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黒竹
2022-05-30 22:48:07
20234文字
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プロセカ
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#4 WHAT'S EATING YOU?
【プロセカ】【日野森雫】【桃井愛莉】【MAKE IT REAL】
1
2
わんぱくと言えば聞こえは良いだろうか。いやどう考えても良くはない。わんぱくだとかやんちゃだとかお転婆だとか、どれだけ言い方を変えたところで事実はただそこにあるだけだ。あるがままの姿で。
妹が泣かされたと聞けば飛んでいって年上の男の子に食ってかかり、顔は擦り傷だらけ、洋服は上から下までドロドロにして帰っていくことも珍しくなかった。当時はずいぶんと母親に心配されたもので、しかし反省などしたことがなかった。なにを心配されているのかすら理解していなかったのだろう。
あの頃。
妹を守りたかったし、妹を泣かせるやつはみんなやっつけてやると意気込んでいたし、自分はそうできると信じていた。
それから、アイドルという職業に出会って、アイドルになるために自分を変えて。無茶無闇無謀、そういった性質は影を潜めたけれど、たぶん、ほんとうのところはなにも変わっていない。
今でも本質は無茶で無闇で無謀だ。それをいくらか自分で制御するようになった、というだけのことでしかない。
変わったのではない、ただ分かっただけなのだ。変わらないまま、知ってしまった。
己の手のひらの小ささを。
突然、かわいいかわいい妹が部屋を訪れたので日野森雫は飛び上がって喜んだ。それを見た志歩が一瞬「やっぱりやめておこうかな」という顔をした。しかしぐっとこらえて一歩進む。雫は両手を広げて待ち構えたけれど、その腕の中に志歩が飛び込んでくることはなかった。辛抱強く待っていても志歩が動かないので諦めて両手を下ろす。
「どうしたのしぃちゃん、お姉ちゃんに何か頼み事があるの? それともお話がしたいのかしら、あ、この前みのりちゃんがくれたお菓子があるんだけど一緒に食べる?」
「桐谷さんと遊びに行った時のでしょ。私ももらったからいいよ」
第一、のんびりお茶をしに来たのではないと志歩はため息で語る。
戸口によりかかる姿勢でいる志歩は、部屋に入ろうとはしないままでいる。
先程とは違った意味合いのため息をこぼしてから、ためらいがちに口を開いた。
「
……
たとえば、なんだけど。お姉ちゃんが桃井先輩や桐谷さんにひどく叱られたとするでしょ。それが
……
なんていうか、お姉ちゃんを傷つけるようなものだったとしたら、お姉ちゃんはなんて謝られたらそれを許せる?」
問われて、雫はぽかんとした。たとえ話が突拍子もなさすぎてうまく咀嚼できない。
「ええと
……
愛莉ちゃんも遥ちゃんも、そんなことしないけど
……
?」
「っ、だから、たとえばだってば。お姉ちゃんが泣いちゃうくらいひどいこと言われたとしたら!」
噛みつくような剣幕で迫られたがやはりピンとこない。顎に手を当てて考えてみるけれど、逆立ちしたワニを描いてみろと言われているような気分だ。無理難題である。
志歩がわざわざ愛莉や遥の名前を出したのは、雫が以前受けていた嫌味や皮肉のたぐいと一緒にしたくなかったからだろう。みのりがいないが、さすがに無理がありすぎると判断したせいか。
厳しいことを言われたことなら何度かある。あれだけみのりに甘い遥だって、いざステージのこととなればそこに半端な手心など加えたりしない。叱るというか、きつく注意したこともあると聞いている。愛莉だってカメラが回ればいつだって真剣だ。だから、志歩の言いたいことは分かるのだけれど。
「そうねえ
……
私は愛莉ちゃんたちに注意されても、それがステージのためだって思えばつらくはないけど。もし気持ちが弱っていて、少しつらくなってしまったら」
「
……
うん」
「ごめんなさいって素直に言ってくれるのが一番じゃないかしら」
