木綿子
2021-10-23 21:41:24
4919文字
Public 👹(こい紅)(義炭)
 

#2

バイク便配達員の義勇さんと、パン屋さんの炭治郎のお話です。
義炭です。
#1 https://privatter.me/page/65937b39f3d9c
#3 https://privatter.me/page/65937b3a02da7

 一目惚れをした。
 炭治郎はいつものように仕事をしながら、つい先日出会った人のことを思い出した。もう何度も、こうやって思い出している。姿と、声と、匂いを。
 その人に出会うまで、一目惚れなどと言うものは現実に起こるはずがないと、炭治郎は思っていた。人を好きになるということは、外見だけでなく内面こそが大切なのだ。見た目だけで好きになるだなんてそんなことはあり得ない。そもそもその人に失礼じゃないのか。そう、思っていた。なのにまさか、自分自身が一目惚れ経験者になるだなんて、青天の霹靂にも程がある。
 大雨の日だった。
 朝、店に到着してからにわかに雨脚が強まり、ゲリラ豪雨と見紛うような降りっぷりだった。仕込みをしながら「今って夏だったっけ?」と真剣に考えたくらいだ。
 そこまでは、いつもと同じ朝だった。寝かせてあった生地を捏ね、種類別に形を整え、次々に焼いていく。難しいのはデニッシュ系で、店を手伝うようになってから父に厳しく仕込まれた。ちょっとでも間違うと上手く層が作れないから、この時ばかりは周りの音が聞こえなくなるくらい集中して作業をしなければならない。
 だから、その人がいつから店の前にいたのか、炭治郎は知らない。
 作業がひと段落して、特に何があったわけでもなく、ふと顔を上げて何気なく窓を見たら既にいた。厨房から一直線に見える、表に面した大きな窓の外に。
 最初に目についたのは暗い中でも鮮やかな黄色の服だ。炭治郎でも知っている会社名が印刷されていて、一目で配送業者の人だとわかった。次いで、やたらと姿勢がよくすらりとした体躯。後ろ姿だけでもその人の格好良さが分かるくらいだった。髪がやや長く、首の後ろで無造作に括られていた。すぐ近くには、ヘルメットが引っ掛けられたバイクがあった。
 車でも外出を少し考えてしまうくらいの雨だ。バイクでは尚更だろう。この辺りにはここくらいしか店もなく雨宿りするにも選択肢はないし、それは全然構わない。でもこの日の寒さが炭治郎には気になった。
 雨が弱まるまで外にいたら、風邪をひいてしまうかもしれない。
 普通に、親切心で、そう思った。
 その時までは。
……息が、止まるかと思った)
 人の顔からひと時も視線を外せなくなったことなど、生まれて初めてだった。思い出しただけで、ぎゅっと胸の奥底が痛くなるほどときめく。
 ドアを開けて声をかけた瞬間、きれいなきれいな深い青色の目が、炭治郎の両目を捉えていた。静かな凪いだ海のような青色で、吸い込まれてしまいそうだった。
 きれいなのは目だけではない。顔の造作そのものが、どうして配送業者という職を選んだのかわからないほど整っていた。見目のいいアイドルや俳優とはまた違う、どちらかと言うと美術館に収蔵されている彫刻のような、そういう整い方だ。絵画から抜け出してきた、と言ってもいい。後になってから妹に「お兄ちゃん、そういうのは『顔が二次元』って言うんだよ」といらない知識を授けられたが、確かに言い得て妙だった。
