小夏🍊
2026-06-28 14:08:48
38249文字
Public Planet a room
 

ι.違和感

現パロ原藤(社会人×学芸員)
そのうちまとめる話

 梅雨が明け、昼夜を問わず蒸し暑さがまとわりつくようになった夏のある日のこと。仕事を終えた原田は、容赦なく照りつける西日を避けながら、愛車を停めてある駐輪場へと向かって歩いていた。アスファルトから立ち昇る熱気に辟易していると、尻のポケットに入れていたスマホが短く震えた。
 取り出して画面を見れば、表示されていたのは悪友の新八の名前だ。科学館に通い詰める以前ならともかく、ここ最近じゃ珍しくなった着信に、適当に画面をタップして耳に当てる。
「おう、なんだよ新八。また飲みの誘いか? 今日は無理だからな」
『平助ンとこだろ。知ってら。そうじゃなくて……おまえ、今度の週末空いてるか?』
 原田は駐輪場に辿り着き、自分のバイクの前に立つ。しかし、電話口の新八のテンションからしてすぐに話が終わりそうにないことを察し、跨ることはせず、シートに軽く背を預けて通話に耳を傾けた。
「週末? …………なんだよ改まって」
 空いてない、こともないが、二つ返事で答えるには面倒な気配に一度言葉を飲み込んだ。だが、相手は腐っても数年来の付き合いがある新八だ。原田が返事を躊躇った僅かな間だけで、予定が空いていることを察したらしい。
『っしゃ、空いてんだな? 実はよ、地域の子ども会がやるバーベキューの交流会……っつーか、小せえ縁日みてえなもんか、……があるんだが、左之助も手伝わねえか?』
「は? 子ども会? なんでそんなもんに関わってんだよ」
『俺だってやりたくてやるわけじゃねえよ。今年に入ってから仕事絡みで知り合った別会社の奴がいんだけどよぉ。そいつがその子ども会の運営に関わっててさ。人手が足りねえからって、俺に焼きそば焼けって手伝いを押し付けてきやがったんだよ!』
……おまえ、なんで違う会社の奴に命令されてんだ」
『だよなあ!? 俺もそう思うぜ! なんだあの土方って野郎、いっつも偉そうに命令しやがって……芹沢の旦那とも相性悪いしよ……
 電話の向こうでブツブツと文句を垂れる新八に、原田は呆れたようにため息を吐く。
「だったら断れや。おまえの会社の行事でもなんでもねえんだろ」
『バッカ、おまえ、ガキの行事で人手が足りねえって言われてんのに、大人として見捨てられるわけねえだろ! あいつは気に食わねえが、楽しみにしてる子どもに罪はねえからな!』
 威勢よく返ってきたその言葉に、原田は思わず額を押さえた。本当にこの男は、昔から分かりやすい。どれだけ口で「偉そうなやつ」と文句を垂れていようが、根っこが底抜けのお人好しなのだ。「人手が足りない」「子どものため」なんて大義名分を並べられたら、結局は自分から袖を捲って手を貸してしまう男なのである。
『んで、その偉そうな野郎から「まだ人手が足りねえから使えそうな知人を連れてこい」って言われてよ』
……そんで俺かよ」
 原田が心底面倒くさそうに眉を寄せると、新八は悪びれもせずにガハハと笑った。
『おまえ、見た目の割にガキの扱い悪くねえだろ。手伝ったら、お礼にタダで肉も屋台の飯も食わせてくれるらしいからよ! ああ、平助も暇なら誘ってみろ。若いのが二人増えりゃ、土方の野郎も文句ねえだろうし』
 平助も・・・……その言葉が出た瞬間、面倒くささでいっぱいだった原田の思考がピタリと止まった。せっかくの休日だ、このくそ暑い中でわざわざボランティアで汗水垂らして働きたいわけがない。断る口実ならいくらでもあった。
 だが、タダで肉が食えるうえに、平助と一緒・・・・・となれば、話は別だ。
 ……バーベキューか。去年のキャンプで見せた、野外行事に慣れた様子を思えば、焼肉や屋台飯を両手に持ち、嬉々として子どもたちに混ざって引率している平助の姿が、ありありと脳裏に浮かぶ。……平助も、新八と同じで断らねえどころか喜んで参加すんだろうな。
 休日の面倒臭さと、屋台飯を食って笑う平助の姿。ついでに、僅かだが久しぶりに新八のお手製焼きそばが食えるとくれば、原田の中でぐらりと天秤が揺れ動き、徐々に後者へと傾いていった。
……はー…………わーった。ただ、平助の予定は知らねえからな。帰ってから聞いてみる」
『は、正直ダメ元だったんだが……へえ、あの万年寝太郎が。……明日は槍が降るか?』
「本当にてめぇの脳天に降らせてやろうか」
『クカカカ、平助様々だなぁこりゃ』
「っせ、その平助に会いに行くから切るぞ」
 原田がその場で断らなかったことに機嫌の良くなった新八に凄んだものの、何処吹く風だ。背を預けていた車体から身を起こして、新八との通話を問答無用で切ってそのまま科学館へと向かったのだった。

 いつものようにドームの暗闇の中で星の軌道を眺めながら、この時期の定番で、いつの間にかすっかり内容まで覚えてしまった夏の大三角や七夕の話を聞く。静かなドームに響く平助の心地よい声へ耳を傾け、最終公演が終わるのを見届けたあと、職員出入り口から出てきた本人と合流した。
「お疲れ」
「お待たせしました、原田さん」
 少しだけ小走りで駆け寄ってくる平助へ、原田は用意していたまだ新しいヘルメットを差し出した。つい先日、平助を乗せるためだけに買い揃えた小ぶりなサイズのそれを受け取ると、平助はぎこちない様子で頭に被る。その間に原田が先にバイクへ跨ってエンジンをかけると、大人しく後ろのシートへと収まった。
……ちゃんと掴まれよ」
「はい」
 背中越しにくぐもった声が聞こえ、やがて原田の腰に、恐る恐る探るような手つきで腕が回された。平助用のヘルメットを買ってからというもの、こうして仕事帰りに一緒に帰る日や、休日の買い出しなどで、既に何度か後ろへ乗せているというのに、平助はいつも決まってこんな風に、少しだけ躊躇うように遠慮がちに腕を回してくるのだ。原田の服の布地をきゅっと掴むそのささやかな力が、背中越しの体温とともに伝わってくる。
 慣れねえもんだな。平助も、……俺も。
 その初々しい反応に、原田はヘルメットのシールドの下でどうしようもなく口元を緩めながら、ゆっくりとバイクを発進させる。
 このまま速度を上げ、行けるところまでどこまでも駆けていきたい。けれど、それ以上に、この時間を少しでも長く、長く、続けていたかった。万が一にも平助を吹っ飛ばさないよう、原田は一人で乗る時より慎重にアクセルを回し、夏の夜風を切りながら二人で帰路についた。

