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黒竹
2022-05-30 22:46:19
21304文字
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プロセカ
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#2 UP TO YOU!
【プロセカ】【しほなみ】【MAKE IT REAL】
1
2
3
「いっちゃん、アタシ好きな人ができたの」
「今年のエイプリルフールはとっくに終わってるし、来年のはまだ先だよ」
「ちょっとくらい驚いてよ〜」
つまんないの、と机に突っ伏す咲希の後頭部を、丸めたノートで軽く叩く。
登校して早々に訳のわからないことを言い出した幼なじみに、一歌が呆れ顔で問いかけた。
「なに、いきなり」
「いっちゃんが歌詞に詰まってるみたいだから、刺激をあげようと思って」
「たとえ本当でも特に刺激にはならないよ」
「え〜、わかんないじゃん、アタシの恋する姿にビビッと来て、ものすごくいい歌詞が書けるかも」
楽観的すぎる咲希の言葉に苦笑しつつ、丸めていた歌詞ノートをもとに戻してバッグにしまいこんだ。詰まっているのは確かだし、咲希が来たから今はもう書く気にならなくなってしまった。人前で歌詞を書くほどの胆力はない。
「生憎だけど、恋する姿は間に合ってるかな」
「それもそっか」
すっかり知れ渡ってしまったクラスメイトの恋事情とか、幼なじみの秘めた想いとか。
言われてみれば題材としては大変魅力的だが、さすがにそんな厚かましいことはできない。
ペンギン好きのクラスメイトの姿はない。一歌たちより先に登校していたようだから、活動しているグループの朝の練習か、体育祭の準備をしているのだろう。いろいろあったが今は噂も落ち着いて、グループでしている配信や練習も余計な憂いはなくなったようだ。騒動が収まってから咲希と一緒に礼を言われたけれど、こちらとしては助けたつもりもないし、ただ友人として接していただけである。けれど、それが一番うれしいよ、と彼女は笑っていた。
歌詞のネタにはならない天馬咲希は、一歌の幼なじみとして机の前にしゃがみ込んだ。
「ほなちゃん、ミクちゃんには教えたんだね」
「咲希も聞いたの?」
「こないだミクちゃんと特訓した時に聞いたよ。ひどいよほなちゃん、アタシたちには言ってくれないくせに」
「きっと、私たちだから言えないんだよ」
「分かってるけどぉ」
咲希は不満そう。彼女の気持ちも分かる。秘密を作られたことは怒っていないけれど、つらいなら話してほしいのだ。ひとりで抱えて押しつぶされてしまった穂波をもう知っているから。
彼女の臆病をそしるつもりはない。けれど、けれど
……
。
ああそうだ、自分たちが言えないことを、志歩だけは彼女に言えた。それって信じてないってことだからね。彼女の優しさが弱さであると糾弾することを、その弱さを許さずにいることを、志歩だけがしてみせた。
「今日はセカイで練習だっけ」
「そうだね」
「ねえねえ、練習終わったらみんなで映画観に行かない? 一昨年公開されたのが今リバイバル上映してるの」
咲希がスマートフォンで見せてきたのは、学校の最寄駅に近いミニシアターの公式サイトだった。咲希が見たいと言っている映画の上映内容が表示されている。画面に映されたメインビジュアルと映画のタイトルには一歌も見覚えがあった。
「ああ、この映画? すごく人気があったよね」
「最初に公開されてた頃は、入院してたから観に行けなかったんだ。おうちでDVD借りて観たけど、やっぱり大画面で観たくって」
「いいんじゃない? 学校帰りに行けるし、私もちゃんと観たことないから気になるな」