 どのくらい見つめていたのかは、覚えていない。そろそろパンが焼きあがる頃の匂いがして、やっと我に返った時に何故かその人の袖を掴んでしまっていて、もう何を言ったらいいのか全然わからくなって、記憶があやふやだ。一応「中にどうぞ」くらいは言えていたらしいく、わたわたと整えた席に若干戸惑いながらも座ってくれたことは覚えている。
……かっこよかったな……
 もう何から何までとてもよかった。
 驚くほど整っている姿形はもとより、ひんやりと冷たい耳触りのくせに響きが優しい声も、それから袖を掴んだ瞬間に香った晴れた雪原に似た澄んだ匂いも。思い出すとうっとりとしてしまう。ずっと近くで見ていたいし、聴いていたいし、嗅いでいたい。どんな人なのかもっともっと知りたい。
……本当、どうして名前訊かなかったんだろ、おれ)
 一番の失敗は、あの日名前を訊かなかったことだった。小雨が降る中大通りへ向かうバイクの背中を見送って店に戻り、夢見心地のまま焼き上がったパンを取り出しながらはたとその事実に気付き、それはもう地面に沈み込むほど落ち込んだ。だから未だにあの美しい雨宿りの人は、炭治郎の中で名無しのままである。せめて名前くらいは知りたかった。
 別れ際、「また来る」とは言ってくれた。しかしそれはいつかはわからない。炭治郎は普通の短大生であり、平日の日中は店にはいないし、土日も四六時中いるわけではない。朝を炭治郎一人で担っている分、他の時間帯はだいたい母と年かさの弟妹とパートさんで回してくれているのだ。
 もう来てくれたのかもしれないし、来ていないのかもしれない。でも、会えないのならどちらでも同じことだ。もうあれから二ヶ月が経過した。その間ずっと、毎朝毎朝作業をしながら窓の外を確認する習慣が出来上がり、すっかり身に付いてしまっている。
 彼が来るはずもないのに。
 炭治郎は「普通に買いに来てほしい」とお願いし、あの人は「わかった」と答えた。それはつまり、開店している時間帯に来る、という意味だ。こんな朝早くに来るわけがない。それなのに、わかっているのに、見てしまう。気にしてしまう。
 そして、またいつの間にかそこに立っていてくれないかとあり得ない期待をして、勝手に落胆するのだ。
 今日も店に来てから何度窓を見たかわからない。真っ暗な窓の外にはいつも誰もおらず、そのたびに「こんな時間に来るわけがないのだからいなくて当たり前だ」と自分に言い聞かせた。そうでもしないと手元が狂いそうになる。パンを焼くのは仕事だ。仕事である以上、余所事を考えて失敗するなど言語道断である。
(もう窓は見ない。絶対に見ない)
 そう心に決めて唇を引き結び、炭治郎はまたいつもの作業に戻った。パン屋の朝はやることが多い。母が出勤してくる八時までに、諸々の食材を準備しておきたい。「パンだけ焼いておいてくれればいいんだからね」と言われてはいるものの、焼成している合間の時間がもったいないと思ってしまう性分なのだ。半分くらいは母も諦めていることだろう。
 そうやって邪念を追い払い無心に作業をして、どのくらい経過しただろうか。ひと段落したところで息を吐いて、顔を上げて、掃除でもするかと厨房から店内を振り返り、視界に飛び込んできた窓に視線が釘付けになった。
 窓の外に、人がいる。
 こちらに背を向けて、あの日と同じように、空を見ている。
 炭治郎がそうあってほしいと願ったとおりに。
 凛とした後ろ姿は、今日は配送業者の制服ではない。暗色系で、暗さに輪郭が溶け込んでしまう色合いだ。窓は見ないと決意したばっかりに、いつからいたのかさっぱりわからない。
……夢、とか?)
