案の定、アホみたいに宇宙へ放り出されんとするうちのアホである。
内臓が全部せり上がって喉から飛び出るような極度の緊張を、持ち前の忍耐力(持ち前の、とあえて言おう、タフでなければ航宙艦の医療主任は務まらない)で抑え込み、マッコイはスウォームシップに跨った状態で、スポック、と声を荒げる。
もちろん、うちのアホその2は、アホその1をうまいことキャッチアップした。
ずるん、と引きずり降ろされるような状態で生還したカークを見て、マッコイは素直に歓声を上げる。よくやった、スポック。よくやった。帰ってきて早々スポックに泣き言をほざいている親友が割と元気そうで、本当に心底安堵したのだ。マッコイは前を向いて、口元を持ち上げながらうんうんと頷いた。いいんだ、こいつは自分かスポックにしか泣き言を言えないんだから、言えるときに言っておけばいい。それでアホその2がどう迷惑をこうむろうが俺の知ったことではない。
「ちょっ
……、スポック! おい! ボーンズ!! スポックが倒れた!!」
「俺の知ったこっちゃない、でどうして終わらせてくれないんだうちのアホその2は
……! 息してるか?!」
「し、してる! えっ、して
……、してない?!」
「してます
……」
「スポックがしてるって!」
「本人が言うなら間違いないな。おいしっかりしろジム!」
「ごめん取り乱した。どうしたらいい?」
あいにくとビルの間を飛行中で、フロントから目が離せなかったが、カークの騒ぎようで何が起きたかはだいたい想像できた。ほぼ自由落下に等しい負荷を持つ長身の成人男性を、内臓がアホになっている状態のまま、腕だけで引っ張り込んだのだ。止血したあらゆる箇所が開いたのかもしれない。マッコイは舌打ちをして、それから特大の溜息をついた。
「運転を代わってほしい。が、もたもた交代してる間にどっかのビルに突っ込みそうだ」
「着陸できそうか?」
「スポックの怪我がどこでできたか思い出させてやろうか?!」
「でも停泊はしてたんだから、減速はできるはずだ。パネルで操作できそうか?」
「減速するとバランスが取れなくなる!」
「あー、OK。理解した」
「何を?! 待て、また何か無茶なことする気じゃ」
「初めてバイクに乗った日のこと思い出したよ。ボーンズ、その左のビル迂回して、頭から水に突っ込め」
「ほらそういうことやろうとするだろ?!」
「ビルの側面に叩きつけられるよりいいだろ! 出入口は上だけ?」
「側面にレバー!」
「了解。斜めに突っ込めよ、ブレーキはかけるけど、水圧抵抗もかけないと下まで突き抜けるかもしれない」
「突き抜けたら?」
「死ぬかな。俺とスポックの命、お前に任せたぞ!」
「絶対、もう絶対、変な小型機に乗ったりしないからな!! ジム!!」
「言い出したのはスポックだ。着水したらスポックは俺が連れてくから、お前も何とか抜け出せよ」
「俺は医者であって曲芸飛行士じゃない!!!」
幸か不幸か、痛みに耐えているらしいスポックからの助言は一切なく、まあつまり、案の定、思ったとおり、やっぱりの精度で、マッコイはカークの無茶振りに応え、無茶苦茶な不時着水をうまくやり切った。こういうところでやれてしまうから、このアホの親友を助長するのだ、とマッコイは渋い顔をしながら大きく息を吸う。まったく、自分の器用貧乏が恨めしい。
カークが開け放った扉からどうと水が流れ込み、3人はその勢いを船内のどこかにしがみつくことで耐えた。というか、スポックは余裕で攪拌されそうになっていたのだが、カークが必死にしがみつくことでなんとか留まっていられた感じだ。空気でぱんぱんの頬袋を作って、憤然とした表情で自分の副長を逃すまいとしているカークはなんだかかわいらしく、マッコイはちょっとだけなごんだような気持ちになってしまう。まったくそんな場合ではないのだが。
水圧が収まると、カークは一度スポックの頬に手を当て、彼の様子を確認した。ヨークタウンの人工池は透明度が高く明るい。ここから見ても、彼の顔色が悪いことが窺えた。スポックはうっすらと目を開けたのち、数秒、目の前の男と見つめ合うと、また静かに目を閉じる。カークは責任感の強い眼差しで彼を抱え、金髪を揺らして機体を蹴った。そのまま外へ泳いでいくので、運転席から抜け出したマッコイも大急ぎでそれに続く。
正直、死ぬかと思った。
水面に顔を出し、ぜいぜいと息を荒げていると、岸辺に艦隊士官たちが駆け寄ってくるのが見える。カークは水難レスキューの要領でスポックを岸まで運ぶと、思いっきり振り返った。ぱっと髪から散ったしずくがきらりと光に反射する。
「ボーンズ!!」
「お前らの肺活量と一緒にするなよ
……、俺は医者だ、スイマーじゃない」
「俺もスイマーじゃない! 助けてくれ!」
ヨークタウンの医療班が颯爽とストレッチャーを持ってきているのを確認して、マッコイは水から這い上がった。スポックはテキパキとシーツにくるまれ、いちに、の掛け声でストレッチャーに乗せられている。のんびりできるのはここまでだろう、やれやれ。マッコイはそんな思いで顔をぬぐい、それから深呼吸をした。
「主治医のレナード・マッコイだ」
仕事用の頭と声でそう言って、引き上げられていくストレッチャーと併走する。瞬時に理解した看護師は、即座にバイタルを宣告した。いいスタッフだな、そんなことを思いながら、濡れて張り付くユニフォームを脱ぎ捨てる。
「ジム! あとで来い!」
ついでに振り返ってそう叫べば、呆然とした様子でこちらを見つめているうちのアホは、かすかにこくんと頷いた。
「いや、正直かっこよかった。惚れるかと思った
……」
「何がだ」
