ナガレ
2022-10-12 21:18:38
15307文字
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たえて花香のなかりせば(ぶぜまつ)※サンプル

2022/12/11 Dozen Rose Fes .2022「Be with Me!!」で頒布予定の小説本のサンプル。政府所属の豊前・ミーツ・とある本丸の松井の話で、ふたりの縁が誠となるまで。自分比しっとり系を目指しました。雰囲気を楽しんでください。

・よしや男と牡丹芍薬百合の花

 目の前の大きなからくり盤に目的地の座標を入れる。針の留め金を外せば、カタカタと音を立てて長短の二本の針が大名時計の文字盤を模した板の上を回り、部屋全体がゆっくりと白い霧に包まれた。ぶぉんと足下から宙に浮き、天に引っ張られる感覚。その感覚に思わず目を閉じた。
 次に目を開ける時、辺りの景色は一変している事を知っている。そうでなければ大問題だ。足が地に着き目を開けると、そこは部屋の中ではなくてどこか屋外、静かな街道沿いだった。
 これは転送装置という摩訶不思議な道具の力。これを使えばどこへでもあっという間に移動できる。自分の足で歩くわけでも、馬に乗るわけでも、駕籠や車に乗る事もない。狐に化かされているのではないかと、鋼の体でまどろんでいた数百年の間に進んだ技術力に圧倒されていたのも今は昔。今はその恩恵にあずかり、戦場や本丸間の移動にありがたく使わせてもらっている。
 どこの本丸も、本丸の近くに転送されると思っていた。しかし今から赴く本丸は違うらしい。転送されたのは柳の木の前で、目の前の道は緩やかに曲がっていてその先を見通すことはできなかった。
 第一種甲XXX番本丸。そこは知る人ぞ知る、政府直属の特殊な任務に就いている本丸だ。同じ政府直属と言っても末端組織である第三種に所属している豊前江には、まるで雲の上のような本丸だった。そんな花形本丸にどうして自分が派遣されるのだろうかと思わなくもないが、手の空いていそうな者が自分しかいなかったとかそんな理由だろう。人の子である政府の職員もよく嘆いている。いつの世も人の子達は大変だ。
 そんな事をぼんやりと考えながら柳の木を背に、豊前は道沿いの俥宿や駕籠屋を横目に見ながら坂道を道沿いに歩いて行く。車や駕籠は人の子のためのもの。転送装置は柳の木の前にあるけれど、あれを使用できるのは刀剣男士だけだ。人の子がこの本丸を訪れるなら、街道を下った先の船着き場から歩く事になる。柳の木からでも多少は距離があるのだ。老年や壮年の人の子がこの道を徒歩で行くのは辛いだろう。豊前は自分の体力に少しだけ感謝した。
 弧を描く道の先に立派な門構えが見えてきた。門は開いており、その前に誰か立っていた。あの出で立ちは見た事がある。刀剣男士・歌仙兼定だ。歌仙は豊前の姿に気づくと軽く手を上げた。
「ようこそ。遠かっただろう?」
「いや。途中まで転送してもらえたから楽だったよ。柳の木があるだろ。あそこに出してもらえたけ」
「なるほど。それはよかった」
 豊前は歌仙にこちらへと先導され、門の中に足を踏み入れた。敷地の中には有事の際には詰所になる建物と厩があり、その向こうに二階建ての屋敷が建っている。敷地は広く、表からは見えない位置に小さな畑や蔵、道場もあるらしい。もちろん、手入れや鍛刀を行う場所も別棟であるのだとか。
「本来なら裏から通すんだけど、今日の君はまだお客様だからね」
 屋敷の玄関先の式台で靴を脱いでいると、横の小さな玄関から屋敷に入った歌仙にそう言われた。そう、今日の豊前はお客様だ。しかし明日からはお客様でなくなる。あくまで政府機関からの出向という立場だが、この本丸の一員になるのだ。今日はその挨拶のためにやって来たというわけである。
 屋敷の中、床には埃一つ無くて、柱も磨かれ艶が出ている。すべて自分達でやっているのかと歌仙に聞くと、まさかと返って来た。
「毎日の掃き掃除や雑巾がけ程度だよ」