志歩はちょっとがっかりした様子で、それだけ? と目線で訴えてきた。
「もっと
……
なんかさあ
……
」
「だって、同じ舞台に立つ仲間だもの」
家族でも恋人でもない、あるいは
舞台の上
そのときだけ
は友人ですらないかもしれない。
その一切の情を取り払った先にある、その一切の錠を開け放った先にある、対等。
そこに必要なのはなにも飾らないまっさらな信頼である。
「誰が悪いとか、誰が正しいとか、そんなふうに考えてしまったら悲しいわ」
「
……
そう、かな」
「私はね? でもしぃちゃんが気にしてる人がどう思うかは、その人にしか分からないんじゃないかしら」
「
……
うん」
「たとえうまく謝れなくても、ちゃんと話し合えば分かってくれると思うわ」
志歩は気まずそうに視線を下げている。やや苛立たしげに髪の毛をかき混ぜて、ああ、と低く唸った。
「話すの、苦手なんだ。泣かせたいわけじゃないのにうまく言えなくて」
「大丈夫よ。しぃちゃんが優しい子だって、穂波ちゃんも分かってるから」
「
……
穂波のことだって気づいてるじゃん
……
っ」
その場にうずくまって頭を抱える志歩。おっといけない、言いたくなさそうだったから気づかないふりをしていたのに。愛莉からよく間が抜けているとか鈍感だとか天然だとか言われるけれど、穂波とは美化委員の集まりでよく話す間柄だし、いくらなんでもあの相談でなんのことか分からないほど鈍くはない。
しかしまあ、こうしてうっかり口を滑らせてしまうあたり、やはり間が抜けているということか。
恥ずかしさに耐えきれなくなったのか、志歩は小声でとにかくありがと、ともごもご言って帰っていった。
音もなく襖が閉じてから、雫は座卓の前に腰を下ろして小さく息をついた。
まだ秋なのに、なんだか春っぽいわねと、心のなかでひとり呟く。遥は相変わらずみのりを想っているし、志歩はああやって悩むくらいには穂波のことが大切だし。そういうのを可愛らしいと思うのと同時に、どこか秋風に似た漠然としたさみしさが通り過ぎる。
みのりがくれたお土産は、可愛らしい猫がパッケージに描かれた小さなバームクーヘンだった。定番の輪の形ではなく、四角いバームクーヘンで、猫のシルエットにくり抜けるようになっている。最近できたばかりのショップらしい。動物モチーフはいろいろなものがあるそうで、遥もペンギンモチーフのものをひとつ、我慢しきれず買って帰ったと、みのりが真夏のアイスクリームみたいにとろけた顔で語っていた。
包みを開けて、くり抜いた外側を口に入れる。「おいし」なにか特別な作り方をしているわけでもなさそうだけれど、洋菓子の濃厚な甘みに雫の口元がゆるんだ。おそらくは味そのものよりも、みのりがくれたからという意味合いが強い。
日野森雫は花里みのりが大切だった。もちろん、桃井愛莉も桐谷遥も大切である。
そういうのを、情と言うのかもしれないし、絆と言うのかもしれない。
ただその感情を、なんと呼ぶかは決めかねていた。
リズミカルに回る茶筅が止まり、しずしずと椀を差し出される。雫はうっすらとした記憶を頼りに茶碗を持ち上げて、泡立った抹茶をゆっくりと口に流し込んだ。
「けっこうなお点前で」
「お粗末さまです」
愛莉が手をついて軽く頭を下げる。それからふふりと忍び笑いを洩らし、顔を上げると「そんなに真面目にやらなくていいわよ」軽く手を振りながら気安く言った。
茶道部の部室にはふたりしかいない。愛莉も雫も制服姿で、足を揃えて正座する姿は慣れたものだった。半ば茶菓子に出される和菓子目当てだと言う愛莉はそれでも堂に入った手付きで茶を点ててくれて、雫はもう一口、抹茶を含んだ。
今日は顧問がいないため部活動は休みらしい。放課後の教室で愛莉は、早めに屋上へ行ってもいいんだけど、と前置きをして、「せっかくだからちょっと見学していかない? なにもないけどお茶とお菓子くらいは出るわよ」と冗談ぽく雫を誘ってきた。
「静かで落ち着くわねえ」
「ま、そういう部だしね。でもいつもはもうちょっと騒がしいわよ。なんだかんだ言ってみんなまだ高校生だし、雑談くらいはするわね」
「ふふ、そうだよね」
