。『分かってはいても実見すると驚く』という心情は、スポックにも理解できるものだ。彼はすぐさま口を閉じて、小上がりのようになっているドア口へ乗り上げる。そして提げていたバッグからガラスカッターを取り出すと、ドアの強化ガラス部分を指定して設置した。人が通れるサイズに切り取られていくガラスを、彼は器用に吸盤で接着し、取り外して廊下に置く。
「うわっは、めちゃくちゃ」
 中に入って懐中電灯をつけたカークは、軽い調子でそう言った。連れ立っていいものか迷っていると、手招きをされたのでスポックも慎重にドアをくぐる。
 壁に破損箇所はないようで、中はほとんど暗がりだ。しかし、その不明瞭な視界でも十分認識できるほど、確かに、めちゃくちゃという形容がふさわしい状況だった。
 見慣れた部屋だからだろう、それをより強く実感できる。かつての天井に彼の私物が散乱しており、家具は軒並み倒れていた。何かを踏んで足を戻し、スポックも手持ちの懐中電灯をつける。足元にはすすけたビショップが転がっていた。
 大胆な配置になっているソファをずるずると動かして、カークはきょろきょろと動いている。
 もう少し、悲愴な心境になるかと思っていたが、そうでもない。
 喪失感がかけらもないと言えば噓になるが、彼が今、始終穏やかな表情でいるのは、おそらく本心だろう、とスポックは思った。
 彼が生きていて、自分も生きている。それだけで、十全に慰められている。
「おっ、いいのを見つけたぞ」
 無茶な体勢で手を伸ばしたカークは、小ぶりの箱を掴んで身を起こした。ライト2本の薄暗い光源でもよく分かる、明るい笑顔がくるりと振り向く。
 彼は障害物をまたいで戻ってくると、懐中電灯を肩口に挟んで、箱のシーリングをべりっと剥がした。ステンドグラスのようなデザインの、カラフルな金物の箱である。スポックがそれを見つめていると、カークは目を上げて微笑んだ。
「これはスポックからもらったお菓子の空き缶」
「私、ですか?」
「君に覚えがないなら、当然もうひとりのほうだろうな」
 意地悪そうに口角を上げる彼に、スポックは口をつぐむ。
 スポック大使の、金物の、小箱。
 いまや自分にとっては、多大な複雑さと特別な感情が付随するものだ。スポックは厳重に冷静さを意識して、彼の手元を見下ろした。カークはもたもたと箱を開け損ね、がちゃ、と中身の音を立てる。やりにくそうにしているので、彼の首元から無言で懐中電灯を引き抜き、代わりに手元を照らすことにした。彼は軽く礼を言って、再び音を立てながら箱を開ける。
「シール貼っといてよかったなあ」
 ごちゃごちゃと箱の中身を漁りながら、彼はしみじみとそう言った。スポックはその中身を見て、ゆるやかに眉を寄せる。
 そんなこちらに気づいたカークは、楽しそうに首を傾げた。
「気になる?」
……いいもの、ですか」
「がらくたに見えるだろ。俺はそういうのが好きなんだ。たとえば――
 ぺろ、と唇を舐めて、彼は箱に手を這わせる。
「これはボーンズにもらった変な木彫りのお守り」
「変な……
「これはスールーにもらったメリケンサック」
「何故」
「これはキャロルと飲んだワインのコルク。これは紙のコースター。見ろよ、直筆のフルネームだぜ。ニヨータ・ウフーラ。彼女に俺が認められた記念すべきアイテムだ」
 それからこれは、とカークは嬉しそうに、懐かしそうに目を細めて、小さながらくたを説明してみせた。
 スポックは途中から、彼の説明する宝物ではなく、説明する彼自身から目が離せなくなる。業務用の電灯は明るく、箱から反射した光に照らし出された彼の顔は、白くまばゆく輝いていた。目尻の小さい皺までよく分かる。美しく澄んだ虹彩も、毛先に明かりがともったような、ゆるく伏せられた濃いまつげも。
 幸福であることに戸惑い、それを甘受しようともがいている、そんな彼のたましいは、こうした日常の小さなことを、手の中にだいじに包んで生きていくような形をしているのだろう。
 そうやって、彼はこの先、何十年と生きていく。
 この世で彼だけがその価値を知るもの、そんな彼の宝石たちが、彼を優しく生かすのだ。
「これは、お前にもらったきれいな石。覚えてる?」
 カークの言葉に目を落とすと、薄く青を透かす小石を摘み上げていた。
 脳裏に波の音がよみがえり、思い出をかすめていく。
「覚えています」
「あ、石じゃなくて、ごみなんだっけ」
「地球のシーグラスと同じものです。捨てられたガラスが研磨されて丸くなる。あなたはアクアマリンのようだと言って、自分にぴったりだと笑いました」
