木綿子
2021-12-02 21:34:19
5342文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#8

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。 義炭です。
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 耳飾りを着けた。
 父の形見の耳飾りだ。形見分けの時に、「これは炭治郎に」と母から渡された。少し大振りで、花札のススキに月に似た意匠だが、月ではなく太陽が描かれている。父の耳に下がっていたものを幼いころに欲しがったことがあり、どうやら父はそれを覚えていてくれたようだった。年代物のようではあるが金具は新しく、もしかしたら炭治郎に渡す前に修復してくれたのかもしれない。どのくらい古いものなのかはわからないが、色褪せたアルバムに残っている曾祖父の写真にも写っていたから、竈門家に代々伝わると言っていいくらいだろう。かといって貴重品と言うわけでもなさそうで、渡されたときも「別に家宝とかではないから、あなたの好きになさい」と言われただけだった。
 普段、耳飾りは炭治郎の引き出しの中に仕舞われている。毎日着けているわけではなく、気合を入れたいときや神頼みをしたいときに着けていた。お守りのようなものだ。さすがに受験や就職活動の時は耳に下げてはいなかったが、懐に携えてはいた。
 今朝は店にパンを焼きには行っていない。母と一番上の弟が代わりにやってくれている。内定が取れてから、少しずつ炭治郎の朝業務は減らされていく予定になっていた。なので久しぶりに二度寝をしたものの、結局は六時前に起き出して入念に身支度をしてしまった。
(忘れ物、ないよな)
 持ち物が不安になる。何しろ、都会の駅で待ち合わせなんてほとんどしたことがない。親しい友達はずっと地元にいるし、出かけるときは必ず車移動になってしまうから、鉄道を使う用事が全然ないのだ。着ていく服にも迷う有様である。
(バイク用の上着を持って行かなきゃ……あと電車のICカード忘れないようにしないと……
 遠足前の幼稚園児と同じくらい何度も何度も鞄の中身を確認しては、そわそわする。財布、ICカード、ハンドタオルとスマートフォン。それから、事前に調べておいた家賃相場とインターネットで拾えた土地情報のメモ。全部ある。大丈夫だ。
 靴を履いて「いってきます」と言えば、台所へつながるドアから禰豆子が顔を出し、「いってらっしゃい」と言いつつぐっと親指を立てた。意味は、「健闘を祈る」である。それに「あはは」と苦笑を返し、炭治郎は家を出た。
 一昨日、「義勇さんと物件探しに行ってくる」と予定を告げた途端、母と禰豆子からは異口同音に「結婚することになったの?」と身を乗り出さんばかりの勢いで訊かれた。かちんと固まった炭治郎の反応を肯定と受け取ったのかあわや婚約祝いが始まりそうになり、慌てて「まだ全然! そんな段階じゃ! ありません!」と全く進展していない関係を自ら叫ぶ羽目になった。婚約どころか、お付き合いすらしていない。だいたい、そう頻繁に会えてもいない。
 義勇は、いろんな意味で炭治郎を駄目にする。
 一番最初のデート以降、何度か会って身に染みてわかった。実際に一緒にいるときよりも、さようならをした後が殊更に大変なのだ。一週間は浮ついてふわっふわの気持ちのままで、けれどそれが終わると濡れた綿飴のように一気に萎れて落ちて地の底にまでめり込むほどになり、その後は急浮上と急降下を繰り返す精神を二週間ほどかけてなんとか宥めて落ち着かせなければならなくなる。故に、どんなに頑張っても一ヶ月に一回くらいしか会えない。平静に戻る前に追い義勇をしてしまったら、振り幅がおかしくなって確実に生活に支障が出るだろう。そのくらい駄目になる自信がある。
 その上、今は少しずつ心に刺さるものが増えてきている。毎回つながれる手のひらは言わずもがな、本当に些細なことまでが炭治郎の心を乱しにかかってくる。例えば、食事の時にフォークを取る瞬間の指先だとか、バイクに乗る前に手袋を着ける仕草だとか、本当にごく普通の日常動作がなんでこんなにと思うくらい強烈に炭治郎の心臓を締めあげてくるのだ。もう見ているだけ触れているだけで毎回致命傷を負っているようなものである。いとも簡単に全てが駄目になってしまう。