「あと、主治医? って思った。えっ、ボーンズは俺の主治医では?」
「嫌な三角関係の創始はやめろ。エンタープライズクルーの3割は俺が主治医だ」
病室に入ってきたカークは、まるで借りてきた猫のようにそろそろと歩き、白い部屋をきょろきょろと見回した。そんな様子に目を見張っていると、目が合った彼はにやっと笑い、冗談を言い始める。
言いつけたとおり、カークはあとからやってきた。今回の無茶苦茶な事件の総責任者のような立場なので、また割と無茶してここまで走ってきたのだろう。けれど、マッコイは何も言わなかった。何故なら、かつて彼がこのように入院したとき、マッコイは何も言わずにスポックをカークの病室へ通したのだ。同じ処遇にしないと不公平だろう。
マッコイは小さく溜息をつき、部屋のすみから椅子を引いてきてベッド脇にどんと置いた。
「座れって?」
「そう聞こえなかったか」
「お前もときどき無茶苦茶言うからな。言っとくけど」
毅然とした態度で受け答えをすると、カークは不満そうに口を尖らせる。それからしぶしぶといったていで、おっかなびっくり、そろっと、慎重に腰を下ろした。
ヨークタウンはさすがの最新鋭スノードームで、医療施設も充実している。スポックの体力を大きく損なうことなく、最小の負担で最大のアプローチが実施できたのは大きかった。このあたりは勝手知ったるなんとやらで、カークの入院のときとは違い、ずいぶんと気を楽にしていられる部分である。合併症の心配もほとんどないし、明日か明後日には退院できるだろう。
「スポックは」
ぽつりと、置き去りにされた子供のような声で尋ねるカークは、眠るスポックをじっと見つめていた。デジャヴがあるな、とマッコイは思う。今そこで眠りこけている尖った耳のアホも、同じように彼を見ていたことがあった。そんな思い出を繰っていると、返事がないことに不安を覚えたのか、心もとない青い目がこちらを振り仰いでくる。こんな顔をすることも最近はほとんどなくなったのになあ、と子供の成長を見守るような気持ちになりながら、マッコイはひょいと肩をすくめた。
「超頑強だよ。ヴァルカン人の生命力はんぱないな。内臓は地球人と同じくらい弱いけど、とにかく回復が著しい」
「へぇ。まあ、スポックは特に強いもんな。こう、圧力が」
「そりゃお前がアホやったときの態度だろ」
軽い調子でそんなふうに伝えれば、カークはあからさまに安堵した様子で肩の力を抜いた。言葉だけは軽妙なまま、さも平気ですと言わんばかりに続けている姿はけなげである。それに気づかないふりをしながら返すと、カークは笑って手を振った。
「揺るぎないんだよ、いろいろと」
「無駄なパワフルさで無駄に覚醒するから、今は鎮静剤入れてるくらいだ。明日には起こしてやる」
「猛獣か何かみたいな扱いだな」
「特にこいつは、起きればおとなしくしてる気がしない。仕事がどうのと言い出しかねん」
「ああ~」
「言っとくが、お前にその『分かる、スポックは困ったやつだよな』顔をする資格はない。お前らはふたりとも安静にするという概念の根本的理解に努めろ」
「突然返し刀で斬りつけんのやめない?」
ちらっとこちらを見上げて、カークは頬杖をつくように片頬に手を添える。そのいたずらっ子みたいな顔を見て、マッコイはなんだか安堵するような心地になった。
最近、彼はずっと思い悩んでいるようだったから。
最近、といってもあれだ、結構な期間である。もうこの年齢になると1年などあっという間に過ぎていくが、若い彼にとってはもう少し、長く濃密な時間だったことだろう。無邪気の塊のようだったカークは、その無邪気さを特に慎重に取り扱うようになっていた。理由はいろいろと考えられたが、結局、マッコイはそれを問い詰めるようなことはしていない。こんな逃げ場のない深宇宙で、下手に手を出して失敗はしたくない、そんな気持ちのままずるずる来てしまった形である。彼に関してはいつもそうだ。
「お前、怪我は?」
振り向いたカークの顔には、赤く腫れた傷跡があった。マッコイはそんなふうに、考えていることとは別のことを口にする。彼はきょとんとして手を離すと、そっと自分の傷跡に触れた。
「すぐ治ったよ、そのうち赤みもあざも消えるって。さすがヨークタウンだな」
「ああ。こいつを作ろうと思った意思とは一生分かり合える気はしないが、とにかく無事でよかったよ。お前も、こいつも、ヨークタウンも」
「うん」
眉を上げて笑いかければ、カークもにこりと笑って返す。その笑顔が何か変だな、と笑顔のまま思っていると、彼はくるりと体を戻して、再びスポックのほうを向いた。
「ボーンズ」
「なんだ」
やがて、静かな声でそう呼ばれる。地味で、つつましい、そういう種類の声はあまり聞いたことがない、とマッコイは考える。
「俺、エンタープライズを降りるつもりだったんだ」
そんなふうにぼやぼやとしていたら、この爆弾だった。
マッコイは数瞬、彼の言葉が理解できずにフリーズする。
「船長をスポックに譲って、ここで働かせてもらうつもりだった」
「
……ここで?」
「ここで。パリス提督にもそう相談したよ」
「した。した、ってことは、もうやめるって話をしたのか?」
「うん」
「ジム」
「でも、やめるのはやめた。提督は俺を部下にするってことで話をつけてくれてたけど、断ってきた」
「
……ちょっと待ってくれ」
「ボーンズ?」
「情報が多すぎる。一度待て」
「え、うん
……、いいけど」
淡々と話していた背中がくるりと回り、不思議そうな顔で首をひねる。
マッコイは、目元を手で覆って、はあ、と深く溜息をついた。突然すぎて頭が追いつかないし、衝撃の相談内容がすでに『でもやめた』で解決しているのも頭が痛い。こいつはどうも落ち込んでいる間に脳内で相当大回転していたようだ、ということは伝わってきたものの、とりあえず、とにかく、ひとつひとつ整理したかった。
