木綿子
2021-11-10 20:28:06
5077文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#5

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。 義炭です。
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 牧場は質素だった。
 義勇としてはもっとテーマパーク然としたものを想像していた。昔、家族に連れられて行った先がそういう牧場だったからだ。観光客向けでイベントがたくさんあり、姉に手を引かれて何かもふもふしたものを撫でた記憶が微かにある。あれは兎だっただろうか。実のところ牧場の記憶としては、大興奮した牧羊犬に飛び掛かられて芝生に転がったことの方が鮮明である。すっかり大人になった今でも大型犬にはやや身構えてしまう。
 しかし今いる牧場は、テーマパークとはとても言えない。入口からして物凄く質素である。看板はあるにはあるが、牧場と言うよりも道場のような雰囲気だ。丸太を縦割りにしたような板で作られた看板には力強い毛筆で「農事組合法人 寿命牧場」と書かれていた。「……じゅみょう?」と首を傾げたら、すかさず炭治郎が「すみって読むんです」と教えてくれた。
「入口はこんな感じですけど、ちゃんとこっちに売店あるんですよ」
 炭治郎がにこにこしながら袖を引いてくる。その己よりも一回り小さい指先を、義勇は見下ろした。
 さっきまで、義勇の腰にぎゅっとしがみついていた手だ。
 炭治郎をバイクの後ろに乗せて走るのは、なかなか楽しかった。乗せる前は面白いくらいに固まっていて、オープンジェットのヘルメットを着けてやっている時は、少しだけ震えてもいた。
 バイクは、ちょっと怖いと思われているくらいが丁度いい。何しろ生身のままで自動車に混じって道路を走るのだ。緊張しつつ、操縦者の指示に漏れなく従ってもらうのが一番安全である。その点、炭治郎は優秀な同乗者と言えた。
「ど、どうやって乗れば、いいんでしょう……?」
 春らしい萌黄色のフード付きジャケットを着て、義勇が貸してやった手袋とネックウォーマーをきっちりと装着し直立不動のまま硬直している姿は、体育テストの順番待ちをしている小学生の風情でかわいかった。バイクから少し離れたところで遠慮がちにしているのも凄くいい。ただそこに立っているだけで驚くほどかわいいとは一体どういうことだろうか、とやや真剣に考えてしまったくらいだ。
 そのかわいい生き物は義勇が「おいで」と手招きすると素直に近くに寄ってきた。後輪の横に立たせ座る場所と足を乗せる場所を教えてやり、バイクに跨りサイドスタンドを立てる。
「炭治郎、左足をステップに乗せて左手で俺の肩を掴め」
「はわ、はぃ……
「体重はかけていい。そのまま右足でシートを跨げ。……それでいい」
 車体が軽く揺れて、治まる。上手に座れたらしく、けれど「どうしたらいいのかわからない」という気配は濃厚だ。
「座ったら膝を閉じる」
「ひざ、ですか?」
「そうだ。両膝で俺の腿を挟め。そうすると安定する」
「っ……、こ、こうですか?」
 きゅ、と言った通りに膝が閉じられ、腿の付け根辺りに膝頭が触れた。ジーンズの生地の下、男の子らしいきれいな骨の形が浮き出ている。
「両手は腰に」
「えっ、はい」
 返事は来たものの一向に接触がないため振り向けば、炭治郎は真面目な顔をして両手を自分の腰に置いていた。どうしてこの場面でそうなるのか。堪らず喉奥で笑ってしまった。
「自分の腰に当ててどうする。掴むのは俺の腰だ。ベルトでもいい」
「す、すみませんそうですよね! あの、えっと、し、失礼します!」
 炭治郎の両手が腰骨の上辺りに触れて、取っ掛かりを探しているのかふらふらと彷徨った。脇腹まで撫でられて少しばかりこそばゆく、また笑いそうになるのを奥歯を噛みしめて堪える。さんざん義勇の胴体を撫で回した後、炭治郎の両手はバイクジャケットの裾の辺りをにぎにぎと確認して、やっと落ち着いたようだった。
「あの……義勇さん、これでいいでしょうか?」