ミニシアターだから上映回数は多くないが、確認するとちょうど練習帰りに寄れる時間での上映があった。少し遅くなってしまうのが気がかりではあるものの、四人で行くと伝えれば家族も許してくれるだろう。
「志歩と穂波も大丈夫そうだったら行こうか」
「うん! 楽しみー!」
咲希が両手を組みながら瞳を煌めかせた。
朝はあれだけ浮ついていた咲希だったが、セカイの光に包まれた今、その瞳はどんよりと暗く沈んでいる。一歌もどうフォローしていいか分からず気まずげに目をそらしていた。
そんなふたりの後方でドラムセットに腰を下ろしている穂波も似たりよったりの表情で誰とも目を合わせられずにいた。
──どうしたんだろう、志歩ちゃん、機嫌悪そう
……
。
集まってからチューニング中の今までずっと、志歩の表情が薄い。もとから表情豊かなほうではないが、それにしたってこんなにも能面みたいな顔でいることはなかった。それにさっきから一言も口をきかない。むっつりと黙り込んで、ひたすら視線を自分のベースに落としている。
前回四人で合わせてから、なんだかんだで一週間以上が経っていた。それぞれで自主練はしていたけれど、一堂に会するのはそれくらい間が空いている。学校でもあまり話す機会がなくて、なにがあったのか見当もつかなかった。
一歌と咲希に視線で問いかけてみる。ふたりとも小さく首を振ってきた。心当たりはないようだ。
雫とひと悶着あったのだろうかと思ったが、そういうのとも違う表情だった。姉のことを苦手だとか近づいてほしくないとかよく言っていても、そこに別の、うっすらと暖かいものがあるとみんな知っている。
冷えたあの表情。いつもと違っていて。
──ちょっと、こわい、かも。
彼女のそんな表情をもしかしたら初めて見たかもしれない。
一歌も戸惑ったようにチラチラと志歩を盗み見ている。しかし声はかけられないようで、そっとため息をついてギターのチューニングをし始めた。
一通りの準備を終え、一歌がマイクの前に立つ。
「えっと、じゃあ、先週の復習しようか。まずは先週合わせたところから」
「オッケー! みんな、がんばろうね!」
半ば無理やりひねり出したような空元気で咲希が応じる。「穂波、カウント」「あ、はいっ」いけない、少しぼうっとしていた。意識して息を深く吸い、スティックでカウントを取る。
「ワン、ツー
……
」
カウントに合わせたはずの四人の演奏は、先週とは比べ物にならないくらいバラバラだった。穂波もてんで呼吸の合わない演奏を立て直せずにいて、とにかく楽譜を追うのが精一杯だ。
「──ストップ!」
こらえきれずに一歌が叫ぶ。途端に静まった教室の中で、一歌の息を吐く音がやけに響いた。
視線が集中する。みんな分かっていた。リズムを司るはずのベースが乱れに乱れている。あれでは誰だってまともに演奏なんてできはしない。
「志歩?」
「
…………
」
「もしかしてどこか具合が悪いの? もしそうなら、今日は休んだほうが」
「
……
悪くない」
さっきから志歩はベースを睨みつけるばかりで顔を上げない。能面みたいな無表情と、その双眸に浮かんだ木石みたいな無情。
志歩は苛立ちを隠しきれない仕草で額を拭い、ベースのストラップを強く握った。
「ごめん、さっきのは入りをミスって立て直せなかった。次はちゃんとやるから」
それが嘘だと誰もが感じていた。これまで、志歩がミスをしたことが一度もないわけではない。それでも、こんなふうになるほどボロボロの演奏なんてなかった。穂波は声をかけようとしてかける言葉がないことに気づく。この場の誰が何を言えるだろう。志歩の技術に誰一人追いついていないこの状況で、誰が彼女を慰められるというのだろう。
重苦しい空気に萎縮してしまった穂波の視界の端で、金色の風が舞った。
「どーん!」
威勢のいい声とは正反対に、咲希の脛が志歩の膝裏にちょんと入った。「うわ!?」不意打ちを食らって志歩の膝ががくんと崩れる。
