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「俺の『命の恩人』のことを覚えているか?」
唐突に尋ねられ、ケラウトルスは些か面食らった。
つい数秒前まで、眼前の男
——メデイモスとはツアー後の長期休暇について話し合っていたはずだった。と言っても、関係各所への通達は済ませてあるのだが。
『活動再開は早くて二年後だ。二年は余程の縁と気分がなければ仕事をする気はない』
そう決めてしまった男をケラウトルスは心変わりさせることもできず、休暇前最後の仕事と、休みの間の旅程について確認をしているにすぎなかった。
彼のマネージャーとして長くそばにいるが、この男はアーティストにしてはあまりに健全で、心身頑強な男だった。酒は稀に嗜む程度、煙草は
喫まず、ドラッグの類にも当然手を出したことはない。全身に派手なタトゥーこそ入っているが、存外穏やかな性質で聡明な男だった。だからこそ、これまでに派手なトラブルもスキャンダルもなくスターへと上り詰めたとも言える。
そんな男だからこそ「暫く休暇を取りたい」と言われ、慌ててありとあらゆる仕事を調整することにしたわけだが、まさか年単位での休暇が必要だとはケラウトルスも思わなかった。
『カウンセリングを受ける必要はない』
心配し、慌てるケラウトルスに対し、メデイモスは常と変わらぬ平静さで答えた。表情にも顔色にも特に変化はなかったが、それでもケラウトルスは、マネージャーとして無理やりカウンセリングを受けさせた。しかし、専門家から診ても、メンタルには然程問題がないらしい。
確かにここ五年程長期休暇を取った記憶はなかったが、それは、メデイモスが「仕事をしている方がいい」と常々言っていたからだ。人前に出る機会が減るほうが具合が悪くなる性質、とでもいえばいいのかもしれない。そもそも、「誰かに求められている」ことを史上の喜びだと思えなければ、芸能活動なんて長くやっていられないのだろう。
暇な方が不安になる、と口にする同業を思い出しつつ、ケラウトルスはもう一度、尋ねられた内容を振り返る。
『俺の「命の恩人」のことを覚えているか?』
この男が「恩人」と口にする対象は然程多くはない。
厳格な家柄ながらバンド活動を許容し、今も彼を応援してくれている母親。
小さなライブハウスのインディーズバンドから、メジャーデビューまでを導いた事務所社長。
あとはまあ、己が入っていればいいのだが、それは望みすぎだろう。そうケラウトルスは考えた。
「恩人
……と言うと、どの頃の?」
結局思い至らず、素直に尋ねることにする。メデイモスは開いた両足の右腿に頬杖を付き、「三年前の話だ」と静かに答える。
「ああ、あの飛行機事故の件ですか」
「そうだ。当時、俺も多忙で結局礼を言えなかっただろう。今どこで何をしているか、探しておいてくれ。休暇前の最後の仕事だ」
はぁ、とケラウトルスは生返事をした。三年前の飛行機事故と言うのは、ライブ移動で利用した便の事だ。旅客機にトラブルがあり、前輪が降りないまま着陸しなければならないと管制塔に連絡が入り、その便にメデイモスが乗っていたこともあり大袈裟にニュースにこそなったものの、結果だけを言えば、パイロットの神がかり的な操縦技術によって怪我人も死人もなく、無事に着陸を果たした。ライブ会場近くのホテルに前日の午前中に着く予定だったが、事故のせいで当日深夜になってしまったが、それだけで済んだのはむしろ幸運だった。
『機長の腕が優秀で助かった。命の恩人だな』
ケラウトルスと合流したメデイモスは、珍しくやや顔色を青くしつつ、そう溢していた。ニュースでも客室乗務員の対応や機内アナウンスが適切で安心できた、と事故に居合わせた乗客のインタビューがあり、整備不良を断罪するような世論にはならなかったと記憶している。
