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ugmm_
2026-06-28 18:30:31
29041文字
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カルタゴ
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遥遠
シキリア、ヘイルクテー編。ハンニバルが生まれ、ハミハスはいちゃついており、人も関係も少しずつ変わり、戦争は続いている。としか言えない感じになりました。
犠牲を屠った刃を、温かな血が滴り落ちた。
香が焚かれた神殿では腥さは遠く、神官の腕に抱かれて祭壇へ運ばれた仔羊がその頭を切り取られ、血を抜かれる様子でさえ、松明がそれを影としていた。神官たちにアスタルテの花婿と添え名される儀典長が加わり、王ボミルカルがハスドゥルバルのそばで儀式を見守るのは、新たに選ばれた将軍に神々の力添えが大なることがそれほどに強く祈られているからだった。
今頃は、メルカルトや他の神々にも供犠が行われているだろう。神官たちに従い、自らの捧げた仔羊の頭がバアルの足下に捧げられるあいだ、将軍ハミルカルはじっと膝をついていた。その頭上で祈りを唱えていた神官たちが叩頭くとともに、ハスドゥルバルらもその場に手をつく。
その場に頭を上げるものがいなくなったとき、バアル・ハンモンの神殿を強い風が吹き抜け、神像の周囲の柱から垂れ下げられた透けるほど薄く織られた布がはためき、舞い上げられた香木の灰が浅盆に注がれた酒の上に降りかかった。
その風が焼かれる臓腑と肉の臭いを冷たい大理石の床に額を押し付けたカルタゴ人たちに運んだ。しかし彼らは最も強くその存在をあらゆる場所に感じる神に向けて、一様に同じことを祈っており、小鼻をひくつかせる者はひとりもいなかった。
ただ後押しをしてくれるだけでいいのだ。ローマ人の船を嵐に巻き込んだように、我々の船を彼の岸へと運び、あとはただ為すことをお認めいただければよい。
ハスドゥルバルを含め、その場にあるものは神官の他はみな祭礼に合わせた盛装ではなく、無骨な軍装に身を包んでいる。踵までをゆったりとした布地に隠す代わりに脛当てを着け、剣を佩いていた。
出征のための犠牲を終え、その灰を地に埋めたのち、夜のうちにハミルカルは行動を起こした。仲間の反乱に対するカルタロの処置に憤慨した傭兵の一部は自らも反逆心を強め、その計画を練り始めていたが、これを悉く殺したのである。多くを斬り殺し、残りの者たちを海に捨て、軍勢に秩序を取り戻すことが将軍としての最初の仕事となった。
カルタゴの海軍は、往時には程遠い貧弱さを彼の前に晒していたが、ハミルカルは自らの率いる軍隊の有り様を嘆くことには時間を費やさなかった。
「分かっていたことだ」
斬り捨てた傭兵の返り血がその頬を汚していたが、それは既に乾きかけていた。傭兵のうちでも潮目を読むのに長けた者たちは進んで新たな将軍に従い、つい先ほどまで肩を並べていた仕事仲間を海に沈めている。
夜陰に紛れた制裁の舞台となった軍港は、日の出が近くなるにつれて静けさを取り戻しつつあった。その様子を望む高台にいるのはハミルカルとハスドゥルバル、彼らの従者だけだった。
「一度の勝利に気をよくして後背の地を平げるのを第一にとは、実にハンノらしい考え方だ。元老たちはシキリアと向き合うのにもう飽き飽きしている。ならばこそ私に任せる気にもなったのだろう」
「なんだか後ろ向きな考え方ですね」
「そうか? 私が仕事に失敗して帰ってくるのを
……
いや、失策の責めを負って傭兵たちに殺されるのを連中が楽しみに待っていると思えば、俄然やる気になるというものだ」
このカルタゴを出てシキリアへ向かうことを、彼は心底喜んでいるように見えた。バルカの後継として生まれ育まれたハミルカルという人間のあり方に相応しい居場所をようやく得た、その清々しいまでの横顔に手を伸ばす。
手のひらで拭っても血は落ちそうになかった。濡らした布がいるだろうとハスドゥルバルが自分の従者を振り返りかけたとき、軍港でちかちかと光が瞬く。掲げた油灯に手を翳しての合図は掃除が済んだことを報せていた。
ハミルカルが軍港へ下りていくのをハスドゥルバルはその場で見送り、今頃は、とビュルサの丘の方角を振り返った。岩壁を晒す切り立った崖、そこに立ち並ぶ神殿のひとつで、女たちが祈っているはずだ。
将軍の妻がこの遠征に同行する意思を示したとき、驚く者はいなかった。九つになる長女がボミルカルと正式な婚約を交わし、彼が他の娘たちについても保護者役を請け負ったのだから、実際には母方の祖父母のもとで暮らすことになるだろうが残していくのに不安はない。
女たちがタニトに捧げるのも、バアル・ハンモンが受け取ったのと変わらぬ祈りであるに違いなかった。
岸が遠ざかり、艦隊は帆に風を受けて海原へと乗り出していく。
背にするのはアフリカではなく、イタリアの岸だった。そこは細長い半島の南部、ブルッティウムと呼ばれる地方で、シキリアとは目と鼻の先にある。海岸で数人が叫んでいるのが見えたが、既にその声が届かぬ距離に来ていた。
「ロクリと言いましたか、あの都市は」
そばにいたアデルバルという名の将校にハスドゥルバルが尋ねるとこの船の指揮官は肯き、その都市の立つ岬をゼピュリオンというのだと指差して教えてくれた。
カルタゴを出港した艦隊がまず向かったのがその都市の領域であり、掠奪を尽くして去るところである。ハスドゥルバルは上陸する者たちに加えてもらえず船に残ったが、上々の首尾であったようだ。
甲板には運び込まれ船倉に移されていく物資の他に、攫われてきた者たちが縛られていた。幼い子供を背に庇うようにしながら、帰してくれ、降ろしてくれと懇願する女は、ひょっとするとあの岸にいた誰かの家族かもしれない。女が使うのが訛りのあるギリシア語であることから分かるように、ピュロスとの戦争の以後ローマの勢力下に置かれたというだけで、彼らはその出自からしてギリシアの文化に属していた。
女は自分たちを取り囲む見慣れぬ風体の傭兵たちに怯え、カルタゴ人に慄いたが、ハスドゥルバルと目が合うと一心にこちらに訴えかけ始める。
「攫うのはいいとして、ドゥレパナには奴隷商人が来るんですか?」
「来ることは来るだろうが、他の船と合わせても数が少ないし傭兵への褒美にするんじゃないかな」
部下に指図して地図に色々と書き加えさせながら、アデルバルは傭兵だって世話をしてくれる人手がいるだろうと言う。そんなものかとハスドゥルバルは別の船に乗せた乳母や奴隷たちを思い浮かべた。
ローマの艦隊が失われたことが彼らの航海を穏やかなものとし、艦隊はフェニキア人が常にそうする通り最短の航路を取った。しかし最短と言っても大きく岸を離れるまでもない、シキリア島は半島を征服したローマ人にとっては呆れるほど近くにあるのだ。
フェニキアの船乗りは夜を通して航海を続ける。星の読み方をいつだったか父の客人に教わったことがあったが、その時とは季節が違った。ハスドゥルバルはひとつも船酔いをしなかったけれど、カルタゴを離れて以来どうにも眠りが浅い。
ハミルカルの乗る船はどこだろうかと、一定の距離を保つ船列に姿を探してはみるものの、見つからないことは分かりきっていた。
そんな若者の姿を遠巻きにし哨戒に立つ傭兵たちが何か囁き合うのを、波の音がかき消していった。
この時点までに、シキリアにおけるカルタゴの拠点はドゥレパナとリリュバエウム、このふたつのみが残されていた。両市ともにシキリアの三角形の中でアフリカに最も近い一角にある。イタリアを離れた艦隊はまずドゥレパナの港に停泊したが、事前に命令を受けていた部隊がそこを離れて目指したのはパノルモスの領域にある山のひとつだった。
ヘイルクテーはパノルモスとエリュクスの間に位置する海辺の山で、ハミルカルはここに拠点を置くことを以前から決めていたらしい。長期にわたって、と出港前の軍議において彼は将校たちに強調した。長期にわたって軍隊を駐留させ、ローマ軍に打撃を与え続けるには、これ以上の場所はない。
ドゥレパナやリリュバエウムとの連絡が容易とはいえ周囲にカルタゴ軍の拠点はなく、そこに入れば敵の只中に孤立することは必定、だが異を唱える者はなかった。
ハミルカル自らが率いるその部隊に加わったハスドゥルバルは、このとき初めて間近にローマの正規兵を目にした。港から海岸のわずかな平地を経て山は険しい岩肌を晒し、海からヘイルクテーへ近づく道は一本のみ、そこを通過しようとすれば哨兵との遭遇は免れなかったのである。
