獅子は黒百合を噛み千切るだろう

うちよそオスラッテ、ちょっと病み気味なオスラに思うところがあるオスッテが未知の土地に迷い込む話



 眼前に広がるのは黒の空気と灰の雲に塗りつぶされた宙、冷たい水とじゃりじゃりと細かな粒が刺さるような感触が背中に浸食してきて気分が悪い。ふと目を開ければ、俺は何処とも分からない夜の砂浜にあお向けで倒れていた。
……何、で。ここ……は、一体?」
 意識が覚醒してからすぐに起き上がり、自分自身と周囲の状況を確認する。倒れていた砂浜から陸地側にはシェルダレー諸島でよく見られる熱帯の木々や植物が並び、一定のリズムでさざ波を鳴らす海は雲と交わる様に灰色の濃い霧に覆われて水平線が分からない。シェルダレー諸島と霧の海……ふと、以前まで冒険者の中で話題になっていた海賊王「霧髭」の隠し財宝伝説の島、ハルブレーカー・アイルの事を思い出していた。しかし、ハルブレーカー・アイルはある有名な冒険者が発見した後に、現在は黒渦団の訓練施設として運用されていると聞く。少なくとも見渡せる範囲には建物や人の気配が何もないことから、その島にやってきたということは考えられなかった。
 それに、そもそも俺はこのような場所に来る予定は全くなかった。思い出せる限りでの最後の記憶は、どこかの港町を歩いていたところだった。穏やかな陽気の中で日の光に煌めく海を見ていたところで……そこからプツンと記憶が途切れ、気が付けばこうして知らない砂浜に倒れていたのだ。
「どうなって……
 服装はギャザラーとして行動する時の動きやすさを重視した装備だった。しかし海水をたっぷりと吸ってしまったからか異常なほどにに重く冷たくなってしまっている。このまま着続けていれば、身体を冷やし体調が悪化するだろうと予想が出来た。
「すぐにここから出ないと」
 そう考えてすぐにテレポを唱えるが、しかし術が発動する気配がない。自分自身のエーテルに異常があるような感覚はなく、発動させる前にパチンと何かに弾かれて術が消えてしまう。それならといつも肌身離さず持っているエターナルリングの力を借りてパートナーの元へ飛ぼうとするが、やはり同じように弾かれてしまった。リンクパールを使って連絡をとれるかも試してみたが、耳の中をかき乱すような不快なノイズが聞こえてくるだけだった。
「くそ、これはまずいな」
 テレポが使えない、連絡もとれないとなれば、あとは目の前の海から出るしかないだろう。しかし現在の天候は星も水平線も見えない程の濃霧、そして時間帯はおそらく夜だろう。このまま無策で海に出ても生きて帰れる可能性は限りなく低い。まずは朝になって周りが明るくなるまで待つべきだ。速やかに安全に身を置ける場所を見つけ、冷えてしまった身体や服を暖めるために火をおこして、外部との連絡もしくは脱出手段を考えなくてはならない。やるべきことを脳内でリストアップすると、重くなってしまった上着を脱いでから行動を開始した。



 この島は、どうもおかしい。そう確信してからどれくらい経ったのだろうか。
 倒れていた場所の近くを歩けばそびえ立つ岸壁に僅かな洞穴を見つけ、ひとまずは仮の拠点としてこの場所を使わせてもらうことにした。出来る限り乾いた木材や石を探して集め、それらで簡単に焚き火の土台を組み上げて火を起こそうとした。しかしいくら木をすり合わせても、石を叩いても、煙も火花も一向に上がらない。濃霧のせいで空気中の湿気に邪魔されているのかと仮定してみたものの、それにしてはあまりにも空気が冷たすぎるような気がする。濡れてしまった服も乾く気配はなく、試しに脱いで絞ってみても延々と水が溢れてくる。更に溢れた水が地面に落ちても色を変えることはなく、まるで触れる前に空気中に消えてしまっているかのように見えた。
 いや、そもそも砂浜からこの洞穴まで歩いてきて振り返ってみれば、砂に自分の足跡が付いていなかった。波のリズムはいつまでも変わらず、同じタイミング同じ場所で白い飛沫を上げている。星を探すために見上げてみれば、雲は目が覚めた時と変わらない位置で宙を覆っている。こうして風も吹かず止まり続けている限り、夜が明けることもない。一度違和感を覚えてしまえば、周囲のありとあらゆる状況が変わっていないことに気が付いてしまったのだ。
……まだ、ダメか」
 あれから何十回もテレポを試みた。リンクパールも耳が痛くなりそうなほど鳴らした。けれど、何も反応しなかった。ノイズの先に誰かの声が聞こえることを願っていたが、結局何も拾うことは出来なかった。服は相変わらず乾くことなく、空気も冷たいまま。周囲は変わることはないが、自分自身の身体や毛は湿気によってじっとり貼り付くように濡れて、寒さによって体力を削られていることはじわじわと伝わってきていた。暖を取る手段が使えない以上、休むために寝ることはリスクが高すぎる。この場所で再び意識を手放すことがどれだけの危険になるのかも分からない。ここに来るまでにギャザラー用の道具はおそらく海に流されてしまったようで、他に手持ちに戦闘に使えそうなまともな物はない。そして、これ以上時間をかけてしまえば栄養失調や脱水の危険も高くなる。だからといって得体の知れないこの場所の食べ物や水を摂取することが必ずしも安全とも限らない。ありとあらゆる危険性を想定しても、結局のところは早くここから出るべきだろう。
「魔法を発動させることが出来ないのは、ここまで使い過ぎて俺のエーテルが足りないから……? いや、テレポはやり方が分かりさえすれば地脈を始めとした環境の中にあるエーテルで発動を補助することも出来るはずだし、そもそもこれだけ自然豊かな所で環境エーテルが足りないというのもおかしい。ならば、やはり何かに阻害されているとしか……
 体内のエーテルを流し込むイメージを持ちながらエターナルリングを光らせてみようとすると、僅かに白い宝石が明るく灯るが、やがて蝋燭の火を吹き消すかのように霧散してしまう。けれどこの指輪はまだ、使えなくなったわけではない。外との繋がりが完全に途切れないことを願いながら、小さく震え始めた身体を必死に抑え込んだ。