『乗客五百人弱を救った凄腕パイロット』
時の人となった件のパイロットがメディアに露出されることはなかったが、「命の恩人」だとして航空会社に感謝の手紙等が届くことはあったらしい。メデイモスも「俺も出せば良かったか」と当時冗談混じりに言っていたが、結局手紙が出されることはなかった。その代わりのように、当時のメデイモスは何度も繰り返されるインタビューでしきりに航空会社の名を出してやり、ファンやニュースを見た人々の利用が増えたらしく、結果として機内誌掲載のインタビューだのセレクト商品だのの仕事が舞い込んでいた。
——そんなことを振り返ってはみたが、なぜメデイモスが今更そんなことを言い出したのかは、ケラウトルスにもやはりわからなかった。
なんだかんだ言ってもこの男はアーティストで、稀に顔立ち通りの繊細さを見せることもなくはない。もしかするとこの三年、本当に直接感謝を伝えるべきだと思っていたのかもしれない。
「わかりました。が、なるべく内密に探った方がいいでしょう。時間がかかるかもしれませぬ」
「構わん。お前が思う通りにしろ」
そう口にするなり、メデイモスは体勢を崩し、ソファにもたれかかって目を閉じた。
男の頬に確かな疲労を見、ケラウトルスは部屋を辞した。
話すべきことは既に話し合っているので、後はメッセージや通話でのやり取りでも問題がないだろう。
「私だ。お前に探ってもらいたい者がいる。三年ほど前のことだが
——……」
金払いで口の硬さの変わる気まぐれな事情通に連絡し、先ほど命じられた相手を探ることにした。
*
モーディスと別れて一時帰宅すると、家の中は予想通り無人だった。朝から出かけている父さんはきっとそのまま宴会で飲んで食べて夜遅くに帰ってくるのだろうし、家で大量に林檎を煮ていた母さんも準備を終えて広場に向かったのだろう。テーブルの上に「もし家でご飯を食べるなら冷蔵庫の中に軽い物があるからね」、と母さんの筆跡でメモがあった。念のため冷蔵庫を開けてみたが、今日中に食べ切らなくても大丈夫そうなおかずが並んでいた。モーディスに合わせて食べても良さそうだ、と判断し、冷えた水をグラスに注いで冷蔵庫を閉じる。
半日、知り合って間もない他人に気を遣って過ごした結果はどうだろう。冷えた水を喉に通しながら自問してみたが、「特に問題はないな」と言う答えが出た。これが本当に快調に向かっているからなのか、そうでないのかはわからなかった。明日は丁度医者が村に診察をしにやってくる日なので、自分の状態について話すことになるし、あまり深く考えなくてもいいだろう。
いずれにせよ、帰宅してへたり込むだとか、喋りすぎような気がする
……、と反省して落ち込むような状態にならなかったのは僥倖だ。帰省してすぐの頃の僕なら、今頃ベッドかソファに沈んで指先ひとつも動かせずにいただろう。
モーディスとの待ち合わせは陽が落ちる頃だ。それまでどうしていようかな、と考えながら、自室へ行き、締め切っていた窓を開ける。窓の外からは麦のいい香りがし、それと同時に肉の焼ける香ばしい香りもした。屋台の準備が着々と進んでいるらしい。窓際の壁に背を預けてぼんやりしていると、村のみんなの陽気で楽しそうな声も時折聞こえた。陽射しが柔らかに部屋に差し込み、カーテンが小さく風に揺れている。
ふわふわと動くカーテンの影を見下ろしながら、ほっ、と溜め息をついて、部屋の隅に移動する。もう体格に合わなくなった椅子に腰を下ろし、学習机を枕にするように左頬をつける。
手を伸ばしてイヤフォンを手に取ると、片耳に突っ込んで、時計と音楽再生プレイヤーとしてしか今は機能していないスマートフォンの電源を入れる。
