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冬
2026-06-21 15:28:22
6597文字
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舞台タイドリ2026感想
舞台Tiny Dream-夢の国エゲレスー 6月18日ソワレ 観劇感想。
舞台タイドリ2026
舞台Tiny Dream-夢の国エゲレスー観劇しました。6月18日ソワレ回。
その感想です!いや~~~想像をはるかに超えて面白かったし感動したし良かった。
いい演劇っていろんなこと考えちゃうもので、思考が刺激される感じがあるんだけど、まさにそれ。
動物たちの物語を、寓話のようにいろいろと考えながら観ていた。
・観劇前の印象
誰向け?子供向け?なのに2時間半もある?どういうこと??
いろいろと不安な点があるものの、演者のファン(&お芝居見てみたいな~と思っていた俳優さんが多数出演)ということでチケットを取る。演劇はギャンブルなので、このくらいの賭けにはなれてますよ~の顔をしながら入金。
そして、この賭けに大勝した!うわ~~~めっちゃ良かった!になったお芝居でした(先に結論を言っていくスタイル)
・序盤
楽しい物語。トムジェリ的な愉快さ。
個人的に、バレエのくるみ割り人形のねずみのシーンとか、カラボス(カラス)とか好きなので、そういうものも彷彿とさせられて視覚的に楽しい。
サティの動きが本当に素敵で、身長差はあくまでも人間の男女の身長差なのに、猫とネズミくらいの身長差に見える。キュートな動きが巧みで、ホントにトムとジェリーのアニメを見ているような気分になるので、お芝居ってすごいな......これがプロの仕事だ......と思っていた。
カラスの動きも素敵。ちょっと立ち止まるときも、ファサァッ......と羽を動かしている感じが出るのが、俳優さんの身体とは不思議で面白いなぁ~と。
とはいえ、これはやっぱり子供向け?ん?なんなんだ?まぁ好きな俳優出てるから観るけど
…
感は否めず。なぜなら物語の大筋がやはり子供向けアニメーションのような感じで、ファミリー席があった気がするから家族向け&ファミリー向けであることは間違いないだろうし、そこがメインの観客層なのかな。よし、そういうつもりで楽しめばOKってことね、了解了解、みたいなテンションに。
そして、物語もなんだか一件落着しそうに。あれ、ネズミとネコたち仲良くなってない?まだ公演時間はあるよな?
・中盤 反転
知恵の象徴たるフクロウが、最初から語りを務めていて、そのフクロウがサティの夢の中に現れる。
「現実はアニメーションではない」といって、物語の外の、ここまで語られなかったことを話す。
猫とネズミ、猫と人間。憎み合う要素は残り続けていても、「ハッピー」に仲良しであるための努力の末にこのユートピアが築かれたことをにおわせる。
そして、「願うならば、ハッピーな映画を見ていたい」と。
また、中盤、ダーリングが履き捨てるように「あぁうるさい。そんなアニメーションみたいなことがあってたまるか」と。
この辺りで急に(実は冒頭からフクロウはそう語っていたので冒頭からずっと)メタ視点が導入される。
最初から(なんなら観劇前から)なんなんだこの話は?子供向けのアニメーションのようなあらすじは?と思っていた私の感情をここで回収。
ここでグッと引き込まれて、どうやらただの「子供向け」ではないぞ??と察し始める。
むしろ、この「子供向けアニメーション」にような動物たちの「夢の国=ユートピア」にこそ、意義がある、そんな気配を察し始める。