 油断すると、すぐに意識が落ちそうになる。自分が眠りの淵にいることに気が付くとすぐに頭を振り、頬を両手で叩く。指先の感覚が麻痺し、氷のような手の平の感触と脳が震える刺激を頼りに何とか自分自身を覚醒させる。
 あれから状況も風景も変わらない。時間の概念が分からない。周りは何も変わっていないが、自分は空腹と眠気と寒さによる体力低下によってかなり弱っていた。既に気絶のような意識の断絶が何度かあったため、ここにどのくらい滞在しているのか把握することは出来なくなった。百回近く試したテレポも結果は同じ、ただ体内のエーテルが削られていくだけ。これ以上テレポを行うにはエーテルが持たないと判断して、今はもう洞穴から出ることはなく、まだ微かに光らせることが出来るエターナルリングを握りしめながら身体を丸めて座り込んでいる。想定していた以上に自分自身の限界が早くなりそうだ。腹をくくってこの場所の物を摂取するか……いや、ほとんど手足の感覚が分からない中で、今はもはや外に出ること自体が難しい。
 悔しいが、もう、あとは、彼に見つけてもらうしかない。
 ああ、確かあの雪原にいた時は操られて自分が制御できなくて、誰も傷つけたくないから見つけてくれるなよと願っていたのに、今回は逆になってしまったな。自分からこの手の中にある彼との繋がりを断っていたのもあるが、でも、今度こそ。
「ああ……ツマラナイな」
 再び身体が耐え切れず意識が闇に引っ張られていく中で、聞き覚えのない誰かの声がした。



