望月 鏡翠
2022-10-31 23:59:58
2082文字
Public リアタイ
 

2、それは深い緑色だった。

Rauiri Tadhg Cian/獣性イデア/ #獣性_B_彼は言葉を残さなかった


 その事件を覚えている人間は、この世にもう存在していない。
 当事者のローリーですら、無意識の世界に沈んでいた間の現実の出来事は知らないのだ。覚えていないのではなく、知らない。被害者遺族からすれば、それは卑怯な言い逃れに見えただろう。
 エクリプス・コンプレックスを盾にして、罪を誤魔化しているだけの人殺しだと糾弾された。その全てをローリーは受け入れ、飲み込んだ。
 受け入れると決め、連れて帰ると覚悟した。
 その衝動が犯した罪だからだ。
 だからこれは、現実世界には残っていない記録だ。
 いや、記憶だ。
 男が見たものは、赤だった。
 それはあまりにも赤く痛々しく、そして苦しそうだった。
 だから声を掛けずにはいられなかった。
 無意識世界に沈んで消えた意識が、持っていた光景だ。
 赤い。とにかく赤かった。
 髪の毛が特に燃えるように赤い。それだけでなく頭の先からジャケットの上半身を、血に染めていた。
 彼が歩いてきたであろう道に、転々と血の跡が続いていた。
 加害者だとは、思わなかった。思えなかったのだ。あまりにも痛ましい声を聞いてしまったのだ。
「あのー、大丈夫ですか?」
『離れてください』
 その言葉を実際には、認識できていない。英語話者ではなかったからだ。
 動きを止めたのは、言葉が聞き取れたからではなかった。振り向いたその目が、深い深い緑色をしていて、それに魅入られてしまったからだ。
 片目を抑えた指の間から、真っ赤な血があとから後からこぼれ落ち、深い赤色をしたジャケットの半身をさらに赤く染めていた。
 血を見ると、人間は本能で恐怖する。その恐怖のままに逃げたらよかったのかも知れない。そうなれば少なくとも、無意識に溶けることなく意識をもって、まだ現実に生きていた。
 他の薬害にまつわる一連の事件に巻き込まれなければ、だが。
『わたしに、近づいてはいけない』
 首を振り後ずさる。
 ゆらゆらと、ふらふらと、頭を揺らすと赤い髪の毛から、血が滴り落ちた。
 彼は収集を待つゴミにつまずいて、床に倒れた。顔を伏せたところに、血溜まりができていく。
 恐怖を抑えて近づいたのは、緑の瞳はどうしようもなく怯えていたからだ。
 彼の目は、絶対に助けを求めていたからだ。
 とにかく、通報をしなければいけない。救急か警察か。迷って、警察に電話をした。
「あ、あー、あの助けを呼ぶので落ち着いて」
『やめろ。やめてください。くるな』
 男はひどく怯えていた。首を振って後ずさる。
『みるな』
「動いちゃ、ダメですよ。怪我がね」
『あなたは、何様のつもりだ! 私を、助けられるわけがない。この衝動を止められるわけが、私の獣を、抑えられる、はずがないんだ』
「とにかく、落ち着いて」
『汚い手で、触るな!』
 頭を殴打された。視界が揺れる。
 砕けて飛び散ったガラス片が、キラキラとしている。ぐらりとしたところで馬乗りになって跨ってくる男を見る。
 血が顔にこぼれ落ちてくる。
 涙のように。
 割れた瓶を振り上げるのが見えた。全ては一瞬で止める暇もなかった。
 最後に見たのは、理性と狂気の間に揺れる緑色の瞳だった。
 その向こうに眠っている人間性を、無意識の海に溶けるまでは知ることはなかった。
 乳白色の夢の中にいた。たくさんの中にちぎれて溶けて混ざった不定形の一部でしかなかった。
 その扉の中で、緑色をみた。
 深い深い、森の色をしていた。
 その目を知っていた。死ぬ直前に見たことがあった。
 赤い髪の毛も記憶の中にあるままだった。
 ごめんな。あのとき君は本当に欲しかった助けは、これだったんだね。
 カーテンの隙間から手を差し出す。
 その手には、彼を守るための枷がある。首輪の欠片。
 君が元の世界に、戻ることができますように。