数騎のローマ騎兵は敵影を認めると同時に歩兵を残して陣営に報せるべく馬首を返したが、ノマデスの騎兵が彼らよりずっと速くそれを追った。
ローマ兵を、幼い頃には遠目にしただけだった。周囲の傭兵を潜り抜け騎乗するハスドゥルバルに近付いた一人に槍を突き刺したとき、呆気ない手応えが腕に伝わった。嬉々として戦闘に飛び込んでいく傭兵、その統率を保つ将校たちに混ざって、とにかく手綱を握りしめて山道を登った。
そうして拓いた道を通って後続の部隊が山頂の平地に入ったときには、数人の捕虜を得ていた。ローマ軍はすぐ近くにパノルモスというより重要な拠点を有するがゆえにヘイルクテーに部隊を駐留させておらず、こちらの損害はほとんどなかった。
ハスドゥルバルは手負のローマ人たちがラテン語で何か言うのを見て、幼い頃に捕虜となった執政官を見てみたいと父にねだって窘められたことを思い出した。レグルスは和平のために祖国に送られたのにローマの元老院で戦い続けることを訴え、殺されに戻ってきただとか、あれは本当の話だろうか。
要するにこの一連の小競り合いがハスドゥルバルの初陣であった訳だが──
「どうした、化かされたような顔だぞ」
兵士たちが陣地の設営に働く騒々しさにも、その声は掻き消されずに届いた。数人の部下を引き連れた将軍を振り返ったハスドゥルバルは、そういえば彼が戦う姿を見なかったと気がついた。もったいないことをしてしまった。
「
……
なんだか夢中で」
「そんなものだ。傷ひとつないなら上々だろう」
そう言われて自分の首から下を見下ろしてみると、確かに傷らしいものはない。血を浴びることもなかったようで、ただ砂っぽくなっているだけだ。ハミルカルも似たようなもので、彼が喧騒の中に足を踏み入れるのにハスドゥルバルは従った。彼は兵士たちがそれぞれの指揮官の監督のもと働くのを確かめ、カルタゴ軍のやり方に則って区画が分けられていくのに少々の変更を命じた。
山頂には幕舎を並べてもまだ余りある土地が広がっている。騒がしい一帯を抜けて山頂に更に盛り上がった丘を登ると、麓の平地を見通すことができた。その景色にハスドゥルバルは確かにここはアフリカとは違う土地だと思った。ハミルカルはハスドゥルバルが子供のように周囲を見渡すのを好きにさせていたが、不意にその腕を取って引き寄せる。
「パノルモスは彼方だ」
指された方向には延々と海岸線が続き、その線が深く内へ曲がったあたりに、フェニキア人が花の意をもってジズと名付けた都市があった。
エリュクスは此方、と体の向きを変えられる。ハミルカルがそれぞれに駐留するローマ軍の推測される規模を、そんな話はずっと以前にも聞いたのに教えてくれるあいだ、ハスドゥルバルはこっそりとその横顔を盗み見た。秘密基地を作った少年のようだと言ったら、きっと叱られるだろう。
「パノルモスとは本当に近いですね」
ヘイルクテーの周囲に他に高台はない。パノルモスもここからは見下ろす位置にあった。
山は側面が海岸にも内陸にも崖となって、内陸からここへ辿り着く道もふたつしかないのだという。周囲を睥睨するこの山をカルタゴ軍が占領してしまったことを、遠いエリュクスも知る頃だろうか。
「何故ここを選んだか分かるか?」
ハスドゥルバルは問われると同時に、ようやくこの目で確かめたこの山の拠点としての利点を問われている訳ではないと察した。それに、ハスドゥルバルは将軍と将校たちの話し合いの全てを聞いたわけではない。
「パノルモスの兵力をこちらに向けさせ、消耗させることで、エリュクスからドゥレパナやリリュバエウムにかかる圧力を減ずる
……
ということですよね?」
カルタゴ軍が奪われた拠点の奪還を目指すなら、ローマ軍はシキリアに残されたカルタゴ軍の拠点の攻略を目指す。長くカルタゴの勢力圏であったシキリア西部の保持を最終目標とするのであれば、エリュクスを基地としたローマ軍の包囲を受けている二都市の支援は必須だった。
あのパノルモスの奪還は、その好機が既に彼らの手をすり抜けていた。
「本国の支援がさほど期待できない以上は、拠点同士で連携せねばなりません。それぞれの位置から言ってもここより他にはない
……
その重要さの割には呆気なかったけれど」
もっと大変な目に遭うと思って覚悟したのに、そう笑って見上げると、ハミルカルは目を細めた。
彼の手がハスドゥルバルの頬を滑って、とんと軽く肩を叩いた。ほんの僅かに、抑える間もなく芽生えた期待をハスドゥルバルは瞬きの間に仕舞い込んだ。
バルカ夫人は陣営の設営が完了し、哨戒の体制が整ったのちにドゥレパナから呼び寄せられた。彼女のもとに預けていた乳母は数日ぶりに見たハスドゥルバルの変わりない姿を喜び、彼に割り当てられた幕舎を粗末だと言って怒った。他の将校に与えられるのと同等の広さの区画を貰っているのだ、身分の低い者たちは同じ広さに数人で共に過ごしていると言っても、カルタゴの館に慣れた乳母には馬小屋のように見えるらしい。
正直に言えば、ハスドゥルバルもそう思っている。何しろカルタゴでの自室の半分もないのだから。奴隷たちが荷物を運び込み整えたはずの空間を乳母がよりよく快適に作り変えるのを見守っていると、ほっとしたのも事実だ。
「怖い思いをされたでしょう」
夜になってハスドゥルバルの寝支度を手伝いながら乳母はそんなことを言った。何も答えないまま小さな寝台に入ったハスドゥルバルは、衝立の向こうで乳母が眠れずにいる気配を感じながら、自分のどこにも恐怖の名残がないことを確かめた。
従軍した貴族の子弟が大抵そうであるように、当初ハスドゥルバルは将軍の副官という立場を得た。
カルタゴ貴族のなかでも軍事に秀でる家系は、相応しい年齢に達した子弟に信頼のおける指揮官のもとで経験を積ませるのが習いだ。ハミルカルもこの戦争においてかつてその父の下にあり、他の将軍たちの範を仰いだ。ハスドゥルバルの他にも数人の青年が熟練の将校とともに将軍を補佐し、その命令を方々に伝え、必要な情報や物資の確保に奔走し、傭兵の間に揉め事が生ずればとりあえずという体で呼び付けられている。
「ハスドゥルバル」
遠くからでもよく通る声にハスドゥルバルはすぐに振り返った。ちょうどその幕舎を訪ねようとしていたハミルカルの姿を陣営の中央に設けられた広場に見つける。
傭兵の隊長たちが数人、そのそばにあった。言葉も文化も、用いる武器さえも異なる傭兵たちはその出身ごとにまとめられ、その中から数人が下級の指揮官として選ばれる。軍勢は多くがアフリカで徴用されたリビュア人で構成されるが彼らも同様だった。
その彼らの視線を集めながらハミルカルの前に立てば、すぐに用向きが伝えられた。食糧の分配について確認し直すようにと。
「何か不備が?」
「あると言って聞かない者がいるそうだ。大方一部の者がくすねているんだろうが
……
」
バレアレス人が明らかに不満げに何か言うのだが直接カルタゴ人に通訳できる者がおらず、イベリア人がそれを聞き取りどうにかそこから主張を察するといった状態だった。
ともかく求めの通り調べてやることが肝要なのだと了解しすぐにその場を離れようとしたハスドゥルバルを、ハミルカルが呼び止める。
「その腕輪は?」
指さされた大ぶりの腕輪は、掲げて見せると重みで手首から肘の方へずり落ちていく。見慣れない紋様が掘り込まれた金細工で、日の光を弾く煌びやかな様子はそれなり以上の品と察せられた。
「ケルト人の、ウァッカエイ族だったと思いますが、そのうちの一人がくれました」
この腕輪のように派手な金髪をして、澄んだ青い眼を持っていた。副官として管理を割り当てられた部隊に属するケルト人の青年は、何やら熱心に語りながらハスドゥルバルの腕にこれを嵌めて自分の天幕へ戻って行った。
「要するに口説かれたんでしょうね」
「それで受け取ったのか」
「もう相手がいると言って断ったのですけれど。通じていなかったかもしれません」
通訳がいたわけでもなく、互いに自分の言葉を身振りを交えて話しただけだ。
どういった条件があるかは知らないが彼らは男色を習いとするらしく、そうした関係を思わせる男たちも目にする。そうでなくとも軍隊につきものの娼婦さえ近寄ってこない険しい山の上、家族をアフリカに置いて来ていれば、血の気の多い兵士たちには持て余すものがあるだろう。
ハミルカルが腕輪をハスドゥルバルの腕から抜いて、物珍しげに紋様を眺める。ハスドゥルバルの連れていた従者に返してくるようにと手短に命令され、そうするつもりだったと口を挟む間もなかった。
「付き纏うようなら私のところに連れて来い」
「そんなお手間はおかけしません」
恐らく必要もないだろう。ヘイルクテーに陣を置いてひと月にもならない間に、将校たちのみならず軍勢の中でのハスドゥルバルの立場ははっきりしていた。あからさまな振る舞いをしなくとも、そうと察せられるものだ。