出かける前に電源を切らなきゃよかった、と起動までの十数秒に微かに苛立っていた。落ち込んだり不安になったりしない代わりに、落ち着かない気分だったからだ。
さっき別れたばかりのモーディスの声が、今すぐに聞きたくて仕方がない。昨日の夜、歌声を聞きながら眠ったのが変な印象になってしまっている気がした。だからこれが、あまり良くない衝動だと言うことはわかっている。それでも、今の僕には彼の歌が必要だった。
音楽再生アプリを立ち上げ、昨日、聞きながら眠ったアルバムを頭から再生する。エフェクターのかかった激しく歪んだギター音と伸びやかな高音が耳に入った瞬間、気分が落ち着くのを感じた。声に意識を集中させるために目を閉じ、じっと、身動きできないまま、しばらく音の奔流に流され漂うように聞き入っていた。
数曲聞いたのち、ハッ、と息を吐く。妙な落ち着かなさはどこかへ消えていた。耳にイヤフォンを突っ込んだままリビングへ戻り、グラスに残っていた、もう緩くなってしまった水を喉へ流し込む。シンクにグラスを置く。
「うーん
……」
意味のない唸り声を上げて、髪を片手でぐしゃぐしゃとかき混ぜた。心臓がどくどくと跳ねている。動悸と言うわけではなく、高揚していた。
部屋に戻り、窓から差し込む夕焼けに差し掛かったばかりの陽に揺れるカーテンと、窓の向こうの景色を見た。
僕の部屋からは海が良く見える。橙色に染まりつつある空と、沈みゆく太陽を飲み込まんと輝いている海の穏やかな美しさの映る視界とは裏腹に、僕の鼓膜にはモーディスの激しいシャウトが全身をビリビリと引き裂くように響いていた。だけど、今かかっている曲は比較的明るい疾走感のある物だった。彼に出会う前は、この風景に似つかわしい音楽はもっと牧歌的で静かなものだと思っただろう。だけど今は、別にどんな音楽だっていいじゃないか、と感じていた。
『音楽で人生が救われる』なんて手垢のついた言葉を今まで信じたことはなかったけれど、すっかり認識を改められてしまった。
他の人についてはわからないが、僕には今、彼の音が必要だった。
「歌詞はまあ、別に明るくないけど」
スマートフォンに表示された歌詞をスクロールしながら、ちょっとだけ胸が痛んだ。これ、モーディスが昔の恋人と別れた(と言うか振られてる?)時の歌じゃないか? と思ってしまったからだ。本当のところはライナーノーツだの記事だのファンコミュニティだのを漁らなければはわからないが、暫くは叶いそうにない。
一つ確かなことと言えば、僕はたったの二日で彼に恋をしてしまったらしい。それだけだった。
「
……迎えに行く前に、屋台に何が出てるかちょっと見ておこうかな」
モーディスの食の好みすらまだ知らないし、相手は一般人じゃないのに、不毛な恋だとは何故か今は思わなかった。多分、恋ってそう言うものだから。
まあ、久々すぎて浮き足立ってるだけかもしれない。
*
宿までモーディスを迎えに行くと、昼と同じように既にモーディスは宿の外で待っていた。
「もしかして待たせたかい?」
「いいや。丁度いい時間だ」
宿のそばのベンチから立ち上がったモーディスの返事が耳に心地良く響き、あ、ちょっとまずいな、と思う。ただでさえ顔を無意識に見つめてしまうのに、これで声まで聞き入るようになったらいよいよ会話が途切れてしまう可能性が高い。
「あ、えーとそれ、髪に巻く事にしたんだ?」
モーディスは昼間と違い、長い髪を後ろで結んでいた。暑いのか? と思ったが、よくよく見ると、昼間、双子にもらった花冠をヘアゴムの上から器用にリボンのようにつけている。赤と青の花が彼の黄昏のような毛先によく似合っている。
「収穫祭ではつけるのがルールではないのか?」
