かなざわ
2026-06-21 23:33:33
5367文字
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薄明の縁、ふたり

よだつかワンライ第14回お題「あくび」で参加&投稿作品。作成時間2h35min。
2P目追加。14回お題「くしゃみ」で参加。作成時間2h。
恋人関係、未同棲の二人。
タイトルの読みは「はくめい」でも「うすあかり」でも「ふち」でも「えん」でも、お好きな読み方でどうぞ。

 日付が変わる数分前に外出から帰宅すると、玄関に純のものではない靴が揃えて置かれていた。
 やや使用感はあるものの、大切に手入れされて履かれていると分かる革靴。見慣れたその靴は、純が司の誕生日に贈ったものだった。
 来ているのか、と思いながら携帯を確認すると数時間前に司からのメッセージが入っていた。クラブの練習を終えた後の予定が急遽なくなったので行きますね、ということらしい。
 純は司との関係が「恋人」というものになってから間もなくの頃に、部屋の鍵を渡している。
 渡してすぐの頃はなかなか自主的に使おうとはしなかったが、今では純がいなくとも部屋に上がるようになっていた。この話を司にすると何故か渋い顔になって「結構な荒療治されましたから……」と言うのだが。純としては目的を達成する為に使えるものを使った、それだけの認識でしかない。
 リビングに続くドアを開けると、予想に反して部屋の中は薄暗かった。室内に視線を巡らせると、司はテレビ前のソファに座り込んでいた。光源である画面では古い映画が流れている。
「あれ、純さん?」
「うん」
 ドアの開閉に気づいたらしい司が、驚いたような声で呼び掛けてきた。液晶からの薄明かりに照らされた司の顔は驚きに目が丸くなっていて、どこか幼げに見えた。
「早くないですか?」
「今日はリンクに行ったわけじゃないから」
「そうなんですか。あ、おかえりなさい」
「ただいま。そのまま見てなよ」
 純は司が再生を止めようとリモコンに手を伸ばしてるのを制した。何か言いたげな空気を纏う司をじっと見据えていると、やがて伸ばしかけていた手をそろそろと引っ込めてソファに座り直した。
 私生活ではどこか遠慮しがちな司に、もっと主張しろ、自我を出せと何度か告げている。数回言った後、司には別方向からアプローチを仕掛けた方がいいと悟った。司のいっそ自己犠牲とも取れる献身は、おそらく一朝一夕で拭えるものではない。自我の根幹にあるものを無理に変えたり矯正しようとするのは得策ではないだろう、と。
 だから純は司に対して「頼っても甘えてももらえないのは、線を引かれているみたいで寂しい。僕にそれだけの器がないって君に思わせているのは、僕に原因があるんだろうけど」と告げたのだ。
 これが司には覿面に効果があった。顔を青くした司は、純に悪いところはない、人に寄り掛かるのが苦手なのは性分で、少しずつ改善しているから待っていてほしい、と捲し立てた。
 司が純の渡したカードキーを自主的に使うようになったのは、この出来事の後からだ。それまでは純の在宅中、かつメッセージへの返事が来ない限りは部屋にやって来なかった司が、純が不在でも上がり込むようになった。訪う際にメッセージを入れてくるのは変わらず続いているが。
 この部屋で初めて迎える側になった司がはにかみながら「おかえりなさい、純さん。……なんだかこれ、照れますね」と言ってきた際に胸中に走った衝撃がどんな名前なのか、未だに純は知らないままだ。名前の分からない感情を抱えたまま、それでも純は近いうちに絶対同棲まで持ち込もう、と決意していた。当然のことながら、司は純の決意など知るよしもない。
「シャワー浴びてくる」
「はーい、行ってらっしゃい」
 何気ない調子で返された言葉に、純は足を止めかけた。司に不審がられるわけにはいかないと、すぐに何でもない様子で歩を進めたが。
 部屋を出る際にそれとなく窺った司の様子は、いつもと何ら変わりがなかった。ソファに凭れる背中は清々しいほどに平常で、司にとっては当たり前に口にする言葉でしかないのだと悟る。
 純は、司が告げた「行ってらっしゃい」の言葉が胸の内の柔らかい場所にじわりと広がっていくのを感じていた。初めて「おかえりなさい」と言われた時と同じように、胸中が落ち着かない。だがそのざわつきは決して不快なものではなかった。

 純がシャワーを終えてリビングに戻ると、司は変わらない姿勢で映画を見ていた。
「ずいぶん古いのを見てるね」
「アイスダンスのプログラムでこの映画のメインテーマ使うことになったらしくて。見たことないって話したら、瞳さんがオススメだからって貸してくれたんです」
「そう」
 ちゃんと見る辺りが律儀だな、と感心しながら司の隣に腰を下ろした。
 クライマックスを迎えているのだろう、画面からは情感たっぷりといった風情の曲が流れてきていた。盛り上がっているのは分かる。始めから見ていれば、ここで抱くべき感情がどういったものかも読み取れただろう。だが、純にとってはそれだけだ。
 氷上の演技に必要なものならば幾らでも学びとり、己のものへと変えられた。だがその反動のように、氷から関係ない場所で見るものはどれもこれも色褪せて写った。
 つまらないとも退屈だとも思わない。ただ、通り過ぎていくだけだ。
 ちかちかと瞬く画面を見るともなく眺めながら、くあ、とあくびを一つした。
「この時間に眠そうなの、珍しいですね」
「朝が早かった」
「先に寝てても、ふあ、あー、あくびうつった……
「君こそ、いつもは寝てる時間だから眠たいんじゃないの」
「そこは否定はしませんけど、一度見始めたら最後まで見たいじゃないですか」
「ふうん」
 よく分からないがそういうものか、と相槌を打つ。
 司の所属するクラブはコーチの人数がそう多くない。今の司はほぼ結束いのり専属のような働きをしているが、同じクラブに所属する生徒に関して意見を求められることもあるのだろう。
「面白い?」
「どちらかというと興味深い、ですかね。この映画の頃の時代背景を色々知ってると理解度が深まりそうだなあと」
「勉強熱心だね」
「俺としては勉強が好きって感覚はないです。知識って、どこでどんな風に活かされるか分からないじゃないですか。思わぬ場所で活かせた時って、なんだかすごく得したなーって気になるんですよ」
 それが熱心って言うんじゃないかな、と思いはしたものの、口には出さなかった。平行線になりそうなのが目に見えていたし、司本人がそう捉えているならそれでも構わない話だったからだ。
 更に言えば、眠気が勝っていて口を開くのが億劫になってきていた。
 もう一度あくびをしながら、司の肩にもたれかかる。司は相変わらず体温が高くて、それもまた眠気を誘発する。ゆらゆらと揺蕩う意識を繋ぎ止めるように、司が膝の上に置いていた手を握った。
 言葉を交わしているうちに映画は終わりを迎えていたようで、画面はエンドロールになっていた。黒い画面の下から、文字がゆっくりと上がっていく。
「見終わりたかったのも、勿論あるんですけど。……純さんの顔見たかったから、起きてたんです」
……最初からそう言いなよ」
 握っていた手を少し緩めて、するりと指を絡めて握り直した。司は驚いたように指先を震わせたが、素直に握り返してくる。
 熱いほどの体温が心地いい。眠気がある純の体温も、平常時より少し上がっている自覚があった。
 エンドロールが終わったら、まずキスをしよう。
 延々と上ってくる文字の羅列を眺めながら、純はほんの少しだけ口元を緩めたのだった。