 家へ着いて順番に手洗いを済ませると、すっかり定着した日課のために各々動き出す。平助が手際よく台所に立って夕食の支度を始め、その間に原田が洗濯物を取り込んでから、畳んだばかりのタオルを手に風呂場へ向かって浴槽を洗い、冷めるのを見越して温度を数度上げたお湯を張る。どちらかが言い出した訳ではなく、二人で過ごすうちに自然とそうなった。
 そうして風呂の準備を終えてリビングへ戻ると、既に食卓には美味そうな匂いを立てる夕食が並べられていた。
「いただきます」と向かい合って箸を取ったところで、原田はふと思い出したように口を開いた。
「そういや、おまえ今度の週末って空いてるか? 新八が手伝って欲しいことがあるみたいなんだが」
……週末、ですか?」
 平助は箸を止め、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「すみません。その日はもう、予定が埋まってて……沖田くんから近所の子どもたちとお祭りに行くから、一緒に来ませんかと誘われているんです」
「あー、子守りか?」
「そうですね。僕としては遊ぶ側に加わるより、斎藤さんや、それから昔お世話になった山南先生も運営を手伝うそうなので、何か補佐できればと思っているんですが」
 すでに先約があるなら仕方がない。原田はそう思いながらも、ならばせめて、と帰宅したとき玄関へ置いたばかりの、平助用のヘルメットを思い浮かべた。
……結構遠くまで行くなら、行きか帰りくらい乗せてやろうか。せっかくおまえのヘルメットも買ったんだしよ」
 さりげなく持ちかけてみたものの、平助は困ったようにふわりと笑って首を振った。
「山南先生が車を出してくださるそうですし、わざわざ来てもらわなくても大丈夫ですよ。大変でしょうし」
「んー……俺としちゃ、ただ、平助をバイクの後ろへ乗せる理由が欲しいだけなんだが」
「は」
 包み隠さず赤裸々にその本音を伝えると、平助は目を丸くしたあと、冗談だと思っているのかほんのりとだけ耳を赤くして苦笑した。
「そう言っていただけるのは嬉しいですけど……かなり遠い場所だそうですから、やっぱり駄目です。それに、原田さんも別の場所で手伝いがあるんでしょう?」
 ピシャリと断ってくる生真面目な平助に、原田は少しだけ不満げに鼻を鳴らす。
「大体、どこまで行くんだよ。遠い遠いって言うけどよ」
「えっと、多摩川沿いにある公民館の隣の広場です。日野の方まで行くのは久しぶりなので、少し時間がかかるかと……
…………あ? 日野?」
「原田さん?」
 平助の口から出た地名を聞いて、原田は思わず箸を止めて眉間を寄せた。今、平助が答えた場所。それは、つい先ほど新八から聞いた交流会の会場がある地域だったからだ。
「ちょっと待て。おまえ、それ……新八の言ってたとこかもしんねえ」
「はい?」
 食卓を挟んでしばらく互いの顔を見つめ合い、それから揃ってスマホを取り出したのだった。原田は先に新八の名前を呼び出し、再びスマホを耳へ当てた。平助もその向かいで沖田とのトーク画面を開いているが、まずは原田の通話を待つつもりらしく、箸を置いたままじっとこちらを窺っている。
 数回の呼び出し音のあと、電話はすぐに繋がった。少し耳から離して平助にも聞こえるようにスピーカーへと切り替える。
『なんだよ。もう平助に聞いたのか?』
「聞いた。聞いたんだけどよ、その日は予定があるらしい」
『そうか……。そりゃ残念だが仕方ねえな。会いたかったんだがな』
 わかりやすく落胆した声になった新八に、平助が肩を揺らす。もに、と緩みそうになるのを堪えるように微妙にその口元が歪んだ。
「その事でちょっと確認なんだが、おまえが言ってた場所って、多摩川沿いの日野にある公民館の隣で合ってるか?」
『ああ、そうだぞ。公民館の名前は――
 新八の口から告げられた名前に目配せをすると、丸く開いた目を数回瞬かせて平助は頷いた。それだけで察するには十分だ。
「同じだな?」
……はい」
『あ? 何が同じなんだよ』
「平助も、その日ダチと一緒にそこへ行くんだと。近所のガキが集まる催しだって聞いてるみてえだが」
……じゃあ同じやつじゃねえか。なんだ、平助も来んのか! 来るなら最初から言えってんだよ。そうすりゃ、左之助を誘うのももっと楽だったのによ』
「結局俺を巻き込むのは変わらねえじゃねえか」
『いいだろ。どうせ平助と一緒なら来るんだろ? なら左之助も働け。俺一人で鉄板の前に立たされんのは御免だからな』
「おまえが任された仕事だろうが」
 途端に嬉しそうな新八に、とうとう平助の口元が緩んでいる。身を乗り出す素振りを見せたので、スマホをちょうど真ん中にくるように机の上に置いてやる。
「え、ええと……。僕もまさか、永倉さんがいらっしゃるとは思いませんでした。沖田くんの知り合いですか?」
『沖田? 悪ぃ、それが平助のダチか? 俺は土方って野郎に呼ばれてよ。聞いてんのは、子ども会の集まりで焼きそばを焼けってことと、まだ人手が足りねえから使えそうな知人を連れてこいってことだけだ』
 新八の声には、取り繕った様子のない驚きが滲んでいる。少なくとも、原田と平助を揃って連れてくるために、何かを仕組んだわけではないらしい。
「土方さん……?」
 その名前に聞き覚えがあったのか、平助が小さく呟いて眉を寄せた。
「んじゃ、おまえを誘った奴も、他に誰が来るかまでは知らねえのか」
『さあ……。土方がどこまで把握してんのか俺は何も聞いてねえ。取り敢えず、平助は向こうですでに人数に入ってるみてえだし、左之助が増えるってことだけ伝えとくぞ』
「任せた」
「ああ、……楽しみだな」
 それから新八は、機嫌のよさそうな笑い声を残して通話を切った。原田のスマホの画面がホーム画面へと戻ると、それを待っていた平助が今度は沖田へ電話をかける。ほどなくして相手が出たらしく、平助は姿勢を正した。
「もしもし、沖田くん。少し確認したいことがあるんだが、お祭りって子ども会のバーベキュー交流会で合ってるか?」
————てますよ。どうかしました?』
 途中でスピーカーに切り替えたのか、沖田の明るい声が部屋に響く。
「やっぱりそうなのか。原田さんも永倉さん——ああ、えっと、友達と一緒に同じ場所へ手伝いに行くみたいなんだ。もしかしたら同じイベントじゃないかって」
 電話の向こうで、一瞬の間が空いた。
『えっ、原田さんも来るんですか!? ……ていうか今、永倉さんって言いました?』
「ああ。土方さんって人から永倉さんへ話がいって、そこから原田さんも誘われたみたいで……あれ、沖田くんは、永倉さんを知ってるのか?」
『あ、ああ〜……いえ、直接の知り合いではありませんよ! 土方さんが仕事関係の人にも声をかけたって話していたので、そのとき名前を聞いた・・・だけです』
 妙に強調された言葉のあと、電話の向こうで僅かに衣擦れの音がした。
『イテェ、抓るな、悪かった』
 通話を通して微かに聞こえた低い声に、平助と目配せをする。どうやら土方とやらとちょうど一緒にいるらしい。
……土方さんって、やっぱりいつも沖田くんが話してる、あの土方さんなのか?」
『そうみたいですね。そもそも私と土方さんが、近藤さんから人手を集めるように頼まれていましたし』
「近藤さんは、沖田くんが通っていた道場の先生だよな。前にも何度か話してた」
『はい。今でも道場をやっているんですけど、そこへ通っている子どもたちを交流会へ連れていくことになっていて。藤堂さんにも一緒に来てもらえたら、子どもたちが喜ぶだろうと思って誘ったんですけど……ふんふん、そうですか、原田さんと永倉さんも!』
 平助はスマホを耳へ当てたまま原田を見る。沖田もまた、土方が仕事関係から誰を連れてくるのかまでは、詳しく知らなかったらしい。原田は新八から誘われ、平助は沖田から誘われた。別々の経路から届いた二つの誘いが、偶然、同じ日に同じ場所で開かれる一つの催しへ繋がっていたのだ。
『そういうことなら、ちょうどよかったです。原田さんなら、子どもたちにもすぐ懐かれそうですし……大きいですから、置いておくだけでも目印になりますし!』
「聞こえてるんすけど」
 平助のスマホから漏れた声へ低く返すと、向こうから楽しそうな笑い声が返ってくる。
『山南先生の車にも、まだ乗れると思いますよ。私から確認しておきましょうか?』
 沖田の声がスマホから漏れた途端、原田はふと平助へ目をやった。
 別の場所へ迎えに行くというならともかく、二人とも同じ家から、同じ会場へ向かうのだ。原田自身も手伝いへ行く以上、平助を後ろへ乗せていったところで、わざわざ遠回りをすることにはならない。
 その視線に込めた意図が伝わったのか、平助は僅かに目を瞬かせたあと、沖田へ答えた。
「あー……ありがとう。でも、山南先生には、僕から連絡しておくよ」
『そうですか? 分かりました。では、また当日に!』
 平助が礼を言って電話を切る。食卓の上へスマホを置いたあと、二人は改めて顔を見合わせた。
……結局、一緒に行けるのな」
 原田が笑うと、平助も可笑しそうに目元を緩める。
「ですね。まさか同じ場所だったとは思わず……こんな偶然もあるんですね」
「なら改めて、……一緒に行くか?」
 原田は廊下の先、玄関に並べて置かれた二つのヘルメットへ顎をしゃくる。
「俺も同じ場所に行くんだから後ろに乗ってきゃいい」
 平助も原田の視線を追い、つい先ほどまで被っていた、まだ新しい自分用のヘルメットを見る。
……そう、ですね。わざわざ山南先生に迎えに来てもらう手間も省けますし、その方がいいかもしれません」
「おう。最初からそうしろっての」
「最初は同じ場所だと知らなかったでしょう」
 平助は少し呆れたように笑いながらも、今度は断ることなく頷いた。
「では、山南先生には、車へ乗せていただかなくても大丈夫だと僕から連絡を入れておきますね。……バイクで遠くまで行くのも、楽しみです。いつもは科学館から家まで、思っていたよりすぐに着いてしまいますから」
……そ、うだな」
 平助はそれが何でもないことのように言って、再び箸を動かし始めた。
 けれど、すぐに着いてしまうということは、つまり、平助もまた――原田の後ろに乗っている時間を短いと感じていたということではないか。
 その言葉を心の中で反芻しているうちに、口元が勝手に緩んでいく。平助に気づかれないよう俯き、誤魔化すように飯をかき込んだものの、その日の夕食がいつも以上に美味く感じられた理由は、きっと料理の腕だけではなかった。


 それから週末までは、あっという間に過ぎた。迎えた交流会当日——朝から既に気温は高く、雲一つない青空から容赦なく夏の日差しが降り注いでいた。
 原田と平助はそれぞれヘルメットを被り、公民館へ向かう準備を整えていた。日帰りとはいえ、普段の通勤や近所への買い出しよりもずっと距離がある。原田は前日のうちにガソリンを入れ、タイヤの空気圧や車体の調子も一通り確認してある。平助もまた、着替えやタオル、飲み物の入った鞄を手に、忘れ物がないか何度目かの確認をしていた。
「本当に、身一つで行っていいんですかね。何か持っていった方がいいものがあるんじゃ……
「俺らはそれでいいんじゃねえの。道具やら食材やら、嵩張るもんは新八がいつものバンに纏めて積んでくって言ってたしな。向こうで足りねえもんがあったら、身体使って働けってことだろ」
「永倉さん、あの大きな車で来るんですね。こういうときは便利そうだな……僕も、車の免許を取ろうかな」
 何気なく零された言葉に、原田はヘルメットの顎紐を締めながら平助を見る。
「取ってねえのか。仕事で使うこともありそうなのに」
「一度、取ろうとはしたんですけど……斎藤さんと沖田くんに止められたんです」
「そりゃまた、なんでだ? 平助ならすぐ取れそうなのに」
 平助はどこか不服そうに口を尖らせる。
「ブレーキを覚えてからにしろって……
 原田はヘルメットのシールドを上げたまま、きょとんと目を瞬かせた。
「は? どういうことだ?」
……おまえは車に乗ったらアクセルしか踏まないだろうって。車の運転の前に、まず自分自身のブレーキの踏み方を覚えるところから始めろって……二人して寄ってたかって馬鹿にしてきたんです!」
 理不尽だとばかりに頬を膨らませる平助に、原田は思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「そりゃそうだろ。止まり方も知らねえ奴を公道に出せるか」
「僕だって、止まり方くらい分かりますし、運転すると決まればちゃんと慎重にするのに……
 ぶつぶつと文句を言い募る平助を見下ろしながら、なるほど、彼らの言わんとしていることは痛いほどよく分かる、と内心で頷いておく。普段は遠慮がちで生真面目なくせに、自分の興味のある分野――例えば星の軌道のこととなれば、深夜の二時だろうが後先考えずに一人で外へ飛び出そうとするのだ。この男はこうと決めたら一直線に突っ走る、ひどく不器用で危なっかしい生き物であることを、原田はこれまでの同居生活を通して身をもって体感している。
 とはいえ、そんな周りが見えなくなる危なっかしさもひっくるめて目が離せないのだから世話はない。呆れと愛しさを誤魔化すように、原田はバイクのエンジンをかけた。
「よく分かんねえけど、とりあえず今日は大人しく俺の後ろ乗ってろ。そら、」
……わかりました」
 後部座席を親指で示すと、平助はまだ納得していない顔のままバイクへ近づいて原田の後ろへ跨った。
 普段、科学館から家まで帰るときには、少しだけ躊躇いながら服の裾を掴み、遠慮がちに腕を回してくる。しかし今日は、街中を抜けたあと、交通量の多い幹線道路や郊外の広い道を長く走る予定だ。
「今日はいつもより長えし、途中から速度も出るからな。ちゃんと掴まってろよ」
「はい。このくらいで大丈夫ですか?」
 言われたとおり、平助は最初から原田の腰へしっかりと両腕を回した。いつもより隙間なく身体を寄せられ、背中へ体温がぴたりと触れる。
 原田は一瞬だけ息を止め、それから何事もなかったようにハンドルを握り直した。
……おう。それなら落ちねえよ」
 平助本人は安全のために掴まっているだけで、他意はないのだろうが、どうしたって腰へ回された腕を意識せずにはいられない。緩みそうになる口元をヘルメットの中へ隠し、原田はゆっくりとバイクを発進させた。