モーディスは怪訝そうに首を傾げ、当然花冠なんて身につけていない僕の全身を眺めるよう、視線を上下させた。
「うーん、どうなんだろう。僕が村にいた頃はそんな慣習がなかったから、よくわからないんだ」
双子は「配る」と言っていたけれど、どうするのか聞いておくべきだった。もらった花冠はリビングのテーブルの上に置いてきてしまった。
「頼りにならない案内役だ」
「悪かったな。きっと広場で双子にまた会うだろうから、彼女たちに聞いておくよ」
モーディスの揶揄うような口調に思わず言い返してしまったが、彼の指摘は正しい。ましてやモーディスはエリュシオンの風習について興味がある様子だったんだから、調べておかなかったのは失態だ。
「別にお前を責めてはいない。が、結果は教えてくれ」
モーディスは涼しい顔のまま、慰めるように僕の背中をそっと叩く。まさかそんな風に気軽に接されると思わず、びくっ、と大袈裟に肩が跳ねてしまった。
「す、すまない、ちょっと驚いて
……。スキンシップは嫌いなタイプかと思ってたから」
慌てて笑顔を浮かべながら口にすると、モーディスは芝居がかった様子で肩をすくめ、そんな風に見えるか?」ともう一度僕の背中を今度は少し強めに叩く。
「痛っ、
……なんだよ、もう」
「ハ、いちいち怯えたような反応をする罰だ」
僕を揶揄って満足したのか、モーディスは見た目に似合わない素直な表情で笑っていた。その顔に当然どきどきしていたし、叩かれた背中を必要以上に熱く感じている。まるで手のひらの熱が直接、肌の上に残っているようだった。
「罰って、君、自分が有名人だって自覚はあるのかい? 僕みたいな一般人が君に何か失礼なことをしてないか、っていつもちょっと不安だ」
「仕事関係でもない者に媚び諂われるのは好かない。もし俺のファンであれば俺に馴れ馴れしいくらいが丁度いい。そもそも今は休暇中で、お前がこの村で『正体』を言いふらさない限り、俺はただの物好きな旅行者であって、そこそこ名の知られた歌手でもなんでもない」
「そこそこって、案外謙虚だな。オクヘイマじゃ君を知らない人なんていないと思うけど」
「オクヘイマではな。現にここではお前にしかまだ気づかれていない」
「うーん、まあ確かに?」
ただ単に君がこんな田舎にいるはずがないから確信を得られないだけで、実際、疑わしいと思ってる人はいるんじゃないか? と思ったが、そういう噂は既に僕の耳に入っていても良さそうだった。今のところは聞かないので、本当に気付かれていないのかもしれない。
「
……馴れ馴れしいくらいが丁度いいのか」
さらりと大事なことを教えてもらったような、と零してみると、モーディスの片眉がぴくりと上がる。
「俺のファンだったのか?」
「っ、えーとその
……ファンと名乗っていいのかは微妙だと思ってるけど
……」
ニヤリと意地の悪そうな
——パブリックイメージとあまり乖離のない
——笑みを浮かべるモーディスの、切れ長の目尻が綺麗で、揶揄うような悪戯っぽい声が魅力的だった。顔が熱い。
「デビュー当初はそんなに聞いてないけど、最近のアルバムは一通り。あと、職場の雑誌とかでインタビューを目にする機会がちょっとあるだけだよ。素人の感想とか迷惑かもしれないけど、一番新しいアルバムは結構好きかな
……」
話しているうちにどんどん謎の緊張と羞恥に襲われ、声が小さく尻すぼみになって行く。視線をモーディスに向けていられなくなり、思わずモーディスの足許を見る。重そうでゴツいブーツを履いている。池で見た時と同じ靴だ。
「ほう」
関心したようにモーディスが呟くのが聞こえ、首の後ろまで熱くなってくるのがわかった。
これ、逆にファンなんだ! ってはっきり言った方が恥ずかしくなかったんじゃないか?
