木綿子
2021-11-12 20:37:07
5302文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#6

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。 義炭です。
#5 https://privatter.me/page/65937b3a10315
#7 https://privatter.me/page/65937b3a13455

 お姫様になった。
 比喩ではない。炭治郎はお姫様になった。もしかしたら今日のこれは、お姫様体験ツアーだったのかもしれない。
 一番最初、バイクに乗せてもらっただけでも諸々の情緒が死にかけていたのに、これでもかと追い打ちをかけられては耐えられるわけがない。恐ろしい勢いで心をかき乱され、息も絶え絶えになった。
 現在進行形で。
 そう、今もまだ炭治郎は死に体である。たぶん、家に着くまで蘇生は無理だ。
(いや、もしかしたら、これから少なくとも一週間は死んでるかもしれない……
 ずっとつながれていた右手がまだ熱い。全然冷めない。当たり前だ。今もまだ右手どころか左手も義勇のパーカージャケットを掴んでいて、冷め切る暇がない。頑張って閉じている膝も熱い。何しろずっと義勇の足を挟み込んでいるから、震えてしまいそうなのを必死に堪えている状態だ。もうどこからどうやって熱を逃がしたらいいのかわからなくて、そのうち身体ごと破裂しそうな気がする。
 冨岡義勇という人は、姿かたちだけでなく、運動神経まで飛びぬけてよかった。
 九十分の乗馬体験コースで最初のレクチャーを一通り受けた直後から危なげなく馬を乗りこなす素人など、人に語ったところで実在を怪しまれるに違いない。その証拠に、初心者だと最初に告げたのにも関わらず、乗馬講師のおじさんが「お兄さん、もしかして乗馬ライセンス持ってます?」と真顔で義勇に尋ねていた。
 寿命牧場の乗馬コースは、三十分馬場で練習した後、外へ出る。牧場の外周を歩くのだ。やや標高が高めなので眺めもいいらしい。が、炭治郎は自分の前を行く義勇の方を眺めるのに必死だった。景色なんぞ悠長に見ている余裕などない。
 そもそも馬場で馬に乗った瞬間から、もう駄目だった。
 背の高い馬の背に、踏み台なしで軽々跨るのを目の当たりにした時点で、炭治郎は「あ、これダメなやつだ」と早々に観念した。立っているだけで絵になる人が馬に乗ったらどうなるか、あえて想像しなくともわかろうというものだ。ゆっくりと馬を歩かせているだけで、絵本の中に登場する騎士のようだった。馬を操るのも堂に入っていて躊躇いがない。講師から教えられたことを数度試しただけで難なくこなす。馬の腹もうまく蹴られない炭治郎とは大違いだ。これでどうやったら心奪われないで済むのか。有効な方法があったら誰かに教えてもらいたい。
「義勇さん、乗馬うますぎませんか?」
「うん、自分でも驚いている」
 馬場で練習のため馬を歩かせながら問えば、涼しい顔でそんな風に返してくる。それからへなちょこな炭治郎をじっと見つめ、深い青色を和ませてほんの僅かに微笑んだ。
「お前も充分乗れているだろう」
「いえ、おれはお馬さんに乗せてもらってるんです……
「俺も似たようなものだ」
「どこがですかぁ!? 生まれた時から馬に乗ってます、みたいな感じじゃないですか!」
 どこからどう見ても「乗せてもらっている」ようには見えない。それどころか、馬の方が喜んで義勇の指示に従っている。事実、そういう匂いがする。
 だいぶぼやきに近い炭治郎の言葉に、ふ、と吐息のような声を上げて、義勇が小さく笑った。ひんやりとした目元が笑みに溶けてきれいで、とても楽しそうで、炭治郎も嬉しくなって、揺れる馬の背で姿勢を保つのに精いっぱいだというのに顔が勝手に笑み崩れるのを止められやしない。
 「もうあと二周しますよ」と講師に言われてなんとか馬に歩いてもらっている間、義勇はそれとなく炭治郎と合わせて馬を操ってくれていた。馬が気まぐれに首の向きを変えるたび、そっと手綱を横から引いてくれる有様だ。もうその時点で騎士の保護下にあるお姫様状態である。講師の方も「二人がかりで教えてる感じになっちゃいましたねえ」と苦笑していた。