「元々は茶道もそんなに堅苦しいものじゃないしね。作法はあるけど、見立てって言って、道具を似てるもので代用したり、お茶菓子もクッキーとかゼリーとかを出すこともあるし。それにここだって正式な茶室じゃないわけだしね」
茶道部の部室は、教室と同じつくりの一室に畳を敷いて小上がりを作ることで茶室代わりにしている。なるほどまさに見立てだ、と雫が感心した。
最近は茶室に椅子を置くなんてことも珍しくないのだそうだ。愛莉が気楽にしていいと言ったのも、友人としての距離感というより、そういう意味だったのかもしれない。
それでもふたりとも膝を崩すことなく正対している。単に慣れているせいだった。きっとみのり相手だったら足がしびれた頃合いを見計らって楽にしていいと助言していただろう。
しばらく他愛もない会話をして、一瞬、話題が途切れたところで雫は軽く首をかしげた。
てっきり何か話があるのだと思ったのだけれど、愛莉の表情は平時となにも変わらないし、タイミングをうかがっている様子もない。わざわざ茶道部の部室に呼んだのは、本当にただの時間つぶしのためだったのだろうか。
視線に込められたものに気づいたのか、愛莉が口の端でほろ苦く笑った。
「や、ごめん。実はわたしも詳しいことは聞いてないのよ」
「え?」
「実は遥に相談されてね。みのりのいないところで話がしたいって。そろそろ来るんじゃないかしら」
雫はますます首をかしげる。ふたりや三人で相談することがないわけではないが、こんなふうに意図的に誰かのいない状況を作るなんてことはこれまでになかった。
愛莉は自分用にティーバッグの緑茶を入れて(点てるのは面倒だったのだろうか)、それで軽く唇を湿らせた。
「どうせみのりと何かあったんでしょ。何があったかは知らないけど、痴話喧嘩にもならない子たちなんだからこっちが構えることないわよ」
愛莉はなんとも気楽なものだ。とはいえ雫もそれに反論はない。
「遥ちゃんとみのりちゃんが喧嘩してるところって、想像できないね
……
」
「みのりがあの調子でいる限りはね。けど不思議よね。あのふたり、どう見ても両想いなのになんで未だにああなのかしら」
くすくすと愛莉が笑いを忍ばせる。関係と幸福と距離感がまるでチグハグな後輩たちの姿。「そうね」雫は彼女たちの姿を思い出しながら首肯する。
「みのりちゃんはもしかしたら」
言いかけたところでドアがノックされた。愛莉も雫も思わず口を閉じる。
「失礼します」礼儀正しく部室に入ってきたのは、待ち人である桐谷遥だった。愛莉が軽く手を上げる。
「今日はわたしたちだけだから挨拶とか気にしなくていいわよ」
「うん、ありがとう愛莉、それに雫も。急にこんなことをお願いしてごめんね」
上履きを脱いで畳に膝をついた遥の表情は曇っていた。雫はその表情に胸をざわつかせる。
「遥ちゃん、悩み事?」
「ん
……
悩み、というか
……
」
昨日は志歩で、今日は遥だ。なにかそういう運気でもあるのだろうか。お守りでも買って渡そうかしら、と真剣に考える雫だ。でもどんなお守りにしたらいいのだろう。
遥は重苦しいため息をひとつ落として、膝に置いた手を軽く握った。
「この前、みのりと一緒にセンター街に出かけたんだけど」
「ああ、お土産くれたときの? おいしかったわよ、バームクーヘン」
「そう? 喜んでもらえてよかった。私も買ったけど可愛くてなかなか食べられなか
……
そうじゃなくて。そのときに天馬さんのお兄さんと偶然会ったの」
「咲希ちゃんの?」
うなずく遥の前に愛莉がお茶を差し出した。茶菓子はない。これもまた心配りだ。
遥が緑茶をひと口含み、それから一瞬より長く目を閉じた。
「ファンフェスタで出番の前に応援してもらったんだって。みのり、それがすごく励みになったみたいで、何度もその時のお礼をしてて」
「ふぅん」
「なんていうか
……
」
遥の眉間に深くシワが刻まれる。跡になる前に止めなければと注意する雫。しかし遥は呼吸ひとつで平静を取り戻したようでやや表情が凪いだ。それでも浮き上がりはしない。
「すごく
……
仲が良さそうで」
「なるほど」
さっきから愛莉の相槌は気が入っていない。遥の心配ごとは分かったけれど、そんなものは取り越し苦労だろうとその視線が語っていた。
「なに心配してるのよ。ファンフェスタとその時の二回会っただけなんでしょ?」
