しろくまたたくはくしゅんさん
2023-06-10 20:33:35
11779文字
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【アルカヴェ】されど、理想には程遠い 完

※死ネタ カーヴェデートイベントネタバレあり。推敲していません。いつか支部にまとめたい



 カーヴェがアルハイゼンの家に帰ってこないのはままあることであった。
 職業・建築家である彼は現場の作業に入ると監督業や、あるいは建築作業自体を請け負うこともあるため泊りがけになる。数日、数週間帰ってこないことなど居候をはじめて数年、何度もあった。
 今回もきっとそうだろう、とアルハイゼンは家でひとり静かな読書を楽しんでいた。だから、手紙をもらうまでそういえば同居人の顔をしばらく見ていないということに気が付けなかったのだ。
 手紙を読んだアルハイゼンはまず、家を見渡した。確かに、カーヴェが掃除をしてくれているときよりも乱雑になっていた。
 こうした手紙のやりとりは初めてのことだった。今まで長い期間離れたとしても、こうして安否を気にするかのような手紙をカーヴェから貰ったことはないし、アルハイゼンも送ることは無かった。そうしなくても、いずれひょっこりこの家に戻ってくるという確信が彼にはあった。
 追伸まですべて読み終わると、アルハイゼンは口元に笑みを浮かべる。浮かべてから、自分は今笑っていたのだろうか、と口を手で抑えた。アルハイゼン宛にきちんとした手紙を送るのは初めてのことだったカーヴェが迷いながら言葉を選んで綴った文章。それがそうさせたのだと気づくのに、彼はしばらくかかった。
 手紙を丁寧にたたんで封筒に入れなおす。それから、すんと匂いを嗅いだ。砂と、日差しと、わずかながらカーヴェがいつもつけている香水の、花の香りがした。そっとそれを棚の上の小箱に入れると、早速本の整理にとりかかった。

 二つ目の手紙が届くころ、アルハイゼンはカーヴェの居ない生活に適応し始めていた。居候として迎える前の生活に戻ったと思えば悪くない結果である。配送物や他の学者からの手紙に紛れ入っていたカーヴェの名を見て、彼はその手紙を本の間に閉じてしまった。そして、しばらく経って本の間から見つけ読んだ時、まさしく内容通りの行動をしてしまった自身に舌打ちした。
 離れていても二人は互いの噂を聞くことがある。片や村の子どもたちと一緒に探検へ行き大人たちに叱られたという話があれば、片や毎日同じモノを食べ本を読んでいるので機械生物ではないかと恐れられている、という話だ。同じ空の下に存在しているのだからいずれ耳に届くこともあるだろうが、そうした噂話を聞くだけでアルハイゼンは妙に胸の内がすうすうした。
 その日も手紙の通り、酒場に行きマスター手作りのフィッシュロールを食べたアルハイゼンがその空虚を埋められたかといえば、ほんのわずかであった。無いに等しかったのだ。
 一度認識してしまえば最後、アルハイゼンはしばらく自問した。鏡を見つめ、映りこんだ瞳の赤にカーヴェを見出すと結論が出た。そこで何もかもを投げ出して砂漠に行きアアル村を尋ねる、という行動に出るほど浅慮ではなかった彼は家で待つしかなかった。
 手紙が来るとカーヴェの名を探すようになった。あれば、真っ先にその内容を確認し、その手紙の通りにした。そしてあくる日、カーヴェは帰ってきた。
「──おかえり、アルハイゼン」
「ああ、……ただいま」
 アルハイゼンは自分の声の調子が変になっていないか、ただそれだけを杞憂した。カーヴェは手紙で宣言した通り、突然アルハイゼンの家に帰ってきた。家に存在があるだけで、妙に鼓動が高鳴るのを感じたアルハイゼンは、ずかずかと洗面台に直行し鏡を見て、手を洗い、濡れた手で顔を拭った。水を飲み、いくらか平静を取り戻すとリビングへ戻った。
「おかえり、カーヴェ」
「うん……。ただいま」