 外周へ出たら出たで常に炭治郎を気にかけてくれ、遅れそうな時は自分の馬も少し速度を落とし、疲れた素振りを見せれば休憩を申し入れ、馬がおやつとばかりにその辺の草を食み始めれば都度都度先頭の講師に声をかけてくれる。これを卒なくこなした上で、風景の中で馬に乗る姿が様になりすぎているのだから炭治郎としてはもう何をどうしたらいいのかさっぱりわからなくなった。「もしかしておれは今日、ドレスを着てくるべきだったんじゃないか?」と頓珍漢な思考になるくらい頭の芯から駄目になった。
 義勇が借りた馬は、白みの多い葦毛だった。「まあまあお爺ちゃんなんですけどね」と講師が言っていたが、義勇が乗っていると心なしかキリっとした顔つきになり、到底お年を召しているとは思えぬ風貌だった。加えて馬体が白っぽいせいで、より一層お伽噺に出てくるような騎士感が増していて、見ているだけで心が騒いで騒いで仕方がなかった。
 こんな調子で、乗馬体験中の記憶と言ったらほとんど義勇で埋まっている。炭治郎を乗せてくれた馬が気の優しい性質で本当によかった。不慣れで気もそぞろな人間を乗せるのは大変だったろうに。ありがたさしかない。
(身体の奥が、ぎゅーぎゅーする……
 これが俗に言う「心を鷲掴みにされた」状態なのだろうか。内臓と言う内臓がざわざわと騒ぎ、中でも心臓が悲鳴を上げている。どうしてこんなに、と思うくらいに痛くて堪らない気持ちになる。
 今日だけ、一度だけでも、何も知らないままでデートができればいいな、と本気で思っていた。昨日までは。
 なのに今、炭治郎は欲深な人間になり下がった。一度だけだなんてそんなこと、到底我慢ができない。ずっとずっと、明日も明後日も百年後も傍に置いてほしい。静かな青い瞳でこちらを見ていてほしい。きれいな声で名前を呼んでほしい。雪原の匂いを肺腑が壊れるまで吸わせてほしい。
 なんて浅ましい願いだろうか。自分本位にすぎる。考えることすらおこがましいくらいだ。
 唇を引き結び、すう、と息を吸い込む。そっと背中にもたれながら。幽かに義勇の匂いがする。晴れた雪原の匂い。それからどことなく甘い、春風の匂い。
 泣きたくなるほど、優しい匂い。
 馬から降りて差し出された手に、無意識に手を重ねた瞬間にも香った匂いだ。
 「明日は筋肉痛だな」などと静かに、けれど面白そうに言いながら、まるでそうするのが当然と言わんばかりに義勇は炭治郎の手を握る。最初からそうだ。朝、その手に捉えられてから、もう炭治郎の右手はすっかり彼のものになってしまった。違和感がまるでなく、握られていると怖いくらいに安心できるのが嬉しくて、不思議だった。
「筋肉痛? 義勇さんがですか?」
「ああ。特に内転筋がまずい。今から少し覚悟してる」
「そんなに? すごく上手に乗っていたから、おれバイクに乗る人は乗馬も上手いのかと思ってましたよ」
「馬鹿を言うな。馬とバイクの共通項なんて、重量くらいしかないぞ。それほど筋力も必要ないし」
 真顔でそんなことを言う人に、炭治郎は笑った。笑って、「そろそろお昼ごはん食べませんか」と言った。
 できるだけ何でもないように笑えていただろうか。顔はうっとりとだらしなく崩れていなかっただろうか。義勇といると顔が溶けてしまいそうになるから、今更ながらに心配になってくる。
 夢でも見ていたかのように、あっという間に時間は過ぎた。
 ちらほらと自分達以外のお客さんの影も見え始めた牧場の売店で軽食を食べてから、質素ながらもちゃんと別枠で作られている広場で自由に闊歩するアヒルに餌を強請られて突かれ、ふさふさの尻尾を振る牧羊犬に義勇が少しばかり身体を強張らせたりした。犬は嫌いなのかと尋ねれば、哲学者のように難しい顔をして「嫌いではないが、苦手だ」と言うものだから、おかしくなって笑ってしまった。義勇のような人が犬が苦手だなんて、あまりにも想像がつかなくて、笑いながら「なんだかかわいいな」と思ってしまった。
 その間中、義勇は離れることなく手をつないでくれていた。本当に、お姫様をエスコートするかのように。
 右手が熱い。熱くて堪らない。ずっと握られていたのだ。義勇の手に。指の形が、手のひらの大きさが、皮膚に焼き付いている。
…………義勇さんが、好き)
 はあ、とヘルメットの中で溜め息を吐いた。息までもが熱い。透明な風除けが曇ってしまいそうだ。
 身体を撫でていく風と、バイクのエンジン音、アスファルトの振動。それから目の前のいい匂いがする人。この場所にずっといたい。居心地がよくて幸せすぎる。