 それに、立派な社会人である人を頻繁にお誘いするのはなかなか難しい。平日は基本的に除外されてしまうし、休日は休日で就職活動中は土日にセミナーがあったりして、予定を立てにくかったのもあった。けれど内定が取れた今、ほぼ休日の予定は解放されたと言っていい。あるとすれば、残りは資格試験くらいだ。
……慣れたい。義勇さんに、慣れたい)
 会うたび死んでるような体たらくではいけない。こんなことでは婚約なんぞ夢のまた夢である。
 そこまで考えて、国道のバス停までてくてくと歩きながら炭治郎は一人静かに赤面した。思考が、至極当然に結婚するつもりでいる。これでは一足飛びどころか特急快速である。まだ電車に乗り込めもしていないのに。
 義勇からは、嫌われたり疎まれたりはしていないと思う。そういう匂いは全然しない。かと言ってどう思われてるのかと言えば、これは全然わからない。時々香る甘やかな春のような匂いは恐らく好意的なものだろうが、不思議なことに嗅いでいるうちにいつの間にか雪の匂いに隠れてよくわからなくなってしまう。おまけに義勇はそれほど感情が表に出てこない。怜悧な美貌は波のない海のようで、笑ったり微笑んだりすることはあるけれど、とても静かで密やかだ。
 嗅覚に頼りすぎるのはよくないと、わかってはいる。わかっていても、つい嗅いでしまう。特に、引っ付いていても何らおかしくない、バイクに乗せてもらっているときに。ヘルメットを隔てていても、常に風が当たっていても、温かい身体が近くにある限り匂いを嗅ぐことはできる。
 そっと背中にもたれるとき、義勇からはとてもいい匂いがする。楽しそうな匂いだ。それから、仄かに春の匂いも。鼻から肺に吸い込むたびに、ここにずっといていいのだと許されている気持ちになる。そして心臓がぎゅうっと痛くなり、身体の奥底にじんわりと熾火のような熱が灯るのだ。そういうときは必ず義勇を挟み込んでいる膝に不必要な力が籠りそうで、毎回抑えるのに必死である。でないと両手両足を全部使って、身体中で義勇にしがみつきに行ってしまうだろう。
 それが何に起因しているものなのか、もう炭治郎にはわかっていた。
 左手で、左頬をそっと押さえる。義勇の指が触れた箇所を。
 たった一度、ほんの一瞬。皮膚の上を指先が滑って離れた、ただそれだけの接触が、炭治郎の一部を明確に変えてしまった。
……義勇さんが全部、おれのだったらいいのに)
 自分がが知らない誰かをバイクに乗せないでほしい。甘やかな春の匂いを嗅がせないでほしい。深く澄んだ水のような瞳で見つめないでほしい。
 絶対に言ってはならない欲ばかりがどんどん増えていく。浅ましく欲張りになっていく。特別な誰かがいるのかどうか未だに確認する勇気がなく知らないままで、知らないままそんな欲を抱くことは卑怯だと自覚しているのに、止めることができない。
 いっそのこと、このままどこへでも連れ行ってずっと傍に置いてほしいと、会うたびに思っていた。それが現実的に起こり得ないことは重々承知している。いろんな意味で甘いとしか言いようのない夢想などすぐ現実にかき消され虚しくなるばかりなのに、ぼんやりとあやふやな都合のいい夢だけを見ている。
(義勇さんの邪魔にならない範囲で、できるだけ近くにいたいな……諦めなくちゃならなくなる、ときまで)
 炭治郎はこれから一人暮らしになる。住む場所を自由に選べるのだ。そう、なんなら義勇の家の近くにしたって構わないのである。心の準備だけはしておくから、束の間だけでいいから、ほんの少しだけ夢想を現実に近付けてみたかった。
 一番最初に調べた土地情報は、義勇の居住地だ。地名を知ったからには調べずにはいられなかった。
 細かな番地までは聞けなかったが、地名だけでも大体の範囲はわかる。意外と駅からは距離があるようで、インターネットの地図情報では住宅地ではあるものの土地の切り分け方が大き余裕のある区画で、大きなマンションよりもどちらかというと広めの一軒家が連なる地域のようだった。
 夏になる直前、少しだけ近隣の様子を聞いたことがある。確か県境付近にある道の駅で、二人で並んで足湯に浸かっていたときだ。炭治郎の家の近くには徒歩圏内に店らしい店がなく、どこへ行くにも車でしか行けないというようなことを話したら、なんとなく居住地の話に流れたのだった。
「うちの方は、そこまで都会ではないが車必須というわけではないな」
