【失笑の歌と蒼い月】終章A/前編

一ページ目必読
※Ibパロ



ふと気付く。ここは、最後に意識を失った場所あの通路とは違うらしい。自分が意識を失っている間に、別の場所へ移動させられたのだろうか。とにかく今は現状把握を優先しようと、改めて周囲を確認しようとする。




────コツ。

そうやって落ち着きを取り戻しつつあったカンジだが、突然の靴音に再び動揺して振り返る。そこには立ち尽くすソウゲツの姿があった。気配は微塵も無かったというのに、手を伸ばせば届く距離にいた。その瞳は動揺に塗れ、カンジだけを見つめている。

驚いたカンジが言葉を告げる、その一瞬前。


「燃えた? 燃えて、燃えてしまった。燃えてしまった!!」


ソウゲツは絶叫しながら、焦げた跡を集めようとする。床を掻き毟るような姿で、彼は手を黒く染めていく。ガリガリ。ガリガリ。爪が削れる音と、男の慟哭が館内に響き渡る。空気が震え、音が重く背中に乗りかかる。狂気に圧倒されたカンジは、咄嗟に動くことができない。

やがて静かになった彼は、塵で汚れた手で顔を覆う。膝を付いて蹲る姿は、神に懺悔する聖者を連想させる。しかし手の隙間から漏れる声は、祈り言葉などではない。深い後悔と悍しい狂気を孕んだ、意味のない呻き声ばかりが浮かんでは虚空に溶ける。


……もう、絶対に、失いはしない」


彼は唐突に、意味のある言葉を吐く。ぎょろりと持ち上がった瞳が、カンジを捉えて離さない。限界まで開ききった瞳孔は、黄色だけを反射して輝く。爛れるほど濃縮された執着に、彼は全身を炙られている。その灼熱がジリジリと伝わり、カンジは思わず後ずさりする。


「オマエはオレが、永遠に守るから」


直感的に確信した。
彼は最初から、正気でなかったのだ。

意識するよりも先に、カンジは彼に背を向け駆け出す。彼に、ソウゲツに捕まってはならない。檻に入れられたが最後、正しい意味で“永遠”をこの場所で過ごすことになるだろう。“半分”抜けていようと関係ない。否、“残った半分”だからこそ彼は絶対にカンジを逃すまいとする。

とにかく彼から距離を取ろうと、目的地も無く走る。後ろから追いかけてくる気配は無い。しかし追ってきていないわけがない。非人間であろう彼の気配を、カンジには察知できないだけ。


無意識に“覚えていた”のか、それともただの偶然か。カンジはカラッポのショーケースがある部屋とは反対方向に駆け、別の部屋への扉を認識する。

ドアノブを回し、乱暴に開く。電灯の点いている中を確認する間もなくそのまま走れば、大きな作業机に道を阻まれる。迂回するのも致命的な今、カンジは躊躇なくそれを飛び越える。そうして次に認識したのは、また別の部屋への道。そこに扉は無い、そこに光は無い。

グシャッ!

背後で何か、大きな物が潰れる音がする。ソウゲツが最短距離で追ってきている。それを確認する暇など、今のカンジにあるわけもない。薄暗い部屋に飛び込めば、そこは────黒い壁があるだけの、行き止まりである。

絶望に蝕まれるカンジだったが、瞬き一つして再認識する。黒いそれは、壁ではない。壁一面を覆うほど巨大な、一枚の絵画である。あまりにも乱雑かつ入念に黒で塗りたくられた絵画は、この場所とは違う雰囲気を放っている。裏側から裏側、即ち表側への道。
そうだ、そうだった。あの英雄に手を手を引かれ通ったのは、一方通行のこの奈落だ。再びここへ身を投げれば、自分はアチラの世界に出られる。今後こそ、本当の自由を得られる。


「外に出てどうするんだ?」


絵画に触れる一瞬前に、声が響いた。敵意や狂気は微塵も感じない、純粋無垢な疑問の言葉。片手で触れたまま振り向けば、離れた位置で立つソウゲツがいる。逆光で影になった表情は伺えないが、カンジは彼が泣いているように思えて胸に痛みを覚える。


「オマエはずっとここに居るために在るんだぞ? その意味を捨てて、オレの望みを踏み躙って、これから何処に存在するつもりだ?」

……ソウゲツ」

「行かないでくれ、カンジ。もう置いていかれるのは嫌なんだ」


ジワジワと、彼はカンジに声だけで縋る。物理的なイバラよりも異質な言葉の鎖が、ソウゲツから這い寄って黄色に絡む。ゆるやかに縛ろうと、ソウゲツがまた一つ息を吸う。


彼のことは理解している。自分のことも理解している。彼がどれだけのモノを犠牲にして、自分や《ここ》を作ったのか。それを失う恐怖が、どれだけのものなのか。
しかし、しかしそれでも。カンジは外に出たいと願う。自由を渇望するこの性質が、生前のカンジが持っていたものなのかは分からない。けれど、この気持ちを偽りだと断じたくない。諦めたくない。鳥かごの中で愛でられるだけの存在にはなりたくない。


言葉の続きを聞くことなく、カンジは絵画に飛び込んだ。