 あまりに会いたいと願ったせいで、都合のいい幻覚を見ているのだろうか。とても現実とは思えなくて、目を逸らした瞬間に消えてしまいそうで、炭治郎はじっと窓の外の人影を凝視しながら恐る恐る店の入り口に近付いた。
 鍵を外し、扉を開ける。
 ちりんちりんとドアベルが鳴る。
……おはよう」
 きれいな低い声が、そう言った。
 真冬の朝。夜明け前の空はまだうっすらとした明るさしかなく、周りの全てを青に染め上げている。まるで透明な水底にいるようだった。その青い世界の中でも尚深い色合いの両の瞳が、炭治郎を捉えてほんのりと微笑み、まとわりつくパンの匂いの隙間を雪の匂いが通り過ぎていく。
「お、おはようございます」
 瞬きを何度もして、炭治郎はその人を見上げた。黒いパーカーに、鼠色に見えるデニムパンツと編み上げブーツを履いている。傍らにあるバイクは以前と違う形だ。滑らかな流線型は藍染の色で空に映る暁光を鈍く弾き、恐ろしいほど持ち主に似合っていた。似合いすぎていて逆に現実感が乏しい。まるで雑誌に載っているモデルのスナップのようだ。なるほど顔が二次元とはこういうことなのだな、と脳の片隅で何故か冷静に納得してしまった。
 それにしても、彼はどうしてこんな時間にここへ来たのだろう。空は暗いけれど、快晴だ。
「今日は雨、降ってませんけど……雨宿りですか?」
 頭の中に浮かんだ疑問のせいで、妙なことを口走ってしまった。何を言ってるんだおれはと焦る炭治郎の目の前で、非現実的な人は真面目な顔をして少し首を傾げた。
「この時間になら、いると思ったから」
「おれがですか?」
「そうだ」
 じっと青色が炭治郎を見る。深く深く澄んで、さざ波一つない水面のようだ。吸い込まれそうになる。決して派手ではないのに長い睫毛が何事かを思案するように何度か上下した。
「昼間は店にいないんだな」
「お店に来てくれてたんですか?」
「うん。何回か買いに来た。時間帯を変えてはみたが、いつもいなかったから」
「え、すみません、普段の昼間はおれ学校で……
 あわあわと炭治郎が口にした謝罪に、彼はほんのりと優しげに青色を細めて「うん」と頷いた。
「そうだろうと思った。だから、この間と同じくらいの時間に来てみた。普通に買いに来た訳じゃないが、顔を合わせなければ約束を果たしたとは言えないだろう?」
 約束。
 確かに、「普通に買いに来てほしい」とは言った。「待ってます」とも言った。そんな口約束のようなものを、律儀に果たしに来たと言う。
(どうしよう、どうしよう、どうしよう……!)
 頭の中が「どうしよう」だけでぐるぐるする。心臓が次第に主張し始めて、どくどくする脈動が骨にまで響いてきて、だんだん訳がわからなくなってくる。
「あの、あの、店は九時開店で」
「知ってる」
「すみません、母が来るまでは店にいなくちゃいけなくて、だから、」
「そうか。長居はしない」
「そうじゃなくて、違うんですそうじゃなくて、おれが朝ごはんなので、食べませんか。朝ごはん」
 本格的に自分の言っていることがわからなくなってきた。日本語がおかしい。まるで自分が朝ごはんそののもで、食べてほしいと言っているようなものだ。支離滅裂である。
 案の定、きれいな人も先程とは反対方向に首を傾げている。周囲に疑問符が浮かんでいるのが目に見えるようだ。なんと弁明するべきかもわからなくなり慌てるばかりの炭治郎の目の前で、彼は何事かを得心したように「わかった」と頷いた。
「どこで食べるんだ?」
「店で。おれが朝ごはんなので、今ならなんと焼き立てパンです」
 またおかしな言語になってしまった。口にしている最中で「おれが朝ごはんってなんなんだ焼き立てパンってなんなんだ」と思っているのに、出てくる言葉は止められない。言語中枢が完全に潰走した。狼狽極まっている炭治郎を見て何をどう思ったのか、彼の人が小さく声を上げて笑った。怜悧な目元が雪解けのように和らいで、それが得も言われぬ美しさで、炭治郎の言語中枢は益々の被害を受けて壊滅する。もう何を言ってもおかしくなりそうで、まともに言葉が出なくなった。
「焼き立てパンか。それはいいな」
……はい」
「うん。お相伴に与ろう」
「えっ……はい! あの、じゃあ、どうぞ」
 赤い扉を大きく開ける。昇り始めた太陽の柔らかい光が店内の床を淡く照らし、細長い人影が二つ出来上がった。すぐ近くにある雪原の匂いを吸い込み、炭治郎は振り返って彼を見上げた。
「おれ、竈門炭治郎っていいます。お名前をお聞きしてもよろしゅうございますか」
 炭治郎の日本語はおかしな言い回しになったままだ。けれど構ってはいられない。これだけは必ず聞いておかなければ。
 また笑われるだろうか。笑ってくれてもいい。笑顔もものすごくきれいだから。
 そんな炭治郎の思惑とは裏腹に、雨宿りの人は生真面目な顔をして、こちらを見下ろした。すい、炭治郎より一回り大きな手が、開けた扉の上の方を押さえる。

 「冨岡義勇」
 その声音は、頭上でちりんと鳴るドアベルの何倍も澄んでいて、炭治郎は耳から溺れて苦しくなり、痛む胸をぎゅうと押さえた。