「うん。走ってる間はその姿勢をできるだけ維持してくれ。締めてほしい時は、こうして膝を叩くから」
 左足の膝頭を軽くグローブを嵌めた手のひらで叩くと、炭治郎はほんの少し身体を竦め、か細い声で「……はい」と言った。
 これまで、後ろに誰かを乗せて走ったことは数えるほどしかない。だから走行中に背中側が温かいのは不思議な感じがした。炭治郎は頼んだ通りの姿勢を保ってくれたため、膝で締められている腰回りもほんのりと温かかった。時折義勇の背中に遠慮がちにもたれかかるのも、小動物に懐かれているようで心地がいい。初めはガチガチに緊張していた小柄な身体は目的地に到着する頃にはそこそこ慣れたのか大分柔らかくなったようで、降りるときはすんなりと危なげなく着地していた。元々運動神経がいいのかもしれない。
「ここ、ソフトクリームも美味しいんですけど、ジェラートもあるんです。味もたくさんあって、見た目も華やかなんですよね」
「そうなのか」
「はい! どっちもお勧めですよ」
 他愛ない会話をしながら、夕焼け色の瞳がこちらを見上げてきた。にこにこと嬉しそうに笑っていて、釣られて義勇の口元も仄かに緩んだ。炭治郎が笑っていると気分がいい。内臓がふわふわする。それでいて肋骨の一番奥側がじわりと疼く。それは溶けた砂糖を一滴だけ水面に落としたように、痛いと思った瞬間にさらりと溶けて消えて行った。残ったのは、捉えどころのない奇妙な甘さだけだ。身体の中はふわふわしたままで、今の痛みが錯覚なのかなんなのかよくわからなくなってくる。己の感覚に疑問を持ちながらも、炭治郎が楽しそうならそれで良しと結論付けて、義勇はおとなしく歩を進めた。
 牧場の広い敷地は半分以上牧草地帯だった。木製の柵で区切られ、ちらほらと乳牛が塊になっている。見える範囲の建造物は今のところ牛舎とサイロしかない。入口から売店までは結構な距離があるようだ。明らかに集客を目的としていない配置である。現に今ここを歩いているのも炭治郎と義勇だけ。客はおろか、従業員らしき人影すらない。いるのは静かに草を咀嚼する牛のみであった。
 牧場内をよく知っているのか、炭治郎は迷いなくすたすたと歩いていく。義勇の袖を指先で掴んだまま。視線を落とせば、布地に小さく皺を寄せている桜色の爪が柔らかそうで温かそうで、衝動的に深く考える間もなく口からほろりと言葉がまろび出ていた。
「炭治郎」
「はい」
「俺の袖を掴むのなら、もういっそのこと手をつないだ方が早くないか」
「はい。……はい?」
 ひた、と炭治郎の足が止まる。袖を引かれていた義勇もまた同時に止まった。
 牧場の真っ只中。柵の向こう、緑の絨毯の上で眠たげな牛が数頭見守る中、互いの視線が磁石のように嚙み合った。青空の下、夕焼け色が真ん丸になって義勇を凝視し、じわじわと柔らかそうな頬に血の気が上がり薄紅に染まり、握られていた布地から桜色がゆっくりと花のように開いて離れた。
 急に、手首の辺りが涼しくなる。
「あ、えと、すみません……
「いや、別に構わないし、ほら」
 左手で、炭治郎の右手を捕まえる。さっきまで袖を掴んでいた指先は、想像通りに柔らかく温かかった。桜貝のような爪は滑らかで、つるつるしていて手触りがいい。その爪先を親指の腹で撫でながら記憶を辿り、昔姉がそうしてくれたように手のひらを合わせるやり方で手をつないでみた。
……意外にしっくりくる)
 炭治郎の手は、驚くほど左手に馴染んだ。握り心地がとてもいい。ずっと握っていたくなる。細い指の骨の感触が、何か庇護欲のようなものを掻き立ててくるような気がする。
 また、疼く。肋骨ばかりか、胸椎の奥まで。先程と同じように痛みは一瞬で四散し、しかし奇妙な甘さはそのまま残り、左手の先にまで伝い落ちてようやく消えた。まるで触れ合った皮膚と皮膚の隙間に吸い込まれるかのようだった。
 衝動のままそっと左手に力を籠めると、炭治郎の手も戸惑いながら義勇をゆるりと握り返してくる。そこで初めて嫌がられてはいないらしいと思い至り、今更ながらに小さく安堵の溜息を吐いた。
「この方がいい」
……そうです、か?」
「うん」
「へ、変じゃないですか?」
「なんで?」
 こんなにもしっくりと馴染んでいるのに、変なことがあるだろうか。