けれど、今やるべきことだけは正確に理解できる。だてにジム・カーク船長の下で何年もエンタープライズの乗組員をしているわけではないのである。
マッコイは、苦渋に満ちた表情を装いながら、くるりとカークに背を向けた。
そして音もなく、スポックに送り出している鎮静剤のレベルを下げた。
「
……で?」
「で、って。なんで説教モードなんだ」
「説教されないとかけらでも思ったか?」
「思っ
……、て、ないけど。でも、俺の人生だし」
「それを俺に言っていいのはジム・カーク以外のやつだけだ」
「それって無茶苦茶じゃないか?」
しばらくの間、いろいろと逡巡して、やがてマッコイはむんと力いっぱい腕を組み、背後に向き直った。ぎゅっと眉間に皺を寄せてカークを見下ろせば、彼は少しだけ肩をひそめて、負けじとむっとした顔を作ってくる。
構わず、マッコイは話を続けた。
「どうして事前に話さなかった」
「え」
「提督に話す前に俺に話すべきだろ、そういうことは」
「親かよ」
「ジム」
だいたい、船に乗るか乗らないか、なんて重要なことを、自分に話さなかったのは彼の過失だ、とマッコイは真面目に思う。もちろん、シリアスな内容であればあるほど、自分の事情を他人には言わないタイプの人間である、と十分に分かってのことだ。言うまでもなく、彼の人生は彼のものであるし、彼の進退は彼自身が選ぶことで、その可否を必ず主治医(でも親友でも腐れ縁でも何でもいい)に報告しなければならない、なんて艦隊規則も倫理もない。
「お前を最初に船に乗せたのは俺だ」
けれど、マッコイにとってはそうなのだ。
自分がそうしなくても、いずれ彼は艦長職へ就任しただろうとは思う。嘘みたいな話だが、適正テストのほうがイカれるくらいの才能を、彼は自力で持ち合わせている。けれど。けれど、だ。
エンタープライズに初めて配属されたあの日に、彼を引っ張っていって乗せたのはマッコイなのだ。
その自負と、かけらの後悔と、よく分からない責任感を、たぶん自分は死ぬまで持っていくんだろうな、と思っている。
カークはこちらの表情と言葉をどう解釈したのか、どことなく拗ねたような顔つきになって、再びスポックに向き直った。いつもより肩が落ちているので、何故かしょげているらしい。
「
……だって、艦を降りるって言ったら、絶対お前も降りるって言うだろ」
そして、そんな当たり前のことを言った。
見えないながらも、マッコイはわざとらしく瞠目する。
「その前に降りるなと説得するが、まあ、そうだな」
「それが嫌だったから」
「は?」
「お前には乗っていてほしくて」
「お前は降りるのにか?」
「う
……、うん」
「どうも自分が無茶苦茶言ってる自覚はあるようだな」
「そう無茶でもないだろ
……」
カークの肩は、今や陥没しそうなほど落ち込んで、そのままベッドに突っ伏しそうになっていた。なんとなく、そこはかと、彼の理解不能な思考回路を汲み取れるような気もするが、彼から直接弁明が聞きたい、とマッコイは判断する。腕を組んだままスポックのバイタルを見つめ、しばらくそうして黙っていると、椅子に座り直すようなかすかな音がして、カークは小さく息を吸った。
「俺は、あのまんまのエンタープライズを宇宙に浮かべたかったんだ。俺が好きな、あのまんま」
「まんま、ねえ」
「いいだろボーンズ、そうしたかったんだ。それが宇宙のどこかにあるって思えば、夜空を見上げるだけで嬉しくなれると思って」
「星の王子さまか? あのなあ、お前のいないエンタープライズが〝まんま〟でいられるわけないだろ。冗談も大概にしろよ、お前はお前の薔薇に責任がある」
「それ、ウフーラにも言われたことあるな」
首だけで肩口を振り返ってきたカークは、情けなさそうに眉尻を下げている。その口元がかすかに笑っていて、マッコイはふうと息をついた。似たように笑ってやれば、彼はおどけるように大きく体を傾けてから、再び静かに背中を見せる。
長期航行による筋力の衰えは不健康に直結するため、彼はよく体を鍛えるようになった。ファイブ・イヤー・ミッション開始当初は、暇を持て余した中での筋力トレーニングが楽しくなった部分もあるだろう。だから、出会った頃と比べると、彼の背中は見た目にも、断然頼もしくなっている。
けれど、3人しかいない、この静かな病室で、その背中はなんだかひどく小さく見えて、マッコイは苦笑にほんのりと自嘲を混ぜ込んだ。
まだまだ守ってやらなきゃならない、そんな馬鹿なことを思っている、アホその3たる自覚である。
「お前は飼いならすのが異様にうまいからな、癪なことに」
「ふうん。お前も飼いならされたか? ボーンズ」
「俺はお前が降りるなら俺も降りると言った」
苦虫を噛み潰したような声でそう答えれば、カークは肩を揺らして笑った。
それから彼は、自分の心の内を、少しずつ告白した。ぽつりぽつり、言葉を選びながら、つっかえつっかえ。
そういった告白に慣れていないのだろうつたなさで、おそらく今まで一度も口にしたことがないような、彼の中の、センシティブで、シリアスな部分を、控えめに取り出しては並べていく。
小さなジムの拠り所だった兄の離別、という彼の世界の崩壊に、必死に抗おうとして、まったく新しい人生に切り替えたこと。そんな彼が自分に課したのは、「どうせそのうちくたばるんだからそれまでは我慢しろ」という鞭だったこと。いつの間にか、そんなふうに自分を奮わせなくても立っていられるようになって、それはエンタープライズが自分と共にある安心が作る幸福のおかげであること。そして、その幸福を肯定すると、過去のずたぼろになってでも死に物狂いで立っていた自分を否定することになって、このギャップがストレスになっていること。