「そうだったかな」
「私はよく分かりませんでしたが、あのあとすぐに意味を調べました。地球では、アクアマリンは航海の安全を祈る船乗りの守り石とされている。私はそれをお渡しできたこと、あなたがそう感じてくださったことが、とても……
――嬉しかった? だから君、あのあとなんかうきうきしてたのか。かわいいやつめ」
「覚えてらっしゃるじゃないですか」
「えーっと」
 カークは照れ臭そうに、あらぬ方向を向いて頭を掻くと、丁寧にシーグラスを仕舞って缶の蓋を閉じた。そうして箱をバッグに詰め、こちらの手から自分のライトを抜き取ると、わざとらしいくらいの大げさなしぐさでぐるりと部屋を照らし出す。
「あとはもう、救いようないかな。酒瓶は全部割れてるし。なくして困るもんは地球に置いてきてよかったよ、こんなこともあろうかと、だな」
「外部ストレージは? 個人のものがあるでしょう」
「大したもん入ってないからいい。だいたいネットワークに置いてるし」
 そんなことを言いながら部屋を出ていく彼の背は、かけらの躊躇も見せなかった。素直に続いてドアを抜ければ、カークは早速、隣の部屋へ押し入ることに着手している。自分の部屋のことなので自分がやると申し出ようとすれば、取り外す吸盤持ってきて、と先に指示を出されてしまい、スポックはおとなしく、廊下に安置したガラスから吸盤をひねって持ち上げた。
「お前のこぎれいなスペシャルロジカルヴァルカンルームがカオスに飲まれてると思うとわくわくするな」
「キャプテン、不謹慎です」
「すべからくエントロピーは増加するものだよスポックくん。つーか、君も自分の部屋チェックするってことでいいよな? 今普通に開けてるけど」
「はい。確認事項があります」
「確認事項……。なくなって困るもん溜め込んでないだろうな……
「艦隊への提出が必要なものはありません。ですが、非常に個人的な内容を含むデータがありますので、ストレージからファイル群を復元したいと思っています。サーバからは削除してしまいましたので」
「非常に個人的? 非常に? 特殊性癖のAVとか?」
……キャプテン。非常に、不謹慎です」
 噛み含めるように苦言を呈すると、カークは愉快そうに声を上げて笑い、また器用にガラスを取り外した。ぽっかりと空いた暗い穴を見て懐中電灯をつけ、いたずらっぽい眼差しで、彼はにやりと振り返る。
「お先にどうぞ」
「そのようなものではありません。復元したいのは、スポックからのビデオレターです」
「スポック?」
「私が発言したのなら、当然もうひとりのほうでしょうね」
 促されて先に部屋へ足を踏み入れながら、スポックがそのように返答すると、カークはぽかんと口を開けたあと、拗ねたような顔をして唇を尖らせた。



 自室もたぶんに漏れず、ひどいありさまである。いくつかの無事そうな書籍を拾ったあと、無残にも倒壊した机から身を投げ出したような形のコンソールを助け起こし、スポックは片膝をついた。もう二度と電源を通すことはできなさそうだと考えていると、横から簡易の工具箱が差し出される。礼を言って受け取れば、カークは代わりに片手に提げていた懐中電灯を奪い取った。それで手元を照らしてくれる彼に、重ねて丁重に礼を言う。お互いさまだ、と返した彼は、その場から動かないながらも、もう片方の手で部屋のあちこちを照らしてサーチした。
「ああ……、カポックが」
「どうなっていますか」
「鉢植えがぶっ壊れて下半身丸出しだ」
「キャプテン」
「こっわ。持ち出せるかな、あいつずいぶんでかくなったし」
「クルーたちもそれぞれ持ち出すものがあるでしょう。一抱えあるシェフレラを運び出すのは現実的ではありません」
「だよな……、なあ、せめて外に運ぼうぜ。うまくしたら土着するかも」
「外来種になります。推奨できません」
「うう。でもどうせこんなでけー船が落ちてんだ、検疫どころの話じゃないだろ」
「それでも、生態系に影響を及ぼす可能性があることを作為的に」
「分かった! 分かったよ、はあ……、悲しい……
……ジム、シェフレラは挿し木をすることが」
「取ってくる!!」
 途端に手元を照らしていたライトが床に落とされ、隣にいた彼は憤然と倒れた家具を乗り越え始める。自身の手で水をやることも多かった観葉植物に対しての、こんな彼の態度は、どこか胸をほっとさせてくれた。スポックとて、愛着がないわけではないのだ。