それよりもと、ハスドゥルバルは遠くからの視線をその主には分からぬようハミルカルに示した。広場の隅に立つその同輩はハスドゥルバルが現れるよりずっと前からそこにいたはずだった。
「ハミルカルさまがとりあえずといったふうに私に声をおかけになるから、他の者が拗ねて、困ります」
「
……
そんなつもりはないが」
「偏りがあるとまでは思いませんが、みんな直接声をかけていただきたいんですよ。私なら、お話しする機会は他にもありますから」
納得しきらない顔で気をつけると頷いたハミルカルのそばを離れて、その副官の元へ向かった。任された仕事の分担を頼めば快く引き受けてくれ、不満の色は見せない。同輩の青年たちはあの訓練場での顔馴染みでもあり、せっかくこうしてハスドゥルバルの存在に慣れてくれているものを嫌われたくはなかった。
見習い副官たちは陣営での生活に慣れ職務を滞りなく熟せるようになると、ようやく陣営の外に任務を与えられるようになった。
ヘイルクテーとパノルモスの間にある距離は僅か、ほとんど毎日ローマ軍との戦闘が起こっていたが、昔語りにあるような平野での会戦、軍勢すべてを投入する戦いはここにはない。ハミルカルがその状況を生まぬよう、将校たちに突出を厳に禁じていた。
そのようななかで、若者たちが最初から部隊を一手に任せられるということはもちろんない。
「ノマデスの連中はローマ騎兵を追い回すのが楽しいらしい」
明け方、ヘイルクテーの麓にはノマデスの騎兵とリビュア人の歩兵が少数、陣営から連れ出されていた。ハスドゥルバルが見たところでは木立に身を潜める兵士たちに緊迫した気配はまったくない。あの日同じ船に乗っていたアデルバルは、裸馬に手綱だけを掛けたノマデスたちが何か冗談を言い合っている様子に思うところがあるようだった。
「子供を捕まえるより楽だとか言っているようですね」
「聞き取れるのか?」
「少しくらいは。アデルバル殿もそうでしょう?」
「まあ、よく聞こえる言葉くらいはね」
リビュア人の言語は学ぶことはなくともカルタゴ人の身近にある。アデルバルは傭兵たちの使う罵り言葉をたくさん覚えて口喧嘩ができるようになるといいと、含蓄があるのか冗談なのか曖昧なことを真顔で言った。
「嫌でも耳で覚えるだろうがね。傭兵も雇われて長い者はフェニキア語をそれなりに聞き取っているだろう、気をつけなさい」
壮年の将校はもう何度もこのシキリアで戦っているのだという。まだそんな歳ではないだろうに半ばほど白くなった髪がやや頼りなく風に靡いていたが、何の気配を察してか兜を被り手綱を取る。
「そろそろだ、あの小屋の前を通り過ぎるのが合図だと伝えろ」
リビュア人の奴隷が兵士たちにそれを伝えると、笑いでもするように武具がかたかたと小さな音を立てた。
その音が絶えた頃、パノルモスの陣営から偵察に出たのだろうローマ兵の一隊が平地に姿を見せた。こんな場所に建てられたばかりに打ち捨てられて朽ちようとしている小屋の前を彼らが通り過ぎると同時、ノミダエの馬が一斉に蹄で地面を蹴る。
易しいとは言えない斜面を苦もなく駆け下りた騎兵にローマ人が気付いた時には、逃げ果せることのできない距離となっている。
崩れた隊列にアデルバルに率られた歩兵が襲い掛かり、場は混戦の様相を呈した。歩兵の後ろについていたハスドゥルバルはアデルバルに指示されたとおり深入りせず全体を見渡す。ラテン語はまだいくつかの単語を聞き取るようになっただけだが、指揮官が撤退を命じたのが分かった。
攻撃を加えては素早く離れ、また戻ってくるノミダエに翻弄されながらも、一騎のローマ騎兵が包囲をすり抜ける。そこを突破口として全体が雪崩を打った。
当たり前にそれに追い討ちをかけようとする兵士たちにフェニキア語で待ったがかかる。アデルバルはハスドゥルバルには聞き慣れない言葉で制止を繰り返した。
「深追いするな! おい、分からないふりはやめろ!」
アデルバルの怒声に父親のようだなと場違いなことを思い、従者から弓を受け取り矢を番える。
数騎に追い詰められていたローマ兵の騎馬に矢が当たり、嘶いて棹立ちとなった馬から振り落とされた兵士、それに十数人の死体がその場に残された。リビュア人の死体は数体、負傷はいずれも軽微と確かめてから、アデルバルがハスドゥルバルの隣に馬を並べてため息をついた。
戻ってきたノミダエたちには悪びれる様子もなく、むしろ物足りなさげに槍を揺らしている。あの騎兵だけでなく馬も連れて戻ってくるあたりがいかにも抜け目ない。
「捕虜を取れとは言われていないけれど、まあいいか。馬はあげてしまいます?」
「駄目に決まってるだろ」
褒めるべきところがないのだからと言うが、騎兵たちは矢を抜いてやって甲斐甲斐しい。
それに引き換えの乱暴さで縄をかけられて引き摺られるローマ人は、騎乗していたのだから貴族身分だろう。まだ若い兵士の兜が落ち、馬上のハスドゥルバルと目が合う。
彼が驚いたように目を見開き、その顔が忌々しげに歪むのを、またかと思った。ハスドゥルバルは何度かこうしてローマ人と見え、彼らが様々な民族の入り混じった軍隊を不気味に思っているのに気がついていた。
それは侮蔑と言っていいかもしれない。ローマ兵はしばらくラテン語でおそらく罵倒を口にしていたが、山道を引き摺られるうちに静かになった。
これは特に規模が小さい方であるとはいえ、日々この繰り返しだった。
カルタゴ軍はパノルモスの防柵に迫れどもこちらと同じく険しい立地の陣営に攻め入ることはなく、夜半には哨戒に立つローマ人の神経を擦り減らさせていた。偵察に出た部隊への待ち伏せを行い、こちらへの攻勢があれば迎え撃ち、遭遇すれば戦うがどちらかが死に絶えるまで争うことはない。ローマ軍も天然の要害であるヘイルクテーを攻めあぐね、ハミルカルの指揮のもと予測のつかない動きをする敵に辟易しているだろう。
山頂に戻ると、ちょうどパノルモスの領域へ略奪に出る部隊が集められていた。ギリシア人の傭兵たちがこちらを見る。
馬を馬丁に預け、アデルバルと共に将軍の幕舎に向かうハスドゥルバルは、纏わり付く視線をないものとして扱った。傭兵たちはカルタゴ貴族の中に目を惹く容貌をした若者を見つけ出し好き勝手に品評を交わした後、どうやら将軍と懇ろらしい、将校とは言うが愛人として連れて来られているらしい、そんな噂を楽しんでいる。
カルタゴにいた頃とさほど変わらないものの、ハミルカルが妻女を伴っていることが噂に色をつけているのがいただけなかった。
傭兵たちのそばを通り過ぎようとしたとき、その場に引き留める強さでぐいと腕を掴まれる。
「よう、お嬢さん。怪我しなかったか?」
不躾に顔を覗き込んできた赤茶けた髪の男はそこに傷がないのに何故か満足そうにした。その何か勘違いしているらしい笑みに、いっそ言葉が分からない方がよかったなと思わされる。
アッティカ方言を話すのだからその地方の出身だろうが、傭兵になるのは自らそれを生業と決めた者でなければ経済的に窮まった逃散者や逃亡奴隷、ポリスを追放された政治犯などと相場で決まっていた。
こんな風に揶揄っていい相手と思われるのはそれ自体が侮辱だったが、ハスドゥルバルは何も言わず笑みを浮かべ、男の手からすり抜けた。
待ってくれていたアデルバルの隣に戻ったところで、思いの外近くにハミルカルが立っていたのに気付く。あの傭兵たちを任せられている将校に指示を出していたらしい。
「お嬢さんですって」
ギリシア人の目にも適うようで、と冗談めかして言うと彼はただ片眉を上げて、ハスドゥルバルらに背を向け陣営の中に戻っていく。
彼らの入った将軍の幕舎には既に数人の将校や副官たちが揃っていた。それぞれが与えられた任務の結果を報告し、捕虜や脱走兵から得た情報を共有するのが数日ごとの定例である。ローマで行われて結果が伝わってきたという来年度の政務官選挙の結果は、またあのカエキリウスが執政官に選ばれたというあまり嬉しくないものだった。
副官が脱走兵から聞き出したと言うから間違いでありそうにもない。せっかく一年ごとに指揮官が交代し経験も知見も浅い者を相手にできる利点が、再選をされると失われる。しかしハミルカルはこの報告にはさして拘らなかった。
「誰が指揮官になろうとこちらの為すべきことは同じだ。揶揄い甲斐がないのは残念だが」
何人かが違いないと笑う。それ以上に彼が気にしたのはこの陣営内部の様子だった。
「賭けはやめたんだろうな」
「
……
怪しいですが、部下の分まで賭けることはなくなったかと」