カークの、まるで生き急ぐようなやり方は、アカデミー時代から感じていたことだ。
加えて、彼の〝これ〟を無理に解消しようとすると、どうあがいても崩壊する、ということも強く感じていた。まるで1本でも抜けば崩れるジェンガのように、異様な完璧さを誇るバランスで保たれたバラバラの精神は、自分の手に負えるものじゃない、と思ったからだ。
今も昔も、このアホみたいな親友の精神世界は、マッコイをそのようにして無力感で満たしてくれる。何もできないと落ち込んだ夜も数知れない、ということを、おそらく彼は知らないだろう。知られていても正直困る。
けれど。
――でも。
彼のこの問題を考えるとき、いつも、そんな接続詞が追尾する。深宇宙だからとかなんだとか、言い訳を片手に逃げを打っても、結局のところはこれに尽きるのだ。
こいつの親友はひとりきりだから、それを失わせるわけにはいかない。
まあ、今はふたりくらいになっていそうだが。そんな苦笑と共にベッドを見やれば、やや血の気の引いた顔つきのヴァルカン人は、すやすやと粛然たるままだった。
「不安だって気持ちを、率直に船長ログにも残してたんだよ、最近」
「もしかしてわざとか? お前のその医者を弄するところは本当に」
「そんなんじゃない。本当に不安だった、本当に」
ときおりこちらを振り返って、とつとつと話すカークは、何もかもが静かだ。ちょこっと笑うような顔は相変わらずだったけれど、最近ついてきたなと思っていた艦長たる落ち着きとはまた違う、静謐な湖面のような、穏やかさを含む静けさである。
「船が落ちて、ひとりになって、なんか本当にだめだなと思った。もっと親父のことで頭がいっぱいになると思ってたのに、だめだった。もう俺の中ではエンタープライズでみんなと一緒にいるのが普通で、それ以外はだめで
……、そんなの、そんな『普通』、本当はうんと特別なはずなのにな。もっと夢のような話で
……」
マッコイは、寄りかかっていたコンソールから腰を離した。
そうして親友に向き合うようにして、スポックのベッドに座り込む。
「ジム」
呼びかければ、彼は素直に顔を上げた。目が合って柔らかくゆるめられた頬は、ひどくいたいけに見える。
少しの間、そうして見つめ合っていると、カークはにこりと笑って顔を伏せた。
「エディソンには平和が一番って啖呵切ったくせにな。俺、こんなふうに幸せに生きてて大丈夫かな
……。自信ない」
出会ってから今まで、彼とこうして向き合うたびに、言えずにつぐんできた言葉たちのことを、マッコイはしみじみと思い出す。
そうして、きっと今ならそれが言えるだろうと、それを受けても耐えうるくらい、彼の中でこつこつと作り上げられてきた、彼を支えるすべてのものに思いを馳せた。
手を伸ばして、軽くカークの肩を掴む。下がってしまった顔を上げさせると、まるで迷子の表情が出てきて、マッコイは遠慮なく笑ってやった。
「いいんだよ」
「ボーンズ」
「いいんだよそれで。お前も所詮、普通の人間だったってこった」
「ふつ
……、それはなんかちょっと言い回しが違うくないか?」
「なんだ、自分はもっと特別で、顔も良くて頭も良い宇宙艦隊の英雄だって言いたいのか?」
「
……間違っちゃいない」
「うるせえ。お前はガキみたいな馬鹿をやるアホで、ただのやんちゃな30歳児だよ」
「うるせえ。最近はほら、すげー艦長っぽかったじゃん俺、超頑張ってたよ」
「何も怖がらなくていい。普通でいいんだ。それでいい。それが『普通』っていうもんだ。お前は知らなかったから、ちょっとびっくりしているだけだ」
「
……そうかな」
「そうだよ。そのうちけろっとしちまうもんだ、そういうのは大抵な」
「そうかな」
「そうだ」
「そう?」
「そう」
「はは。何度訊いても?」
「そのとおり」
「ボーンズ」
「何度でも欲しいだけ言ってやる。お前はそれでいいんだ、ジェームズ」
丁寧に呼びかけると、彼は笑ったまま泣き出しそうな顔になる。それを隠そうとするように、カークは肩に置いていたこちらの手を取ると、その手のひらを両目に押し当てた。ふふ、と笑みがこぼれるので、マッコイはやれやれと溜息をつく。強く拘束はされていない手でぽんぽんと側頭部を撫でれば、彼はそっと手を離して、少しだけ恥ずかしそうに、目尻の赤い目を細めた。
なんだかじわじわとこちらも恥ずかしくなってきて、マッコイは軽くぽすんと彼の後頭部をはたいて気分を変える。
「俺が地球人でよかったな」
「何が?」
そんなこちらの様子を見て、へへっと笑っていつもの顔に戻るカークに、マッコイは肩をすくめてふざけてやった。
「今の、ヴァルカン人だったらほぼ求婚と取られかねん」
まあそれは過言だけども、と思いつつ、蝋人形のように動かないスポックを見やってから、再びカークに目を戻すと。
「
……なあ、うるさくするとこいつ、起きる?」
「
……ハムレット風に言うと死んでるな」
「シェイクスピア流行ってんのか」
彼は突如、表情筋からすべての感情を消し去って、ド真顔になっていた。そして思いつめたような眼差しで、一心に真正面の白い壁を見つめている。
――ただし、ぽっと火が付いたように、頬のてっぺんと耳の先に朱を差した状態で。
ああ、うん、とマッコイは思った。まあ、冗談のチョイスに他意はなかった、悪かったよ。そう弁解しようものなら、ただちに逆上されそうだった。求婚されたことでもあるのか? やべーなこいつ(こいつとはもちろんヴァルカン人のことである)などと気を逸らしつつ、とりあえず、マッコイは訊かれたことには答えようと健闘する。