……屋敷ん中、全部か?」
「僕たちは皆、勤勉だからね」
 含みを持った物言いに豊前の表情が一瞬引きつった。この本丸の人員はかろうじて二桁。決して多くない。屋敷の維持を担う者達を雇っているようにも見えなかった。朝から全振り総出で雑巾がけでもしているのかと思っている豊前が通されたのは、屋敷の中でも最も格の高い表座敷だった。
 床の間には掛け軸と今朝生けたばかりであろう瑞々しい花。あの障子から庭にでる事ができて、その先には茶室もある。きっとそうだ。こんな部屋に通されるだなんて、よほどの上客か身分の高い者しかいない。豊前のこめかみがひくりと動く。出された茶も菓子も初めて口にする上品な味わいだ。歌仙は「こんなものしかなくてすまない」と言っていたが、こんなもので片付けてはいけない。実は献上品と同じ物だと言われても納得してしまいそうだった。
 豊前は茶菓子を冷えた甘めの緑茶を飲み干すと、姿の見えないこの本丸の主について尋ねた。
「ところで、ここの審神者はどこに?」
「主ならいないよ」
「へ?」
 昨日今日の話ならまだしも、豊前の来訪は前から決まっていた。今日挨拶に行くという事も事前に連絡してあるのに一体どうして。
「主は何かと多忙な方でね。僕達もここしばらく姿を見ていないくらいなんだ。でも安心してほしい。この本丸における采配のほとんどは僕に任されているから、万事滞りなく進んでいる」
 総取締りとでも言えばいいのかなと言いながら、すっと居住まいを正した歌仙が豊前に向き合った。その雰囲気の変わりように、豊前も自然と背筋を正していた。
「第一種甲XXX番本丸、主人に代わって貴殿の来訪を歓迎する」
 手をつく位置、頭を下げる角度。その所作は美しく、そして完璧だった。兼定が一振り、歌仙兼定という最上業物の刀が大名家に居た事を差し引いても、だ。
 ――そうだ。ここはこういう本丸だ。時代遡行軍と戦うだけの本丸ではない。豊前は改めてこの本丸の立ち位置を思い出した。
 かつては自分もそれなりの家にいたわけだが、果たしてここまで完璧に行えるだろうか。おそらく無理だ。礼儀作法一式をもう一度叩き込んだところで、この域に達する事ができるとは到底思えない。明日からの我が身を豊前は憂いた。
「君は僕らと違うからここまでは求めないよ」
 よほど豊前が怯えた顔をしていたのだろう。歌仙はそう言った。
「早速この本丸の中を案内しようか」
「あ、あぁ……
 ぱっと歌仙の纏う雰囲気が切り替わる。この歌仙、自分の知っている刀剣男士の歌仙兼定とは随分違う。これが個体差というものなのか、それともこの本丸の特殊性の一端なのだろうか。試されている気がする。どこか居心地の悪さを感じながら豊前は歌仙に着いていった。
 まず案内されたのは屋敷の一階。一階には豊前の通された表座敷以外にも、大小いくつかの座敷があった。他にも西洋風の応接室、舞踏室、客人用の寝室などがあり、それら客をもてなすための部屋はどれも華やかで洗練されていた。
 廊下の途中には大きな屏風が行く手を遮るように置かれていた。屏風の向こうはいわゆる奥の間にあたる場所で、炊事場や風呂場といった私生活の場だ。区域を分けるこの屏風も月ごとに入れ替えているらしい。本丸の男士達が寝起きするための部屋は二階にあるとのことで、次に豊前は二階に案内された。
 屏風の向こう側に置かれた階段を上がった先の二階はとても静かで、一階に比べると地味だった。百振りを超す男士達が暮らす本丸も少なくないが、この本丸は少数精鋭だ。それに加えてこの本丸は夕方から夜にかけて主な活動時間になるので昼間は自室で休んでいる者も多く、時折部屋の中から微かな生活音が聞こえてくるぐらいである。豊前の知っている本丸とも、今いる政府機関ともまったく違った。
「そうだ。ここには君と縁のありそうな者もいる。この時間なら部屋にいるだろう」
 そう言うと、歌仙はある部屋の前で足を止めた。部屋の引き戸の横には、名札の代わりに紋がさりげなく掛けられている。――九曜と上下左右に組まれた笹の葉の紋だ。豊前は一瞬動きを止めた。