「
……
うわ、こんなに綺麗に決まった膝カックンって久しぶりに見たかも」
一歌も思わず感心。
「ちょ、ちょっと咲希、いきなりなにを
……
」
「しほちゃん!」
両手を腰だめにして仁王立ちになった咲希が、ふんぞり返りながら怒鳴りつける。
「そういうの良くないと思う!」
「
……
なに
……
?」
「今のしほちゃん、最初に入院してた頃のアタシと同じ顔してる」
まったくもって気に入らない、という感情を隠しもせずに咲希が言う。穂波は咲希の言葉で彼女の幼い姿を思い出した。いつも明るく笑っていて、兄と一緒に愉快な話ばかりしていて、穂波たちのお見舞いにもほがらかに応じていて。
いつもいつも笑っていた彼女。
それは、なにか隠すための笑顔だった、のだろう。
本心を見せないために笑顔でいるのと、本心を見せたくなくて能面をかぶるのは、なるほど同じと言って良い。
だから天馬咲希は日野森志歩を叱ることができる。バンドメンバーとしてではなく、本心を隠す
先輩
﹅﹅
として。
このセカイは先輩が強い。
「そうやってわっかりやすく隠して察してもらおうなんて、すっごくかっこ悪いよ!」
「なっ
……
、別に、そういうつもりじゃ」
「じゃあどうしてそんなに機嫌悪そうにしてるの!」
「
…………
」
「ほら黙るー!」
咲希は足音高らかにキーボードまで戻ると、脇に置いてあったメモを手に取って掲げてみせた。
「さて問題です、これはなんでしょう。はいほなちゃん!」
いきなり水を向けられて目を丸くする。とはいえ難しい問題ではない。何度も見たことのある、端っこが擦り切れたその厚いリスト。
「さ、咲希ちゃんの、退院したらやりたいことリスト
……
」
「正解!」
まるでどこかのご老公の紋所みたいに、志歩にリストを突きつける。
「しほちゃん、これ見たことあるよね」
「そ、それは、もちろんあるよ。何度も見せてきたでしょ」
「ここに書いてること、アタシが全部やりたいって言って、みんなで一緒に叶えてくれたんだよ」
「
……
それがどうしたの」
「アタシがこれをひとつも書かないで、こういうのがやりたいって誰にも言わずにいたとしたら、しほちゃんはどう思う?」
穂波は無意識に自身の胸元を強く握っていた。
あれは咲希の夢だ。叶えたい夢で、守りたい夢だったもの。見えないところにずっとあって、彼女が見せてくれたもの。
それをずっと隠されていたら、誰にも見せず、誰にも言わずにただ秘めていたとしたら。
ああ。そんなのは、さみしい。
叶えてあげられるかは分からない。難しいものや諦めなくてはいけないものもあるかもしれない。
それでも、知らずにいるよりずっと良い。
志歩は光のない目で咲希を見ている。
咲希はそれを無視するみたいにクルリと身を翻した。
「ほなちゃんも!」
「えっ!?」
「なにがどうなったって、アタシはしほちゃんもほなちゃんも離さないから! 絶対だよ!」
怒りなのかただの興奮なのか、咲希は顔を真っ赤にして、握り込んだ両手を高く上げて宣言する。
その様子に一歌が「ああもう」という表情で苦笑いしていた。興奮冷めやらぬ咲希の首を捕まえて引き寄せると、野生動物を落ち着かせるように頭を軽く叩く。
「咲希、ちょっとヒートアップしすぎ」
「だってしほちゃんもほなちゃんも勝手なんだもん!」
一歌から逃れようとジタバタ暴れる咲希。穂波はどうして自分にまで矛先が向いているのか分からずに戸惑っている。
咲希を押さえ込みながら、一歌がひどく静かに笑った。
「志歩、穂波。たぶんふたりとも、同じことを心配してて、それで言えなくなってるんだと思う」
「同じ、こと
……
?」
「あんなことがあったから心配になるのは当然だと思うよ。でも今は咲希がいるから」
穂波が思わず志歩のほうを見やった。彼女の面差しに少しだけ色がついている。赤い色だった。果実の赤がその頬に浮かんでいた。
あ、れ?