ハスドゥルバルと共に調査した副官はどこかうんざりした様子である。ひとりひとりへの食糧の分配は隊長たちの差配に任されていたが、その隊長の中に食糧を巡って賭けをしている者があった。横取りされていたのでなく上前を撥ねていたわけで、そうと分かった時にはハスドゥルバルも呆れた。
罰する代わりに分配方法の見直しを受け入れさせて、一応は不満も出なくなっている。賭けなど私闘の元だからやめろと言っても、数少ない娯楽なのだと兵士は聞く耳を持たない。そもそも貴重な物資なのだという説教も右から左だ。
ブルッティウム地方へ略奪に出る艦隊の指揮はハミルカルがヘイルクテーにいる間はヒミルコが担っていた。他の拠点と連絡を取りつつ海岸からの道を通じて物資の補給を行なっているものの、本国からの援助が乏しいことは変わりない。現状、ローマの民間の船が海賊のように彷徨いているとはいえ、敵に海軍がない以上航路に大きな危険がないのだから、原因は元老院における議論の趨勢に求められる。
しかしその不満を大声でぶちまける者はいなかった。元老院から派遣されている将軍の監視役が幕舎の隅でしっかりと聞き耳を立てている。それが父の友人であることをハスドゥルバルは伏せており、相手も素知らぬ顔だった。
「兵士たちは機嫌よく戦っていますよ。派手な戦いがないぶん大きな損害を被ることもないし、大概の連中は行軍が嫌いですからね。ここに腰を落ち着けていられるのも良いらしい。約束もちゃんと効いています」
アデルバルが言うのに元老が伏せていた目を上げたものの、問題とは思わなかったようだった。ハミルカルは、当初提示したよりも高い給金を傭兵たちに約束していた。カルタゴ人の殆どがするほどには彼らを苛酷に扱うこともしていない。
「ここから大規模な離反はないでしょう」
ハミルカルが確認したかったのはまさにそこだった。リリュバエウム近郊の拠点を任されていたガリア人がローマ軍に寝返ったという報せがあったばかりなのだ。
傭兵というものは兎角離反しやすく、反乱を起こしやすいものだ。市民だけで構成されるローマ軍からさえ脱走兵があり、容易く情報を渡すのだから。ガリア人たちのローマ軍への寝返りは小さいとはいえ拠点の明け渡しを伴い、これが続けば痛手となることは間違いなかった。
もはや新たに雇えば済む、徴用すれば済むという話ではない。カルタゴの国庫には余裕がなく、僅かな余力はアフリカに回されている。
ハスドゥルバルは、いまのところはこの将軍に満足して働いているヘイルクテーのガリア人たちを思い浮かべた。
「いまならローマ人は容易く脱走兵を受け入れるでしょうね」
ローマ人はこれまで自市民や同盟市民以外の、それも傭兵を自陣に迎え入れたことはないだろう。思いがけない増援を喜んでいるはずだ。将軍と目が合い、考えが一致したことを察してハスドゥルバルが笑みを浮かべると、彼は何か思いついた顔になった。
「打診すれば迎えさえ寄越すだろうな」
「ええ、何もガリア人に限らずとも
……
」
「ハスドゥルバル、お前がその手筈を整えてみろ」
目を瞬き、ちらと他の将校たちを伺ったが、誰も異論はないようだった。「お任せください」と返したハスドゥルバルに、ハミルカルは事もなげに頷く。
「さっきの連中を使うといい」
その言葉の指すところが分かったのは彼らの他にはアデルバルだけだったが、彼も口を挟まなかった。
諸々の話し合いを終えて将校たちが幕舎を出た後も、ハスドゥルバルはその場に残った。そうしても許される気配を感じて、それは間違いではなかったらしい。シキリア西部の地図に目を落としたままハミルカルが言う。
「何か助言が必要か?」
「いいえ、でも
……
」
曖昧に言葉を途切れさせたハスドゥルバルを紫の眼がちらと見て、わずかにその気配が柔らかくなる。ハミルカルが幕舎の奥、幕に隔てられた彼の起居するさほど広くない空間に入っていくのをハスドゥルバルは追った。
将軍の幕舎はその居所であるとともに司令部ともなる。ハミルカルはここに昼夜問わず出入りがあることを理由にして彼の妻のための幕舎は少し離れた位置に設けて、バルカの私兵に堅く守らせていた。そこはそこで、将校たちに伴われてきた妻女やその侍女、女奴隷たちの司令部のようになっている。
数ヶ月の間に、山頂の開いた土地にはイタリアや麓から奪い取ってきた家畜が飼われ、畑まで作られていた。ここで得られた毛皮や獣肉、作物は、まずは彼女たちのために分けられるのだ。椅子に腰掛けたハミルカルの足元にはそうして手に入れた毛皮で誂えたのだろう敷物が敷かれていた。
「来るたびに初めて見る物が増えている気がします」
あまり多くの者に傅かれることも世話を焼かれることも好まない彼への心尽くしなのだろう。ハミルカルは頼みもしないのにと情のない物言いをしたが、入ったところで立ち止まっていたハスドゥルバルに向けて手を差し伸べた。
その手を握って引き寄せられ、ハスドゥルバルは彼のそばに膝をついた。柔らかい毛皮がそれを迎えるのに何か悪いことをしているような気になる。それでも、ハミルカルの手のひらに頬を寄せるとほうと力の抜けた吐息が落ちた。
「ハミルカルさまが働き者すぎて、ちっともお話できない」
「自分で構うなと言ったんだろう」
「そんなこと、言っていません。もう少し機会があるかと思っていたんです」
「お前なら好きな時に来ればいい」
それを信じて予告もなしに訪ねたらどんな気不味い目に遭うか、想像がつかないと思うのだろうか。今夜は将軍はあちらの幕舎にと奴隷に言われて、ただ報告のために訪ねただけなのに気の毒がられたのはつい先日の話だ。
ハミルカルはカルタゴにいた頃よりずっと忙しい。ハスドゥルバルとて毎日の任務に追われて、ようやくこうして隙間を見つけられるようになった。早朝の任務のあとは少しばかりの休息が許されて、最初の頃はその時間を本当に休息に使わなければ一日をやり過ごせなかった。
彼の膝に頭を預けてハスドゥルバルが見上げると、ハミルカルが目を細める。日々に研ぎ澄まされるようにして若者の容貌を形作る線が変わったことを確かめて浮かんだ笑みだったが、ハスドゥルバルはそうと知らずただ笑い返した。
「すっかり陣営暮らしに慣れたようだ。ヒミルコが見違えたと言っていた」
「ようやく扮装には見えなくなったということですね」
「そうだな、現実味が出てきた」
どういう意味かと首を傾げても答えはなく、髪を撫でようとした手をハスドゥルバルは避けた。非難がましい視線が降ってくるが自分で撫で付けた感触はとても受け入れられるものではない。ヘイルクテーの山頂には不思議と潮風が届かないが、傷んだ髪に通した指が引っかかりさえするのだ。
代わりに膝に手を置く。短衣の裾に指先を入り込ませて伺いを立てるとその膝が開いて、うなじをハミルカルの指が擽った。殊更にゆっくりと腿を撫でながら裾の中に手を入れ、芯を持たないものを探り当てる。
「それだけでいいのか?」
笑い含みの声に少しだけ眉が寄り、それを見られないよう顔を伏せた。ここに招き入れてくれたのだから、応えてくれるのは分かっていた。
せっかく機嫌よく構ってくれる機会を逃すのは惜しいけれど、昼には任務に戻らなくてはならないのだ。艦隊からの物資の受け取りは海岸まで降りなくてはならず、当然騎乗する。事が済んだあと足腰が立たなくなることはもう滅多にないが、騎乗となるとまったく別で、あれには参ってしまった。
どうせ笑われるのでそんなことは言わず、ハスドゥルバルは手のひらで擦るうちに少し重たくなったものにわざと音を立てて口づけた。目だけで笑ってハミルカルを見る。
「この方が、すぐに済むでしょう? 上手になりましたから」
彼を満足させるだけならばやりようはいくらでもある。ハミルカルの手が耳を柔く掴んで、それ以上の無駄口を叩かぬよう引き寄せた。
信の置ける兵士たちを集めることを将軍に許されて、ハスドゥルバルはカルタゴ市民兵とバルカに雇われて長い傭兵たちを選んだ。何やら仕事があるらしいと夕刻になって陣営の一角に集まった彼らは、現れたハスドゥルバルの姿に目を丸くした。
ハスドゥルバルはようやく馴染んだ軍装でなく、自分の世話をする奴隷から借り受けた衣服を身につけていた。脛までを隠す丈の長衣で、袖が少しばかり足りていない。ハスドゥルバルが生家から連れて来た奴隷は家中で奴隷同士の間に生まれてそれなりの教育を施された者たちで、衣服も兵士の連れている奴隷ほど粗末ではない。
それで辛うじて、平民くらいには見えていた。成人したばかりのころ変装をして家を抜け出した時にはどんな衣装でも貴族の御曹司にしか見えなかったが、陣営暮らしの賜物だろう。
「察しがついたと思うけれど、まず私が逃げ出してきた使用人のふりでローマの陣営に駆け込む。傭兵の寝返りを知らせるから、その迎えに出たローマ兵を襲い、ここへ帰ってくる。それが今回の作戦」