そして、フクロウの語りに沿って、「現実ではない」としても「ハッピーな映画」を願う思いを見定めるような気持ちで、後半を見ることになる。
・後半
動物たちも、そして人間たちとも仲良くなった。
でも、そんなおとぎ話は続かない。
あくまでも人間が強い、という事情。
結局、動物同士もまた被食者と捕食者の関係でしかないという現実。
また、移民であり子供であるマイケルとジョン、ウェンディが身分を隠してボロい格好の王子と楽しくふざけ合う
……
というおとぎ話もまた消失する。
怪我をしたお金がない移民の子と、金のある王子のダーリングという人間サイドの身分制の現実も露呈する。
しかし、サティは勇敢であり、夢を叶え続ける。だから、動物たちは前半の「おとぎ話」を諦めずに、続けることを選ぶ。
・おとぎ話、あるいは綺麗事を掲げること
この辺りで、あえて言えばこの作品は「大人向け」で、大人にこそ、夢のようなハッピーな映画の持つ力を訴えているのだと気付いた。
まぁ、これは私が最近考えていることのせいかもしれない。
この作品が伝えたかったことというか、脚本のテキストそのものからは逸れてしまうかもしれないけど、自由に作品を楽しむことを許された観客の特権として、私が最近考えている二つの概念との関係で、この作品が胸にぐっと迫ったという話をさせてほしい。すこし社会的な観点から、この作品を分析することを許してほしい。だって私はポップコーンとコーラを持って、客席に座る側なのだから。
「Animalization(動物化)」
一つは、最近この言葉を知ったこと。
社会学や国際政治学の言葉で、人間を「動物のように下等な存在として烙印を押し、虐待すること」
この言葉に触れていたので、観劇をしている途中で、冒頭のマイケルの「害獣め!」など、ところどころ作品内で、憎悪を顕にする場面で「害獣」が出ることと、後半のジョン・マイケルによる「駆除」の描写から、実は動物同士、あるいは動物と人間だけではなく人間同士の対立にもこの物語は適用されるのではないか?と思った。
また、ダーリングが「食べ物と、被食されるものと、会話をしたいと思うか?」と言うように、誰かを切り捨てるとき、そこにあるのは共感の論理ではなく、「他者」であり、害をなす異質なものへの蔑みがある。
私たちの世界は今、同じ人間同士であっても殺し合いをしている。相手を”動物”として他者化して、あるいは害獣だと害虫だと言って出ていけと言わんばかりの憎悪を募らせている。
戦争然り、ヘイトスピーチ然り、だ。
なんていうか、うまく言えないけど、そういう「現実」と、動物たちが仲良く暮らす「ハッピーなアニメーション」のような序盤が、後半を見ている私の中でぐるぐると混ざり合う。
あぁどうか、どうか現実でも虐殺が止み、お互いがお互いを尊重し合い、話を聞くことができたなら。
観劇中なのにふと、いくつかの現実の紛争を思い出してしまった。
最終盤にワーグナーが、ジョン、マイケルたちに「頼む!俺たちの話を聞いてほしいだけなんだ。俺たちの声は聞こえないのかよ!」と訴える。けれど、声は聞こえない。
この「声」というモチーフも、なんか深刻に考えすぎなのはわかってるんだけど、でも、まさに民主主義について考えざるを得ないというか。
民主主義よりも、もっと手前、あまりに多くの人間が声を聞かれないまま殺されている。だから「声」を聞く、「話を聞く」というのは、それだけで一つの尊重や尊厳の話なんだけど、「対動物」ではそれが機能しない。
現実の話では、多くの人が「動物化」され、声を封じられている。
願うならば、ハッピーな映画を!