「鎮静剤が切れるまでは起きないだろうな」
そう言った瞬間、カークは盛大にベッドに突っ伏した。
そのまましばらく、彼は微動だにしなかった。ちらっとスポックを見やったけれど、起きる気配は微塵もない。
どうしようか、とマッコイが本気で困っていると、やがてカークはずるずると額を擦って、スポックのわき腹あたりに頭を半分乗せかけた。怪我の箇所とは反対なので、特別注意することはない。むしろ彼が自らそうしたことに内心で驚いていると、カークはじろりと睨むようにこちらを見上げてきた。長身を椅子の上で無理に折りたたんだ姿勢ながら、彼はそのままシーツに落ち着いてしまう。
「ボーンズ」
「なんだ」
「
………」
「よし、何を言われても驚かない券を1枚だけお前にやる」
「なんだそれ、10枚つづりでほしいんだけど」
「1枚しかやらんし有効期限は3分間だ」
「ちょっ、うう」
うう、と言いながら、彼は自分の頬をこする。そんなことをしなくても随分と血色は良いぞ、と思いつつ、マッコイは辛抱強く待った。彼が何を言うつもりなのかは分からないが、きっとその言葉を聞けるのも、積み重ねてきたことがあるからだろう。
カークはぎゅっと閉じた目をシーツに押しつけてから、再びこちらを見上げた。
「俺の普通の平和には、船とクルーが必要だ」
「そのようだな」
「けど、このとんがり耳のくそやろうは、ちょっとなんていうか特別で」
「うん」
「スポックがいないとほんとにだめだって分かってるのに、認めるのがすごく怖い。死ぬのと同じくらい怖いんだ。なあボーンズ、たったひとりを唯一にしてしまったら、それがなくなったときどうすればいい?」
彼の眼差しは痛切で、手当たり次第にこすられた顔は小さな男の子みたいに赤らんでいる。絶対、こういうけなげなところを見せて、相手を思いどおりにする罠だ、と思うのに、それが誤りであることをマッコイの本心は分かりきっている。実際のところ、こういったことにかけては、彼は小さな男の子で、はかなくもけなげなのだ。あのジェームズ・T・カークが、である。
マッコイは深々と、それはもう深宇宙もかくやという深さで溜息をついた。眉間をぐりぐりと親指で揉んでからベッドを見下ろせば、カークは変わらぬ心もとなげな表情で、まっすぐこちらを見上げている。
この全幅の信頼が、いつだって自分を跪かせるのだ。そして自分というアホその3は、これを死ぬまで持っていく、ととうの昔に決めている。どうかしているとしか思えないが、どうかしてなきゃカークの親友などやってられない。
「俺はそうして骨だけになった。まあ安心しろ、意外と骨だけでもやっていける」
顔をくしゃくしゃにしかめてそう告げれば、カークは一瞬きょとんとした。
それからぱっと、愉快そうな、嬉しそうな、にやにや顔を浮かべてくれる。
「それは俺がいるからだな。よかったな、俺がいて」
「言ってろ」
「そっか。うん、そうだな。じゃあ俺、本当にだめになったら、お前と結婚しよっかな」
「ジム、俺にも拒否権はあるんだ」
あんまりな彼の言いように、マッコイは真面目な顔をして身を乗り出した。それを面白がって彼は笑い、そのままスポックにしがみつく。ふ、ふ、と笑う声がシーツのあわいからこぼれて、それをかき集めるようにした指先が、白さにドレープを描き込んだ。
マッコイは、眉を寄せて首を傾げる。
「ジム?」
「じいちゃんが、死んだって」
「じいちゃん?」
「スポッ
……、スポック、大使」
はあ、と震える吐息をシーツに含ませたカークは、スポックの塊に顔を押しつけたままである。
そのことか、と合点したマッコイは、組んでいた足を組み替えた。『スポックがいなくなること』に怯える今の彼が、連想するには妥当な流れだと自分の思考を整理する。
「ああ、うん、聞いた」
「聞いた?」
「こいつから」
だから、マッコイとしては、何気なく言ったつもりだったのだ。大使のことをこのアホその2から聞き及ぶなど、そう変な話でもないだろう。
けれど、そう聞いたカークは、突然、発作みたいに跳ね起きた。
そのまんまるに見開かれた双眸に、マッコイは似たような顔を返して少しだけ仰け反る。
「なに
……」
「お、俺には、一言もなかったのに」
「はあ?」
「俺には一言もなかったのに!」
そうして繰り出されたそんな言葉に、吹き出さなかった自分は大変偉かった。冗談だろ、としらふで思うのだが、子供みたいな顔をしたカークはごく真剣な様子である。マッコイは溜息をついて肩から力を抜き、冗談だろ、と素直に言った。
「俺に変な嫉妬はやめろ」
「本当に困ったときにボーンズを頼るのは俺の仕事だろ
……、俺のボーンズなのに
……」
「待った、そっちか?」
「そっちだよ!」
「こっちは?」
「こっ
……、俺の、スポックだよ
……」
はあああ、と大げさな溜息をついて、カークは再びベッドに突っ伏す。こっち、とスポックを指差していたマッコイはついに吹き出して、シーツに額をこすりつけているダークブロンドに手を置いた。ぽんぽんと撫でてやれば、ううーっと唸り声を上げる。
「お前は本当に難儀なやつだな」
「お前もだろ? だいたいなんだよレナードって。お前らいつの間にそんなマブダチになったんだ。俺の知らない間に
……、ううっ、おふたりにお子さんができたら、ミドルネームにジェームズってつけてくれよな
……ッ」
「やかましいわ」