 最初は、毎日のように通る見慣れた市街地が続く。けれど幹線道路へ出てしばらく走るうちに、高い建物は少しずつ減り、道の両側には低い住宅や畑が増えていった。遠くには青々とした山並みが見え、風の中にも、熱を溜め込んだアスファルトだけではなく、草や湿った土の匂いが混ざり始める。
 平助は景色が変わるたび、原田の肩越しから興味深そうに周囲を見回していた。広い道へ出て原田が少し速度を上げると、腰へ回された腕にも力が加わる。緊張したのかと思い、信号待ちで停車したところで、原田は僅かに顔を横へ向けた。
「怖くねえか?」
「全然。もっと速くても大丈夫ですよ」
 間髪を容れずに返された声は、怖がるどころか明らかに弾んでいる。
「へーすけ、さっきブレーキ覚えろって言われてた理由、今ので大体分かっちまったわ」
「どうしてですか。速い方が風も気持ちいいですし、景色もどんどん変わって楽しいでしょう」
「いやまあ、わかるけどよ」
「それに、原田さんが運転してるんだから大丈夫ですよ」
「おまえなあ……
 呆れながら返したものの、自分へ全幅の信頼を置いているような言葉が、悪い気はしない。
「ちゃんと制限速度は守るからな。調子に乗って煽んなよ」
「分かってます。……でも、もう少しくらいなら出せますよね?」
「出さねえよ。おまえは黙って景色見てろ」
 そう言いながら再び発進すると、平助は楽しそうに笑い、原田の腰へ回した腕を改めてしっかりと締め直した。
 市街地を抜けたあとの道は、信号も少なく、長く伸びた緩やかなカーブが続く。平助は原田の動きに合わせて自然に身体を傾け、速度が上がるほど怖がるどころか、むしろ楽しげに周囲を見渡している。
 免許を止められた理由が、原田にもよく分かった。危険を怖がらないというより、一度進むと決めたら、その先にあるものへ夢中になって止まることを忘れてしまうのだろう。今も原田が前で手綱を握っていなければ、〝もう少し〟〝もっと前へ〟と際限なく進みたがりそうな気配がある。
「大体、たかが時速百キロや二百キロの世界じゃないですか。そんなんじゃ月に行くのにも百日かかりますよ」
「んはは、バグってんな。おまえやっぱ免許取らねえほうがいい」
「な……原田さんまで、そんなこと言うんですか」