端的に言えば脱走兵を偽装し、ローマ兵を騙し討ちにするという作戦である。しかし傭兵たちにその役をさせて本当に脱走されたのでは敵わない。偽の脱走兵には忠実な者たちを選ぶ必要があった。
「作戦はいいが」とハスドゥルバルが助力を頼んだ将校、ギスコが戸惑った声を上げる。「何もハスドゥルバル殿が行くことは
……
」
「パノルモスの陣営を見てみたくて」
「ハミルカル殿は許可されたのか?」
「もちろん」
許可などなかったがハスドゥルバルがはっきり頷くとそれならばいいのかとギスコと兵士たちが目を見合わせた。
指揮は彼に任せておいて間違いはないだろう、ヘイルクテーの将校たちはみなハミルカルが信頼して役目を任せるに足る人物だった。そして、とハスドゥルバルが振り返った先にはギリシア人の傭兵部隊がいる。
事の成り行きを訝しげに見守っていた彼らにはギリシア語で別の説明をした。逃げ出した使用人が今夜略奪に出る部隊の情報をローマ人に渡し、それに備え置かれるであろう伏兵を逆にこちらが襲うという筋書きで、彼らには援軍が合流するのを防ぐ陽動を任せたいと。
「私はそれに乗じて逃げ出してくるから」
「それじゃあ、俺たちのところに敵が押し寄せてくるんじゃないのかい。大体逃げ出すったってあんた
……
」
「押し寄せるというほどは出てこないよ、いつもそうだろう?」
敵が大挙して陣営を出るということはまずない。これまでの戦いで分かったことだった。それに両陣営はごく近い距離にあり、逃げ戻るのが容易であることが毎日の小競り合いを可能にしている。
「どうにも損な役に思えるな、褒美でもあるのか?」
その男に同調して頷く傭兵たちが危険を厭うて渋っているのではないことは分かっていた。
ハスドゥルバルは傭兵に一歩近づいた。赤茶けた巻き毛の男は視線をうろうろと泳がせていたが、ハスドゥルバルがその顔を覗き込むと灰色の瞳に映る自分と睨み合うように動きを止める。
「お前、なんという名前だった?」
「ティモテオス
……
」
「そう。いまだけ覚えておくよ」
両手で頬を捉える。何か言おうとしていた唇を塞ぐと相手が息を呑み、そのまま吐くことを忘れたのが分かった。
ゆっくりと瞬きをするだけの時間が流れる。男の手がハスドゥルバルの腰に触れる間際に身を離して、その肩を軽く突き飛ばした。呆気に取られている傭兵にハスドゥルバルは思い上がりを嘲るようにして笑んでみせる。
「お前にはこれで前払いになるだろう?」
こんなふうに蔑まれるのが好きな手合いはすぐに分かる。ハスドゥルバルはすぐに視線を馬鹿にされたと悟って赤らむ顔から他の傭兵たちに移した。
「他の者たちにも勿論、働きに応じた報酬がある。私がこの約束を果たすためによく働いておくれ」
それだけ言ってカルタゴ人たちの元に戻る。ギスコが呆れ果てて目をぐるりと回してみせるのにハスドゥルバルは笑顔を返した。どうせハミルカルに告げ口をされるのは戻った後のこと、その時には小言を減らせるだけの成果があればいいだけなのだから。
その日第一時の夜番の兵士がその声を聞いたのは、そろそろ巡察が来る頃だと当番の札を探したときだった。パノルモスの斜面を覆う林の中から徐々に近づくのは人間の声らしかったが、しばしば彼らを脅かす蛮族の鬨の声ではない。
見張り台に立つ他の仲間も同じようにそれを聞き、林から松明の明かりの下へ転がり出てきた人影に身構える。
「──助けて!」
息を切らした若者が兵士たちに向けて叫んだ。拙いながらもそれがラテン語だったこと、若者が明らかに何も持たずいまにも倒れてしまいそうな顔色をしていたことが彼らの警戒を解く。しばらく追っ手や奇襲を疑ってはみたものの、林にはもう変わった気配はなかった。
略奪に遭った地元の人間か、カルタゴの陣営からの逃亡者だとあたりをつけ、見張り台の下にいた歩哨が門の方へ手振りで誘導すると若者はそれに従った。
何度も後ろを振り返りながら柵の内側に入った若者はラテン語が話せるわけではないらしく、跪いて早口に何か言うのに混じって頻りに助けてと繰り返した。
柵と幕舎の間に設けられた空き地にとりあえず留め置くが、彼が何を訴えているのだか誰も言葉が聞き取れなかった。兵士たちに通じていないと分かるとその顔がいっそう不安げに曇る。
「多分ギリシア語じゃないか? 分かる奴
……
いや、軍団副官を呼んだ方が早いか」
貴族なら分かるだろうと適当な推測を立ててひとりが陣営の中央へ駆けていく。
それを見送った面々の間に沈黙が落ちた。仲間からの揶揄を避けようと誰もそうとは口に出さなかったが、所在なく立ち尽くしている若者はこんな場所にいるのが不釣り合いなほど際立った顔立ちをしていた。ローマ人ならば最初に軍役につく頃の齢と見え、手足はひどく汚れている。奴隷にしては身なりがいいがカルタゴでは普通のことなのかもしれなかった。
呼び出された当番の軍団副官は自分だってギリシア語はぺらぺら話せるわけじゃないんだと言いながらも、どうにか話を聞き出した。やはりヘイルクテーから逃げ出してきたらしい。
「あの人たちはひどい」
声を震わせて若者は言い、我が身を庇うように腕で抱いた。
「いままであんな仕事はさせられなかったのに、ここに連れてこられてから──いつか殺されてしまう、どうか助けて、みんなもう帰りたがってる」
「みんな?」
「傭兵
……
ガリアから来た人たちは、逃げ出すと言っていました。ローマ人はこれほどひどい扱いはしないはずだと言って」
「脱走か。いつの話だ?」
「今日、今夜です」
それを伝えれば受け入れてもらえるはずだと、先にここへ駆け込んだのだと言う。脱走を企てている者たちがどれほどの規模で、どこを通ってくる計画か、そこまでどうにか話が通じたと分かって、また戻りたくない、あんな仕事はしたくないと同じことを繰り返した。
軍団副官が何をさせられたのだと問うても口籠もり、恥じ入るように俯くばかりだった。その場の兵士たちにも察せられるものがありこうして取り囲んでいるのがどうにも気の毒になってくる。これまでの脱走兵の話からしてもそうだが、カルタゴ人というのは多くの民族を軍団に抱える割に彼らとの紐帯を望みさえしていないらしい。
脱走を企てている傭兵たちについて一通り聞き出し、検討すると言って軍団副官は幕舎へ戻って行った。
まだ安心してはいけないと理解しているのか、寒いわけでもないのに震えている若者に、見張りを命じられた数人の兵士はとりあえず座っているよう松明のそばを指差した。そこに膝を抱えて小さくなった若者にちょうど同じ年頃の息子のいる兵士がこっそりと何か渡すのを、周囲は見て見ぬ振りだった。
──ハスドゥルバルは、渡された椀を嗅いでみた。わずかによそわれたそれは、兵士たちが日常的に食する小麦の粥らしい。冷めていたが異臭もなく、捕虜に与えるような粗末なものでもない。
躊躇するふりで粥を見つめているハスドゥルバルを、これを渡してきた兵士が眉を寄せて伺っていた。中年の男の顰め面を警戒しているのかとも思ったが、椀を傾けて少し啜ってみると男は笑った。もうじっと見てくることもない。
いい人たちだなと思った。ローマ人も、カルタゴの陣営に転がり込んでみれば思っていたよりは人間的な扱いを受けて驚くのかもしれない。捕虜はその限りではないが、自分たちも脱走兵を甚振るようなことはしなかった。
不安がる素振りで周囲を見回し、幕舎が規則正しく並べられた陣営の様子に聞いた話の通りだと確かめる。ローマの軍営はどのような場所に設けられても同じつくりなのだと言う。柵の近くには同盟兵、その内側に市民兵が幕舎を並べ、ハスドゥルバルが入ってきたのは騎兵の区画のようだった。陣営の中心には、ローマ軍が何よりも大切にする軍旗が立てられている。
あれを奪うと面白いだろうと思うがそんな冒険に来たわけではない。それほど容易い相手とも思っていなかった。夜番の兵士の元を訪れて、何か小さな札を受け取っていく数人の集団は巡回の担当なのだろう。すべてが几帳面に運営されているという印象で、沼地の丘から出発して今日まで戦争に明け暮れるとこうなるのだと思わされた。
しばらくして、こことは反対側の門が騒がしくなる。立ち上がってどうにか様子を見ようとすると見張りに立ち塞がれたが、背中を叩いたのは安心しろという手つきだった。脱走兵に向けて迎えの部隊を出したのだろう。
何が起こっているのとギリシア語でしつこく尋ねるハスドゥルバルに、ローマ兵はラテン語で返事をし、どちらも相手の言葉が分からず首を傾げた。捕虜の叫ぶ呪いの言葉、その他の多種多様な罵詈雑言は聞き取れても親切な話し言葉はさっぱりだった。
手にしたままの椀を指差されもっと欲しいのかと言われていると察して首を振ったとき、背後で風を切る鋭い音がした。