「松井江、いるかい? 僕だ」
――歌仙? 何か用事? 僕は作業中なのだけれど……
 名前を呼ばれて部屋の中から顔を出したのは、一人の刀剣男士だった。背は豊前と同じぐらいか、気持ち低く、髪は墨色で肌の色は卯の花のような白。白と緑色の内番着は豊前も同じような配色で似た形のものを支給されている。引き戸にかけられた指の先と同じ色をした青い瞳が豊前を見た。
「紹介しよう。正式には明日からだが、しばらくこの本丸に籍を置くことになった豊前江だ」
 歌仙の紹介に目の前の松井江の目が真ん丸に見開かれた。そんなにも開けたら青い望月が落っこちてしまうだろ。豊前はそんな事を思ってしまった。
……豊前江だ。明日からここで世話になる。同じ江の者としてもよろしくな」
 豊前は松井に明朗な笑みを向けた。しかし松井は動かない。もしかして何か悪い印象を与えてしまったのだろうか。この一瞬で? そんなまさか。うーんと豊前が内心で首を傾げていると、小さくかたんと木枠の歪む音がした。引き戸に掛けられた松井の指先に力が入っている。
「? どーした?」
「豊前江……そうか、あなたが……
 松井は唇を噛んで顔を伏せた。自分が知らないだけで、彼は豊前江に対して何か思うところがあるのだろうか。豊前は歌仙を見やったが、歌仙は微笑を浮かべながら見守っているだけだった。
「なぁ、でーじょうぶか?」
 困った豊前は松井に声を掛けた。松井がぱっと顔を上げた。てっきり虹彩の色は青一色だと思っていたが、こうやって見ると少し緑色も混じっているような気がする。花緑青のような青色だ。豊前に見られている事に気づいたのか、松井が視線を逸らした。
「す、すまない。何でもないんだ……
 じゃあ僕は作業に戻るからと、松井が部屋の戸を閉めようとした時だった。カンカンカンカンと半鐘を打ち鳴らすような警報音が響き渡り、どん! と何かがぶつかる大きな音がした。突然の衝撃音に、一体何事かと豊前は辺りを見回した。
「やれやれ、また来たのか」
 歌仙も松井もまったく動じていない。どうやら、この二振りには慣れっこの状況のようだ。説明を求めると顔に書いた豊前に向かって歌仙が教えてくれた。この本丸はたまに時間遡行軍の襲撃に遭うのだと。
 ……それは〝たまに〟で片づけていいものなのだろうか。本丸の存在するこの空間にはそうそう侵入できないはずだ。いくらこの本丸が不吉な方位に位置しており悪しきものに見つかりやすいとはいえ、襲撃されるだなんて。結界はどうした? 今すぐ政府のしかるべき部署に報告して対処をしてもらうべきだ。
「実は結界に綻びが生じているみたいでね。急いで修復するよう依頼はしているんだが、人手不足なのか遅々として進まない」
 時の政府は万年人手不足だ。付喪神でもある刀剣男士が職員として雇用されるのだから、本当に人手が足りていない。一般職員も足りていないのだから、結界を張る事のできる能力者はもっと足りていない。そのうち過去から高名な陰陽師や修験者を呼んでくるのではなかろうか。そんな事をしたら政府自ら歴史修正をする事になるので、流石にそこまではやらないとは思うが。
 仕方ないから対症療法で凌いでいるんだと、戦闘衣装に着替えて部屋から出てきた松井が続けた。松井の視線の先は、廊下の突き当たりにある明かり取りの窓の向こう。今にも雷が落ちてきそうな暗雲に向けられていた。
「松井江、今日の指揮は君に任せよう。堀川国広と乱藤四郎が暇をしているはずだ。三振りで足りなければ僕も加勢する」
「了解した。見た限りでは数は多くないだろうから、三振りでいけそうだ」
……俺も出る」
 豊前は腰に佩いた刀の柄に手を掛けた。いくらこの本丸が精鋭ばかりの本丸でも、三振りだけではあまりにも無勢だろう。一応自分も戦闘を主とする部門に所属している身で、決して練度も低くはない。戦力には十分なれる。足を引っ張るような羽目にはならないはずだ。
「お心遣い、ありがとう。でも大丈夫だ。僕達の戦い方を見せてあげる」