 でも、そろそろこの時間も終わる。流れていく風景は、もう見覚えのある道に入っているのだ。あと数分で目的地に着いてしまう。どんなに願っても、急に道が長くなったりなんてしない。店の赤い屋根はもうすぐそこで、炭治郎は離れ難く膝に少しだけ力を籠めた。
 「裏に停めてください」とお願いした通り、義勇のバイクは店の裏口側で停車した。促されて居心地のいい場所から身体を引き剥がすように、降りる。急に全身がひやりと冷たくなった気がするのに、やっぱり右手だけがかっかと熱くて借り物の手袋の隙間から湯気が出たりしないか心配になるくらいだった。
 バイクのエンジンは止まっていない。つまり、義勇はすぐここから帰るつもりなのだろう。引き留めることは炭治郎にはできない。何を言ってもただの我儘になってしまう。
(もっと一緒にいてください、なんて、言えない)
 言われたところで困るに決まっている。困らせたいわけじゃない。困らせないようなことを言わなければ。
「義勇さん、今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」
 借りていた物品を返し、炭治郎はバイクに跨ったままの義勇にぺこりと頭を下げた。
 早春の午後、緩やかに傾きかけてはいるものの太陽はまだ明るい。しかしヘルメットの風防に阻まれて、義勇の青色を捉えることはできなかった。
「あと、すみません、お金全部出してもらっちゃって……
「それは別に構わない。こういうものは、年長者が支払う方がいい」
 何でもないことのように義勇は言うが、出かけている間中財布を出すことすらさせてもらえず、お姫様状態ここに極まれりである。ひたすら恐縮する炭治郎に、重ねて「気にするな」と言われ、恐縮しつつももう一度お礼を言った。
(どうしよう……
 次に、何と言ったらいいのかわからない。「さようなら」だろうか。「お気をつけて」だろうか。いや、どっちも口にした瞬間に終わる。この時間が終わってしまう。嫌だと思ってもどうしようもない。さりとて何も言わないのも変だ。何か言わなければ。
「あの、」
「炭治郎」
 とりとめもなく言葉を紡ごうとした瞬間、名前を呼ばれた。きれいな、ひんやりと優しい声に。すい、と風防が上げられて、あの凪いだ海のような深い青色が、過たず炭治郎の両眼を捉えた。
「次は、どこへ行く?」
「え……
 一瞬、言われた意味が分からなかった。聞き間違いかと疑った。
 今、この人は「次」と言ったのだろうか。
「行きたいところがあれば、また行こう。お前が嫌じゃなければ」
「嫌じゃないです!」
 ぎゅっと右手を握りしめて、あわあわと炭治郎は必死に声を上げた。
「嫌じゃないです。行きたいです。また、お誘いしてもいいですか?」
「うん」
「あと、あの、義勇さんのバイクに乗せてもらうの、すごくすごく好きです!」
「そうか」
 また、仄かに甘い匂いがした。甘い、春の匂い。雪解けの水と、温かい風の匂い。ふわふわで優しくて、鼻の先からうっとりしてくる。
 「おいで」と言われて、逆らいようもなく、ふらりと青色に近寄った。義勇はバイクに乗ったまま、けれど手袋を外して炭治郎の髪に触れた。朝と同じように、ゆるりゆるりと髪の隙間を指先が触れていく。撫で付けるように往復する義勇の指の下で、髪がさらさらと音を立てた。
「じゃあまた、出かけるときはバイクで行こう」
……はい」
 最後に耳の上辺りを滑り、するりと手が離れていくのを、炭治郎は残念に思った。
 もっと撫でてくれたらいいのに。ずっと撫でてくれていていいのに。ああでも、ずっと撫でられたらきっと身体中が駄目になってしまうだろうから、やっぱりちょっと困るかもしれない。
「義勇さん」
 溶け落ちて崩れてしまいそうな顔を必死に立て直し、炭治郎は義勇を見上げた。
 見上げて、その青色に全部視線を奪われて、苦しくなって喘ぎそうになる胸の上に右手の手のひらを押し当てた。どこも何も触れてなくても、右手に移った義勇の温度が、服を通して皮膚に染み込んでくるような気がした。
……お気をつけて」
 深い深い水の色が優しくとろける。音もなく伸ばされた長い指先が、返事をするようにさわりと頬を撫でて離れて行った。

 その瞬き一回にも満たない接触で、死に体だった身体は完全に息の根を止められて、義勇のバイクが見えなくなってからも死後硬直が継続し、蘇生には予想通り一週間の時間を要することになった。