飛んできたものがぶつかってそばに立てられていた松明が倒れる。門の方でも同じように火を目掛けて行われた投石は林の中から、次いで火矢が柵を越えて降り注いだが、矢は天幕に火をつけることなくハスドゥルバルらの足元に倒れていく。この空き地はうまくできていると感心するハスドゥルバルの腕を誰かが引いた。
粥をくれたローマ兵は並ぶ幕舎の間の暗がりにハスドゥルバルを押し込めて、ここにいろと言ったようだった。既に急襲の報が陣営に走り、応援の兵士たちが駆けつけ始めていた。
背を向けようとしたローマ兵が腰に差していた剣の柄を握る。引き留められたと思ってこちらを見る男の、覆うもののない首に向けて鞘から抜いた鋒を突き上げた。
何が起こったのか分からぬまま倒れた兵士の口を塞いだ。貫かれた喉からは空気の漏れる音しかせず、血が地面に広がるとともにもがいていた手足は動かなくなっていった。その兜と外套を剥いで身につける。
「ごめんね」
そのラテン語を知らなかったから、聞こえていても意味はなかっただろう。
陣営はまだ騒がしいが、傭兵たちは既にパノルモスを離れたようだった。陣営を守る歩兵に紛れて松明を倒され灯りの乏しくなった門を通り抜け、見咎められる前に林に入る。
星を頼りに斜面を下り繋いだ馬を無事に見つけて、ハスドゥルバルがヘイルクテーに辿り着いた時には東の空が白んでいた。
既に帰営していた偽脱走兵たちの首尾は上々だったらしい。警戒心薄く近付いてきたローマ兵たちをほとんど全滅に追い込んで、事態を察知して送り出された援兵は傭兵たちのおかげで遅きに失し彼らに追いつけなかった。陣営には倒した敵から奪ってきた武具が積まれ、兵士たちも上機嫌である。
これから先ローマ軍へ逃れようとする者はみな、疑いの眼差しを受けることになる。実際に倒した敵の数よりも大切なのはその効果だ。ハスドゥルバルのせいで無害な奴隷までも疑われるだろう。
遅れて帰ってきたハスドゥルバルは血に酔っているような兵士たちに肩を叩かれ頭を撫でられ揉みくちゃにされたが、いつの間にか将軍の前に押し出されていた。
「わざわざ見に行っただけの収穫があったか?」
ハミルカルに睨まれてハスドゥルバルは目を丸くし、外套と兜を掲げてみせる。
「ローマ兵はあまりいいものを食べていませんね」
粥は味付けが薄くて美味とは言えなかった。
戯けた返しにきつく眉を寄せたものの、ハスドゥルバルの手足を汚しているのが返り血と察してハミルカルは小言を引っ込めた。せっかく兵士たちが高揚して笑い合っているものを、将軍が水を差すわけにもいかない。
「報告を。ギスコから大方は聞いたが」
その場ではなく幕舎の中でと命じられてハスドゥルバルは軽い足取りでハミルカルを追った。
その後も若き将軍は沈着な指揮ぶりと報酬の約束によって傭兵たちの心服を勝ち得ていったが、ヘイルクテーに陣を置き一年が過ぎた頃、彼が動転する出来事が起こった。
夫人の懐妊が分かったのだ。
これまでに四人の娘を産んだ妻をハミルカルがシキリアに伴ったのは、長い出征が彼らを隔てればそれだけ次の子を得るのが難しくなるためという面もあった。だが末娘がすでに六歳、ましてバルカの後継者となる男児の誕生は危ぶまれていた。
将軍が血相を変えて夫人の幕舎を飛び出してきて何故か蜻蛉返りし、また出てきて医者と神官を引きずって戻っていく姿を目にした将校たちは、よもや夫人の身に何かよからぬことが起こったのかと思った。バルカ党の面々は自分に息子が生まれてもハミルカルに遠慮して慎ましやかに祝うといった気遣いを続け、その話題を避けるうち、発想がひどく偏っていた。
ハミルカルはまだ腹の目立たぬうちに妻をカルタゴに帰すことを考えたらしい。将軍専属の医者を伴っているとはいえそれは男であり、忠実な侍女たちは夫人を長年世話するうち出産の手助けがしっかりと身に着いていたが、陣営は陣営だった。
「いいえ、わたくしは帰りません」
夫人はそう言って、むしろ彼女の夫を落ち着かせた。
「この子はここでこそ生まれようと、いまこの時を選んだのですわ。それには必ず意味があるはずです」
彼女は、男児に違いないと言い切りはしなかった。四度の失望は、いかに彼女とその夫が娘たちを慈しもうとも埋め合わせられるものではない。強く期待してそれが裏切られるのを避けようとするのは当然のことだった。
それに、と彼女は付け加えた。
「このヘイルクテーが陥ちることがあれば、それは敗戦の時でございましょう。あなたはここがいかに優れた砦かをわたくしに教えてくださったのに、まさかあれは嘘だったのですか?」
言い負かされたハミルカルは妻に仕える者の数を増やし、どうにか産婆を連れて来られないか腐心している、という。
ハスドゥルバルはそのやり取りを直接聞いたわけではない。それなのにその場にいたかのように語り直すことができるのは、この話がおそらくは意図して噂として広がっているからだった。カルタゴ人たちのみならず兵士たちの間にも、なんとも健気な貴婦人だと讃える向きがある。ここでの暮らしが長くなるにつれてみな物語に飢えているのだ。
その点で言えば、これまでは目立つ存在であったハスドゥルバルはお役御免というわけである。
「ハスドゥルバル殿としてはどうなんだ、たくさんお相手ができて嬉しいんじゃないかい」
こんなふうに言う者もありはするが。
ただでさえ作業めいている食事が風味を失い、その場の空気が冷える音が聞こえるようだった。夕食は将軍に招かれることがなければ時間の合う同僚たちと集まってとる習慣で、目上の者がいないことは若者のただでさえ迂闊な物言いを悪化させるらしい。
軽蔑をいっぱいにした目を向けると少し年長の副官は何か気に障ったかと首を傾げた。答える気も起こらずハスドゥルバルがパンを千切って口に運んでいると、まだ話題を続けようとし、他の同僚に引きずられてどこかへ消えていった。
隣に座っている同僚はそれを見送り、どうにか空気を変えようと口を開く。
「ハスドゥルバル殿、あんまり怒らないでやってくれ。あいつ何も考えてないんだよ、想像もしてないし」
「君はいま変な想像をしているね」
「してない!」
していないってば、と言い募るのをハスドゥルバルは無視した。
ハミルカルが、身重の妻に触れるような不道徳な真似をするはずがない。だからといって彼はならば用はないと寄り付かなくなる薄情な夫でもなかった。悪阻の酷い時期には追い払われて肩を落とし、それが落ち着くと足繁く様子を見に訪れている。
ヘイルクテーの陣営内ではこのような変化があったものの、戦況は大きく動かず、カルタゴはシキリアに残る拠点を維持していた。ヘイルクテーは変わらずローマ軍への攻撃を続け、決定打を許さなかったが、均衡を崩す力がないのはカルタゴとて同じだった。
将軍は私事に気を取られることなくむしろ冴え冴えとして指揮を執っているが、休息となるとそうもいかないようだった。
何かを待っていると月日の流れがひどく遅い。ハミルカルはそんなふうに言って、どうにももどかしくなるとハスドゥルバルをそばに呼んだ。あまりに待ち遠しく、静かに頭と体を休めるのに耐えられない。まるで弱音を吐くようにそう言うのだ。
夜更け、寝台に仰向けになったハミルカルのそばに腰掛けて、ハスドゥルバルは彼の目を閉じさせた。強張っているような気のする額を撫で、指で髪を梳く。
「まだお腹を蹴ったりはしないんですか?」
ハスドゥルバルも少し腹の目立ち始めた夫人が畑を散歩する様子を目にしていた。
「それにはあとひと月かふた月はかかるだろう。生まれるにはあと半年
……
」
「あっという間ですよ」
「過ぎてみればそう思うだろうな」
こうして待つのも五度目であり、彼らは流産や死産の不幸を味わっていないのに、ハミルカルが真剣に案じていることにハスドゥルバルは目を細めた。
何か気を楽にするようなことを言おうとして、言葉がひとつも思い浮かばない。撫でる手を動かしながら触れているその人のことを考え続けることができずに、指先が震えた。
「ハスドゥルバル?」
その手を取ったハミルカルが目を開く。ハスドゥルバルの顔を見上げ、眉を寄せた、その表情が視界の中で揺らぐ。
「どうした」
「何も
……
もう、失礼します。どうかお休みになって」
「そんな顔で帰せばまたお前の乳母がまた怒るだろう」
身を起こしたハミルカルに、そうはなるまいとハスドゥルバルは首を振った。乳母の方が泣き続けて、それがあまりに哀れなので見ていられないのだ。
「父が
……
」
昼間、あのお目付け役の元老が書簡をハスドゥルバルに届けた。封蝋の印章がそれが長兄からだと示していたが、父の友人は、気を落とすなとハスドゥルバルが手紙を開くより先に言った。本国との連絡はそれほど密には行えず、手紙のやり取りはずっと以前の出来事を知るのに終始する。