 今日の君はお客様だからと松井は付け足した。
「歌仙、指示を」
「指示も何も、いつもと同じく敵部隊の殲滅――それだけだ。それでも指示が必要だというのなら」
 一兵たりとも生かして帰すな。
 その言葉を受け、松井が飛ぶように出て行った。その後ろ姿を追いかけようとした豊前を歌仙は制した。今日の豊前はお客様。特等席に案内するのだ。
 ここからならよく見えると、歌仙は庭を見下ろす事のできる空き部屋に豊前を通した。豊前は通された部屋の窓から身を乗り出して外を見た。偵察は得意だ。松井はどこにいるかと探ってみれば、離れの切妻屋根の上に松井の姿があった。その隣で膝をついて敵方の動きを探っているのは乱藤四郎だろうか。
……撃ち方」
 松井がすっと手を横に伸ばすと、鉄砲兵の銃口が屋根の上ずらりと並んだ。小さな付喪神達を侮るなかれ。彼らの力は長篠の鉄砲隊にも引けを取らない。
 鉄砲兵も松井も動かなかった。機を窺っているのだ。暗雲に隠された敵軍の姿が露わになるその瞬間を。それを豊前は固唾を飲んで、歌仙は鷹揚に構えて見守っていた。
 撃て、と乱藤四郎の口が動いた。空を覆う暗雲の切れ目から姿を見せた敵軍に鉛玉が浴びせられ、急所を撃ち抜かれて地面に落ちていく。中にはまだ息のある者もいたが、結局は同じ事。その先に待っていたのは、いつの間にか硝煙に紛れて屋根の上から降りていた松井だった。
 長丈の緑色の外套が翻る姿はまるで西洋の舞踊の足運びで、豊前は松井から一瞬たりとも目が離せなかった。直刃の一閃と共に、敵が一体、また一体と、砂塵になって還っていく。中には松井の冷光な刃から逃れる事ができた敵もいたが、それらは横から音もなく現れた堀川国広によってとどめを刺されていった。
 脇差と打刀の二刀開眼は、豊前自身何度も経験している。しかしあんなにも流れるように連携が取れている二刀開眼は初めてだ。息を合わせる事なんてしない。互いが思うがままに動き、それでいて互いの動きをしっかり把握している。
『甲』は政府直属の本丸の中でも、戦闘を主とする部隊を指す。第一種と付くのはその中でも政府の中枢に近い、ほんの一握りの本丸だけだ。戦闘に秀でた部隊は他にもある。だが、この部隊の実力は群を抜いている。豊前は自分がとんでもないところに来てしまった事を、否応なしに実感させられた。
「怖気づいたかい?」
 無言で窓枠を握りしめている豊前が戦慄していると思ったのだろう。歌仙が豊前にそう問い掛けた。
……まさか」
 歌仙の問い掛けに豊前は否定を返した。松井が一体敵を屠るたびに心拍が早まり、口の中が渇いていく。今すぐあの中に飛び込んで、己も刀を振るいたい。爛々と輝く赤い瞳。豊前は眼下の戦に興奮していた。――案外彼はこの本丸に馴染むかもしれない。うずうずと体が疼き今にも走り出してしまいそうな豊前を見て、歌仙はそう感じた。
 結論から言うと、豊前と歌仙の加勢は必要無かった。半刻もしないうちに敵の姿はすべて消え、松井達は歌仙の指示――殲滅――の通り、本丸を急襲してきた敵を一体残らず塵に変えた。お疲れ~と軽い口調でお互いを労わり合い、乱と堀川はいなくなった。歌仙は彼らが暇をしているはずだと言っていたから、各々の部屋に戻っていったのだろう。松井はどうしたのだろうか。豊前が地面を見下ろすと、ひょいと屋根に乗ってそのまま空き部屋の窓から中に入ろうとする松井と頭をぶつけそうになった。……ここは二階だ。横着をしようとしたのが見つかった松井は、見つかってしまったとばつの悪い顔で静止した。
……今回は見なかったことにしよう」
 思わず刻まれてしまった眉間の皴を解しながら、歌仙は松井を見逃した。窓枠に腰を掛けて靴を脱ぐと、松井はこそこそと豊前を避けるように部屋の中に入って来た。
「すげーな」
 豊前がぽつりと呟いた。松井には一瞬何の事だかわからなかったが、すぐに先程の戦闘の事だと気づいた。わずかに口の端を上げ、どこか得意げな顔を豊前に向けた。