「そうだけど」
「大丈夫よ遥ちゃん、誰が見たってみのりちゃんは遥ちゃんが一番大好きだもの。咲希ちゃんのお兄さんはステージに立つ前に激励してくれたから、ほら、恩人みたいに思ってるんじゃないかしら」
あの花里みのりに、そうそう遥より好きな相手ができるとも思えない。そんなこと、遥自身だって分かっていると思うのだけれど。
少し珍しい。自分たちはもちろん、他の誰がみのりに近づいても、遥がこんなふうに心配することなんてなかったのに。いったいどうしたのだろう。
愛莉が足を崩して畳に手をつく。痺れたのではなさそうだった。遥の緊張をほぐそうとしているのかもしれない。
「ファンフェスタのとき
……
人が多かったしいろんな子と会ったからよく覚えてないわね。どんな人なの、そのアドバイスした人って」
「うーん、私も一度会っただけだから印象でしかないけど。すごく明るくて自信満々で、でも話してると相手を気遣ってるのが伝わってきて、意外と包容力がありそうで
……
ああそれから、スターになるんだって」
「スター?」
「世界中のみんなを笑顔にするスターになる男だ、って言ってた」
遥の言葉に、愛莉が初めて唸った。自身の顎を撫でながら唇を引き結ぶ。
「なんか分かるわ。みのり、そういうタイプ絶対好きよね」
「そう言われてみればそうねえ。たしかフェニランのキャストさんをしてるのよね。何度もステージに立ってるでしょうし、そういうところもみのりちゃんには魅力的に映るかもしれないわ」
思わずうなずき合ってから、はっと気づいて愛莉と同時に口をふさぐ。遥は恨みがましい目つきでこちらを見ていた。「
……
ごめん」「ごめんなさい」愛莉と並んで頭を下げると、遥は諦念を肩のあたりにさまよわせながら首を振った。
「ううん。私もそう思うから」
だから心配なんだよ。ため息とともに呟かれた言葉にふたりとも反応できない。
まさかとは思うが、万が一くらいの可能性はありそう。それくらいの印象だった。
「ただ、正直」
遥はふたりから目をそらしながら、奥歯にものが挟まったような調子で続けた。
息継ぎには長すぎる時間が無音で過ぎて、それから遥の唇がゆっくりと動く。
「
……
みのりが私以外の誰かを好きになるところが想像できない
……
」
「まあ、そうよねえ
……
」
「そうね
……
」
しばし三人とも無言。
なるほど、みのりがいない状況でなければできない話だ。しかし、相談されたからといって的確なアドバイスができるかと言われれば実に難しい。告白以来、ふたりの関係は特に進展していない。仲間で、友人で、お互いに恩人で、それから、きっとふたりだけに通じる絆がある。
けれどそれだけだ。今でも桐谷遥の想いは一方通行で、そこに何かが咲くことはない。種はあるのに、あると誰もが知っているのに、まだ地面は固く冷たいまま、なにかが芽吹く気配はなかった。
本当は運命の赤い糸なんてないことを彼女たちは知っている。
だからこその不安だったし、一方で、運命なんてものに縛られない、自分たちで掴み取った想いだからこそ持てる自信があった。
雫は遥に、大丈夫だとも心配だねとも言えなかった。
「──遥ちゃんは、みのりちゃんが他の人を好きになったら、どうなると思う?」
想像もつかないことを想像してみろと無理難題をふっかける。どうしても聞いてみたかった。それが恋というものなら、その輪郭がどんなものなのか、知りたかった。
遥はやや面食らったように目を丸くして、それから少しだけ思案顔になる。
視線が雫に届く頃、そこには自嘲じみた笑みがあった。
「耐えられないけど、耐えちゃうんじゃないかな。みのりが好きだから」
それはおそらく、恋として正しい。
そう、と打った相槌がかすれていて、雫は自分がわずかに緊張していたのだと気づいた。なんだか不思議な気分だった。遥の答えなんて聞かなくても分かっていたのに。
「あーもう、やめやめ! 起こってもいないことを今から心配してもしょうがないでしょ! なるようにしかならないし、みのりはあんたが好きよ!」
薄暗くなった空気を嫌ったか、愛莉がことさら大きな声で喚いた。茶道部には甚だふさわしくない大声だったが雫も遥も咎めなかった。