 何かが砂を踏みしめる音がする。
 轟々と吹き荒れる冷たい風が洞穴に入り込む。
 ちがう、これはいつもと違う。何かが起こってる。どうなってるんだ。目を開けなきゃ。
 暗闇から意識を無理矢理持ち上げる。重い瞼をやっと開ければ、洞穴の先に広がっていたのは大量の横殴りの雨粒が地面を叩きつける豪雨によって海と砂浜の境界線が分からなくなり、全てが水浸しになった世界だった。
「あ、め……、なら、ここにいたら、だめだ」
 このまま増水する洞穴に残っていたら、出入口を塞がれてしまう。芯まで凍り付いたかのような身体に鞭打ってなんとか立ち上がり、壁を伝い支えとしてゆっくりと歩いて外に出る。砂浜だった所は既にくるぶしの高さまで水位が上がっている。これ以上海岸沿いにはいられない。力を振り絞ってなんとか陸地側へと移動する。どこか高い場所はないかと思い宙を見上げてみたが、雲は更に厚く宙を覆っている。結局顔に突き刺すように雨粒が当たるだけだった。
 暴風に耐えられなかった木々同士がぶつかり、折れてズシンと音を立てて地面に横たわる。倒木が滑り落ちてこちらに向かってきたとしても、避けることもできないだろう。地面に生えていたであろう草花は流され、ほぼ全てが土の色に染まり沈んでいる。
「はぁ……っ」
 さて、何処へ行けばいいのだろう。ずっと寒くて、冷たくて、疲れ切っていたはずなのに。それすら感じることが出来なくなって、ただ無意識に足が動いている。こんな知らない場所で、そこに何があるかなんてお構いなしで、目的も何もなくて、自分がこれからどうなるかも気にしないで、ただ歩いている。
……っ」
 微かに記憶がある。衝動が抑えきれなくなって、自分がどうにもできなくなって、氷に覆われた洞窟から出てしまった時のこと。心身が弱りきったまま雪原をトボトボと歩く人間は、魔物たちにとっては簡単に手に入るご馳走に見えたのだろう。低く唸り声をあげるシルバーウルフが目の前にいて、それを俺が、邪魔だったから、斬って、それから、声をかけられた。
「やっと、デテキタ。コモッテ、ばかりで、ツマラなかったヤツ」
 あの時の声は男性だった。でも、この声は老齢の女性のような、しわかれたような声。
「ジットしてバカリ。デモ、とてもヨワッテル。コレならモウスグ、タベレル。まちクタビレタ」
 進行方向、目の前に小さな人型の何かがいる。くすんだ黄色いヘルメット、赤く点滅する二つの目、ボロボロになった金属製の作業着、小さな傷が沢山付いている短い手足。たまにリムサ・ロミンサの港で北洋からの荷物を運ぶのを手伝っていたり、それらの船に乗ってやってきたいかにも賢そうな風貌の人が連れ歩いているのを見たことがある。ウルダハの彫金師ギルドなどにも同じような物はあるが、煌びやかな見た目よりも機能性を重視しているであろうこれは明らかにウルダハで作られたものではない。
……シャーレアンの、魔法、人形」
「ホウ。オマエには、マダ、ニンギョウにミえているノカ」
 目の点滅が止まり、じっとこちらを見上げている。ボディについた傷から黒い靄が溢れ始めて、魔法人形全体をゆっくりと覆い隠す。
「フム……、ならば、オマエに最もフカク刻まれた姿になろうか」
 靄が大きく膨れ上がり、こちらの身長を越えてからピタリと止まる。人型に生成された靄から黒い角が二本生え、尖った尻尾も伸びてくる。見慣れた誰かのような黒い者は、大きな手をこちらに伸ばしてくる。
「さあ、こっちに」
 聞き慣れたはずの彼の声に、頭痛を引き起こしそうなほど酷いノイズが混じる。こいつは、ちがう。
「手を取って」
 やめろ、その声で俺を呼ぶな。
「俺のために死んでくれ」
 まるで俺に執着するあいつが言いそうだなと、俺が思い込んでいるからって。
「俺が生きるために、そのエーテルをよこせ」
 声に思考を奪われかけて、雨の音も波の音ももう聞こえない。荒れ果てた地面も変わらなかった曇天も認識できない。

 いや、そもそもここは元々どんな場所だったんだ?

 あの日、この島に来た時はこんなに荒れた天気じゃなかった。本物のあいつとここにきていて、それにここに来た時に俺はギャザラーではなくて、ナイトだったはずなんだ。
 それでこの砂浜で依頼されていたものを発見して、あの人形もあって、そこから妖異が出てきて、彼と二人で倒して、状況証拠のために人形の残骸を運んできて……

 残骸から流れ込んだエーテルが、胸の中に沁み込み黒い魔力が渦巻く。
 微かに蠢く意思が、俺を喰うために意識を奪おうとした。

 ああ、そうか、思い出した、やっと理解した。
 ここがどこなのか、現実の俺がどうなっているのかを……

……お前は、ディルじゃない」
 はっきりと状況を理解できたことで、感覚が分からなかったはずの身体に血が通うように体温が戻ってくる。水に濡れて冷たく重くなっていた服が乾き始め、見慣れた白い鎧に変化する。ずっと握りしめていたエターナルリングが輝き、周りの風景を白く消し去るように光を放つ。この空間の主導権が、あるべき者の手に戻ってくる。
「な、ナニを、する、つもりダ……!?」
「ここは、本来寝ているであろう俺の夢の中の空間だろう? あの時倒した仕返しで俺を乗っ取ろうとしたのかは知らないが、よくもこんなことをしやがったな」
 エターナルリングは光を放ちながら性質を変え、やがて白い片手剣が目の前に生成された。その剣を迷いなく手に取り構えると、強い光によって彼の輪郭を保てなくなったであろう黒い靄がたじろぐ。
「消えろ、あの時の妖異」
 切っ先に込めた光が強くなっていく。彼が俺を呼ぶ声が微かに聞こえてくる。
「やめ、ロ、せっかく、カイホウ、サレタ、ノニ……!」
 俺は容赦なく目の前の靄を斬り払った。奴はか細い断末魔を最後に消え去り、僅かに耳の奥に残っていたノイズも止まった。あとは何もない白い空間に俺が一人残されただけ、なら、もうやることは一つだけだ。
「俺が命をかけるにふさわしい人物に、ちゃんと会いに行かないと」
 目を閉じて呼びかける声に応じるように、テレポを唱えてみる。ふわりと身体が浮き上がって、意識がゆっくりと上へと引き上げられていった。