 長い間砂漠で作業をしていたカーヴェの肌は焼けていた。気にする暇もないのか、髪がずいぶん伸びている。シャワーを浴びた後なのか、石鹸と花の匂いが立ち上る。カーヴェは自分をじっと見ているアルハイゼンに気づくと、まっすぐ歩み寄ってその体を抱きしめた。
 突然の抱擁に驚いたアルハイゼンは目下の年上の旋毛を見つめ「酔っているのか?」と尋ねた。
「酔っていないさ。わかるだろ?」
 ぎゅう、と互いの体温をやり取りするようなふれあいに困惑したが、アルハイゼンはカーヴェのさせたいようにした。彼自身もこれが悪いものとは思えなかったし、安心感を得ているとわかると腕を回した。住まいを同じにしてから二人はこんなにも長い間離れていることはなかった。
 しばらくするとお互い羞恥が溜まって、カーヴェのほうが耐えきれなくなって離れた。
「ああ、せっかく体を洗ったのに汗をかいた」
「君はいつまでここに居る?」
「うん?……うーん、明後日までかな」
 長い間働き詰めたのに、ずいぶん短い休暇だ、とアルハイゼンは片眉をあげた。しかし、カーヴェはそれほど疲れている様子は無く、仕事は充実しているように見えたので言及しない。
「夕食を用意するとしよう」
「外食でもいいのに」
「また着替えるのも面倒だろう」
 すっかり家でくつろぐ衣服を着ているカーヴェに向かって言えば、「その通りだな」と同意する。
「メラック、お土産を出してくれるかい?」
 ピポ!とメラックが出したのはデーツや酒、サボテンになる実など。すべて食べ物で、アルハイゼンの好みというわけではなく、ただただ珍しいものを集めたそれらにアルハイゼンは文句を述べた。カーヴェはそれに反論し──そして、アルハイゼンの家はつかの間の日常にあふれた。

 カーヴェが旅立つ朝、アルハイゼンはベッドから起きると花の残り香をかいだ。
…………ぅ、」
 昨日は珍しく飲みすぎた。セノやティナリがカーヴェより先にアルハイゼンを心配したほどだ。カーヴェがよく笑うから酒がすすんだのだ、と内心で言い訳をして部屋から出る。カーヴェはまだ起きていないのか、静かなリビングを通り、キッチンで二人分のコーヒーを淹れた。そろそろ起こしに行こうか、と部屋をノックする。
 一度。二度。起きてこない。静かに扉を開け、それからすぐに異変に気付いたアルハイゼンは部屋に踏み込んだ。
「カーヴェ?」
 部屋に残されていた大きな定規やスタンド、ペンの類がすべて無くなっていた。衣類や、よく身に着けていたアクセサリーの小箱も、硝子細工の香水瓶たちも。カーヴェがここに住んでいたという証ともいえる生活品が、すべて消えていたのだ。
 整えられたベッド、その横のサイドテーブルに紙切れが一枚。アルハイゼンは目を走らせるとリビングまで足音を立てて歩き、二人分のコーヒーを飲みながらすぐに手紙を書いた。カーヴェが手紙を送ってきてから一度も返事を書いたことは無いから、彼にとってこれがはじめてカーヴェに宛てた手紙である。
 登院する前にそれを近くの砂漠へ行く隊商に押し付けると、その日一日はすこぶる機嫌が悪い状態で過ごした。思考というリソースの大部分を怒りやそれを鎮めるために割き、それでも効率的に仕事を終わらせた彼は帰りに追加の便箋を買うと家でつらつらと反論を書き始めた。
 カーヴェからははじめ、アルハイゼンからの手紙に対して何通か返事がきたがその内容はいずれもあの部屋の名詞から「カーヴェの」を外すよう諭す内容であったため、反論の手紙はかさむばかりであった。
 結論として、カーヴェが折れた。アルハイゼンはその手紙を読むと拳を握り、勝ち誇った顔で砂漠から届いた酒をあおった。しばらく不機嫌が続いていた書記官がその日から機嫌がよくなったので、月の研究予算案が平均よりも上回ったほどである。
 本を読む生活に戻ったアルハイゼンだが、カーヴェへの手紙の返事を時折書くようになった。長らく会っていなかった顔を見たせいか、抱擁の感覚を忘れられないのか、カーヴェを思うことが多くなった。
