木綿子
2021-12-07 20:24:48
5482文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#10

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。 義炭です。
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#11 https://privatter.me/page/65937b3a197ed

 花が咲いていた。
 大振りで紅色の花をたくさんつけた庭木が、ガレージ横から続く庭の入り口に葉を茂らせている。じっと見つめていたら、酔芙蓉だと教えられた。垣間見える庭先は大きめの車が一台置けそうなほどの広さで、イングリッシュガーデンのような雰囲気だ。不規則に緑が葉を伸ばし、所々に小さな花が咲いている。奥の方の茂みには、葉に埋もれるようにして何故か信楽焼の狸がいて、妙な馴染み方をしていた。
 連れて行かれた家は、一戸建てだった。
 戸建てだなんて、聞いてない。バイクから降りた時点で、炭治郎はやや呆然としながら目の前の家を見つめるしかなかった。
 古くはない。どちらかと言うと新しい。壁は白く、玄関扉は落ち着いた色合いの窓のない木目調だ。道路に面した鉄製の門扉から続く短いスロープには枕木が埋められていて、隙間を雑草と思しき緑がいい具合に彩っている。もう既に入口からしてモデルハウスのようだ。
……ほんとにお一人で住んでるんですか?」
 思わず発してしまった問いに、ガレージにバイクを停めた義勇は特に表情を変えることもなく頷いた。
「元々は姉夫婦の家だ。十年前に建てて半年くらいしてから海外赴任が決まってしまって俺が管理人代わりに住んでるが、全く戻ってくる気配がない。もしかすると赴任先に永住するかもしれないとも言われてもいるから、若干持て余し気味だ」
 開けられた玄関を潜る。三和土の右側に玄関扉と似た色合いの引き戸があり、中はシューズクロークのようだ。それ以外は何もない。飾り棚があるにはあるが、そこには鍵置き場になっている陶器の白い角皿しか置かれていない。
 家の一階の大半はガレージスペースで、後はガレージへ続く納戸とトイレしかない。生活空間は二階以上であるらしい。まだ少し呆然としていた炭治郎の手からはいつの間にか上着が取り上げられて、玄関脇の壁にひっそり備えてあるコートフックに引っ掛けられていた。
 いい匂いの家だ。建材の木の匂いと、義勇の匂いがする。
 実のところ、ここへ来るまで八割くらいは自分の聞き間違いじゃないかと疑っていた。カフェで「家に来るか」と言われた瞬間から。今だって本当は家にいて夢を見ているだけで、目が覚めたら全部消えてしまいそうな気さえする。けれど匂いは本物だし、踏みしめた床板の木目も、これをと出された室内履きの感触も本物だ。室内履きの柄がものすごくかわいいペンギンで二度見はしたが、現実だ。
「こっちだ」
 促され、後に続く。階段を上りきった正面の扉の内側は、リビングダイニングだった。普通に引き戸を開けて入っていく義勇の後をついていき、炭治郎はまた口が半開きになった。
 広い。広いが、何もない。
 いや、あるにはある。四人掛けのテーブルセットが一つだけ。それ以外は何もない。広さは十八畳か二十畳か。入って左側が本来ソファやテレビが置かれる場所なのだと推測ができるものの、がらんとした空間が広がっているのみだ。敷物すらない。南側の窓から差し込む陽光に照らされたチョコレート色のフローリングが、やや寒々しく見えてくるくらいだ。右側が台所になっていて、小物一つ置かれていないカウンターの向こう側に白い大型の冷蔵庫があった。
……大丈夫か?」
「え、なにがですか?」
「匂いは」
「はい。大丈夫です。義勇さんのお家、いい匂いです。あ、少しお線香の匂いもしますね」
「ああ……ここの奥が仏間なんだ。見るか?」
 何も置かれていない部屋には格子の引き戸があった。義勇がからりと開けると、微かな線香の香りと畳の匂いが柔らかく漂ってくる。中は質素でやや狭い和室で、障子越しに午後の日の光が差す明るい部屋だ。片隅には確かに仏壇がある。ただし、炭治郎が見慣れているいかにも仏具然としたものではなく、滑らかな白木で作られた簡素な外観だ。位牌は二つ。花はなく仏器膳も空だったが、香炉には線香が燃え尽きた跡があった。
……両親の仏壇で」
……え」