 やがて公民館が近づくと、道端に子ども会が用意した手作りの案内板や、色紙で作られた飾りが見え始めた。広場にはすでに幾つものテントが並び、遠くから子どもたちの賑やかな声や、金属の器具を運ぶ音が聞こえてくる。
 駐車場へ入ると、新八の大きなバンが真っ先に目へ入った。後部扉は開け放たれ、鉄板や折り畳み机、食材の入った箱が所狭しと積まれている。その傍では、新八が汗を流しながら荷物を降ろし、少し離れたところから見知らぬ男が次々と指示を飛ばしていた。
「ほらな。やっぱり新八の奴、バンごと荷物持ちにされてやがる」
「隣にいるのが、土方さんでしょうか」
「多分そうだろうな。新八が文句言いながら素直に働いてるし」
 原田がラインカーで引かれた白線の内側へバイクを停め、エンジンを切る。走行音が途切れると、それまで風に紛れていた周囲の声が一気に近づいてきた。原田の腰へ回されていた腕がするりと解けて、後部座席から気配が地面へ降りる。原田もバイクを支えながら振り返り、平助がヘルメットを外すのを待つ。
 そのとき、広場の方から子どもたちを引き連れた沖田が歩いてきた。子どもたちの手首には迷子防止らしい揃いの紐が結ばれており、引率役の沖田自身も、彼らと変わらないほど浮かれた顔をしている。
 こちらへ気づいた沖田は一度目を丸くし、それから原田のバイクと、隣に立つ平助を交互に見た。
「本当に二人でバイクに乗ってきたんですね」
「原田さんも同じ場所へ行くんだから、乗せてもらった方が早いだろ」
 平助が当然のように答えると、沖田は何か面白いものでも見つけたように目を細める。
「確かに。でもバイクの二人乗りって怖くないですか?」
「全然。普段から乗せてもらってるし、もっと速くてもよかったくらいだ」
「おまえは余計なこと言うな」
 原田がすぐさま遮ると、沖田は声を上げて笑った。
「やっぱり藤堂さんに免許を取らせなくて正解でしたね。ね、斎藤さん」
「だから、僕だって自分で運転するときは慎重にするって言ってるだろ!」
 不服そうに眉を寄せる平助の向こうから、氷を入れた発泡スチロールの箱を抱えた斎藤が姿を現す。
「な〜に、平助、普段から左之助の後ろに乗ってんの? よくこれ乗せて無事だねえ」
「ちょっと人を危険物みたいに言わないでくださいよ」
 へらへらと笑いながら返す斎藤へ平助が言い返し、沖田も子どもたちと一緒になって笑う。
……まぁ、僕としちゃ左之助の運転にもあんまり良い印象ないけど」
 思わぬ流れ弾に、原田は眉を寄せた。斎藤に見られた覚えはない。だが実際、気分が高揚したときや、一人で夜道を走っているときには、つい調子に乗ってアクセルを開けすぎたことが何度かあった。そんな走り方を知るはずもない男から不意に核心を突かれ、背筋に冷たいものが走る。
……大事なもん乗せてたら、慎重にもなりますよ」
 内心の動揺を悟られないよう、原田はわずかに間を置いてからそう返した。斎藤は発泡スチロールの箱を抱え直しながら、わざとらしく肩を竦める。
「へえ、大事なもんね。そりゃあ随分と丁寧に運んできたことで」
「斎藤さん」
 意味ありげに繰り返された言葉に、平助が僅かに耳を赤くして咎める。けれど斎藤は素知らぬ顔で笑うばかりだった。
「何さ。安全運転は良いことだって褒めてるだけでしょ?」
「その顔で言っても、全然そうは聞こえません」
 平助が呆れたように言い返したところで、沖田の服の裾を握っていた子どもたちが、早く行こうと一斉に引っ張り始めた。
「沖田先輩、水鉄砲どこ?」「早くやろうよ!」
「はいはい、まだ始まってませんからね。そんなに引っ張らなくても逃げませんよ」
 宥めながらも、沖田自身の声も子どもたちに負けないほど弾んでいる。
「藤堂さん、あとで絶対に水鉄砲をやりましょうね。土方さんの射的もありますよ。斎藤さんも、かき氷のところに籠もってないで来てください」
「いやあ、僕が子どもに混ざって遊ぶような歳に見える? 沖田ちゃん。そういうのは平助を連れていきなよ。僕は涼しい顔して氷でも削ってるからさ」
「あんた僕と同い年だろ。……というか、僕も手伝いに来たんですけど」
「手伝いながら遊べばいいじゃん。たまには大人気なく羽目を外して遊んだら?」
「おや! 去年、土方さんに煽られて射的の景品を全部取ろうとした人が、よく言いますねえ」
 すぐさま沖田に言い返され、斎藤は何のことだか分からないとばかりにへらへらと笑った。沖田もそれ以上構っている暇はないらしく、子どもたちに両側から引っ張られながら、広場の奥へと連れていかれる。
 斎藤もまた、「じゃ、僕はこれ溶ける前に置いてくるから」と発泡スチロールの箱を抱え直し、かき氷と書かれた手作りの看板が立つタープへ向かっていった。その背中を見送り、平助がぽつりと呟く。
……あの人、暑いから氷に囲まれるかき氷を手伝うことを選びましたね」
「絶対そうだな」
 原田が頷きながら改めて辺りを見回す。
 公民館に隣接した広場には、大きなタープやバーベキューコンロが並び、受付には子どもたちの描いた手作りの看板が置かれていた。軒下では色紙の輪飾りが揺れ、タープの柱には夕方から灯すらしい小さな提灯やランタンが吊るされている。
 広場の中央では家族連れが肉や野菜を焼く準備を進め、その周囲には射的、ヨーヨーつり、水鉄砲、わたあめ、かき氷といった小さな縁日の区画が設けられていた。
「総司! 子どもたちを走らせるな。まだ道具を運んでいる途中だぞ!」
 人混みの向こうから、よく通る声が飛んできた。声の主は、整った顔立ちのすらりとした壮年の男だった。人好きのする笑みを浮かべ、周囲へ手際よく指示を出している。
「多分、あの人が近藤さんです」
 平助が小声で教えてくれた直後、近藤はこちらへ気づいたらしい。そばにいた保護者へ一言断り、二人のもとへ歩いてきた。
「君たちが原田君と、……藤堂君・・・だな。……初めまして、近藤勇だ。歳や総司から、話は聞いている。今日はよろしく頼む」
「初めまして、藤堂平助です。こちらこそ、今日はよろしくお願いします」
「原田左之助です。新八……向こうの、焼きそば焼いてるヤツに連れてこられたようなもんですけど、使えるところがあれば何でも言ってください」
 差し出された手を握ると、近藤は原田の返事を気に入ったらしく、豪快に笑った。
「はははは! そうか、そこが繋がって……ああ、いやすまん。永倉君も、本当によく来てくれたと思って。……本当に、頼りにしている」
 挨拶を交わしている間にも、近藤のもとへ次々に人が集まってくる。
「近藤さん、今年もよろしくお願いします」「うちの子がまた射的を楽しみにしていて」「近藤さんのところのお兄さんたちが来てくれると、本当に助かるよ」
 近藤は声をかけてきた一人ひとりの顔を見るなり、迷うことなく名前を呼んだ。子どもには学校や稽古のことを尋ね、保護者には家族の近況まで覚えている様子で応じている。
「すまない、またあとでゆっくり話そう。まずは二人の持ち場を確認してくるから、少し待っていてくれ」
 そう言い残し、今度は転びかけた幼い子どもを支えるために駆けていく。沖田から聞いていた限りでは、近所で道場を開いている男という程度の認識だったが、こうして実際に姿を見れば、それだけではないらしい。子どもたちは当たり前のように近藤へ駆け寄り、保護者たちも困ったことがあれば真っ先に彼を頼っている。道場へ通っているかどうかにかかわらず、長い年月をかけてこの土地の人々と関わり、信頼を積み重ねてきたことが窺えた。
「藤堂くん。久しぶりですね」
 穏やかな声に呼ばれ、平助がぱっと振り向いた。
「山南先生! ご無沙汰しています」
 眼鏡をかけた柔和な男が、食材の一覧らしいバインダーを手に歩いてきた。平助は原田へ向けていたものとはまた違う、どこか懐かしそうな笑顔を浮かべた。
「元気そうで安心しました。科学館の仕事はどうですか?」
「忙しいですけど、楽しいです。今は最終投影の解説を任せてもらうことも増えて、少しずつですけど、自分で組み立てた内容も話せるようになりました」
「そうですか。それはよかった。君は昔から、星の話をしているときが一番生き生きしていましたからね」
 かつての教え子の成長を喜ぶように、山南が目元を柔らかく緩める。
「先生の方は、お変わりありませんか?」
「ええ。相変わらずですよ。今年も新しい生徒たちに振り回されています。そういえば、今年の部員のひとりがプラネタリウムに興味を持っていたので、そのうち君の後輩たちを連れて科学館にお邪魔するかもしれません」
「本当ですか? それなら、いつでも。事前に人数だけ教えていただければ、案内しますよ。僕の方でも館長に相談しておきます」
「ありがとうございます。そのときは、ぜひお願いしましょう」
 山南は平助の現在を気にかけている一方で、いつまでも子ども扱いしているわけではない。平助もまた、恩師への敬意は崩さず、それでも以前よりずっと対等に近い立場で自分の仕事を話しているようだった。
「ところで、こちらが原田さんですね?」
 山南が原田へ目を向ける。
「初めまして。山南と申します。藤堂くんから、時々ですがお話は聞いています」
……俺の話ですか? 何を聞いてるのか、ちょっと怖えんですけど。原田です。今日はよろしくお願いします」
「悪い話ではありませんよ」
 山南は穏やかに笑ったが、隣で平助が僅かに視線を逸らしたのを、原田は見逃さなかった。
「平助、おまえ何話したんだよ」
……別に、変なことは何も言ってませんよ……
「その反応、絶対何か話してんだろ」
「だから、本当に大したことじゃありませんって」
 二人のやり取りを、山南はどこか微笑ましそうに眺めている。けれど、その会話は長く続かなかった。
「山南先生、すみません。ちょっと確認してもいいですか?」
 どうも保護者から食物アレルギーについて声をかけられているようで、山南はすぐに食材表を確認し始める。近藤だけでなく山南もまた、学校の外まで含めてこの地域の人々から慕われ、頼られているらしい。保護者に呼ばれた山南がその場を離れたところで、少し離れた鉄板のそばから大きな声が飛んできた。
——あっ、左之助! 平助!」
 振り向けば、食材の箱を抱えていた新八が、こちらを見て大きく手を振っている。近くの机へ荷物を置くと、鉄板の前を離れ、汗を拭いながらずかずかと歩いてきた。
「本当に二人揃って来たんだな! 平助は引越し以来か。元気そうじゃねえか!」
「永倉さん! その節は本当にお世話になりました」
「おう、気にすんな! 今度飯行ってくれりゃいいからよ。左之助はどうでもいいが、平助が来てくれんのは助かるぜ」
「おい。誘った相手に言うことかよ」
「おまえは肉と平助に釣られて来ただけだろうが」
 顔を合わせるなり始まったいつもの応酬に、平助が可笑しそうに笑う。その声を聞きつけたのか、子どもたちを連れて広場の奥へ向かったはずの沖田が、いつの間にか近くまで戻ってきていた。新八の顔をまじまじと眺め、それから平助へ確認するように視線を向ける。
「そちらが、電話で話していた永倉さんですね!」
「おう。そうだが……あー、おまえが平助のダチっつー沖田か?」
「はい、沖田さんです! 初めまして、藤堂さんからお名前は聞いていましたよ!」
 沖田は軽やかに頭を下げながら、その目は何かを確かめるように、新八の姿をじっと追っている。新八はその視線に気づく様子もなく、「おう、よろしくな」と気さくに返した。
「永倉、何勝手に持ち場を離れてやがる! 食材を運び終わってからにしろ!」
 鉄板の方から土方の怒鳴り声が飛んでくる。
「分かってるっつーの! 知り合いに挨拶くらいさせろや!」
「口を動かす前に手を動かせ!」
「おまえに指図される筋合いねえよ!」
 新八が負けじと怒鳴り返す。その様子を見ていた沖田が、堪えきれないように口元を綻ばせた。
「鬼だなんだと呼ばれてる土方さんと言い合える人、中々珍しいんですけどね」
「あァ? 話が通じねえから怒鳴ってるだけだ」
「ふふふ、土方さんも同じことを言うと思いますよ」
 そのとき、かき氷のタープへ箱を置いてきたらしい斎藤が、軽くなった両手をぶらつかせながら戻ってきた。
「何、また土方さんと誰か喧嘩してんの? 鴨でも出た?」
「いいえ、出たのは龍の方です」
 気怠そうに声をかけながら近づいてきた斎藤は、新八の姿を目にした途端、僅かに足を止めた。ほんの一瞬だけ、その目からいつもの胡散臭い笑みが消える。だが、次に瞬きをしたときには、すでに普段どおりのへらへらとした表情へ戻っていた。
「あ〜……らまぁ。……どぉも、初めまして・・・・・。斎藤って言います。今日は同じところで働くみたいなんで、まあ仲良くやりましょ。焼きそば、余ったら僕にも取っといてくださいよ〜」
 妙に愛想のいい笑みを浮かべ、斎藤が軽い調子で頭を下げる。が、その瞬間、新八の肩がぶわりと大きく跳ねた。
「何だその喋り方気持ちわりぃな! 鳥肌立ったわ。見てみろ平助」
「ウワッ、ちょっとそんなもん見せないでくださいよ……斎藤さんってこんなんでしたっけ?」
「初対面相手は大体いつも胡散臭いですよ。根っこが短気だから向いてませんのに」
 ひそひそと小声でやり取りを続ける沖田と平助を前に、斎藤の貼りつけた笑顔が僅かに引きつる。
……は〜? いや、初対面でそこまで言う? 僕だって一応、大人しくしてやってんのにさ。……相変わらず失礼な奴だなぁオイ、新八はよ」
 苛立ちに任せて吐き捨てた直後、斎藤自身が口を閉ざした。新八もまた、ぴたりと動きを止める。
「あ?」
 低く漏らしたきり、しばらく斎藤の顔を凝視していた。へらへらと笑う口元。人を食ったような話し方。何かを探るように細められた瞳。——次の瞬間、新八の目が大きく見開かれた。
…………おまえ、藤田・・か?」
————、」
 擦れた声が、広場のざわめきの中へ落ちる。斎藤は答えなかったが、その間にも新八の顔から急速に血の気が引き、視線だけが忙しなく周囲を彷徨う。まず目の前の斎藤を見て、それから、その隣にいる沖田へ。
「沖田……、だけじゃねえな?」
 次いで、広場の中央にいる近藤、少し離れた保護者と話している山南、鉄板のそばでこちらを睨んでいる土方へと視線を巡らせる。
 そして最後に、原田と、その隣に立つ平助を見た。
「左之助……
 原田の名を呼び、それから平助へ視線を移した瞬間、新八の顔が大きく歪んだ。
「へい、すけ……?」
 信じられないものを見るように、何度も平助の姿を見返している。
「何で、おまえら……なん、おま……おまえら、ここに……
「新八?」
 異様な様子に原田が声を掛けても、声が震え言葉が続かないようで口をはくはくと動かすだけだった。驚いただけとは到底思えない。喜びも、後悔も、悲しみも、何もかも一度に押し寄せたような顔をしている。とりわけ平助へ向けられた目には激しい動揺が滲んでいた。
「今なの? いやいや、よりによって今ァ!?」
 新八の様子を凝視していた斎藤が、珍しく笑みを消して顔を引き攣らせる。次の瞬間には、沖田と斎藤が息を合わせたように新八の両側へ回り込み、その腕を一本ずつ掴んだ。
「永倉さん、交流会が始まる前に少し落ち着きましょう。ここで騒ぐと子どもたちや保護者の方に心配されますから、続きは人のいないところで話しましょうね」
「そんじゃ、新八。続きは裏で聞いてやるから、今は口閉じて歩こうか。これ以上ここで喚くなら、ちょっと強引に黙らせるけど」
 斎藤はへらへらとした表情へ戻っていたが、目だけはまったく笑っていない。
「待て、左之助も平助もいるだろ! おまえら、いつから知って――
「はいはい、それもあとで聞きますから」
「とっとと歩け、新八」
「引っ張るな! てめえら、ちゃんと説明しやがれ!」
 新八は声を上げながらも、沖田と斎藤に両側から腕を取られ、そのまま広場の裏手の方へと連行されていった。
………………
 その場に残された原田は困惑を浮かべたまま、ちらりと横目に隣を見ると、予想に反して平助は、その騒がしい後ろ姿を何も言わずに見送っていた。驚いていないわけではないのだろう。けれど、その横顔には新八のような激しい動揺も、原田のような戸惑いもない。ただ、風の止んだ水面のような、凪いだ表情をしている。
 ……まるで、こうしたことが起こり得ると、どこかで知っていたかのように。
……今の、何だったんだ?」
 原田が問いかけても、平助はすぐには答えなかった。遠ざかっていく三人の後ろ姿を最後まで見届けてから、ゆっくりと原田へ顔を向ける。
「分かりません。少なくとも永倉さんと斎藤さんは、今日が初対面のはずなんですけど」
「だよな。なのに斎藤さん、新八って呼んだぞ。新八も斎藤さんのこと知ってるみてえだったし……それに、俺らを見て、あの顔は何だよ」
 原田が眉を寄せる。新八とは数年の付き合いのはずなのに、あんな顔を初めて見た。そして、明らかにおかしいのはもう一人。
「平助。おまえ、何か知ってるか?」
……いいえ。僕も、詳しいことは何も」
「じゃあ、何でそんな顔してんだよ」
「そんな顔?」
「何つーか……驚いてねえみてえな」
 諦めた、みたいな。
 は、と少しだけ目を瞠ってから、平助は少し考えるように視線を逸らした。
……僕は、その、慣れてます・・・・・から」
「は?」
「沖田くんも斎藤さんも、隠してるみたいだけど、時々ああいう顔をするから……きっと、永倉さんもそう・・なんだと思います」
 そう言って、平助はほんの少しだけ笑う。
「ああでも、原田さんがそう・・じゃないなら……僕だけ仲間はずれじゃなくて安心しました」 
……何の話だ?」
……さあ、何の話でしょう」
 平助はそれ以上答えず、曖昧に首を振る。丁度その時、近藤がどこか居心地の悪そうな笑みを浮かべながら、原田と平助のもとへ戻ってきた。三人の消えた方向へ一度目をやったあと、近藤は空気を切り替えるように大きく手を叩いた。ぴん、と二人揃って背筋を伸ばす。
「さて! 待たせてしまったな。原田くんと平助の持ち場を説明しよう」
 いささか強引な話題の転換ではあったが、近藤自身もどう反応していいのか分からないのだろう。殊更明るい声で、広場の一角を指し示す。
「原田くんにはヨーヨーつりを頼みたい。水を張るタライはもう運んであるが、ヨーヨーを膨らませるところから手を貸してくれ。平助はわたあめだ。機械の使い方はあとで説明する。どちらも子どもが大勢集まるから、目を離さないように頼む」
「うす、了解です」
「はい。よろしくお願いします」
 二人が頷くと、近藤はどこかほっとしたように笑った。
「よし。分からないことがあれば、俺か歳に声をかけてくれ。それでは頼んだぞ」
 近藤はそれだけ言うと、今度は別の場所で呼ばれ、足早に広場の中央へ戻っていった。準備の音と人々の話し声が再び周囲を満たしていく。
「じゃあ原田さん今日は頑張りましょうね」
「おー……
 それぞれの持ち場を言い渡されると、平助はこれ幸いとばかりにわたあめの区画へ歩き出した。その背中を見送ってから、原田はヨーヨーつりの区画へ向かった。