「車必須でないってだけで、おれからしたらだいぶ都会です。ご近所にコンビニがあったりしたら完全に都会ですね」
「コンビニなら二軒ほど。どっちも歩いて行ける距離ではある。あんまり行かないが」
「え、二軒もあるのにですか?」
「うん。深夜までやっているスーパーが周りに三軒もあって、どちらかというとそっちに行く。それにバイク移動が主だから、国道のショッピングモールに寄る方が多いな」
「えええ……ショッピングモールまであるんですか?」
 炭治郎からすると、まず「深夜までやっているスーパーマーケット」という存在の方が驚きである。スーパーとは通常二十時、下手したらもっと早く閉まるものだ。少し離れたところにある巨大なショッピングモールでも二十一時には閉まってしまう。深夜帯までやっているなんて、大都会のスーパーである。
「まあそこそこ便利ではある。駅前はそれなりに賑わってはいるし、店も多い」
 「どこに住んでいるんですか」とは、聞けなかった会話だった。なんだか「遊びに行きたいです」と暗に言うような気がして躊躇ってしまい、喉まで出かかったものの口には出せなかった。けれど新しく住む場所を探すという名目があれば話は別だ。内定が取れた喜びの勢いで電話をして本当に良かった。
 なお、電話を切ってから余りの嬉しさにスマートフォンを抱えたまま畳の上でジタバタしていたら、帰宅した一番上の弟に「兄ちゃん何やってんの。打ち上げられた魚の真似?」とやや引かれた。あながち間違いでもない。確かに心は釣れたて鮮魚のようにぴちぴち跳ねていた。
 土曜日の午前中。大きなターミナル駅は歩きにくいとまでは言わないが、駅構内を行き交う人は多い。人気のない地元駅とはえらい違いである。土曜日でこの状態なら、平日の朝などはどうなるのだろうか。通行人に当たらないように歩きながら、来年からの勤務地となるこの駅に少しばかりの不安を覚えた。
(ええと、中央改札を出て、東口の、ロータリー……あった)
 待ち合わせ場所は駅の外。大通りに面した百貨店前だ。駅構内の進行表示通りに大きな階段を下りた先、バスとタクシーがたくさん停まっているロータリーの向こう側。歩いている途中でもう、すぐにわかった。
 大きなショーウィンドウ前に、義勇はいた。
 いつものようにバイクを近くに置き、寄りかかりもせず姿勢よく真っ直ぐに立っていて、大きな街の雑多な背景からほんのりと浮き上がって見える。どうやらショーウィンドウを眺めているようだ。炭治郎からは、背中側しか見えない。傍らの既に見慣れた流線形の藍染色は、時折揺れる街路樹の枝葉に合わせて陽光を小さく弾き、無機質な金属の上で生まれるちらちらと踊る星のような瞬きが義勇の黒い背中にまで零れていた。彼が眺めているショーウィンドウの中身は、秋らしく銀杏の木のオブジェがあった。鮮やかな黄色が真っ白な床と壁に散っていて、中央に据えられたマネキン達が着ている紅葉色によく映える。墨と藍染と、赤と黄の対比が得も言われぬほど美しく、炭治郎の網膜に焼き付いていく。
 はあ、と思わず溜息が出た。絵画のような世界の中で義勇が自分を待っていてくれている、という事実だけで途方もなく嬉しくなってしまって、全身がそわそわと落ち着かなくなり、早くこちらを見てほしくて、けれど今のまま後ろから見ていたくもあって、歩調が何とも覚束ない。
(酔っ払いみたいだな……
 義勇に酔っていると言えば正しくその通りだ。身体の奥まで酩酊し、いつも二日酔いに悩まされる。もう既に吐息が熱っぽい気がして、炭治郎は都会の空気を深く吸って、吐いた。なんとか呼吸を整えて、いっそ駆け出してしまおうとした瞬間、不意にショーウィンドウを向いていた青い視線が炭治郎を射抜いた。
 まだ随分距離がある。炭治郎はロータリーを隔てた駅側にいる。だというのに義勇は炭治郎を見つけて、見つめて、僅かに青色を細めて、真っ直ぐ立っているのは変わりがないのにどこか気配が緩んだ。
 雪が、溶ける。
 呼吸が一気に苦しくなり、息を吸うと喉からひゅうと音が出た。自分がどんな顔をしているのかよくわからない。ただもうどうしようもなく嬉しくて幸せで大好きで、身体全部が溶けて崩れてなくなりそうだ。

 きっと今日も、駄目になる。
 匂いを嗅ぎたがる鼻の奥が、冬の空気を吸ったときのようにツンと痛み、視界がほんの少しだけ水面のように揺れながら青色だけに染まっていった。