アホがアホらしくアホみたいなふざけ方をするので、マッコイは遠慮なく、もしゃもしゃっと彼の髪を乱してやった。カークは嬉しそうな笑い方をして、慣れたように自分の手櫛で撫で戻す。シリアスな話をしても、真面目で恥ずかしい話をしても、こうしてすぐさま馬鹿な話で笑い合える、ということに、彼がうんと安心すればいい。そう願って、少し乱暴に手を離した。
くりん、と楽しそうに見上げられた双眸は、いたずらな喜色でいっぱいだ。
「じゃあさ、もし俺とスポックが崖から落ちそうになってたら」
「アホか」
「どっち助ける?」
「アホだな」
「アホでいいから」
この珍妙な三角関係ムーブをまだ続ける気か、こいつ面白がってやがる、とマッコイは露骨に嫌な顔をする。そういう表情こそ、彼を喜ばせてしまうと分かっているのだが、どうしたってしないではいられない。
期待にきらめく30歳児を前に、マッコイは渋い顔で腕を組んだ。まともに答える必要もないが、根が真面目なのでちゃんと考え込んでしまう。こういうのを、市井の言葉で『思うつぼ』と言う。
「
……スポック」
そのつぼから取り出した答えを提示すると、カークは予想どおり、芝居がかったしぐさで顔をしかめた。
「おふたりにお子さんができたら」
「それやめろ怖いから! だってお前を助けてみろ、こいつはド満足した顔で落ちてくんだぞきっと」
「ああ
……、まあ、そうだな
……、腹立つ
……」
「だろ? 腹立たしいことこの上ない。でも俺がスポックを助けると判断して、こいつの腕を掴むとする」
「よくやった」
「そうだ。お前はどうせ『よくやったボーンズ!』とかなんとかぴっかぴかの笑顔で言い放って、あろうことか元気いっぱいスポックの足に飛びついてぶら下がるんだ。ふざけんなよ医者の肩脱臼させる気か?」
「想像上の俺に勝手に腹を立てて現実の俺に文句を言うな」
想像上のスポックに勝手に腹を立てて不機嫌そうにしていたカークは、途端に吹き出して笑う。マッコイはゆるみそうになる頬を必死に取り繕い、眉間の皴の維持にいそしんだ。ふたりの間で自分がよくやるポーズである。当然、彼も訳知り顔で、愉快そうな目を向けてきた。
「どうせ、スポックを釣ればお前も一緒に釣れてくるんだ。だから、俺はスポックを助ける」
「はは。お前にはチェコフほどのド根性はないから、一緒にずるっと行っちゃうかもな。一緒にスポックに怒られよう」
「お前ひとりで怒られろ。俺は精いっぱいやった。なんで今生の最期を自由落下と鬼の副長で閉じなきゃならん」
「だって、そうしてる間にスールーが船を寄せてくれて、スコッティが転送してくれるから。知ってるか? 俺のクルーは超優秀なんだ」
そっと身を起こした彼は、安静に横たわる自分の副長を見つめた。柔らかく伏せられた目と、柔らかくゆるむ頬は、あらゆることに満ち足りている。
「
……ずっと、そうしていられたらいいのに。そうしていても、いいのかな。俺はこのぞわぞわする罪悪感と、うまく付き合っていけるんだろうか」
「分からん」
そのような、まるで幸福を絵に描いたような表情の親友が、薄く開いた唇で、何の欲もなく、そんな泣き言を言うので。
マッコイは、素直な気持ちだけを差し出した。きっと彼は、この先何度も、この自問をすることになる。そう思ったからだ。
つれない返答を得たカークは、素直に笑ってこちらの胸を軽く拳で叩いてきた。
「お前な~、嘘でもできるよって励ませよな~? ヴァルカン人か~?」
「分からんもんは地球人でも分からん。でもな、俺もいるしスポックもいる。他のクルーだってみんないる。お前は大丈夫だよ。それでいいんだ」
「
……うん」
「
――お前、幸せになれよなあ」
「うわっ、もう無理もう戻せなくなる!」
素直にこくんと首肯したカークに、なんだかたまらない気分になって、マッコイは再び彼の頭に手を置いた。
髪の毛をくっしゃくしゃに混ぜ返してやると、やめろと騒ぎ立てながら、彼は幸せそうに笑い転げた。
「
……聞いたか?」
「起こし方が非人道的です」
「もうそんなに痛みはないだろ? 違和感はひどいだろうが」
面会時間の終了と共に、カークをロビーまで送って。
マッコイが病室へ戻ると、スポックはすっかりとリクライニングまで起こして、ごく冷静に座ってこちらを出迎えた。
開口一番、問いかければ、しれっとした抑揚のなさで返されて、マッコイは皮肉を込めて笑みを浮かべる。カークの話が始まったあたりで、彼を起こすために鎮静剤の供給を切ったことを揶揄しているのだろう。とはいえ、医者としての判断は『可』、友人としての判断は『必須』、それに間違いはなかったと思っている。
「まだヴァルカンに帰りたいとほざくか?」
まるでそつなくベッドに納まっているようなスポックに、煽るような口調を意識する。カークが座っていた椅子に座り込めば、彼はかすかに眉を持ち上げた。
「私は」
「サンフランシスコでもそうだったが、ここでもそうだった。俺とお前がついていないと、あいつはすぐにころっと死ぬ」
聞く耳を持たないぞ、という言外の主張と併せて、強い口調でマッコイは断じる。何かを弁明しようとしていたスポックは、おとなしく口を閉じた。
ジムが死ぬということに対して、自分がどこまで倫理を排斥できるのか知っている、という傷を脛に持っているのは、お前だけじゃない。そんな恨みがましい意識が、強く睨むだけで伝わればいいのにと思う。ついでに光線とかも一緒に出て、こいつの鉄面皮をカチ割れれば最高だろう。
「そうでなくても、不幸な過去と幸福な現在のギャップで今は不安定だ。まあ、あいつはずっと不安定だったようなもんだから、自分の立たせ方は熟知してるがな。言っとくが、ヴァルカン人に引けを取らないぞ、あいつのマインドセットは」
「
……存じています」
「は?」