「姉が持っていくとも言っていたんだが、海を渡らせるのもどうかと思って、家と一緒に俺が預かっている。見ての通り世話ができているとは言い難いが」
 そう語る義勇は普段と変わりなく、静かな声音だった。炭治郎を見る青い瞳が「もういいか?」と語っていて、慌てて「はい」と答える。親族でもないのに線香を上げさせてくださいと言うのは気が引けて、きゅっと唇を引き結んだ。
……義勇さん)
 言葉にできない感覚が、心の表面を撫でていく。寂しさのような虚しさのような。それは匂いのようでもありそうでないようでもあり、霞のように一瞬で消えていく。けれど炭治郎ごときが踏み込むべきところではない。どんなに気になっても触れるべきではない。
「炭治郎」
 リビングに戻った義勇が、静かに名前を呼んでくる。いつもと同じように、真っ直ぐに立って、いささかも揺ぎ無く。
「気にしなくていい。もう随分昔のことだ。正直、あまり記憶もない」
「そう、なんですか」
「うん。だからそんな顔をするな」
……おれ、なんか顔に出てます?」
「出てる」
 ふに、と頬を指先で摘ままれて、「はわ」と変な声が出た。義勇の手はすぐに離れて行ったが、摘ままれた箇所には指の形に温かさが残って、痺れるようなむず痒いような感覚に思わず手のひらで押さえてしまった。片頬だけ赤くなりそうだ。困る。そんなに簡単に触れられると、もっと触ってほしくなるから、困る。こんなに困っているのに、視線だけで優しく笑わないでほしい。うう、と呻くと吐息のような笑みが降ってきて、益々困ってしまう。
「二階はここと、あとは水回りしかない。とりあえず台所を見るか? 一番条件が厳しいだろう」
 おいで、と手招かれて、炭治郎はよろよろとカウンターの向こう側へ足を踏み入れ、そして目を瞠った。
「わぁ」
 思わず感嘆が出る。
 台所も広い。五畳か六畳ほどはありそうだ。義勇の隣に立っても余裕がある。シンクとコンロはリビングダイニング側にあり、奥の壁側には食器棚と作業台のようだ。食器棚には一通りの皿類があり、引き出しのカトラリーはちゃんと種類別に整頓されている。細長い窓が二つあり、意外と明るい。ガスコンロは三口、コンロ下はグリルとオーブン。シンク下は収納で、食洗器もあるようだ。
「お台所すごいですね……! うわこれってガスオーブンじゃないですか! なにこれ最高……完璧……
 あまり使っている形跡は見えないけれど、一人で暮らしているのなら余程の料理好きでなければそうなるだろう。築十年とは思えないほどきれいで、機能的にも十分すぎるくらいだ。炭治郎にとっては贅を凝らした環境と言っても過言ではない。
「もうおれここに住みます!」
 整いすぎている設備に高揚してあちこち開けては感嘆し、勢いのまま声高に宣言してから、ハッとした。
「あ、いえあの、お台所にっていうか、確かにお台所住めそうなくらい広いですしお布団敷けそうではありますけど、そうじゃなくて……ぎ、義勇さん?!」
 慌てて言い訳をしながら隣を見て、驚いた。
 声もなく、腹を抱えて、義勇が笑っている。とても、静かに。震えながら。
 こんなにサイレント爆笑する人を今までに見たことがあっただろうか。いやない。
 そもそも常に泰然とした雰囲気の義勇が腹を抱えて笑うなど、これまで一度だってなかった。
「あの……
……ん」
「声出して笑ってくれていいんですよ……?」
 青い瞳が炭治郎を見る。いつものようにきれいで、けれどいつもと違い涙目だ。薄く水の張った虹彩は炭治郎を映し、深い青色が揺れる。
 笑いに。
……っふは」
 遂に吹き出すように零れた声は、喉奥での笑みに変わっていく。くっくとくぐもる音がする。あまりにも楽しそうで、おかしそうで、炭治郎にも伝播して、一声「あは」と笑いだしたら止まらなくなってしまった。
 苦しい。
 いつもとは全然別の意味で苦しい。物理的に呼吸が苦しい。二人して台所で爆笑している、という状況を客観視すると尚おかしい。治まったと思ってもまた湧き出るように笑ってしまって止めどがない。
……別に、台所に住んでもらっても、全然構わないが、一応上に空き部屋があるから」
 はぁ、と息を吐いて義勇が言う。やっと小康状態にまで落ち着いた声音が少し跳ねて震えている。あはは、と笑う炭治郎も似たようなもので、なんだかそれがとてもおかしくて、また笑ってしまう。
(義勇さん、すごくかわいいなぁ……
 笑う義勇はかわいい。とてもいい。楽しくて、嬉しくなってしまって、弾むような笑いが治まっても勝手に顔がにこにこしてしまう。
 また一層深く、好きになる。