 タープの下には、すでに水を張った大きなタライが二つ並べられている。その脇には、色とりどりの風船や留め具、ゴム紐、釣り針のついたこよりが入った段ボール箱が積まれていた。まずはヨーヨーを膨らませるところから取りかかる。小さなポンプの先へ風船を嵌め、水を入れてから空気を送り込む。適当なところで口を外し、留め具を噛ませてゴム紐を結ぶ。難しい作業ではないが、数を用意するとなれば、それなりに手間がかかる。
 原田はタライの前へ腰を下ろし、教えられた手順を何度か繰り返した。赤、黄色、緑、青。膨らませた風船を一つずつ水へ浮かべるたび、殺風景だったタライの中が少しずつ賑やかになっていく。小さな水音とともに波紋が広がり、すでに浮かんでいた風船同士がぶつかって、ゴムの擦れる軽い音を立てる。
 その間にも、広場のあちこちで準備は進んでいく。鉄板へガスボンベが繋がれ、バーベキューコンロには炭が並べられていた。開始を待ちきれない子どもが何度かタライを覗きに来ては、「まだだぞ」と原田に追い返されていく。
 同じ作業を繰り返すうちに、段ボール箱の中身は目に見えて減り、タライの水面も半分ほど色鮮やかなヨーヨーで埋まっていた。
「左之助。……さっきは悪かったな」
 顔を上げると、そこには新八が立っていた。公民館の裏へ連れていかれる前の取り乱しようはすっかり鳴りを潜め、新八の顔にはいつものアクの強さが戻っている。とはいえ、目元にはまだ僅かに赤みが残っていて、その少し後ろには、付き添うように斎藤の姿もあった。 
「いいけどよ。……おまえ、泣い——
「泣いてねえ! ちっと埃が目に入っただけだ」
「局地的に砂嵐でも起きてたか?」
「うっ、ぐ……っせぇよ!」
 新八が声を荒らげる横で、斎藤が肩を揺らして笑う。
「そうそう、ひどい埃でさあ。新八なんか両目からぼろぼろ水が出ちゃって、止めるのが大変だったんだよねえ」
「てめえ斎藤は、黙ァってろ! ぼろぼろは泣いてねえよ!」
 泣きはしたんじゃねえか。
 一通り怒鳴って気が済んだのか、新八は大きく息を吐いた。それから少しだけ気まずそうに頭を掻く。
「まあ、その……急に訳分かんねえこと喚いて、悪かった。今はもう大丈夫だ」
「本当かよ」
「おう。いつまでも呆けてられっか。俺は焼きそば焼きに来たんだからな」
 言い切る声は力強く、既に気持ちを切り替えているようだった。しかし、その視線の先では、平助がわたあめ機の前に立っていた。山南から割り箸の回し方を教わっているらしく、真剣な顔で機械の中を覗き込んでいる。薄く巻きつき始めた砂糖の糸に気を取られ、こちらの視線にはまったく気づいていない。
 新八は、そんな平助の姿をじっと見つめていた。先ほどのような激しい動揺はない。ただ、懐かしくて仕方がないものを見るように目を細め、赤みの残る目元を僅かに緩めている。
 何か言いかけるように唇を動かしたものの、結局は何も言わなかった。
……んじゃ、俺は戻るぞ。土方の野郎がまたうるせえからな」
「おう」
 新八は今度こそ、焼きそばの持ち場へ戻っていった。斎藤だけが、その場に残る。
「斎藤さんは戻らなくていいんすか」
「僕はまだ少しくらい平気。それよりさ」
 斎藤は新八の背中を見送り、へらへらとした笑みを浮かべながら、原田にだけ聞こえる声へ落とす。
「さっきのは、そんな大した話じゃないから。僕らと新八は、むかぁし、遠い昔に会ったことがあるだけ。本人も急に思い出して混乱したみたいだけど、もう落ち着いたから気にしなくていいよ」
 軽い口調だった。だが、その曖昧な説明で原田が納得すると、本気で思っているわけでもないのだろう。
「遠い昔、ねえ」
「そう。僕も沖田ちゃんも、ちょっと前に同じようなことがあってさ。新八もそれとおんなじ。別に左之助や平助が心配するようなことは何もない」
「親切にどうも」
 原田は手元のヨーヨーへ視線を戻し、風船の口へ留め具を嵌める。それから、何でもないことのように続けた。
「じゃあ俺からも一つ言いますけど、平助、気付いてます・・・・・・よ」
…………へえ?」
 返事までに、僅かな間があった。顔を上げれば、斎藤のへらへらとした笑みが貼りついたまま固まっている。
……そっか。気づいてたんだ」
 小さく零したあと、ようやく口元へ笑みを戻す。けれど、先ほどまでの軽薄なものとは僅かに違って見えた。わたあめ機の前にいる平助へ目を向けた。ちょうど山南の手を借りながら、どうにか丸くなった最初のわたあめを持ち上げたところだった。少し歪な出来を見て困ったように笑っているその顔には、何かを知っているような色など見当たらない。
 それでも斎藤の表情は、すぐには元へ戻らなかった。
「教えてくれてどうも、左之助」
「いえ。先日のメモのお返しです。借りは作らない方が良さそうなんで」
「可愛くないねえ」
「斎藤さんに言われたくないっすよ」
 斎藤は鼻で笑うと、今度こそかき氷の持ち場へ向かって歩き出した。原田は手元の作業を続けながら、斎藤の説明を頭の中で繰り返す。
 むかし、遠い昔に会ったことがある。……それだけで、新八があんな顔をするものなのだろうか。
 答えは出ないまま、タライの水面へ水色のヨーヨーを浮かべた。