「分かっています、そんなことは。我々は生きるために闘争を封印しましたが、彼は生きるために闘争を解放している。本来は、もっと静かで穏やかな人格を持っているのでしょう」
「
――お前、そこまで分かってて」
「ドクター、私もギャップに苦しんでいるのです」
スポックは、静かに、淡々と、そう告げた。
上掛けの上に重ねた両手を、ただ静かに見つめて、端正な声音をあるがままに紡ぐ。今度はマッコイが、おとなしく口を閉じる番だった。
「私はジムと共にいたい。あなたたちと、ずっと。けれどそれは、私自身への裏切りに感じる。〝感じる〟のです、レナード」
「スポック」
「私も、この『ぞわぞわする罪悪感』と、付き合っていくことになるのでしょう。私はまだ、彼ほどにも自信はありません。ジムが私と共にあることをこれほど大切にする以上、私はいつか、致命的に彼を傷つけるのではないかと」
平然と、寄せては返す浅瀬のように。
マッコイはゆっくりと、慎重に息を吐いて、体の力を抜いた。溜息をつくこともためらわれて、額に手をやり、目を閉じる。
カークの厄介な問題と、はかなくけなげな情動で、胸がいっぱいになっていたが。そうなのだ。そうだった。
こっちはこっちの親友で、とてつもなく根が深い。
努めて考え抜かれたのだろう言葉の選び方で、その静謐な物言いで、彼の持つ比類なき難儀さを、マッコイは身に染みて悟るような心地だった。どうしてこう、自分の親友はややこしいやつばかりなんだ。
「
……なあ、スポック」
「はい」
「お前のそれは、本当に今じゃなきゃだめか? 俺はよく知らんが、じいさんがやってたことだろう。つまり、お前がじいさんになってからでもいいんじゃないか?」
目を閉じたまま話したのは、自信がないからだった。目の前で呼吸しているはずのスポックは、物音ひとつ立てやがらない。
「それは、ジムが死んでから、ということですか?」
「
……おう、いや、そこまでは考えてなかったが
……、それでもいい」
「今すべきことを、100年後にしろと?」
まあ、このとおりである。秒で論破されて、マッコイは額を押さえていた手のひらで、目元をごしごしと強くぬぐった。こいつが『フリーになる』時期をジムの死と重ねている、という、すでに知っていたような、知らないままでいたかったようなくそ重さが、ずっしりと肩に乗るようでおぼつかない。
「お前を言いくるめるのは難しいな」
「比較対象はジムですか?」
「チクんなよ、拗ねるから」
「あなたには、言いくるめる、という意図があるのですね」
「ある。お前がいなくなるとジムがだめになるからな」
打てば響くように返される言葉が、そこで途切れた。顔を上げたが、スポックは先ほどとまったく同じ状態のまま、ただ静粛に、目を伏せているだけである。
マッコイは思わず、溜息をついた。
その音に、スポックも顔を上げる。
ただ純粋に、何の含みもなく向けられた双眸の無垢さ。こちらがひるむほどのこの精度を、何年も、かの親友は受け続けたわけである。そう思うと、わずかに憐憫を含んだ同情心が芽生えてきた。マッコイは可能な限りのしかめっ面を作って、今度は露骨にあてこするような溜息をなすりつける。
本当に、手がかかる親友どもだ、このやろう。
「でも、まあ、お前もだ」
「何が
――」
「お前もだぞ、スポック。どっちも欲しいで手に入るものは限られてる。ジムだって選んでるんだ、選んだうえで努力してる。お前も覚悟を決めろ」
「けれどジムは、本当にそれでいいのかとあれだけ迷って」
「そりゃ迷うだろ、自分の人生丸ごと賭けた選択だ、すんなりうまくとはいかない。右と決めたらすぐ右へ進めるほど、単純にはできてない。お前もだろ」
「私は宇宙艦隊への進路について、さほど迷いはありませんでした」
「おっまえなあ
……。言っとくが、ジムのために言ってんじゃねーぞ。不本意だが、お前のために言っている」
「どれのことです?」
「決めてしまったほうが、よっぽど楽になれる。それがどっちでも、とりあえずな」
「とりあえず」
「とりあえずだ。お前が残るなら、お前はお前との戦いが始まるし、お前が帰るなら、お前はジムと戦うことになる。結局は葛藤する羽目になるんだ、だったら決めてしまったほうがいい。まあ、全力で『行かないで』とねだるあいつの手練手管にお前が勝てるとも思えんが、頑張るのは自由だからな、まあ頑張れ」
「
……気軽に言ってくれますね
……」
「俺が言えるのは所詮この程度だ。スポック、論理とかヴァルカンとか、艦隊とかエンタープライズとか、使命とか、すべきこととか、そういうの全部抜かして考えてみろよ」
「ほとんどの要素が省かれますので、思考実験の意味がありません」
「そういうことじゃねえ。全部抜かして、お前の純粋な感情だけを取り出してみろ」
「ですが、それは」
「いいか、『感情を持つこと』と、『感情を理解すること』は、まったく別のシステムだ。そして『理解すること』は、本能でできることじゃない。たとえ地球人でもな。訓練が必要なんだよ、自分が何を思ってどう感じているか、誰かがどう思ってどう感じているか、慎重に観察して測定して検証して、そういう訓練を繰り返すことで、だんだん分かってくるものなんだ」
「
……ジムでも?」
「ふはっ。お、お前
……。OK、分かった。ジムでもだ」
「何故笑うのですか」
「お前の感情に対する信頼がジムに準じてるのは面白すぎるだろ。あとでやつに報告するからな」
「やめてください。どうしてあなた方は逐一ジムに」
「スポック、集中しろ。今までに〝感じて〟きた、お前の経験全部使って、お前の一番底にある、一番ピュアな何かを引き上げてみろよ。お前が今持ってる後ろめたさも使ってだ」