 まったくこんな調子では、好きなところが増えすぎて、いつか身体中から溢れてしまうかもしれない。溢れてしまったらどうしよう。きっと全部義勇に流れて行って、自分自身すらも一緒に流れて溺れそうな気がする。
(やっぱりもっと慣れなくちゃ駄目だなぁ……
 そうでなければあっという間に大洪水だ。危険極まりない。来年までに確実に危機管理できるようにならなければ。
 「上も見るか」と問われて、まだ少し笑いながらも「はい」と応えた。連れて行かれた三階部分は二部屋だ。空き部屋は広く、何故かドアが二つあった。どうやら中で間仕切りできるように設計されているらしい。元々子供部屋として作った間取りのようだ。収納が少ない分家具を置いたらそれなりに狭くはなりそうだが、それでも自宅の部屋の二倍弱はある。炭治郎が一人で使うには贅沢すぎる広さだ。あまりにも高待遇すぎて、若干「やっぱりこれは夢なのでは?」という気持ちも拭いきれなくなってきた。
「三階はここと、俺の部屋しかない」
「義勇さんの部屋……
「見るか?」
「見ます!」
 そんなもの訊かれれば、見るに決まっている。即答である。見ないという選択肢など存在しない。炭治郎の勢い込んだ返答に義勇はややたじろいだように「そうか」とだけ言って、自室のドアをすんなりと開けてくれた。
 部屋の内側からは義勇の匂いがする。当たり前だ。毎日生活している空間なのだから。どんな間取りでどんな色合いでどんな雰囲気の部屋なのか、これまで想像しかできなかったが今まさに本人の手によって正解が与えられるのだ。動悸だってする。それはもう最高潮である。さっきの台所よりもどきどきしているかもしれない。
 しかし、お邪魔しますと部屋に入った瞬間、炭治郎の視線は間取りも家具も認識せず、一点にのみ釘付けになった。
 熊がいた。
 紛うことなき熊いた。
 瞬きをして具に見つめたが、どこからどう見ても熊である。置かれているのではない。これは鎮座していると言った方が正しい。ベッドに鎮座する、チャコールグレーの熊である。小学校低学年くらいの子供なら、恐らく熊の両腕にすっぽり収まるサイズだ。つまり、大きい。
……熊」
「うん」
……えっと、お名前は?」
「クマ」
「クマ?」
「そう。逆の発音だ」
……なんで鮭持ってるんですか?」
「友人に貰った」
「ご友人が鮭を」
「標準装備だ」
「鮭標準装備……
 そんな問答をする人間達を意にも介さず、鎮座した熊はじっとこちらを見るばかりだ。真っ黒な樹脂製の瞳に気圧されるように、つい「は、初めまして?」と挨拶をしてしまい、また義勇が小さく声を立てて笑った。
「子供の頃に貰ったもので……なんというか、一部だな」
「一部?」
「俺の一部」
 義勇の手が熊の頭を撫でる。ほよんほよんと柔らかく熊の身体が揺れた。黒い瞳が「そうだ」と言っているようで、炭治郎はぱちぱちと瞬きをした。熊の顔つきはかわいらしく、けれど鮭を携えた姿はどこか剣士めいても見えて、謎の力強さがある。不思議である。
……クマさんはなんだか強そうですね」
「うん。でもお前の方が強い」
「え、なんでですか?」
 意味が分からず問えば、義勇は何も答えずただ炭治郎の髪を撫でた。さっき、クマにそうしたのと同じように。優しい手つきに、ほよんほよんと身体ではなく心が揺れた。
……あ)
 ふうっと、鼻先に漂う匂い。とてもいい匂いがする。春の匂いを、もっと甘くしたような、花盛りにしたような。雪原の匂いが押しやられ、鼻から喉へ甘さが滴るように落ちていく。
(これ……なんの匂いだろう……?)
 髪を梳かれながら見上げる。水の青がいつものようにきれいで、けれど深く、深く、炭治郎を探ってくるようだ。長い指先が髪に埋まり、地肌を滑って、後頭部まで辿っていく。瞬間、先ほど義勇の匂いを嗅がせてもらったことを思い出した。後頭部をそっと引き寄せて嗅がせてくれた匂いはもっと、清冽な雪の匂いが強かった。
 何故、今はこんなにも甘いのだろうか。
……別に、大したことはない部屋だろう?」
「ぇ、あ」
 不意にするりと離れた指先に、間抜けな声が出てしまう。義勇はまだ仄かに笑って、炭治郎を見下ろしていた。
……気に入ったか?」
 静かに問われ、炭治郎は首を傾げた。
 気に入る? 何を? この家を?
 主語のない問いは何を問うているのか明確にわからず、けれど今甘く芳しい匂いを胸いっぱいに吸い込んでいて、わからないのに答えの一端を指先で掴んでいるような気がして、ただ感情のままに言葉を紡ぐ。
「はい……ここにします」

 たぶんこれが、正解だ。