「スポック! 挿し木ってどの部分が要る?!」
「10cm程度で構いませんが、状態を見てカットするので20cmほど、いくつか節目を入れた状態で切り落としてください」
「よ~し、カポック・ジュニアだな。それとも別の名前にする? 何ポックにする?」
「カポックというのはその植物に対する日本の名称です。スールー大尉は決して私の名前を取り上げたわけではなく」
「俺としてはポポックあたりがすごくかわいいと思う」
「聞き耳を持ってください」
「そいつは今バカンス中だ」
 わさわさと枝を触っているカークの言いように諦めて、スポックは自分の手元に集中した。先ほど彼がやっていたように、首と肩で懐中電灯を固定し、コンソールからストレージ部分を剥離する。やっと取り出して立ち上がると、カークも一仕事終えて戻ってきた。小さな枝木を掲げて得意そうにする彼に、もうなんでも許してしまえそうな気分になってしまう。
 カークはわざわざライトを向けて、こちらの手のストレージを覗き込んだ。
「修復できそう?」
「おそらく」
「できるといいな」
「はい」
 そうして再び、こちらを見上げる顔は、白くまばゆく輝いている。
 スポックはそれをしみじみと見つめ、やがて怪訝に思った彼が、わざとらしく首を傾げるまで、飽きもせずに見つめ続けた。
 いや、飽きもせず、などという言葉は不適切だ。きっと飽きることなど一生ない。
「ジム」
「すごい見るじゃん。何?」
「彼からのレターで、あなたに伝えてほしいと、言づけられたことがあります」
――そっか。何って?」
……いえ、まだ秘密です」
「秘密?」
「あなたにきちんとお伝えできると私が感じたときに、お話しします」
「感じた、ときに」
「はい」
 カークは珍しく、見つめ続けるこちらの双眸から目を逸らすことをしなかった。大抵、しばらくすると照れたように目を伏せてしまうのだが、今はただ、静かにスポックと視線を重ね合わせている。
 彼は鋭く敏いので、もしかしたら「言づけ」がどういうものか、勘づくことがあったのかもしれない。
 けれど、彼の最期の言葉は、きちんと整理がついてから、きちんとカークに話したい。そう思った。
 真面目な顔で見つめていると、彼はふと、切なそうに目を細め、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「スポック」
「はい」
「試しに、抱きしめてみてもいいだろうか」
「試しに?」
「試しに」
 試しに、の意味が分からなくて言葉に詰まると、彼はきゅっと唇を噛んで、数秒、耐えきれなくなったように腕を伸ばした。
 胴と腕の間に手を差し挟まれ、ぎゅう、と抱きつかれて呼吸を止める。
「スポック」
 肩口に頬をくっつけて、まるで言葉を選ぶように震えた吐息は、結局こちらの名前を呼んだ。ほとんどしがみつくように束縛されて、スポックはそっとカークの背中に両手を添える。ひそかに息をのむ音がして、彼はわずかにわなないた。
 なだめるようにそっと手を撫で下ろすと、カークは身じろいで頭の位置を変え、なつくように首筋に口をつける。
「スポック」
 ああ、とスポックは思う。
 頸動脈に薄い皮膚で触れるのは、正しく脈動を感じるためだ。彼が生きていることを実感したいと、そのような行動に出たことがある。そのときの自分の心境はまるで嵐のようだったことを思い出して、スポックは腕に力を込めた。安心してほしい、大丈夫、そんな一心で首と背中を掻き抱く。直接うなじに触れた手のひらが、ぱちりと弾けるようなイメージを伝えてきた。
「いなくならないでほしい、ここから」
 彼のそんな、ごくごく小さな、かすれた声が、閉じ込めた隙間からこぼれ落ちる。できればそれを大切に拾い上げて、お菓子の空き缶に詰めておきたい。そんなふうに、スポックは思った。



……ジム?」
 そうして、しばらく。だんだんと彼の腕から力が抜けて、それに合わせてスポックが力を抜いても、彼は顔を上げようとしなかった。個人的に困りはしないが、この調査には時間制限がある。
「キャプテン、そろそろ行かなければ。保管庫の物品は大量です」
 意図して役職名で呼べば、彼はしぶしぶと顔を持ち上げた。1歩離れたときには腕で顔を覆っていて、ストラップで腕にぶら下がっている懐中電灯が所在なさげに揺れている。直接光を当てなくても、彼がひどく赤面している様子は容易に窺い知れた。
……今起こったことは忘れて」
「私はあまり物忘れをしません」
「ですよね、存じてます。ああっくそ」