 首を傾げているうちに、炭治郎は義勇の手を握ったまま何故か深呼吸をし、それからこちらを見上げた。
「おれも、この方がいいです……嬉しいな」
 夕焼けの色が、義勇の目の前でみるみるうちにとろけていき、すうっと急激に喉が干上がった気がした。
 さっきまでの、楽しそうなにこにことした笑顔とは全く違う。ふうわりと匂いたつように甘く、綻ぶ桃色の唇には背筋が強張るほどの色が乗っていた。間違っても無邪気な子供のそれではない。丸い瞳は夕焼けの赤味を増し、ほんのりと潤んで、透明なシロップに浸かっている赤紅の果実のようにも見えてくる。
 明確に、胸郭の真ん中が疼いた。今度は一瞬で消えることなく、鼓動に合わせて痛みを増した。
……心臓が、痛い)
 何かが刺さっている。とても痛い。疼いて疼いて仕方がない。なのに途方もなく甘い。熱した砂糖で作った刃のようだ。心臓の中心に突き刺さり、肉を焦がして火傷のように疼かせながら、少しずつ溶けては身体中に滴り落ちていく。さっきまでふわふわと浮いていた内臓が一気に落ちた。落ちて、身体の内側に縫い留められて、その隙間をとろとろと怖いくらいの甘さが埋めていく。
 駄目だ。いけない。
 本能的に危機感を覚え、義勇はとろけた夕焼け色から無理矢理視線を引き剥がした。視界が急激に開け、だだっ広い牧草地帯が目に飛び込んでくる。どれほどまでに炭治郎の瞳ばかりを見ていたかを思い知らされて、地味に衝撃を受けた。
「義勇さんは、ジェラートお好きですか?」
 つい、と握った手を引かれる。炭治郎の明るい声が、楽しげに弾んでいる。誘引されるように視線を戻せば、先程までの色香が嘘のように霧散していた。
 炭治郎はにこにことこちらを見上げ、茜の瞳が星を散らしたようにキラキラして、とてもかわいい。
……とてもかわいい、子供だ)
 だから大丈夫だ。痛くはない。どこも何も痛くはない。気のせいだ。気のせいにさせてほしい。
……一つ聞きたいんだが」
「なんでしょう?」
「ジェラートとアイスの違いはなんだろう」
「あ、それは広義か狭義かで違ってきますね」
 己の意識を逸らすために発した質問に、急に炭治郎の口調が教師のようになり、流れるようなその言説に義勇は瞬きをした。
「広義で言えば、アイスクリームとジェラートって英語かイタリア語かの違いでしかないです。狭義の意味ではアイスクリーム類の分類も関わってくるんですけど、一口で言うと『含有乳脂肪分が五から十パーセント程度の凍ったお菓子』がジェラートになります。ラクトアイスやアイスミルクの範囲に入りますね」
「随分詳しいな」
「はい! 勉強してるんです」
 歩きながら、胸を張る様が得意そうだ。同時にきゅっと手を握られて、また痛みそうになる心臓を、知らぬふりをしてやり過ごす。
 何か、過酷な戦いの気配を感じる。そう、自分自身との戦いだ。恐らく戦線の維持は非常に難しい。早急に対策を考えた方がいいだろう。なにしろ、かわいすぎる。炭治郎がいちいち常にかわいすぎる。下手をすれば一気呵成にやられてしまう可能性が高い。それは大変によろしくない。
 手は放すべきだ。もう半歩、離れるべきだ。適切な距離を保たなければならない。
 頭の中ではそう判断しているはずなのに、左手は炭治郎の右手を放したがらず、視線は夕焼け色を追ってしまう。
 ままならない。身体の方が脳の指令を無視する。それが何故かなど、どんなにわからないふりをしたところで、最早無駄な足掻きだった。
「義勇さん、もし乗馬もするなら、売店で申し込みできますよ。しますか?」
 行く道の先に牛舎ではない丸太小屋が近付いてきた頃、炭治郎が期待に満ち満ちた様子で問いかけてくる。「うん」と答えながら、義勇は自分自身を心中でギリギリと戒めた。
 あんまりそういう、かわいい顔をしないでほしい。そうでないと最終防衛線を易々と超えられてしまう。
 白旗を揚げたがっている本心を理性で力任せに押さえつけ、義勇は炭治郎に連れられるまま彩鮮やかなガラスケースの前に立った。

 義勇が選んだ夕焼け色の氷菓は、口に含むとゆるりと溶けて灼けた砂糖の刃を伝い落ち、魂の内側を愛しさでいっぱいに満たしていった。