愛莉が立ち上がり、遥の腕を取って引っ張り上げる。
「馬鹿なことうじうじ考えてないで、いつもみたいにみのりをメロメロにしてなさいよ。他の誰も目に入らないくらいにね」
叱咤というには優しすぎる声で愛莉は言う。
ああそうだ、不思議なことにそれは彼女たちの『いつも』なのだ。お互いに追いかけて追いかけられて、お互いに追いつけなくて、まるで自らの尾を食べる蛇みたいな永遠のふたり。
あまりにもふたりで完成されていて、だからそこから進展も後退もしないふたりだ。
はは、と遥が小さく笑った。
「それは
……
ちょっと自信あるかな」
ようやく遥の表情に光が差して、雫は愛莉を尊敬の眼差しで見つめた。何も言えなかった自分とは違い、愛莉はいつもこんなふうに遥の迷いを優しく断ち切ってくれる。それはきっと彼女の
才能
ギフト
だ。彼女がこれまで過ごした十余年の年月で磨かれた
魅力
ギフト
。
雫は彼女の目が好きだった。透明で紅い。いろいろなものを見透かす目だ。研究生の頃、彼女だけが日野森雫の
外見
ギフト
ではなく
努力
ゲイン
を見ていた。もちろんそれだけで彼女に恩義を感じているわけではないけれど、きっと根本的な部分で、ほとんどはそれにつながる。
紅い紅い、その目が。
日野森雫を見た。
「そういえば雫、週末は練習に来られないのよね?」
「え? ああ、そうなの。弓道部の練習試合があって。前の地区大会のときに対戦したところでね、先生同士で連絡を取り合っていたんですって」
「へえ、交流試合みたいな感じなのかな」
「そうね」
試合はお互いの学校の中間地点にある弓道場で行われるので、まる一日そちらに取られてしまう。一年生部員のフォローもあるし、色々と準備も必要だから週末は二日とも時間を取れそうになかった。
愛莉の茶道部しかり、部活動よりアイドル活動を優先させるようなルールはない。だから愛莉も遥も「仕方ない」という表情すらせずにうなずいた。
「弓道ってほとんど外みたいなところでやるのよね。もうこの頃は上着なしじゃ寒いってのに、あんな薄着でしかも裸足でしょ? 大変そうよね」
板張りの床に裸足をつけたところを想像したか、愛莉がぶるりと身体を震わせる。
「射るときは集中してるから気にならないし、私はもう慣れたけど、一年の子たちはまだつらそうにしてるわ。でもこういう時期だからこそ、終わってからのお味噌汁がおいしいの」
「それはそうかも」
遥が肩をすくめて同意する。
「あ、その試合って見学はできないの? お味噌汁で思ったけど、雫の応援がてらお弁当作って一緒に食べたりできないかしら」
三人で練習をしていてもいいが、せっかくの雫の勇姿を見てみたいと愛莉が言う。遥もうなずいた。「そういえば雫の弓道してるところって見たことないね」「あんたが弓道部に来たらますます大変になるわよ」「ますます?」遥が愛莉の言葉に首を傾げる。
雫はしばし黙考して、
「弓道場は誰でも入れるし、特に貸し切ったりはしていないはずだから見学はできると思うけど、一応先生に聞いてみるわね。お昼は各自で自由にとっていいからお弁当も食べられるんじゃないかしら」
ふわりと笑いながら答える。三人が来てくれたらとても嬉しい。弓道は試合とはいっても白熱したり盛り上がったりするわけではない。むしろ静寂と緊張に包まれて、喉を鳴らすことすらはばかられるほどだ。声援など送られないし、浮かれてはいけないけれど、大切な人たちが応援に来てくれるなら一層頑張れると思う。
「もし応援に行けるならみのりにも声かけておくわ。お弁当も腕によりをかけて作ってあげる」
「ふふ、楽しみだわ」
愛莉の料理の腕はたいしたものだ。特に和食がおいしい。家では志歩の舌に合わせてハンバーグなど味の濃い洋食が出ることも多いから楽しみだった。
応援に来るのは問題ないと顧問から言われていたし、他の生徒もいるからと言われていたが、五人ほど並んで横断幕を掲げているのを見てさすがに目を丸くした。しかもそういう集団がふたつある。
試合前の挨拶に来てくれた愛莉と遥とみのりも、そちらを見てぽかんと口を開けていた。
「愛莉が前に言ってたの、こういうこと?」
「そう
……
だけど、ここまでとは思わなかったわ。弓道部、いつも雫目当ての子たちが鈴なりになってるって聞いてたから応援には来るだろうと思ってたけど」