 昼を過ぎる頃には、一般にも開放された縁日に惹かれ、広場へ地域の子どもたちや家族が次々に集まり始めた。
 やがて受付前へ人が揃うと、近藤が簡単な挨拶と注意事項を告げ、高らかに交流会の開始を宣言した。集まった人々から拍手が上がり、それを合図に、待ちかねていた子どもたちが一斉に目当ての屋台へ駆け出す。
 タープの下では肉や野菜が焼かれ、大型の鉄板から漂う焼きそばのソースと、肉巻きおにぎりの甘辛い匂いが炭火の煙に混ざって広場を満たしている。子どもたちは水鉄砲を手に駆け回り、暑さのせいか、かき氷の前には早くも列ができていた。公民館の軒下では色紙の飾りが風に揺れ、蝉の声が賑わいの向こうから絶え間なく響いている。
 原田のヨーヨーつりへ真っ先にやってきたのは、怖いもの知らずらしい数人の男の子たちだった。
「俺が最初!」「ずりぃ、俺も!」
「押すなって。そら、順番に並べ。ヨーヨーは逃げねえから」
 赤い髪にも大柄な体格にも臆することなく、我先にとタライへ群がってくる。原田は大きな身体をその高さへ合わせるように窮屈そうにしゃがみ込み、紙縒りを水へ浸けすぎないこと、針を輪へ引っかけたら焦らず持ち上げることを教えながら、一人ひとりへ手渡していった。
「なー、兄ちゃん、どれが一番取りやすい?」
「どれっつってもな……おまえは何色が欲しいんだよ」
「黄色」
「ならそいつはどうだ。端に引っかかってる奴なら動きにくい」
 その輪の少し後ろには、男の子の一人についてきた妹らしい幼い女の子がいた。兄の服の裾を握ったまま、原田とタライを交互に窺っていたが、紙縒りを渡されると、ようやくおずおずと水面へ下ろす。
 しかし、慎重になりすぎたのか、狙ったヨーヨーへ針を近づける前に紙が水を吸い、あっさりと切れてしまった。女の子は水へ沈んだ針を見つめ、泣きそうに唇を歪める。
「あらら、最初はそんなもんだ。次はもうちょい早く引っかけて、ゆっくり上げてみろ」
「でも、いっかいだけって……
「今のは練習だろ?」
 原田が新しい紙縒りを差し出すと、女の子は兄の顔を一度見上げてから、恐る恐るそれを受け取った。今度は先ほどより少しだけ前へ出て、慎重にタライを覗き込む。
 そんなやり取りを遠巻きに見ていた子どもたちも、暫くすると少しずつ集まり始めた。赤い髪と体格を怖がっていた幼い子まで、原田が怒らないと分かれば、すぐ膝近くまで寄ってくる。
「赤い髪のお兄ちゃん、見てて!」
「おう、見てる。焦んなよ」
「兄ちゃん、黄色! 取れた!」
「見えてるって。よかったな」
 好き勝手な呼び方で次々に声をかけられ、原田は面倒そうに返事をしながらも、そのたびに一人ひとりの手元をきちんと見てやった。

 その頃、他の持ち場もそれぞれ賑わいを見せていた。
 大きな鉄板の前では、新八が両手のヘラを豪快に操り、次々と焼きそばを仕上げている。麺を高く返すたびに子どもたちから歓声が上がり、新八はすっかり得意げだった。
「永倉! 麺を飛ばすんじゃねえ!」
「これくらい派手な方がガキは喜ぶんだよ!」
 土方に怒鳴られながらも、次に返す麺の高さは少しだけ控えめになっている。
 その土方が受け持つ射的も、初めは怖そうな店番を警戒していた子どもたちが、丁寧に構え方や狙い方を教えてもらえると分かるにつれ、次第に列を伸ばしていた。何食わぬ顔でその最後尾へ混ざろうとした沖田だけは、すぐに見つかる。
「総司、おまえは最後だ。まずガキどもにやらせろ」
「ちゃんと順番に並んでいるじゃないですか」
「景品を取り尽くす気の奴は並んでるうちに入らねえ」
 追い払われた沖田は、今度は子どもたちの水鉄砲へ加わり、引率役とは思えない本気ぶりで撃ち合いを始めていた。
 かき氷を担当する斎藤の周りには、子どもだけでなく、母親たちを中心に女性陣もよく集まっている。愛想よく話しかけられても適当に受け流しながら、注文された氷へ赤や青、緑のシロップをかけていく。
「全部混ぜて!」
「ほんとに? すごい色になるけど、あとで嫌だって言わない?」
「言わない!」
「じゃあ、まあ……本人がいいならいいけどさあ」
 何度も念を押して作った虹色のかき氷を子どもが喜ぶと、斎藤も少し困ったように笑った。
 穏やかな顔をした山南の手から次々と繰り出される巨大な肉巻きおにぎりも、その意外な迫力から評判を呼んでいる。育ち盛りの子どもや父親たちへ豪快な一品を手渡す一方で、「食べきれないかも」と不安そうな子には半分へ切り分け、残りを持ち帰れるよう丁寧に包んでやっていた。
 やがて射的へ戻った沖田は、手に入れた景品を高々と掲げ、子どもたちへ得意げに見せびらかす。
「見てください。一発で取れましたよ!」
「沖田ちゃん、引率って言葉の意味知ってる? 子どもの景品を奪う係じゃないんだけど」
「奪ってません。私もちゃんと並びました!」
 遠くから飛んできた斎藤の声へ、沖田がすぐに言い返す。そのやり取りに、周囲の子どもたちも一緒になって笑っていた。
 わたあめの区画にも、子どもたちの列が絶えることはなかった。祭りでよく見かける、あらかじめキャラクターの袋へ詰められたものではない。ガタガタと音を立てて振動する古びた機械の中で、砂糖が目の前で少しずつ形を変えていく。その様子が珍しいのか、子どもたちは一様に目を輝かせていた。
「もっと大きくして!」「きのこみたいな形がいい!」「白とピンク、両方入れて!」
「一度に言わないでください。順番に作りますから」
 平助は困ったように笑いながらも、無理のある注文へ一つずつ応えていく。割り箸を回すたび、細い砂糖の糸が幾重にも絡まり、白くふわふわと膨らんでいった。
「お兄ちゃんの髪、わたあめにそっくり。美味しそう!」
「残念ながら、これは甘くないから食べられないよ」
 そう答えて笑うと、子どもたちもつられて声を上げる。平助は出来上がったわたあめを手渡し、次の注文を聞くためにまた機械へ向き直った。

 少し離れたヨーヨーつりの区画から、原田はその姿を何度も盗み見ていた。目の前の子どもたちへ気を配りながら、ふと顔を上げれば、淡い髪を揺らし、白いわたあめに囲まれて笑う平助の姿が目に入る。
 そのまま会場全体へ視線を巡らせるうち、原田は何度か小さな違和感を覚えた。
 近藤が一声かければ、皆が細かく相談することもなく動き出す。土方が短く指示を飛ばせば、沖田や斎藤は文句を言いながらも迷わず従った。新八も先ほどまで反発していたはずなのに、列が伸び始めると、土方に言われる前から必要な量の麺を鉄板へ追加している。山南は誰が疲れているかを自然に見極め、子どもだけでなく、手伝いの大人まで休憩へ回していた。平助もわたあめを作る合間に周囲を見て、袋や紙皿、釣り銭が足りなくなれば、言われる前に補充へ動いている。
 見れば見るほど新八や平助まで、初参加とは思えないほど自然にその輪へ馴染んでいた。まるで、互いの動きを知り尽くしているかのように。
 けれど、交流会は忙しい。
「お兄ちゃん、切れた!」「取れたから見て!」「次は何色がいいと思う?」
「あー、分かった分かった。一人ずつ言え!」
 違和感の正体を考えかけるたび、原田は次々と子どもたちに呼ばれ、その思考を中断させられた。