そう夢を描くとき、それが動物たちが楽しく暮らすユートピアを指すとき、翻ってその願いは、今この現実世界でも、たくさんの人の声が、どうか
……
声が聞かれますように、と。
動物たちの物語を、世界平和を祈る今の私自身の願いと重ね合わせながら見ていた。
「尊厳と身分」
もう一つ、この作品を見ていて頭に浮かんだのは、「尊厳と身分」をめぐる理論。
アメリカの憲法学者のジェレミーウォルドロンという人がいて、その人は、平等というのは、みんなが平民になることではなく、実はみんなが貴族になることだったのだというようなことを理論的に示した。(はず)(大学のレポートじゃないから許して笑)
ダーリングは、王子であり、特別な能力を持つ存在。
そのダーリングが、物語の最後の最後で、知恵の象徴であり、語り手のフクロウに問いかけられ、夢のような物語か現実かを選ぶ。
どうやらここはマルチエンディングらしく、私の回は、夢のような物語を選んだ。
わたしはこの選択がたまらなく好き。
フクロウは「あなたはこの物語の行く末を選ぶことができる」みたいなことを言う。
これは普通に考えると、ダーリングが「特別」だからフクロウが問いかけているのだろうし、そう観るのが素直な見方だとおもう。
でも、(さっきから必要以上に深読みしているので)わたしはこのシーンを見て、「ダーリングは、人間としての選択をしたんだ」と思った。
ダーリングは、地位ある存在であり、「声を聞くことができる存在」。
でも、それって少なくとも理想的な人権論に基づく世界、理性的な討議で政治的な決定をしていくことを想定している今の世界においては「すべての人」がそうあるべき、である。
尊厳と身分論のポイントは、誰もが尊い存在であり、尊厳をもつ平等な存在である、という意味で、近代における「人はみんな平等」という考え方は「人はみんな平民」になったのではなく「人はみんな身分ある人」になったのだと。
そして、(ウォルドロンがそこまで言っていたかは忘れたけど)そうであるからこそ、近代の平等な人間は、身分あるもののように振る舞い、理性的に討議に参加して政治を行うというモデルを説明できる。
これが民主主義、という話で。
民主主義は、ただの多数決ではない。ヘイトスピーチをして、誰かの声を聴かないで、同じ存在ではなく「動物化」して排除して、それで多数派の意見に従って政治をすることが民主主義ではない。
理性的に、話し合いで、声を聴き、合理的根拠に基づき政治的決定を行う。
そういう、複雑で面倒なものに耐え得る存在=身分ある存在=尊厳ある存在こそ「人間」であり、私たちはそういう世界を選んだ。
この理論を借りるならば、ダーリングは、「王子様」であり「声を聞く能力がある」からこそ、むしろ、物語を超えた現実における「人間」の「あるべき選択」を委ねられる。
そのシーンにおいて、ダーリングが「夢のような物語」のエンディングを選ぶことはすなわち、「声を聞く」ことを肯定しているように思えて感動した。
中盤以降、「ハッピーな映画」を観ることの祈り、みたいな話をフクロウはしている。
わたしはこれを、ハッピーなユートピアの物語を見続けることで、現実に対して「綺麗事」を諦めないことだと理解した。
捕食者と被食者、入植者と元からいた者、富めるものと貧しい者。今、起きている戦争。何もかも。どうしようもない現実がある。
それでも、「あなたと友達になりたい!」だとかに集約される、尊重や自由や平等や平和への祈り。そういうものを諦めない。
諦めないために「ハッピーな映画」を選び、望み続ける。
ダーリングの無言の選択は、そういう「人間」の静かな決意と選択のようで、とても好きだった。
何より、最後のシーンはフクロウの問いかけに答える、という形式をとっているので、「知恵」の象徴であるフクロウが、ダーリングいう「人間」に語り掛け、そしてダーリングが「夢」であり「きれいごと」である選択をするのは、なんだかこう、「人類の英知」への信頼という感じすらして好きだった。いや~~~~ここまで来ると演劇の感想の域を出ちゃっているような気がするけど。
なんか、そのくらいいろんなことを考えたくなる作品だった、つまりいい作品だった!ということで。
もっとも、物語内在的には、最初にダーリングはマイケルから「パンをもらう」。
ここで富者と貧者が逆転すると同時に、本来ならすれ違わない身分ある人と移民がともに食べ物を分け合う。