雫のファンが押しかけているところに遥まで現れたら騒ぎが大きくなるに違いないと気を揉んでいた愛莉だったが、ただの見学者というよりスポーツの応援団みたいな風情の集団に思わず唸る。「で、あっちは雫のファンか」もうひとつの若い男子がかたまっている一角を一瞥してため息。スケッチブックや大判の紙にメッセージを書いたものを持ってこちらにアピールしてくる。ライブじゃないんだから、と愛莉が肩を落とした。
念のためと愛莉に言われてかけてきた変装用の伊達眼鏡の奥で、遥のまなざしが困ったように揺れる。
「あんまり意味ないかな、これ」
眼鏡のフレームを指先で撫でながら独り言みたいに呟いた。雫のファンなら配信も見ているだろうし、三人そろっていれば遠目でもさすがに気づくだろうか。
愛莉もファッションマスクを顎まで下ろして「かもね」と首肯した。彼女はマスクだけではなく帽子もかぶっているが、室内だし脱いだほうがいいかと肩をすくめる。
「あ、でも、遥ちゃん」
「ん? なあに、みのり」
「
……
遥ちゃんの眼鏡姿はなかなかレアなので、できれば外す前に一枚、いや二枚写真を
……
」
なにかに耐えるように打ち震えながら両手を組んで頼み込んでくるみのりに、遥は数度まばたきをして、それから胸の高さで組まれたみのりの手をそっと包んだ。
「みのりが喜んでくれるなら、眼鏡くらいいつでもかけるけど?」
「ひあああぁぁっ、は、遥ちゃん、いけませんそんな、ちか、顔がちかっ、しかも手が!」
「みのりの手、あったかいね」
ゆるやかに手の甲を撫でてくる指先に、みのりが泡を吹いて倒れそうになる。「はいそこまで」愛莉が遥の眼鏡を奪って自分でかけた。「わ、愛莉ちゃんも似合うよ」「ありがと」雫の称賛に愛莉はそれほど嬉しそうでもなく礼をする。
わちゃわちゃとじゃれ合っていたら、観客席から伝わる空気が明らかに変わっていた。これはもう完全にバレている。愛莉がたしなめるように遥の脇腹を肘でつついた。遥もさすがに気まずそう。
「日野森さん」
背後から声をかけられて振り返る。同級生で、同じ弓道部の選手である朝比奈まふゆが同情的な笑顔でこちらに手を振っていた。
「そろそろ着替えないと遅れちゃうよ?」
「あ、ごめんなさい」
「あっちの人たちは、気になるだろうけど今のところ騒いだりしてるわけでもないし、ひとまずそっとしておいていいんじゃないかな」
いたわるように柔らかな口調で言われて少し肩の荷が降りる。まふゆがこちらに来た途端、見学者たちの別の一角が一瞬だけざわめいた。朝比奈さんも人気者だものね、と口の中だけでつぶやく。
左手首の時計を覗くと、まだ急いで着替えなければならないような時間でもなかった。まふゆは雫が戸惑っているのに気づいてフォローに来てくれたんだろう。クラス委員もしているという彼女は実に面倒見が良い。部活中に助けられたことも何度もあるし、高校生とは思えない落ち着きと穏やかな人柄はひどく人を惹きつける。
「そうだ、朝比奈さんも一緒にお昼食べない? 愛莉ちゃんがお弁当を作ってきてくれたの」
「ありがとう。でもごめんなさい、もう一年の子に誘われてて」
「あら、そうだったの。朝比奈さん、後輩の子たちにも人気だものね」
そんなことないよ、とまふゆが謙遜した。彼女にも愛莉の手料理を味わってほしかったけれど先約があるなら仕方ない。
「じゃあみんな、行ってくるわね」
「うん、雫ちゃん、頑張ってね!」
みのりがぐっと拳を握ってエールをくれた。「行ってらっしゃい」遥は穏やかに笑いながら送り出してくれて、愛莉はくしゃりと雫の髪を一度撫でてきた。
「ま、がんばんなさい」
「うん」
今日は風が冷たいけれど暖かい。猫みたいに細められた目はいつもより朱が弱くて桃色に近くなっている。
日野森雫になにも期待していない目だ。
安心する。
彼女の視線は、手触りの良い毛布にくるまれている内側の空気に似ている。暖かくて、不透明で、何も怖くなくて、目を閉じることになんの不安もない。
今日はいつもより当たる気がした。
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