父が亡くなってもうひと月近いということをハスドゥルバルはその手紙で知った。兄はそれが苦しんだ末ではなかったこと、だが父はいつまでも末子を案じていたことを綴り、遺言に従ってハスドゥルバルが相続すべき財産について書き連ねていた。
「出征を見送ってくれた時には病が分かっていたのだそうです。私には何も教えずに、いままでの手紙だって私の心配ばかりで」
おかわいそうにと嘆く乳母を慰めているあいだはそれほど心が揺れなかった。父が憐れまれるべきならばそれはハスドゥルバルのせいなのに、胸を衝くものは何もなかった。
それがどうして、ハミルカルを見ていると息までも苦しくなるのだろう。
きっと、と思う。
「きっと、父もほかの家族も、私がここにいるのはハミルカルさまのせいだと思っているでしょう。あなたを追いかけたばかりにと、私のかわりにあなたを恨んで
……
そうではないと言っておくべきだった」
瞬きの拍子に落ちた涙を袖に吸わせて、ハスドゥルバルはハミルカルの瞳をまっすぐに見つめた。
「たとえメルカルトがあなたをカルタゴにお下し賜らずとも、私は軍に加わりました」
幼い日に、煙を見た。あれはカルタゴを焼く煙かと空へ立ち上る白い帯を指したハスドゥルバルに父は心配するなと笑って、お前のいる場所は必ず守られるのだと言った。
戦争は海を隔てたシキリアで起こっている、だから心配はいらない。ローマ人は海戦の素人、フェニキアの船乗りが敗れるはずはない。そう長引くことはないだろう。お前が大人になる頃には終わっている。
ひとつひとつが嘘になっても、ハスドゥルバルは同じことを言い聞かせられた。お前には関係のないことなのだと。
「お前は、婚約はまだだったな」
ハスドゥルバルはきょとんとして、その通りだと頷いた。そういう話は何度もあったが両親が先送りにし続け、ハスドゥルバルに婚約者はいない。
それがどうしたのかと首を傾げる相手ごと寝台に倒れて、ハミルカルの腕がハスドゥルバルを抱き寄せる。
「まだ先の話だ、八年か、九年か。どこぞの家にお前を掠め取られるには十分すぎるほど長い。お父上と話をつけておくべきだった」
それにぴんとこない鈍さをハスドゥルバルは持っておらず、けれど、相手が本気なのかは測りかねた。考えたこともなかったのだ、ボミルカルと違って、ハスドゥルバルが彼のために差し出せるのは自分自身だけだった。
「
……
義父上と呼ぶ練習をした方が?」
だからそんな返事になった。答えはなく、ハスドゥルバルは冗談かもしれないともうそれについては何も言わなかった。いつも夜が明けるより前に自分の幕舎に帰るのに、背に回された腕がちっとも緩まないせいでその夜はずっとそこで過ごした。
過ぎてみればあっという間というのはまさしくその通りだった。
季節が移ろううちに、大きくなった腹に苦労しながら侍女に支えられゆっくりと歩く夫人の姿を目にするようになり、とうとうヒミルコがどこかから産婆を連れてきて、女たちは騒ぎ立てぬまま着々と準備を進めていった。
そして年が明けてまだ冬の終わらぬ頃、陣営の一角は俄かに慌ただしくなった。奇しくもハミルカルが艦隊の指揮のためにヘイルクテーを離れている日のことだった。
陣痛が始まったのは昼だったがその苦しみは日が傾いても続いた。侍女たちや将校の妻たちが忙しなく出入りする一方で、男たちはその外に役目がある。
神官たちは犠牲を捧げてタニトに祈り、悪霊の寄り付かぬようにする儀式が繰り返された。兵士や傭兵の中にも状況を察してそれぞれのやり方で祈る者があり、ふざけ騒ぐ者がないせいか山頂全体がある種異様な空気に包まれている。
神官にもっとも高貴な者がと請われ、ハスドゥルバルは陣営の祭壇で犠牲を焼いた火を守っていたものの、どのように祈るべきか判然としない。早く産まれるようにと、あるいは父親が戻るのを待ってあげてほしいと?
日が沈み肌寒さを覚えた頃、数人が海岸の道から陣営に駆け込んだ。
「──ハミルカルさま」
船上に報せが届いたはずもなく、彼はついさっき知ったのだろう。息を上げたハミルカルは広場を抜け、祭壇のそばを通り過ぎ、脇目も振らずに幕舎の中に姿を消した。
しばらくして聞こえたものをハスドゥルバルは最初、山で獣の鳴き声がしたと思った。しかしそれが紛れもなく閉ざされた幕舎の中から繰り返されるのに、赤ん坊が泣いているのだと気が付く。あたりに響き渡るような張りのある声だ。
どう反応したものか、ともに祭壇の前にいたアデルバルを振り返る。
「産声ってこんなに大きかったでしょうか」
「いやあ、これは
…………
」
実は五人の子供全員が男だというアデルバルは、汗をかいてもいない額を忙しなく拭っている。将校たちは誰もそうとは言わなかったものの、そわそわとし始めていた。巡回の当番の者は後ろ髪を引かれながらその場を離れ、逆に帰ってきた者は産声を聞いてその場で踊り出さん様子だったが、なかなかその知らせはない。
カルタゴ人たちの注目を浴びる幕舎から、へとへとに疲れた様子の侍女が姿を見せた。彼女はこちらに歩み寄ってきて、ハスドゥルバルに中へ入るよう言った。隣のアデルバルも同じように促されて、大勢で押し掛けるわけにいかないのは分かるものの自分たちだけかと顔を見合わせる。
ハスドゥルバルは初めて夫人の幕舎に足を踏み入れた。前室にあたる空間にハミルカルの姿がある。夫人は、幕に隔てられた奥にいるのだろう。彼女の無事は侍女たちの顔色を見れば分かる。
振り返ったハミルカルは軍装のまま、布に包まれた赤子を抱いていた。これまで見たなかでいちばん大きな赤ん坊だとまず思い、産湯に浸けられたあとなのだろうふわふわとした様子に、なんとなく近寄りがたさを感じる。
アデルバルが赤ん坊の顔を覗き込み、確信を得たように将軍を見た。それを見返したハミルカルは笑顔を浮かべ、その眦に涙が浮かんでいた。
「バアルは私をお見捨てにはなっていない」
この子はその証だと、おくるみの中の小さな手に触れる。むずがってもぞもぞと手足を動かすのさえ愛しげでいつまでも見つめていそうだったが、ハミルカルは問われる前にふたりの部下を呼んだ理由を思い出した。
「お前たちにはこの子を後見してほしい」
本国で生まれたならば、神殿に犠牲を捧げ、宴も開かれて、大勢に祝われながら市民として迎え入れられただろう。領地の屋敷で大切に守られながら育てられたはずだ。ここは戦地の只中、特にお前たちに見守っていてほしいとハミルカルは言った。
アデルバルは本当に額に汗をかきはじめ、自分がかと念を押すが、ヒミルコには既に誓いを立てさせたのだという。無論、親族たちや義兄となるボミルカルにも同じように頼むだろう。
「お前は良い父親だと評判だからな。ここにいる間だけでも、この子をそばで守ってくれないか」
アデルバルがそれを躊躇なく請け負ったのは、ただ子守を頼まれたのではなかったからだった。もし傭兵たちが反逆を企てたなら、あるいはこの先カルタゴ人に恨みを持ったならば、将軍の実子は真っ先に矛先を向けられるだろう。
しかし陣中に生まれ育つとは、バルカの後継者としてこれほど似つかわしいこともない。そんなことを思いながらアデルバルが慣れた手つきで赤子を抱くのを見守っていたが、不意にハミルカルがこちらを向いた。
「ハスドゥルバル、お前も抱いてやってくれ」
ハスドゥルバルは、素早く首を振った。
赤子を抱いたことがないとは言わないが甥も姪も首が据わっていた。こんな生まれたての状態は眺めたことしかない。若者のそんな様子をハミルカルやアデルバル、控える女たちまでも微笑ましげにし、どうやら逃げ場はないらしかった。
父親たちにあれこれ指導されながらどうにか腕で支えた赤子が、居心地が悪いと言いたげに顔をぎゅっと顰めた。この目が開くと、きっと紫の瞳を見ることができる。
「名前は、やはり
……
」
「ハンニバルだ。この子は祖父の名を継ぐ」
ハミルカルは息子の生まれたばかりにしてはふさふさとした髪を撫でる。その満ち足りた、揺らぐところのひとつもない眼差しに、ハスドゥルバルはようやく寿ぐ言葉を口にできた。名を呼ぶと、ハンニバルは途端に劈くような泣き声をあげた。
最近、陣営ではしばしば走り回るアデルバルや女奴隷の姿が目撃されている。
ローマの巡察隊の待ち伏せと交戦という、何度目か分からない任務から戻った部隊は、家畜の間で何か探している女たちの姿を見つけた。朝の雨で昼過ぎになってもまだぬかるんでいる地面で裾が汚れるのも構わない様子に、ハスドゥルバルは馬を降りる。手近なところにいた相手に手綱を投げた。
「馬をお願い」
ハスドゥルバルの振る舞いに慣れた傭兵はもう文句も言わずに馬を牽いていく。戦利品のない任務はつまらないだとかああだこうだ言っているのを背に、ハスドゥルバルは彼らと逆の方向に歩き出した。