どうして彼女にあんな色がついているんだろう。
一歌は志歩の変化にかまわず続ける。
「咲希は何が起きても──たとえ離れようとしたって、私たちを離してくれないよ。だからまあ、心配しなくていいんじゃないかな」
「そうだよ! 嫌だって言っても捕まえちゃうんだから!」
「だって」
ようやく一歌が咲希を解放して、それからゆるりと腕を組んだ。静かな眼差し。いつもの一歌の顔だ。優しくて、強くて、安心する。
咲希も自信満々という顔で笑っている。いつもの顔だ。お兄さんとよく似ている。朗らかで、思いやりに溢れている。
「
……
そっ、か」
ふと、独白じみて志歩がつぶやく。
「逃げられないのか、私たちは」
言葉とは裏腹に、どこかホッとしたような声だった。
「そうだよ。だからふたりとも好きにしていいよ」
咲希の応答に、志歩の眉が情けなく下がった。だらりと落ちた両手が諦めたようで、あるいは自由を手にしたようで、重い鎖に疲れたようで、あるいは鎖の重さに慣れてしまったようで。
両手にかかった鎖の端を、持っていたのは彼女だったか。
「志歩が落ち着いてくれないとバンド練習もできないし」
「
……
そうだね。この音を止めないと無理みたいだ」
口元を拳で隠しながら志歩が視線を送ってくる。一度、鼓動が跳ねた。
今のは、どういう意味だったんだろう。
勝手に感じていた共犯者としての連帯感はきっとふたりの間にはなかった。
志歩にとって穂波は共犯者じゃなかった。
だとしたら。
だとしたら、なんなんだろう。
日野森志歩にとって、望月穂波は。
「じゃあ私たちは出てるから」
「え?」
惑っている間に一歌と咲希が教室を出ていく。からかう素振りもなく、教室移動の時みたいな平常さだった。
志歩とふたりきりにされてしまった穂波はどうしていいか分からずに、ドラムの前で座り込んでいる。そんな様子に志歩が少しだけ笑う。彼女はベースを肩から下ろし、穂波に向かって手招きしてきた。
「そこに座っててもしょうがなくない?」
「あ、う、うん」
おずおずと立ち上がって志歩の斜め前で止まる。真正面には立てなかった。なんとなく。
志歩は自分を守るように腕組みをしていて、穂波はおろした両手を組んでいる。その対比が何を意味するのか考える暇もなく、志歩の眼差しがまっすぐに届けられた。
「前に、ふたりでカフェ行ったでしょ?」
「
……
うん」
「あの時、穂波は今度は四人で行きたいって言ってたよね。それってどういう意味?」
それほど経っていないはずなのに、もうすでに懐かしささえ感じる。
そのせいか、質問の意味がよく分からなかった。四人で行きたいと確かに言った覚えはあるけれど、そこになにか特別な思いがあるわけではなかった。みんなで来れたら良いだろうなと思ったのだ。それだけだ。
答えあぐねて口を閉ざしていると、志歩が気まずそうに低く唸った。
「あー
……
つまり、私とふたりでいるより、一歌と咲希がいたほうが楽だとか、そういう
……
」
「えっ、ち、ちがうよ! 志歩ちゃんとふたりでお茶できるのもうれ
……
し、い
……
」
「あ、そ、そう
……
」
志歩に色がつく。んん、と照れ隠しの咳払いをする。穂波はさっきから鼓動が暴れまわって制御できない。
窓の外は夕暮れで穏やかだ。誰も楽器を奏でていない教室は静かで、静かだ。春とも秋ともつかない曖昧な景色がゆらゆらしている。光のかけらはあたたかだ。ここには望月穂波と日野森志歩だけがいる。ふたつの恋だけがある。その色はりんごの赤だ。甘く煮込まれたりんごとシナモンの匂いが立ち込める。銀灰の髪が光を吸い込んでいる。ふ、と、志歩の腕組みが解かれた。防御を解いた無手になる。
それに油断したわけでもなかったが、穂波は小さく息つきをして、志歩の喉元あたりを静かに見やった。
「わ、わたし、志歩ちゃんにあんまり好かれてないと思ってて」
「いや、気に入らなかったらバンド組まないし」
「それは一歌ちゃんと咲希ちゃんがいたからかなって
……