 やがて夕方が近づくにつれ、広場の賑わいも少しずつ落ち着き始めていた。昼から遊び続けた子どもたちは家族と日陰で休み、長く伸びていた屋台の列も途切れている。傾いた日差しがタープの影を延ばし、昼間より涼しくなった風が軒下の飾りを揺らしていた。
 そのとき、公民館の裏手から、ガシャァン、と硬いもの同士が激しくぶつかる音が響いた。
……っ!」
 原田の目の前にいた幼い子どもが、大きく肩を跳ねさせる。その手には、つい先ほど苦労して釣り上げたばかりの赤いヨーヨーが握られていた。驚いた拍子に指が開き、あ、と思ったときには、ヨーヨーがゆっくりと地面へ落ちていくのが見えた。硬い土にぶつかって一度大きく弾んだ——次の瞬間、ゴムが破裂した。
 中に入っていた水が原田の足元へ飛び散り、乾いて白っぽくなっていた土を濃い色へ変えていく。その上へ、裂けた赤いゴムの欠片がぺたりと張りついた。
 ただの水だ。ヨーヨーが割れただけだと分かっているのに、地面へ広がる水からすぐに視線を外すことができなかった。……ほんの一瞬、目の前の光景が何か別のものへ重なりかけたような気がして。
 けれど、それが何なのかは分からない。
 胸の奥に残った引っかかりを確かめる間もなく顔を上げると、周囲の空気はすでに一変していた。
 近藤は傍らの子どもを背後へ庇い、土方はいつの間にかその前へ立っている。沖田は笑みを消して子どもたちを自分の後ろへ下がらせ、斎藤は僅かに腰を落としながら、音のした方角と周囲の出口へ視線を走らせていた。山南もまた、周りにいる子どもたちの人数を確かめている。
 新八も、原田がこれまで見たことのない顔をしていた。鉄板の前に立ったまま、鋭い目で裏手を睨み、無意識に右手を左腰へ伸ばしている。そこにあるはずの何かを探るような仕草だった。
 最後に、視線を向けた平助もまた、別人のように表情を変えていた。わたあめ機の前に立ったまま、右手で左手首を強く押さえている。左腕を身体の前へ引き寄せたその姿は、ただ驚いただけには見えなかった。柔らかな面影は消え、音のした方角を冷たく見据えている。
 同居二日目の夜、後ろ手で原田の手を掴んだときと同じ、研ぎ澄まされた鋭さがその目にあった。
「悪い、倒しちまった!」「誰か手ぇ貸してくれ!」
 張り詰めた空気を破るように、公民館の裏手から男たちの慌てた声が聞こえてきた。どうやら荷物を倒してしまっただけらしい。誰かに襲われたわけでも、大きな事故が起きたわけでもないと分かると、広場を満たしていた緊張が解けていく。
 近藤と沖田は怯えた子どもたちを宥め、土方と斎藤は短く目配せを交わして裏手へ向かった。山南は怪我人がいないか見て回り、新八は左腰へ伸ばしていた手を下ろし、気まずそうに何度か指を開閉させる。
 平助も、自分の左手首を押さえていた右手を静かに離した。それから何事もなかったようにわたあめ機へ向き直り、近くで身体を強ばらせている子どもの前へ屈む。もう大丈夫だと、穏やかな声で話しかけていた。先ほどの冷たい顔など、初めから存在しなかったかのように。
 けれど、原田の中には小さな違和感が残る。
 大きな音が響いた瞬間、誰一人相談していないのに、皆が互いの邪魔をせず自然に動いていた。新八も、平助も、初めからその輪の中にいたように馴染んでいる。
 ……結局、仲間はずれ・・・・・は俺だけか。平助だって、俺と同じ側にいるようなことを言っていたのに。
 新八が目を赤くして平助を見つめていた理由も、平助が左手首を押さえた理由も、足元へ広がった水から目を離せなかった理由も分からなかった。分からないことばかりが、胸の奥へ澱のように残る。妙に馴染みすぎている彼らの繋がりが、少しだけ鬱陶しかった。
 その時、原田の足元で、小さく鼻を啜る音がした。
 視線を落とすと、ヨーヨーを落とした子どもがその場に立ち尽くしている。大きな音への驚きが収まると、今度は苦労して取ったものを割ってしまったことが悲しくなったらしい。地面に残った赤いゴムの欠片を見つめ、今にも泣き出しそうに唇を引き結んでいた。
 原田は一度浅く息を吐き、まだ強張りの残っていた身体の力を意識して抜く。それから先ほどまでと同じようにタライの前へしゃがみ、子どもと目線を合わせた。
「大きい音がしたんだから、落とすくらい仕方ねえよ。……しゃあねえ、もう一個やるから泣くな。他の奴らには内緒な? 全員にやったら店が潰れちまう」
 子どもへだけ聞こえる声でそう告げ、新しい紙縒りを一本手に取った。タライの水面には、色とりどりのヨーヨーが揺れている。
 原田はその中へ紙縒りを静かに下ろした。狙ったのは、淡い青色をしたヨーヨーだった。水面で涼しげに揺れるその色が、なぜか目に留まった。輪へ針を引っかけ、紙が切れないようゆっくりと持ち上げる。
「ほら。今度は落とすなよ」
 差し出すと、子どもはぱっと顔を明るくし、淡い青のヨーヨーを両手で大事そうに抱えた。その笑顔に、原田も僅かに口元を緩める。
 それでも、先ほど見た平助の冷たい横顔は、頭の片隅へ引っかかったままだった。

 やがて交流会は終わりを迎えた。子どもたちは射的の景品やわたあめ、色とりどりのヨーヨーを抱え、家族に手を引かれて広場をあとにしていく。最後まで遊び続けていた道場の子どもたちも、沖田が一人ずつ保護者のもとへ送り届けていた。
「忘れ物はありませんね? 怪我もしてませんか? はい、それじゃあ気をつけて帰ってください」
 手首に結んでいた揃いの紐を外しながら確認し、最後の一人を見送る。先ほどまで人で溢れていた広場は、急に広くなったように感じられるほど静かになった。蝉の声も次第に弱まり、タープへ吊るされたランタンと公民館の外灯が、片付け途中の会場を淡く照らしている。地面には破れた水風船やヨーヨーのゴム、拾い損ねた紙皿が幾つか残っていた。
 大まかな片付けを終えると、近藤たちは折り畳み机へ余った料理を並べ始める。新八が最後に焼いた焼きそばに、野菜が多めのバーベキューの残り。それから、山南の作った巨大な肉巻きおにぎりも、まだ幾つか残っている。
 冷えた缶ビールやチューハイ、ジュースや茶も運ばれ、子どもたちを送り出したあとの、大人だけの簡単な打ち上げが始まった。車やバイクで来た者は、酒の缶を惜しそうに眺めながらも、大人しくジュースや茶へ手を伸ばしている。
 原田も紙皿へ焼きそばと肉を取り、端の椅子へ腰を下ろした。
 少し離れた机では、沖田と斎藤、それに平助が、残り少ない肉を巡って何やら言い合っている。
「沖田くん肉ばっかり食べすぎだ。僕も取ろうと思ったのに」
「取ろうとしただけなら、まだ藤堂さんのものではありませんよね」
「二人とも子どもじゃないんだからさあ。ほら、喧嘩になる前に僕が食べてあげるよ」
「あっ…………あんたが一番質悪いな!」
 騒がしい声を横目に見ていると、新八が烏龍茶の缶を片手に隣へ腰を下ろした。
「新八」
……おう」
「さっきのは結局、何だったんだ」
 原田が正面から尋ねると、新八は誤魔化すように笑うこともなく、その視線を受け止めた。
「悪い。今はまだ、上手く話せそうにねえ。……思い出したことが多すぎて、何から言えばいいのか、俺にも分からねえんだ」
 それだけ答えたあと、新八は平助へ目を向けた。
 肉の取り合いを諦めて焼きそばへ移ったらしい平助は、一口食べるなり、作った本人を探すように辺りを見回していた。やがて新八と目が合うと、ぱっと顔を明るくする。箸で紙皿の焼きそばを示しながら何度も大きく頷き、空いた手の親指を立てて、「美味しいです」と伝えるように口を動かした。
 新八がにやりと笑って手を振り返すと、無事に伝わったことへ安心したのか、平助も嬉しそうに微笑む。だが、すぐに沖田に肩を組まれ、今度は焼きそばを奪われまいと紙皿を抱え込んでいた。
 新八はその姿をしばらく見つめ、赤みの残る目元をゆっくりと細めた。
「いつか必ず、話すからよ」
 納得できたわけではない。それでも、今ここで更に問い詰めたところで、そう・・じゃない原田にはどうにもできないだろう。
 原田はそれ以上追及せず、手にしていた烏龍茶のプルタブを起こした。小さな音とともに缶が開き、冷えた茶を一口喉へ流し込む。
……忘れんなよ」
「おう。約束する」
 新八は力強く頷いたあと、隣に座る原田をじっと見つめてきた。いつもの豪快で分かりやすい表情ではない。懐かしさと安堵、それから僅かな痛みを湛えた、長い年月を重ねてきた者のような静かな顔をしていた。
……おまえと……いや、おまえらと、会えてよかった」
 何を思い出したのかも、何を懐かしんでいるのかも、原田には分からない。それでも、その声に嘘がないことだけは分かった。
「左之助。平助から目ぇ離すなよ」
「言われなくとも」
 間を置かずに返すと、新八は一瞬だけ目を丸くした。それから、どこか安心したように口元を歪める。
……そりゃそうか」
 短く笑って、新八も自分の烏龍茶へ口をつけた。