 カーヴェはシティに度々帰ってきているものの、必要な用事だけ済ませると砂漠へ戻ってしまうというのを人づてに聞いたアルハイゼンは、とうとう行動に出ることにした。上官をなかば脅すように交渉し、アアル村への視察という仕事をもぎ取ったのだ。
 しかし、アルハイゼンが視察でアアル村を訪れたとき、ちょうどカーヴェがシティへと出かけていた。すれ違いになってしまったが、彼は以前見た景色と今目の前の景色の違いに目を細めた。教官や学者たちは住民たちと会話をしながら進んでいくが、アルハイゼンは様々な角度から建築物を見て回った。本人が居なくともその意匠がわかる。なぜこのような形をしているのかがわかる。もしカーヴェがここにいたのなら、アルハイゼンは手放しに褒めただろう。
 酒を村の住民に預けると、彼は確かな収穫を得て視察団と共にシティに戻った。土地と資材と目的を得た建築家とはまるで水を得た魚のようで、活き活きと仕事をしているのがわかったのだ。
 顔を見ることはかなわなかったが、アルハイゼンにとってはそれで充分であった。カーヴェとはまたしばらく手紙のやり取りをしていたが、不満とは知らぬうちに溜まっていくものだ。結局、カーヴェはあの日以来アルハイゼンの家に帰ってくることはおろか、顔を見せることなく時間が経ってしまっていた。
 カーヴェに手紙を書いても的を得た返事が返ってこないため、アルハイゼンはとうとう雇用主のドリーへ手紙をしたためた。こんなに帰ってこないのは訳がある。スメールの労働法に則って雇用しているのか、彼を騙して他の契約をしていないか────そしてドリーからの返事を読み、立て続けにカーヴェからも手紙が届くと、アルハイゼンはふと直感した。この二人は何かを隠している。
 アルハイゼンは教令院に休暇を申し込んだ。そしてアアル村へ出発する日に、その手紙は届いた。建築群が完成したこと。砂漠での仕事を中心とすること。手紙が最後だということ。
 直感は確信に変わった。最悪の事態がすでに始まっていて、終わっていたとしたら。彼は自身にありとあらゆる言語の「愚か者」を示す言葉を唱え続けた。雨林を駆け、壁を超え、砂漠を奔って、アアル村にたどり着いたのは翌朝である。
 完成した建築群には目もくれず、以前村人に教えてもらったカーヴェのアトリエへ向かう。村から少し離れた、日を遮るように突き出た岩壁の下。その家屋の前に小さな姿と浮遊する工具箱を見つけた。
「ドリー……、メラック。カーヴェはどこに居る」
 ドリーは目を伏せ、メラックは「かなしい」の表情で弱弱しい電子音を鳴らす。それがすべてであった。
「カーヴェ!」
 アルハイゼンは砂を足で掻くように走った。村の外れ、遠くのピラミッド群を、砂嵐を眺められる場所まで駆けつけると、もう一度呼んだ。朝の砂漠にその悲痛はよく響いたが、答える者はいなかった。彼の耳はそれでもじっと、朝に染まりつつある砂丘から砂が流れていく音を聞いていた。
 朝日を頬に受けつつ、アルハイゼンは考えた。ありとあらゆる思考の枝葉を伸ばし、そのひとつひとつを剪定しなくてはいけなかった。くだらない妄想もした。そこの岩陰から申し訳なさそうな顔をして「騙して、ごめん」と出てくるのではないか。このままスメールシティへ戻り、家の鍵を開けたとき「びっくりしただろ?」といつもの調子で語りかけてくるのではないか。仕事に出かけ、アアル村で待っていれば戻ってくるのではないか。
 すべての枝は切り取られた。思考の木を枯らすと、アルハイゼンは村へ引き返す。足取りは重かった。腹が鳴る。そこでようやく、彼はシティからここへ来るまで飲まず食わずで走ってきたのだったと思い出した。
 村へ戻ると、ドリーは落ち着いた様子でテラス席に座り、従者に朝食の準備をさせていた。
「こちらへ」
…………
「客人を食事に誘うのに契約書はいりませんのよ」