。だって志歩ちゃん、わたしによく苛々してるでしょう?」
「う、その、それは
……
」
どう言ったものか、と口ごもる。志歩の手がかすかにさまよった。
「前にも謝ったけど、そういうの態度に出したり、きつい言い方しかできないのはほんとに悪いと思ってる。その、直したいけど、どうしてもうまくできなくて。でも穂波を傷つけたいわけじゃない。これは本当に」
「ううん。志歩ちゃんの気持ちは分かるから、それはいいの。志歩ちゃんのいろんなことを考えて、ちゃんと決断できるところも尊敬してるし、音楽にまっすぐ向き合ってるところとかも、か、かっこいいって思う、よ」
さっきから落ち着かない。絶妙に目が合わないふたりは、そこから先に進めなくて足踏みしている。
耳の端が熱くて熱くて、隠れてしまいたいけれど教室には身を隠す場所なんてなかった。いつもなら一歌か咲希が手を差し伸べてくれる。穂波はその手を取るだけで良かった。一緒に行こうと誘うのはいつだって望月穂波ではなかった。
志歩の唇から細長く息が吐き出された。その吐息には音が混じっていた。音楽が。不協和音だった。
「
……
私は」
ボロボロと不協和音が落ちる。
「やっぱりひとりでいるほうが気楽だって今でも思ってるし、穂波に優しくできないし、これからいろいろと迷うこともあると思う。大切なものがふたつあって、そのどっちかを選ばなきゃいけないことも、あるかもしれない」
「
……
うん」
「何かを選んだら、何かを選ばないことになる。
……
と、思ってた」
「うん
……
?」
この日初めて、志歩は懐かしい顔で笑った。
「思ってたんだけど、どこかの幼なじみが全部選ぶってわがまま言ったおかげで、そういうわけじゃなくなったみたい」
「ふふ、そうだね」
顔を見合わせて笑い合う。
まったく彼女ときたら、本当に天そのものだ。すべてを包み込んで、どこに行っても逃れられない天空。
ああそんなものに包まれているなら、なんの心配もない。
「選んでよ」志歩が凪いだ声でねだる。
「今まで何も選んでこなかったでしょ。だからこれくらいは、穂波の好きにしなよ」
この先、四人がどうなるのか、Leo/needがどうなるのか、ふたりがどうなるのか。
すべては
UP TO YOU
きみ次第
だと志歩は言った。
音が止む。
呼吸の音すら光に吸い込まれて消えていく。
望月穂波の声だけが音になる。
喉の奥からせり上がってくる感情は、悲しみに似ていて、しかしもっと柔らかな何かだった。
「志歩ちゃんの」
柔らかなそれは、日野森志歩の不協和音を残らず吸い込む。
「志歩ちゃんのそばにいたいです」
腕に絡んだ鎖は戒めと言うには長すぎて、自由と言うには重すぎた。
だからふたり、鎖がなくたってきっとそばにいられる。
涙が溢れて止まらなくて、けれど何も悲しくはない。たださみしい。鎖がなくてもつながっていられることがどうしようもなくさみしい。過去の過ちも今の音楽も未来の夢も、ふたりをつなぐものではなかった。
ただ恋だけがある。
それ以外は天馬咲希がつないでくれる。
志歩が手のひらで穂波の涙を受けた。それから指先で。弦をつまびく指は硬い。しかしその硬さは穂波を傷つけない。
頭を抱き寄せられて肩に導かれる。「あーあ」と小さく志歩が呟いた。その二音からはアップルパイの匂いがした。
望月穂波は花里みのりほど純粋ではない。疑いようもないほど透明であるような、そんな少女ではない。
だから日野森志歩は恐れていたし、望月穂波も恐れていた。それを打ち砕いた最強の幼なじみがいる。
そういう意味の「あーあ」だった。一晩かけて登った山のいただきで日の出を見た時に似た声だった。
「じゃあ、これから
も
﹅
よろしく?」
「う、うん」
これから。何もかもが曖昧で、何もかもが尊い四文字だ。
「咲希のあの言い方だと、たぶん大喧嘩して別れても離してくれないから覚悟しておいて」
「う
……
な、仲良くしてね
……
?」
「そこは穂波が頑張って」
「ふえぇ
……
がんばる
……
」