動物たちも、怖がっていたはずのネズミが、チーズをネコに分け与える。食べ物の共有による分断の克服が描かれている。(特にシューベルトとシャルルの関係性は本当に素敵!終盤になればなるほど、このシューベルトとシャルルがキーの役柄になっていくのが面白かった。)
(※私が観劇した6月18日は鷲尾ダーリングで、彼の持ち味そのままにかなりふざけていた日替わりシーンだったんだけど、結果的にあの「おふざけ」が通用する身分による分断を超えたユートピア的な前半という意味づけと、カラスとの掛け合いでのおふざけは彼自身の読めなさ(ピエロ感)にも繋がって良かったのかも?と思っている。)(後半のシーンでチラチラ出て来るときのシリアスさとの対比が逆に怖いというか。マルチエンディング的な読めなさがあるというか。)(ポケモンカードのおふざけとか、メタいだろ~みたいなのも、日替わりだからOKなのか?というのと、ダーリング自体が実はフクロウ的なメタさを持っているからギリ許されるのか~とかもちょっと思った。)
一方で、最後にウェンディが食べ物をネズミたちに渡すシーンのように、食べ物を分け合うのではなく「与える 与えられる」の関係では対話が成立しない可能性も示唆している。
ウェンディがパンを差し出すシーン(既にジョンによってサティは殺されている)は、舞台のスクリーンにでっかく上から差し出されるパンが映っていて、あの演出で、あぁこの「与える 与えられる」は、序盤のダーリングとのシーンと重なり合うんだなと。
だから、食べ物は、分かち合えばユートピアだけど、「与える 与えられる」を意識した途端に「支配 被支配」になるという両義性を持っている。
だから、たぶん、ちゃんとした劇の分析なら、パンが象徴しているものを分析した方がいいんだろうけど、個人的にはここがあえて曖昧にしてあるというか、どうとでも受け取れる感じがあり、そこがマルチエンディングに繋がっているのが良かった。
余裕がなくて、現実エンディング?の方がどうなるのかは知らないけど、それはそれで気になる。さっきから書いているように、個人的には夢のような物語エンディングがかなり良かったとはいえ。
鷲尾さんは週末の個人イベントで、王子的には現実っぽいほうを選びそうだな~と思いつつ、夢があるほうがいいかな的な感じでそっちにしたと言っていて、そういう偶然の重なり合いのようなものが観劇体験を作っているのも面白かった。
私自身は、動物が苦手なので、あまり動物を主題とした物語に心を動かされないし、「子ども向けの物語をあえて大人が見ると感動するんです」系の話も苦手で、周りがぐすんぐすん泣いているなか、しらーっとしていることもあるくらいには、苦手なジャンルの話だったはずが、「ハッピーな映画」というメタな視点の導入と、前半と後半の物語の展開がすごく魅力的で、自分なりにいろんなことを考えながら観劇できて、すごくいい観劇体験になった。
なんというか、私自身は「趣味」として観劇しているわけで、このお金でもっと紛争地域の子供に寄付した方がいいかな、とか、たまに思うわけですよ。あるいは、いろんな政治状況にもっと興味を持ってはたらきかけをした方がいいかな、とか。まぁ、ほかにもさ、それこそ円安とか、原油が高いとかさ。
そういういろんなことに触れながら生活をしているわけで、そういう中で、「観劇」をしていると、これでいいのかなぁ、私。大人としてもっとやるべきことがあるんじゃないのかな、と思うときもある。
そういう中で、このタイドリをみて、「友達になろう」と手を差し出すサティを見て、「ハッピーな映画を」と語るフクロウを見て、すごくエネルギーをもらった。それに、こうやって「みんな仲良く」と、「小さな夢」だからこそ「大きな夢」を抱え続ける大切さって確かにあるって思った。
そして何より、「ハッピーな演劇」を観劇することで、こうやってハッピーを願えるならば、それもまた一つの行動としてアリというか。ハッピーな物語を求めることって悪いことじゃないと思えた。大事だよ、ハッピーな映画。
もっと気軽なお話として作劇されているかもしれないけど、私にはなんだかこんな感じでタイムリーに響いてしまって、すごくいい平日夜になりました。
ありがとう、タイドリ。
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