 アルハイゼンは食事をとりつつ、ドリーの話を聞いていた。味はしなかったが、口を動かしていないと叫び出しそうになるため、どんなに柔らかい果物でも咀嚼し続けた。
 食事が終わるとアトリエへ案内された。そのうちほとんどがアルハイゼンの家でみたことのあるもので、少しだけ、この村で買い足した生活品も見受けられた。製図するためのものさしやペン、机には埃がかぶっており、ここに住んでいた人物が消え時間が経っていることを理解したアルハイゼンは、ようやくカーヴェの死を受け入れた。

 ドリーから購入した家屋の中に、アルハイゼンは休暇の間引きこもった。彼が残した設計図を、日記を、手紙を、読んでは思考し、書き込むことを繰り返した。休暇の残りが少なると、駄獣を借り荷物を積み上げシティへと戻った。
 遺体はどれだけ探しても見つからなかった。砂漠へ赴くマハマトラたち、エルマイト旅団、キャラバン隊にも呼びかけた。幸い、スメールのどこにでも人脈のあるカーヴェの顔をほとんど知っていたので、説明の手間は省けたが、失踪から時間が経ちすぎていることもあり成果はなかった。
 それから、カーヴェの訃報を必要と思われる者へ伝えると、彼は努めて日常を暮らした。しばらく彼の元にはカーヴェの友人と呼べる者たち────ティナリやコレイ、セノ、スメールの人々が訪れた。訃報を人づてに聞き国外からやって来る者もいた。弔問が難しい者は手紙をアルハイゼンに送った。普通、こういうことは親族がやるものではないのかと思ったが、カーヴェの母親からも手紙が来たので、アルハイゼンは自分がカーヴェの喪主であることを認めた。
 アルハイゼンは様々な人から声をかけられた。同じ家に住んでいたことを知らぬ者が大半であるが、逝去前カーヴェの寄りどころとしていたのが彼であるというのは周知の事実であり、そしてそのほとんどが彼と悼みを分かち合おうとしたのだ。
「ティナリ──俺は、カーヴェの死を悲しまなければいけないのか」
 それを酒場で相談されたティナリはぎょっとし、それから周囲にその言葉を聞いた人がいないかを探り、誰にも聞かれていないことを確認すると安堵する。
「アルハイゼン、滅多なことを言うもんじゃないよ。いや、僕やセノならいいけれど……。どうしたの、急に」
「急にではない。俺が悲しんでいないことなど、もうとっくにわかっているだろう」
「それは、うん。まあ」
 アルハイゼンは元々表情が豊かな方ではない。喜怒哀楽、そのどれとも取れない表情をしていることが常だ。しかし付き合いの長いティナリはアルハイゼンの今の感情がはっきりとわかる。
「君は……──怒ってるもんね、ずっと」
 アルハイゼンは鼻を鳴らす。眉が立ち、眼差しは憤怒に満ちている。口数はいつも以上に少ない。それはまさしく、彼の怒りであった。死別を経ると親しい者ほど感情の浮き沈みが激しくなるものであるが、彼は一貫して怒りを保っていた。
「君の気持もわかるよ。なんでカーヴェは僕たちを頼らなかったんだろうって──不治の病だったとしてもね」
 ティナリはビマリスタンにいる昔から顔なじみの生論派学者のつてを借りて、カーヴェがどのような治療を受け、薬を飲んでいたかを確認することができた。そして、しばし思考にふけった。もしこの病のことを相談されていたら、自分は彼に何をしてあげられただろう、と。だがすぐに首を振った。病を知った瞬間から自分とカーヴェの関係は友人ではなく、治癒師と患者になる。
 カーヴェはそれを望まなかった。誰にも明かすつもりはなく、あわよくば砂漠で仕事があるように見せかけて親しい者たちと距離をとり、関係性を自然消滅させようとしていたのだ。アルハイゼンの怒りはもっともで、その通りになる方が難しいに決まっているとティナリは腕を組む。関係がそこまで希薄ではないが、便りがあれば元気である証拠だと認識させられたことは癪ではあるが。
「でも、カーヴェの気持ちもわかるよ」