 それから暫くは、昼間の働きを労うように、皆で残った料理を囲んだ。焼きそばや肉は瞬く間に減り、机の上には空になった紙皿と飲み終えた缶が少しずつ増えていく。
 日がすっかり落ちる頃には、打ち上げもひと段落していた。灯されたランタンの下で、まだ食事を続ける者と片付けへ戻る者が緩やかに入り混じっている。
 近藤や山南は保護者たちから預かった連絡事項を確認し、土方は酒を片手に片付けの順番を指示していた。沖田と斎藤は時折言い合いながらも、食べ終えた皿や空き缶を纏めている。
 原田も新八との話を終えたあと、残っていた肉巻きおにぎりを平らげ、空いた机や椅子を公民館の軒下へ運んだ。ひと通り終えて戻ってくると、平助がわたあめの区画へ向かっているのが見えた。
 機械の周りには、使わなかった割り箸や空っぽの砂糖の袋が纏められている。平助は容器の底に僅かに残っていた砂糖を覗き込み、捨てるのは勿体ないと思ったのか、再び機械の電源を入れた。
「まだ作るのか?」
「少しだけ砂糖が残っていたので、使い切ってから片付けようと思って。あと一回分ぐらいですし、今日は作るばかりで、僕はほとんど食べていませんでしたから」
 平助は新しい割り箸を手に取り、自分用らしい小さなわたあめを作り始める。
 機械が低い音を立てて回り出し、溶けた砂糖が細い糸となって宙へ舞った。平助が割り箸をゆっくり回すたび、白い糸が幾重にも絡まり、少しずつ丸く膨らんでいく。
 原田はその隣へ歩み寄り、手元を覗き込んだ。
「出来たら、俺にも一口くれよ」
「原田さん、わたあめを食べるんですか。甘いものが嫌いではないのは知っていますけど、少し意外です」
「嫌いじゃねえなら食ったっていいだろ。俺も今日は見てばっかだったし、平助の作ったもん食いてえ」
 平助は僅かに目を瞬かせたあと、困ったように笑った。
……分かりました。一口だけですよ」
 やがて最後の砂糖を使い切り、小ぶりなわたあめが出来上がる。平助は機械から割り箸を持ち上げると、出来栄えを確かめるように顔を寄せ、満足そうに口元を緩めた。
 その横顔を見ていると、右手で左手首を押さえ、鋭い目で公民館の裏手を見据えていた先ほどの姿が、ふいに脳裏へ蘇る。
 けれど、原田へ振り向いた平助は、いつもの柔らかな顔をしていた。
「ほら。食べるんでしょう?」
 差し出されたわたあめへ顔を寄せ、原田は平助の手から直接、白く膨らんだ部分を一口齧り取った。舌へ触れた砂糖は瞬く間に溶け、強い甘さだけを残す。
「甘いな」
「わたあめなんですから、当たり前でしょう」
 平助が可笑しそうに笑う。その目も、声も、原田がよく知っているものだった。
「でも美味え。おまえも食ってみろよ」
「僕のために作ったんですから、言われなくても食べますよ」
 平助は呆れたように返し、原田が齧った反対側へ顔を寄せると、小さく一口食べた。途端にぱちぱちと目を輝かせ、その口元がゆるりと弧を描く。同意を求めるように、ランタンの灯りを映して揺れる大きな瞳は、今、原田だけへ向けられていた。
 それだけで、腹の底へ燻っていたものが、舌の上に残った砂糖と一緒に僅かに溶けていくような気がした。
……おまえら、付き合ってんのか」
 唐突に飛んできた低い声に、二人揃って振り向いた。少し離れた折り畳み机で缶ビールを飲んでいた土方が、平然とした顔でこちらを眺めている。
「歳、いきなりそんなことを聞くものじゃない。二人が困っているだろう」
 近藤がすぐに窘めたものの、平助はわたあめを持ったまま固まっていた。やがて恐る恐る原田へ顔を向ける。目が合った途端、弾かれたように大きく首を横へ振った。
「付き合ってませんッ! 僕たちは、その、今は同じ家に住んでいるだけです。こ、こうして食べ物を分けるくらい、友人同士でも普通にするでしょう!」
 あまりに力強い否定に、原田は軽く肩を持ち上げる。
「っす。残念ながら、まだ」
「ま、…………っ、〰〰っ!」
 平助が声にならない声を漏らし、見る間に顔を赤くする。その言葉を聞いた斎藤は、缶を口元へ運びかけた姿勢のまま、にやりと笑った。
「まだ、ねえ」
「藤堂さん、よかったですね。原田さんは随分前向きみたいですよ」
 沖田まで楽しそうに重ねると、平助はくしゃりと顔を歪めた。何か言い返そうと何度か口を開くものの、上手い反論が出てこないらしい。結局、手にしていたわたあめを大きく頬張り、そのまま口を塞いだ。可哀想に、耳まで真っ赤になっている。
 それでも、「まだ」という言葉自体を明確に否定することはなかった。その反応なら、少しくらいは期待してもよさそうだ。原田は密かに口元を緩めた。

 片付けを終え、近藤たちへ挨拶を済ませる頃には、夜もすっかり深まっていた。
 原田は駐輪場へ戻ると先にヘルメットを被り、バイクへ跨る。けれど、平助は自分のヘルメットを手にしたまま、すぐには後部座席へ乗ろうとしなかった。
「どうした。忘れもんか?」
「いえ……少し疲れただけです」
「疲れてんなら、新八のバンで帰るか?」
 常に掴まっていなければならないバイクで帰るよりも、そっちの方が楽だろう。新八は助手席で寝たって気にするようなやつでもない。
「いえ! ……大丈夫です。原田さんと帰ります」
 けれど間を置かずに返され、原田は目を丸くしたものの、目元を緩める。
「ならいいけどよ。ただし、しんどくなったら直ぐに言え」
 平助はようやくヘルメットを被り、後部座席へ跨った。だが、朝よりも動きがぎこちない。原田との間へ僅かに隙間を残し、腰へ腕を回さず、遠慮がちにジャケットの裾を掴んでいる。
「おい、平助。しっかり掴まれ」
「掴まってますよ」
「それのどこがだ。朝はもっとちゃんと腕回してただろ。日も落ちて視界も悪い。急に止まることだってあんだから、しっかり掴まっとけ」
……分かりました」
 安全のためと言われれば反論できないのか、平助は渋々身体を寄せ、原田の腰へ両腕を回した。それでも触れ方は控えめで、背中へ伝わる身体にも少し力が入っている。
 バイクを発進させてからも、帰りの平助は、行きよりもずっと大人しかった。朝は速度を上げるたびに楽しそうな声を上げ、もっと速くてもいいと原田を煽っていたのに、帰りは黙ったまま背中へ掴まっている。
……、」
 信号で停まるたび、腰へ回された腕の力が僅かに緩んだ。嫌がって離れようとしているというより、停車して気が抜けるたび、腕からも力が抜けてしまうように見える。一日中立ち通しで子どもたちの相手をしていたのだから、やはり相当疲れているのだろう。
 次の信号待ちで停車すると、原田は僅かに顔を横へ向けた。
「平助、本当に大丈夫か?」
「大丈夫、です。……あの、今日は本当に楽しかったですよ。子どもたちも喜んでくれましたし、わたあめを作るのも、思っていたより面白かったです」
 返ってくる声は普段通りだった。
「永倉さんの焼きそばも美味しかったですし。また皆さんと一緒に、こういうことができたらいいですね」
「そりゃよかった」
 具合が悪いわけではないらしい。原田はひとまず安堵したものの、腰へ回された腕は、停車している間にまた少し緩んでいた。
「悪ぃけど、家に着くまでは大人しくちゃんと掴まっててくれ。流石に走ってる時に手ぇ離したら危ねえから」
 平助は少し黙ったあと、小さく答えた。
……すみません。分かりました」
 今度こそ、腰へ回された腕にしっかりと力が込められる。信号が青へ変わり、原田はゆっくりとアクセルを回した。背中越しに伝わる身体は、最後までどこか強張ったままだった。それでも、腰へ回された腕が緩まないことを確かめながら、原田は夜の道を慎重に走っていった。 

 家へ戻ってからも、平助の様子はどこかおかしかった。玄関へ入るなり、原田が靴を脱ぎ終えるのも待たず、さっさと廊下を進んでいく。疲れて早く休みたいだけかと思ったが、冷蔵庫を開いた平助は、いつもなら黙って二人分を取り出すはずの飲み物を前にして、わざわざ振り返った。
「原田さんは何か飲みますか。お茶と水がありますけど」
……? じゃあ、茶」
「分かりました」
 取り出したペットボトルを手渡す仕草にも、妙なよそよそしさがある。
 リビングへ移ってからも同じだった。いつもなら何とはなしに原田の隣へ座るくせに、今日はソファの端へ腰を下ろす。二人の間には、もう一人座れそうなほどではないものの、はっきりと意識して作られた隙間が残っていた。
 同居を始めたばかりの頃とよく似ている。あの頃の平助は、どこまで自由に振る舞っていいのか分からず、原田の家の中で何をするにも遠慮していた。ソファへ座る位置も、使う食器も、風呂へ入る順番さえ、逐一こちらの様子を窺っていたものだ。
 けれど、最近は違う。朝になれば当然のように二人分の食事を作り、買い物へ出れば同じ籠へ好きなものを入れる。ソファへ並んで座り、同じ画面を覗き込み、肩や腕が触れたところで、どちらも気にすることはなかった。
 それが今日に限って、何で————ああ、そうか。なるほど?
 そこまで考えたところで原田はようやく腑に落ちた。疲れているだけではない。土方に「付き合っているのか」と尋ねられたことで、今まで気にしていなかった距離を急に意識し始めたのだ。二人きりの家の中では当たり前になっていたことが、他人の目にはそう見えるのだと気づき、今更どう振る舞えばいいのか分からなくなっている。
 拒まれているわけではない。それならわざわざリビングに残らずにさっさと部屋に戻るだろう。ただ、いつも通り振舞おうとして、原田を意識しているからこそ、今まで自然にできていたことができなくなっているのだ。あまりにも分かりやすくて、原田は妙に可笑しくなった。同時に、胸の奥がじわりと浮き立つ。
 原田は何食わぬ顔で同じソファへ腰を下ろし、ひとまず平助が作った隙間を残したまま背凭れへ身体を預ける。隣で、平助が僅かに息を吐いたのがわかる。安堵したようにも聞こえたが、知らないふりをしてペットボトルの蓋を開ける。平助も手元のスマートフォンへ視線を落とし、何かを確認するように画面を見つめ始めた。
「沖田?」
「はい。無事に帰ったことを一応連絡しておこうと思って」
「ふーん」
 原田は黙って茶を飲み、平助がすっかり画面へ意識を向けた頃合いを見計らって、ゆっくりと腰を横へずらした。
 先ずは、二人の間にあった隙間を半分ほど埋める。平助の視線が一瞬だけ横へ揺れた。それでも何も言わないため、原田はさらにもう少し身体を寄せる。いつもと同じ、少し動けば肩が触れそうな距離まで。
……っ!」
 その瞬間、平助の肩が大袈裟なほど跳ねた。原田が横目で反応を窺うと、平助はスマートフォンの画面を凝視したまま、こちらを見ようとしない。けれど、離れる様子もなかった。逃げようと思えば、すぐ隣の肘掛けまで寄れるというのに、その場で固まっている。その耳の先だけが、分かりやすく赤く染まっていた。
 堪えきれずに、原田はくっと喉を鳴らす。途端に平助が勢いよく顔を上げた。
「な、何ですか……!」
「や? 何でもねえ、よ……、ふ、」
「何でもない人は、そんな笑い方しません!」
「んははっ、……や、悪ぃ悪ぃ、……はー……まだ・・何もする気はねえよ」
 そう言って見下ろすと、耳の先だけでなく首からじわじわと赤くなるのが見て取れた。
…………もう、寝ます。おやすみなさい!」
 平助は逃げるように立ち上がり、スマートフォンと飲み物を抱えて足早にリビングを出ていく。その背中を見送りながら、原田はソファへ深く凭れた。
 ……最後まで否定しなかったな。
 そのことが嬉しくて仕方がなく、緩んだ口元は暫く元へ戻りそうになかった。