「そうだろう? 君に見せる事ができて良かったよ」
「そーだな。でも、お前……
 松井は上から下まで全身敵の返り血塗れになっている。落ちた血で畳を汚してしまわないか、見ているこちらがはらはらと心配になってしまうくらいだ。「あぁ、これかい? すべて返り血だから気にしないで」
「そういう問題じゃねーだろ」
 戦に身を置く以上、汚れも土埃も返り血も付き物だ。しかしこれはさすがにどうかと思う。自ら返り血を浴びに行ったみたいじゃないか。これが刀身の短い短刀なら理解できる。だが松井は打刀だ。懐深くまで飛び込む必要はないだろうに。とはいえ、松井の戦い方が間違いというわけでもない。あの場にはすぐ近くに堀川が、少し離れた所には乱もいたから松井が少々無茶な動きをしたところで何の問題も無い。無いのだが……
 豊前の所属している政府機関に松井江はいなかった。だから自分が知らないだけで、松井江はこういう戦い方を好む刀剣男士なのかもしれない。複雑な表情を浮かべる豊前に、松井は首を傾げるばかりだった。
 ――まぁ、いいや。そんな事より僕は作業に戻ろう。着替えるのも面倒なのでこのままでいい。松井は「じゃあ僕はこれで」と空き部屋を出て自室に戻ろうとしたが、それよりも先に開いたままの部屋の戸の向こうから、普段着に着替えた堀川が松井に声を掛けた。
「松井さん!」
 堀川のどこか咎めるような声色に、松井の肩がびくりと跳ねる。
「今からお洗濯するので、汚れものは出してくださいね」
 今すぐ。にっこり微笑んで無言で付け加えると、堀川は自身の汚れた戦闘衣装を持って階段を下りて行った。便宜上〝洗濯〟と言っているが、実際には浄化と修復だ。時間遡行軍の血――穢れで汚れてしまった戦闘衣装は清める必要がある。手入部屋に入れば自身の手入れと合わせて行う事ができるが、堀川も松井も無傷だった。
「逆らうと後が怖いのは知っているだろう。彼の言う通りにするように」
「わかってる」
 豊前はこの本丸における松井の立ち位置が何となく見えてきた。初期刀である歌仙が中心的な役割で、その右腕が堀川。松井もこの本丸では古株に見えるが、それでもこの二振りには敵わないのだろう。事実、先の堀川には松井に四の五の言わせない迫力があった。勝てない事を理解している松井は、少々むくれながら外套を脱いで防具を外した。そしてその流れで吊り金具を外し、黒い革素材のボトムスを脱ごうとしていた。
「ちょっと待て」
 白いシャツブラウスの裾が見えそうになり、豊前は慌てて松井を止めた。この場所には他の者もいるのだから、ここで脱ぐのはいかがなものか。豊前に止められた松井がきょとんと不思議そうな顔をする。何か問題でもあったのだろうかと言わんばかりのきょとん顔だった。
 己の知る刀剣男士・松井江は、汚れたからと言って人前で脱ぐような性格ではない。大胆だったりずぼらだったりするところもあるけれど、その辺りは弁えていたはずだ。一体この松井はどういう個体なんだ。豊前は目で歌仙に訴えた。しかし歌仙はゆっくりと頭を横に振るだけだった。まさか――
 顔を上げた歌仙と目が合った。
「松井のことは貴殿に任せた」

 汚れた衣装は脱衣所で脱いで洗濯に回し、君はそのまま湯浴みでもしてくるといい。歌仙の提案に頷いた松井を見送ると、豊前はこの本丸について改めて歌仙に教えてもらうことにした。
 政府中枢部の艮、北東の方角に位置するこの本丸は鬼門封じも兼ねている。元から敵の襲撃を受ける事はあったが、ここ最近その頻度が激増しているのだという。初めはさほど気にしていなかった歌仙達だったが、襲撃の数が両手の指の数に達しようかというところでこれはおかしいと思い調べた結果、結界の一部に綻びが生じている事がわかった。本丸を隠す結界に綻びが生じる話自体はたまにある。この本丸は鬼門という地理的な要因もあるのか、結界の綻びが不定期で大きくなる時がある。敵はその時を狙い澄ましてて襲撃してくるのだという。