 ごしごしと覆っていた腕で顔をこすると、カークは苛立った様子でスラングを吐く。威勢よく踵を返して部屋を出ていくその背中で、引っかけられたバッグが跳ね、中身ががしゃがしゃと悲鳴を上げていた。果たして無事ヨークタウンまでもつのだろうかと懸念しつつ、スポックもそっと部屋を抜け出す。わずかに寂寥を感じたものの、カークの手に大事そうに握られている小枝を見れば、未練気は優しく流れていった。
 また、新しく作ればいい。そう思える。
 そう思えることは、きっととてつもなく、ありがたいことだ。
「忘れ物はないですか!」
「ありません。苛立っているようですが、どうかされましたか」
「どう――
 静かに尋ねれば、ばっと振り向いた彼はらんらんと目を見開いている。薄暗がりでもよく分かる、彼の双眸は、やはり人より採光能力が高いように見えた。
 大口をたたいて物申すように口を開けたカークは、その状態のままこちらを見つめ、何故かそのまま固まってしまう。やがて、彼はその口を、笑みの形に繕った。おどけたような、どこか自嘲じみた、けれど負の感情は含まれていない、そんな笑顔だ。
「俺はもう、ずっとどうかしてるよ。スポック」
 情けなさそうに垂れた眉が、ひどく柔らかそうだった。スポックは突然、今すぐもう一度彼を抱きしめるべきではないか、と思う。
 けれどそう思っているうちに、カークはくるんと振り向いて、がれきの散在する天井を進み始めた。スポックも静かにそれを追う。
……遠からず、近からずかと」
「おいそりゃどういう意味だ? 普段から奇行に走ってる馬鹿の船長はいつもそうですよね、みたいな顔やめろ、喧嘩なら買うぞ」
「売っていません。あなた相手にはどうも感情を隠し立てできないようで、私は常日頃からそれを恥に思っています」
「回りくどいYESだな?! そのでけぇ口にリアルエモーションぶち込んでお前を恥辱まみれにしてやろうか……!」
「セクハラはやめてください」
「こんなの、はあ。こんなの絶対スポック御大のせいだよ……、不在でありながらこの絶対の精度と攻撃力はおかしいだろ、なんなのあのおじいちゃん、不滅なの? 疎にして漏らさないタイプなの?」
「前後関係がまったく分かりませんが、おそらく言いがかりだとおっしゃるかと」
「でしょうね!!」
 気持ちよく全力で叫んだカークは、一度外まで出て荷物を置いた。飲料水のボトルをもらってくると少しだけ口をつけ、シェフレラを挿して立ち上がる。
 キャプテン、と遠くから呼ぶ声に景気良く反応した彼は、今行く、と言って駆け出した。






 スポック大使の金物の小箱。
 スポックが持っているそれは、カラフルではなくシンプルである。私物と書かれた事務的なものだ。
 受け取った当初から、スポックはそれを、ずっと開くことができなかった。
 開いてしまったら後戻りができないような、直感に根差した恐ろしさがあったのだ。
 そのような根拠のない恐怖など非論理的だ、と思考すると、「でも、なんとなくそう思うだろ?」と微笑むカークが同時に浮かんでくる。
 もうずっと、そんな考え方が『普通』になっている。普通になってしまった自分のことも、開けられない箱のように恐ろしかった。
 けれど、開けられない箱のように。恐怖と同じだけの誘惑を、感じている。もうずっとだ。



 アルタミッドから戻って、ある種の決意と共に、スポックは小箱を取り出した。
 ひとりきりの小さな部屋で、静かにその蓋を開ける。
 友人が遺した宝箱。
 その中身を見たとき、スポックは何もかもを理解したような、そんな気持ちに包まれた。
 スポック大使が恐ろしくないと言ったこと。
 マッコイが幸せになれと言ったこと。
 カークがここにいてほしいと言ったこと。
 スポックはしばらくの間、こんこんと考えた。思考に沈む心地良さにたゆたい、彼らと出会ってからのことを反芻する。
 それから彼の、ジム・カークの、あらゆる彼のひとつひとつを、丁寧に思い返しては胸の内に収めた。日常の小さなことを、手の中にだいじに包むように。
 自分もそうして、この先、百何年と生きていくのだろう。きっと、大使がそうであったように。
 この世で自分だけがその価値を知る、自分だけの宝石が、私たちを優しく生かすのだ。



 やがて、スポックは閉じていた目を開けた。彼の宝箱は閉じ、片手に抱えて部屋を出る。
 ジムの誕生会に出よう、と思った。
 腹を括るとはこういう感情だ、というはっきりとした確信があったからだ。