 不治の病が突然解決する奇跡など────スメールの神が救われ魔鱗病が突如として快方に向かった過去は在れど、二度と起きないことなのだ。死を覚悟したカーヴェは己の病が他の者の生活を脅かすことを恐れたに違いない。彼は「支える者」の苦しさを知っているのだから、なおさらだ。
 現にティナリの前にいる男がカーヴェの病を知っていれば、教令院にある病に関する書物を読み漁り、因論において病の原因を探り、生論において病を治す薬を探し、明論において希望の星を願い、素論において機械生命を学び、妙論によってそれを動かしたかもしれない。後半の二者は禁忌であるが、アルハイゼンはそれをする。間違いなくだ。だが、カーヴェもそこまでとは考えていないし、だから計画が完遂する前に暴露されたともいえる。
 そこらへん爪が甘いよね、カーヴェは。そう責める言葉を投げかけることもできないので、ティナリは気持ちを悲しみに浮かべた。
 もちろん、賢いアルハイゼンは自分の感情の仕組みを理解していた。悲しみたくないから無理矢理怒っているのだと。だから、少しでも浸りそうになったら眉を寄せつり上げ、舌を打つ。そして頭のなかで眠れない夜の模型音を思い出すのだ。

 どれほど有名な人の死でも、時間と共に忘れ去られていくか、喪失に慣れていくものである。アルハイゼンにかけられる悔み言葉も無くなってしばらく、怒りも少しずつ引いていった。それでも悲しみに浸ることはしなかった。亡骸の無い墓についぞ足は赴かず、流れる日常をいつも通りに過ごしていった。アルハイゼンの家にあったカーヴェの品物はいくつか手入れが必要なものがあり、それらは誰の手にも触れられず少しずつ朽ちていった。櫛、ヘアピン、羽ペン、インク、カードに、楽器────都度、アルハイゼンは処分していった。日用品は捨てたが、カードはセノに、楽器はニィロウに渡せば彼らは少し寂しそうな顔をしてから大切そうに受け取った。それから、アルハイゼンを見て「大事にする」「本当にいいの?」と確かめるように尋ねたのはつい先日のことだ。
 あくる日の読書中、彼の足元に小さな影がふたつ落ちた。嫌な予感がして顔を上げれば、守銭奴と空飛ぶ工具箱が居た。
 その時のアルハイゼンはいくつかの選択肢の枝葉を伸ばしたが、猫のような瞳でじっと見つめられると動けなかった。それは、獲物を仕留める前の見定めである。下手に動いてはいけないという感覚のまま、彼は静かに本を納める。
「何の用だ。君とは一生、顔を合わせないと思っていたが」
 カーヴェの死と計画に加担したドリーについて、アルハイゼンは怒りもなければ気まずさも無い。教令院の妙論派を捕まえては仕事に誘うような彼女が、徹底してアルハイゼンを避けていたのは知っている。
 彼女の瞳がすうっと細まった。口元が吊り上がっているので笑っているようにも見えるが、ただ見定めているだけである。
「書記官サマ、アナタ、不動産に興味がありませんこと?」
 すぐに拒絶の言葉が出るはずのアルハイゼンの口は並行になる。キングマハベイにかかればいかなるところでも商売が成立する。むしろ彼女がここ最近で大損害を被ったのはアルカサルザライパレスの建築が最後であろう。
「条件は」
 それを聞いても遅くは無いはずだったが、彼女は視線を外すと身をひるがえす。そしてしばらくすると彼を振り返った。まるで猫のようである。宙を浮くメラックがくるくると彼女の周りを回ってから「ピポ~」とアルハイゼンを呼ぶ。ついて来い、ということであった。
「それほどお時間は取らせませんわ。いい場所を選びましたもの」
 ドリーの足取りは軽い。まるで、アルハイゼンが着いて来さえすれば契約は決まったようなものだと言わんばかりだ。アルハイゼンは警戒しつつ歩みは止めない。
 スメールの象徴である大樹から少し離れ、レグザ庁の脇を通り過ぎると家があった。こんな場所に家などあったか、と思いを巡らせるが、ここは人目につきにくく静かな場所である、噂にもならなかったのだろうと彼は結論付ける。
「この家がどうした────」