ああ、たぶんこういうときに、あのアホは彼を「かわいい」と言ってはばからないんだろうな、と分かりたくもなかったことを考えながら、マッコイは眉をひそめるスポックをまっすぐに見つめた。彼ほどの潔白さは出ないだろうが、いくらか訴えかけるものを感じてくれればいい、と願う。
スポックは、一度深くまばたいて、いつもの真顔に戻った。
「
……論理を置いて、正しいと感じることを?」
「そう。誰かに言われたか?」
「はい。大使に」
「実に優秀だな、さすが年月を重ねているだけある。成長したんだなあ
……」
「レナード」
「お前のその『罪悪感』もお前の気持ちだ。それをないがしろにしろってわけじゃない。けど、言ったよな、俺はお前を言いくるめる気なんだ。それがどういうことかも考慮しろ」
カークのこましゃくれた顔を思い出しながら、マッコイは意地悪そうに口元をゆがめてみせる。ただ静かにこちらを見返すばかりだったスポックは、ベッドの上で重ねていた手を、わずかにきゅっと握り込んだ。その様子に、にやりと笑う。
「認知には、アクションとレスポンスが必要だ。そうだな? 触れて繋いで認めて抱いて、自分の居場所を確定する。バイオフィードバック療法があるだろう」
「オペラント条件付けをしろと?」
「そんな難しい話じゃない。たとえばジムは、お前を覗き込んだり指差したりして、見てよこの顔、とか言うだろ。嬉しそうに」
「
……ええ」
「そんなに怒んなよ、とか、楽しそうにしやがって、とか」
「はい。彼の前ではどうしても、感情的になってしまいます。そのたびに私は自分の未熟さを痛感します」
「俺には全部同じに見えるよ」
「
……は?」
「たぶん、あいつ以外には全部同じに見えてる。お前は別に普段から感情をあらわにすることはしてないし、それはほとんどの場合成功してるよ。そりゃ俺だって、前後の状況からお前の心情を類推はするけど。もともとの勘の良さを抜いても、ありゃほとんど努力のたまものだ」
「
………」
「ジムの言い分と、お前の本心が違ったことは?」
「
………」
「お前はそれを、恥じる以外に不快に思ったことは?」
「
………」
「お前もいい加減、幸せになればいいんだ、ばかやろう」
押し黙って硬直してしまったスポックは、まるで世界の広さと自分のちっぽけさを前に立ちすくむ思春期の男の子みたいで、はかなくもけなげだった。お前もか、と溜息交じりに、マッコイは遠慮なく腕を伸ばす。髪に触れれば珍しく、彼は驚いたように身を引いてこちらを見据えてきたけれど、構わずわしゃわしゃとかき混ぜてやった。なかなか新鮮な指通りである。
スポックは居心地悪げに身じろいで、なんとかそつなくこのふれあいを終了させようと苦心しているようだったが、そういう情動が見え隠れするのも完全に動揺しているからだろう。なるほど、かわいいね、と納得したあと、マッコイは渋面でその納得を丸めて5億光年先までぶん投げた。ジム・カークの二の舞になるのはごめんである。だいたい、『何しててもかわいい』などという境地は、極地にして極北だ。あらゆる意味で手遅れな感情である。目も当てられない。
嫌がるスポックを尻目に好き勝手やっていたら、そのうち彼は抵抗をやめた。そうしてうつむき加減の、ほつれた横髪が跳ねる向こうで、彼はぽつりとこうこぼす。
「
……だめになったら、責任を取ってあなたが結婚してくれると聞きました」
「だから俺にも拒否権はあると言っただろう」
マッコイは深々と溜息をついて、ふらつく頭をぐいっと押した。
冗談が言える程度には回復した、と判断して、マッコイは立ち上がった。正直、今日はいろいろとありすぎた。職業柄、どれだけ疲弊していても注意力散漫になることはないが、ベッドにたどり着いた瞬間、電源が落ちたみたいに倒れることになるだろう。
「鎮静剤、再導入するか?」
「いえ、今日は
……、このまま、少し考えます」
「寝ろよ、怪我人。寝ないとジムが同じ状態になったとき、お前につべこべ言わせねぇからな」
「
……寝ます」
「素直でよろしい」
椅子を片づけてバイタルをチェックし、マッコイはベッドのリクライニングを断りなく倒した。それでもスポックはおとなしく、静かに横になっている。
明かりを落としながら考えをまとめて、マッコイは戸口で振り返った。
「スポック」
「はい」
「ジムの誕生会をやるぞ」
「
――はい?」
もぞ、とシーツの塊が動く様子に、思わず笑ってしまう。寝耳に水だったのだろう。
「俺たちの進退もまだ決まってないし、いろいろと落ち着いた後になるだろうがな。けど、あいつもそろそろ思い知っていい頃だ」
「思い知る、とは」
「日付だけが意味持つ日じゃねぇってことをだよ」
ああ、と溜息のようにささやく声が、夜のしじまにぽつりと落ちた。こいつは本当に、一生懸命だな、と思う。
いつも懸命に、こうして情動を追っている。それが誰のためにある努力かを、本当によく考えてみてほしい。
誰かのために走るときが、一番強くなるものだ。少なくともこの3人のアホどもは、そういうふうにできている。
「そこまでやったらさすがのあいつも腹括るだろ、たぶん」
「ええ」
「だから、お前もそれまでに腹括ってこい」
「
………」
「聞こえてるか?」
「聞こえています。あなたへの尊敬の念を再認識していたところで、突然振られたものですから。私もですか?」
「お前以外にお前がいるか。そのもだもだしたやつを、俺が言う日までにぶっちぎってこい、必ずだ」
「
……無茶苦茶ですね」
「誰の船に乗ってると思ってる?」
「まったく、誰に似たんだか」
「お前だけには言われたくねぇな」
もぞもぞと動く小山にマッコイは笑って、おやすみと言って扉を閉めた。