陣営を囲む防柵の外に、山羊や羊が逃げ出さないように立てられた柵と溝が山頂全体を囲んでいた。ヘイルクテーに陣を構え三年あまり、陣営はあたかも小さな村のような様相を呈している。
さほど探さぬうちに、羊たちの陰に隠れる小さな背中を見つけた。自分を呼ぶ女たちの方ばかり気にしているようで、すぐ後ろに立ってもこちらに気が付かない。ハスドゥルバルが後ろから持ち上げるとわっと声を上げ、手足を暴れさせた。
「ねえやたちを困らせるものじゃないよ、ハンニバル」
相手が軍装している将校と気が付いて、子供は観念したようだった。手を噛もうとしているようにも見えたが。散り散りに子供を探していた三人の女奴隷たちが集まってくるのに地面に下ろす。
手を繋ごうとする奴隷から両手をさっと背中に隠し、ハンニバルはどうしてかハスドゥルバルの後ろに隠れた。どこをどう逃げてきたのか泥だらけになっている。
「かくれんぼかい?」
「いえ、お風呂を嫌がられて
……
」
「贅沢だな」
体を浸からせられるだけの湯を沸かしてもらえるのはこの子供くらいのものだ。
捕まえようとする女の手をすり抜けぐるぐるとハスドゥルバルの周りを回っていたが、脚の間を潜り外套の中に入り込んだ。そうなると奴隷たちがハスドゥルバルに遠慮して手を伸ばせないのが分かっているらしい。
外套をめくりそばにしゃがんで、ハスドゥルバルは幼子と目を合わせた。父親と少し色味の違う紫の瞳が不満げに睨め上げてくるのに、帰りなさいと言っても頷かない。
「やだ。ふね見る」
「ああ
……
お父様の軍船が見たいのかい。見られたらお風呂に入る?」
「うん」
「じゃあ手を繋いで」
奴隷とというつもりで言ったが子供はハスドゥルバルの手を握った。
仕方なくハスドゥルバルが歩き出すと奴隷たちはその後ろをついてきた。自分たちがと口を出すとまた逃げられると経験から学んでいるのだ。
ハンニバルはじき二歳になる。よちよちと歩き始めたかと思うと走り回るようになり、大人の目を盗んで陣営内を冒険し、決して越えてはいけないと教え込んでいる柵をも潜ろうとするため一瞬たりとも目が離せない。アデルバルの談である。
それでも命の危険を感じているのかという声での夜泣きがなくなっただけ楽なのだそうだ。敵が陣営に近付いたら中で一体何が起こっているか訝しむような声で毎晩泣いて、母親も奴隷たちもすっかり寝不足になっていたらしい。
山頂の小高い丘は見張り台となっていた。見張りの兵士はハスドゥルバルとその手を握る子供に気付き笑顔になって彼らのために場所を空けた。
海にはカルタゴの軍船を何隻か見つけることができた。柵よりも頭の低いハンニバルは周りの大人たちを見比べ、握ったままのハスドゥルバルの手を引いた。
「ガニュメデス、だっこ」
ハスドゥルバルに振り向かれて奴隷はさっと目を逸らした。兵士たちも急にあらぬ方向を見張り始める。
この女が言ったわけではないだろう、まして教えたわけでもない。子供の前と油断して、迂闊に軽口を叩くものではないということだ。
「私はハスドゥルバルだよ」
「はしゅ
……
」
「ハスドゥルバル」
「
…………
」
また睨んだ。抱き上げると腕に足をかけてハスドゥルバルの髪を掴む。肩に登ろうと容赦なく髪を引っ張る力は思いのほか強い。
「痛い、痛いよ。何?」
「あの、肩車をご所望のようです」
ハンニバルは奴隷の手に支えられながらお望みの位置に落ち着いた。おかげであちこち泥がついたが言っても仕方ないのだろう。
軍船を指差し、子供は何か色々と教えてくれたがあまり聞き取れなかった。盛んに体を揺らすので足を掴む。
「とと、どれ?」
「あの中にはいないだろうね。イタリアにいらっしゃるだろうから」
沿岸の都市での掠奪は絶えず続けられている。ローマは海上での戦いを諦めて島内での戦いに注力しているようだが、ハミルカルのおかげで彼らの思惑は外れ続けていた。
「船に乗ってみたい?」
「うん
……
」
この島の外どころか、この山の外でさえ、ハンニバルには想像の及ばない世界だった。傅役に泣かれようが父親に叱られようが抜け出そうとするのは幼いなりの憧れがあるのかもしれない。もうすぐ乗ることができるだろうとは言わず、ハスドゥルバルは肩車をしたまま丘を下りた。
ヘイルクテーから陣を動かす計画は既に動き始めている。
数年前ローマ軍に占領されたエリュクス山には、山頂と麓に陣営と監視所が置かれていた。エリュクスの市街はちょうどその中間に位置する。そこを奪うという決断は、やはり膠着した戦況に強いられてのものだった。
「エリュクス市はここほどに守りやすくはない」
ハミルカルは妻に対して説明するとき、将校にするのと変わらない物言いをする。同席してハスドゥルバルは初めてそれを知った。軍議のあと司令部に呼び寄せられた夫人は慣れているのだろう、将校たちに囲まれる中、戸惑うことなく話に耳を傾けていた。
「山頂の陣営を攻囲する一方で、麓からの攻撃を受ける。そのうえ補給を受けるのも簡単ではない。市街とはいえ既に破壊を受けてもいる」
「帰れとおっしゃるのならば、帰ります」
彼女が食い下がらなかった理由は、かつて帰らないと言ったのと同じ理由だった。説得が必要とはハミルカルも考えていなかったのだろう。いつ、どのように船を出すかの手筈を伝え、準備をするようにと言った。
「ハンニバルももう物心がついた」
しかしその名前を口にした途端に、いま話したのは全て嘘だと言い出しそうな顔つきになる。
「じき教師に学ぶべき齢になる。陣営の外を知って、自らの祖国を見るべきだ。
……
私が戻るまで、その子と共にお前が育ててくれ。私を忘れないように」
ハスドゥルバルが夫人の方へ視線を向けると、思いがけず、彼女もこちらを見ていた。ハンニバルの弟か妹がその腹に宿っているとは知らなかったが、ならばやはり、彼女はここを離れるべきなのだろう。
目が合ったと思うと同時に夫人は一度目を伏せた。柔らかく微笑んだのは、彼女の息子のことを思い浮かべてのことだった。
「賢い子ですもの、あの子はあなたを忘れませんわ。男の子があれほど男親に懐くものとは知りませんでした。けれど、だからこそ
……
お早いお戻りを祈っています」
その優しげな微笑みは消えていないのに、彼女は笑うのをやめたとハスドゥルバルは思った。
「ハミルカル、あなたのことはさほど案じていません。その方がそばにいてくださるのでしょうから」
彼女が微笑んで退出すると、衣装に焚き染められていたのだろう、この幕舎には馴染みのない芳香だけがその場に残った。
小さな棘のような違和感に、ハスドゥルバルはハミルカルを見る。カルタゴにいた頃から、夫人はハスドゥルバルがどういうつもりで自分の夫について回るかを知っていた。だがそれは自分の領分ではないという態度を貫き、睨みつけられたことさえなかった。ハスドゥルバルは彼女に許しを求めようとしたことはない、意味がなく、侮辱的だからだ。
ハミルカルは将校たちに退出を促した。ハスドゥルバルだけが残ったところで、ほんの些細なことだというように言った。
「お前と娘の婚約が気に入らないらしい」
カルタゴに戻れば先方への打診をと頼んだのに断ったのだ、その呆れ混じりの声にハスドゥルバルは幕舎の外に目をやる。そこに夫人の姿はない。
「
……
ご冗談だとばかり
……
」
「後見を託したのをどういう意味だと? それともお前も不服か?」
肯定すれば機嫌を損ねるだろう気配に、ハスドゥルバルは地図や種々の資料の広げられた卓のそばをハミルカルの方へ歩み寄った。
彼の言葉をすべて思い出してみても、どの娘の話をしているのかさえ分からない。ただ、彼が残る三人の娘の夫選びには高い条件をつけるはずだと思っていた。彼女たちの夫となる人物が、自分だけでなくハンニバルのために何を齎すかを考えるはずだからだ。
簡単には承服しないだろう母や長兄のことを、ハミルカルの妻の瞳の奥にあった冷たさを、ハスドゥルバルはそのとき忘れた。
「不服はありません」
当たり前だというような頷きだけで、ハミルカルは幕舎を出て行った。きっとハンニバルのところに向かったのだろう、本当なら別れるまでは片時もそばを離したくはないだろうから。
数日ののち、眠る幼子を抱いてハミルカルの妻は船に乗った。父親と船に乗るのだとはしゃいで夜の間じゅう眠らなかったハンニバルは、知らぬ間に連れて来られたアフリカで大いに暴れたらしい。
その話をハミルカルが聞くことができたのはこの三年後、カルタゴ人がシキリアを去ったあとのことだった。
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