 アルハイゼンはその家の形を見て息をのむ。それから警戒心も忘れ、一歩、また一歩と近づいた。
「内覧はご自由に」
 ドリーが鍵を開ける。玄関が開かれると、新築の匂いがアルハイゼンを包んだ。入ってすぐのリビングは澄んだ光が柔らかく差している。中央のローテーブルの板が焼けないよう敷かれた織物の模様には見覚えがあった。なつかしさに目を細めたのもつかの間、男はぐるりと広間を見渡す。
 空っぽの棚に、棚に、棚だ。高い場所でも整理しやすいように段差になっている場所があり、その段の中もまた棚である。机の下にも、見上げれば天井の隙間にも本を納める場所がある。
「これは…………
「右手が書斎、左手は炊事場になりますわ」
 書斎というがリビングとの境目は壁ではなく正方形に細かく区切られた本棚である。側面だけを区切っているため向こうが丸見えだ。本を敷き詰めれば視線を遮る壁になり、インテリアを置いたり何もいれなければ、リビングの様子がわかる。書斎には大きな、ずっしりとした木の机があり、その後ろは半円の本棚で囲われている。光は本棚の後ろの横に細長い窓から取られ、ここにも明り取りの天窓があった。天窓や明かりを入れるための窓は、どれも本を日焼けさせないよう配置されている。
「──廊下…………
 書斎からどこかへ続く廊下。間取りが今住んでいる家とほぼ同じため、アルハイゼンはこの先に何があるか知っていた。以前、書斎から寝室が遠い、とカーヴェにぼやいていたことがある。それを設計に組み込んだのだ。
「ピポポ」
 メラックが先導する。小さな針金のような手を伸ばすと、かちゃんとベランダの鍵を開けた。風が入り、花の匂いが流れ込む。四方を壁に囲まれた中庭────そこの花壇に植わる花からもたらされた香りに、アルハイゼンは顔をしかめる。
「俺に植物を育てる趣味は無い」
「ええ、ですからその管理はメラックに任せてあります」
「ピポ!」
 雨水を利用した桶から水を吸い上げると、花壇の上から雨のように降らせ湿潤する花土。先ほど水を吸い上げていたパイプを土に差すと、今度は液状の肥料を土の中に送っている。すべての処理を終えると、メラックは二人の元へ戻ってきた。
「ピ?ピピ?」
「ずいぶん手際が良くなりましたの。ばっちりですわ!」
「ピッポ~!」
 メラックは箱の淵を大きく広げる。嬉しい時のクセだった。アルハイゼンは庭のガラス窓越しに寝室を見つけた。廊下を進み、寝室に入る。リビングや書斎と違い、ここには住まいを脅かすほどまで備え付けられた本棚は無い。ベッドサイドのテーブルに数冊、収まるくらいだ。低めに位置する広い窓からは、先ほどの花壇が見える。
「本棚を追加で置くこともできますが、おすすめしませんわ」
「だろうな」
 眠りにつく前、せいぜい寝物語に読むのは一、二冊だ。本棚を置いて空間を圧迫するのも、この部屋の意味を損なうのも無粋であった。
 シャワールーム、キッチン、倉庫をめぐり、再びリビングに戻ってくるとアルハイゼンは中庭のほうに目を向ける。窓はあるが、来い緑のステンドグラスで光が通りにくくなっている。寝室からもキッチンからも中庭の花畑が見えたが、広間や書斎からはほとんど見えない。
「────『どうせ、ここに居る時は本に夢中で顔をあげないから』、と」
 アルハイゼンはドリーを振り返る。彼女の姿を覆い隠しそうな程おおきな設計図が広げられていた。彼が距離を詰めると、彼女はその製図を丸め、後ろに隠してしまう。そして、サングラスの向こう、モラの色に染まった瞳をまあるくさせたままほほ笑んだ。
「さあ、さ!内覧が終わりましたのなら、お引き取りくださいませ!」
 アルハイゼンはドリーを睨んだが、彼女はひるむことなくこの新築の鍵を握った。彼女はアルハイゼンにこの家の感想を求めているわけではないし、屁理屈を聞くつもりもなかった。それに、
「いくら払えば所有権を得られる」
彼がすぐに最適解を出すという自信があった。こうして、この家の鍵はその日のうちにアルハイゼンのものになった。