くつくつと志歩が喉を鳴らす。「冗談。頑張らなくていいよ」結った髪に沿うように志歩の手のひらがすべっていって、うなじのあたりで指先が遊んだ。
「穂波」
少しだけ志歩が身を引いて、穂波の顔を上げさせる。
唇を寄せられて、思わず両手でストップをかけた。
「待って志歩ちゃん、あの、後ろ」
「後ろ?」
志歩が振り向いたその先、数センチほど開いた教室のドアの隙間から顔が四つ、縦に並んでいるのが見える。
「
…………
」
長い付き合いでもなかなか見たことのない目つきで、志歩が野次馬たちを睨んだ。
誰一人声を発することのないまま、スーッとドアが閉まっていく。
「まったく
……
。ミクとルカさんまで何してるんだか
……
」
「あはは
……
」
これはさすがに恥ずかしい。ギリギリで気づいてよかった。
まあ、いくらなんでもあんなふうに睨まれて戻ってくることはないだろうけれど、一度芽生えた羞恥心はなかなか消えてくれない。全身に熱風を浴びせられているみたいに熱くて、明日からどんな顔で一歌と咲希に会えばいいのだろうと憂鬱になる。
志歩は軽く思案顔になると、念のためというようにドアを確認してから、おもむろに羽織っていたパーカーを脱いで穂波の頭にかぶせてきた。
「わっ、志歩ちゃん?」
「これなら誰にも見えない」
パーカーの内側で、志歩の生命に溢れた若竹の瞳が光る。
「え、あの、え、あ
……
」
「しー」
静かに、と囁かれて思わず唇を閉じた。
引き寄せられて、次の瞬間、りんごが香る。
目を、いつ閉じたらいいのか分からなくて、けれど何も見えなかった。
無音。
「
……
下向いてもらえば、意外と背伸びしなくても届くんだ」
新発見、とどこか無邪気に笑う志歩が可愛くて、ああこれはずるいと倒れ込みそうになりながら思った。
セカイの屋上はいつ来ても満天の星空が広がっている。いつだって星は輝いていて、志歩と穂波は降り注ぐ光を並んでその身に受けた。
寝転がって見上げる星のひとつひとつを目でたどる。星図がなくてもある程度は星座を見つけられる穂波は、半ば無意識に星々のかたちを探している。
隣の志歩は少し眠そうな様子でまぶたを半分ばかり下ろしていた。体育祭当日、さすがに疲れたものと見える。玉入れの時のはしゃいだ姿を思い出す。可愛かったなあと思うけれど、本人に言うと仏頂面で否定するだろうから言わない。
「志歩ちゃん、今日はもう帰ろうか? 体育祭がんばってたし、ゆっくり休んだほうがいいんじゃないかな」
首だけを巡らせて志歩の様子を伺うと、彼女は目線をこちらに向けてかすかに眉をひそめた。
「分かった。じゃあ帰ろう」
言葉とは裏腹に手を掴まれる。ぎゅっと握ってくる手が温かい。
「って言ったら、どうせさみしがるでしょ、穂波は」
「
…………
はい」
志歩はそれ以上なにも言わずに、ただ手はつないだままで、目線を空に戻した。
穂波も何も言わずに空を仰ぐ。
流れ星に三度願いを唱えると叶う、とはよく言われるおまじないだ。妙な符合にくすりと忍び笑いが洩れた。
流星を名前に持つ自分たち。その三人に望月穂波は願った。
願い事を、三回。
だから叶ったのかなと目を細める。
「志歩ちゃん」
いつの間にか志歩のまぶたは完全に下りていて、つないだ手を軽く揺すってみたが反応はなかった。
やっぱり疲れてたんだ。小さく息をつく。タイミングを見て起こそうか、それとも毛布を持ってきてかけてあげようか。どちらにしてもつないでいる手を離さなければならないが、志歩の手がしっかり絡んで簡単には外れそうにない。
これは、うぬぼれてしまいそう。
流星の四人は、今はふたりしかいない。だから願ってもおそらく叶わない。
願いが届かないなら、どうするかなんて自分次第だ。
身を起こして、眠る志歩の顔をそっと覗き込む。
起こそうか、それとも寝かせてあげようか。
唇に、触れてみようか、やめようか。
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