 もちろん修復の要請は幾度も出しているが、能力者不足のあおりでなかなか順番が回ってこない。なかなか穴が塞がらないならどうするか。やって来た敵を倒すしかない。最初はお帰りいただくだけでいいのではとも考えたが、残党が情報を流した結果、次々に押し寄せてくる羽目になっては困る。ならばお帰りいただかないようにするしかない。そんなこんなで、この本丸はさらに武が求められるようになった。
「しかし、こんなにも強えーと俺の出る幕なんてなさそうっちゃ」
 豊前の所属は戦闘を主とする部隊だ。戦力としても期待できないのであれば、一体何のための出向なのだろうか。島流しという単語が脳裏を過ぎったが、人手不足で刀剣男士の手はおろか猫の手も借りたい政府が何の考えも無く閑職に追いやるとは思えない。
 もしかして、自分の過去が関係しているのだろうか。刀としての過去ではなく、刀剣男士として生を受けたばかりの頃の過去……というか、やらかしが。豊前の表情に苦いものが混じった。
「単なる下働き要員じゃないの? もしくは用心棒」
 汚れものを洗濯に回し、汗と埃も落とした松井が戻ってきた。豊前の苦い表情に気づいたのか気づいていないのか、松井はにべもなくそう宣った。
 下働き要員として派遣された。確かにそれも一理ある。それでいいのかと思わなくもないが、島流しよりはいい。豊前は己を納得させる事にした。
 戻って来た松井の湯上りで血色の良くなった肌から少し甘い香りがする。豊前の詮索を避けるように松井がつんと横を向いた。
 今のやりとりで松井が機嫌を損ねるような会話は無かったと思う。しかし横を向いたままの松井は少々機嫌が悪そうだ。怒っている感じではなさそうだが、何となくそう感じる。しかし豊前には心当たりが無い。それに、松井とは顔を合わせてからまだ一刻程度しか経っていない。
「本丸を案内する途中だったね。豊前江、行こうか」
「あ、あぁ……
 ほんの少しだけ、松井からは見えないように歌仙が苦笑した。
「松井、明日から彼が使う部屋を用意しておいてくれないか。案内が終わったら部屋に連れて行く」
「わかったよ。仕方ないな」
 洋室の空きはないから和室を用意すると豊前に告げると、豊前の返事を待たずに松井は二振りを追い越して階段を駆け下りて行った。
「どうやら浮かれているみたいだね」
「そうか? ンな風には見えねーけど」
 いや、あれはかなり浮かれているよ。――と、後ろでそんな会話が交わされている事に松井は気づかなかった。と言うよりも気づけなかったのだ。歌仙の言う通り、松井は浮かれていた。
 刀剣男士の松井江にとって豊前江は特別な存在だ。魂にその名前が刻まれている、僕の理解者。松井が刀剣男士の豊前江と顔を合わせた事は無い。でも、彼の顔を見た瞬間にそう理解した。理屈ではなくて感覚だ。
 彼の部屋はどこに用意するのがいいだろうか。すぐに使えそうな空き部屋はどこだろう。さっきの庭を見下ろす事のできる部屋はどうだろうか。平時は庭の景色を楽しめるし、自分の部屋も近いから丁度良い。生まれを同じくする江の者同士だから頼りやすいだろうし。
 部屋が決まれば次は調度品だ。彼は洋装が主だろうから、洋箪笥の方が使い勝手が良さそうだ。日用品を入れるための柳行李も一つ二つ用意しておこう。もしかしたら普段は和装を好む個体かもしれないから、衣桁もあった方がいいのかな。あと、使うかどうかわからないけれど、文机も一応。飾り棚も用意しようか。何か飾るかもしれないし。
 その前に、寝起きのための布団を用意しなければ。この間綿を打ち直したばかりの布団があったはずだ。確認はしていないけれど、この本丸で寝起きも共にするという事でよかっただろうか。この本丸は少々特殊な場所に建っているから、毎日通うのは大変だ。それならここで生活した方が良い。生活基盤は整っている。
 内番着の袖を捲り上げて、掃除道具一式を手にした松井。その顔にはどこか楽し気な色が浮かんでいた。

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