「曲を褒められて嬉しく思うことはあれど、迷惑だと思うことはない。ジャンル柄ファンを名乗りたくない層もいることは理解している。俺は俺の好きなスタイルを貫いているだけだが、不道徳な輩だと思われることもあるからな」
モーディスの静かな声に、そっと顔を上げた。こう言うことを話す時、彼がどんな顔をしているのか気になってしまったからだ。
「ファンだと公言する者だけが俺を真に愛しているとは思わない。心の内で感じてくれているだけで十分だ」
沈みゆく太陽を見つめながら、微笑みを浮かべるモーディスの横顔が綺麗だった。だけど、その優しい眼差しは、彼のこれまでの人生は順風満帆だったわけではなく、様々な悲喜交々があったのだろうと想わせた。
何か言葉をかけようと必死に考えたが、すぐには上手い言葉が見つからない。かわりに緊張で口の中に溜まった生唾をごくりと飲み、モーディスにバレないように慎重に息を吐く。
三年程前、機体トラブルで前輪が出ないまま着陸することになった時のことを何故か思い出していた。手汗がすごいな、とそっとボトムに手を押し付けて拭う。あの時の僕は勿論心臓が煩く跳ねて緊張はしていたが、頭の中はずっと冷えていた。今日のために操縦技術も磨いてきたし、訓練もしてきたのだから、やるしかないし、僕にはそれができると信じていた。客室乗務員達と副操縦士と管制塔としっかり連携して、乗客がパニックにならないよう、機内アナウンスも平静を装って案内出来ていた。幸いにも着陸は上手くいったし、怪我人もなかった(後から着陸動画を見、機体から火花が上がっていたのを見て遅れてぞっとした)。
何故こんなことを急に思い出したのかはわからなかったが、無意識に、僕は案外度胸があったことを思い出そうとしたのかもしれない。
——いや違う。
なんでこんなことを、としばらく考えて、唐突に答えにたどり着いた。この事故の後、実は有名アーティストが搭乗していただとかで、しばらくニュースになったんだった。
当時、僕の操縦する便に乗っていた「有名アーティスト」こそが、今僕の目の前にいる「メデイモス」だ。客室班はブリーフィングで「絶対に騒ぐな」とかなりピリついていて、僕たちは姿を見ることがないから逆に緊張しないな、なんて副操縦士と軽口を叩いていた。
事故のニュースを見るのは気が重かった。それでも、あまりに執拗に流れる曲が結構好みで、複雑に思いながらダウンロードをした記憶がある。
有名アーティストがたまたま居合わせた事故だったこともあり、暫く、職場ではこの話題で持ちきりだった。僕としてはたまたま怪我人がなかったとはいえ事故は事故だから、誰に操縦の腕を褒められても気まずかったし、「万が一事故で彼に怪我させたら大変だったし、そうでなくとも乗客全員にとっての救世主だよ」と言われるのも複雑な気分だった。勿論、誰にも怪我なく着陸できたこと自体は誇ってもいいと思っているけれど。
僕の記憶が正しければ確か当時、パイロットにインタビューをしたいとメディアから執拗に申し込みがあったはずだ。だけど、僕を英雄視されるて持ち上げられても困るし、整備不良だと面白おかしく書かれるのも困るから、と広報課がその申し込みをブロックしていて、僕は通勤時は制服を着るなと言われていた。
モーディスに感じていた妙な感覚を僕は恋だと思っていたが、もしかするともう少し違うのかもしれない。あの日、怪我なく救えた人が目の前にいる。運命の巡り合わせと言うか、奇跡と言うか、そう言うものに感動しているのかもしれない。
「本人を前にしてはっきり言うのがちょっと恥ずかしかったんだけど、君のファンだよ。君の曲に救われたとか、そう言う感動的なエピソードは全然なくて、ただ曲が好きだなと思う瞬間が多いってだけのにわかだけどね」
「
……なにか考え込んでいるかと思えば、そんなことか。フン、アーティストを素直に喜ばせる気があるのなら、言い訳は追加しないことだ。お前の人生に俺の曲を聞く瞬間があると言うだけで十分幸福だ」
「
……………やっぱり本物って言うことが違うな。かっこいい」
「馬鹿にしているな?」
「してないだろ!」
僕の照れ隠しの下手な言い訳に呆れつつも、幸福だ、と言った通り、モーディスは嬉しそうに微笑みを浮かべている。こう言う表情を見るたびに、魅力的な男だな、と芸能人に思うにはあまりにばかばかしい、当たり前のことを思う。
だけどそれと同時に、こんな無邪気な笑顔を浮かべる人のことを、あの日の僕が怪我もなく救えてよかった。救世主だの
英雄だの言われるのはちょっとな、と考えていたけれど、その評価を受け入れてもよかったのかもしれない。
「お前が俺のファンだとわかったのは僥倖だが、今はお前から俺の曲の好きなポイントを聞き出すより、屋台で何を食べるべきか聞き出す方が重要だ」
真顔になったモーディスが、まるでこれから裁判でも行われそうな程、厳粛な声で口にする。
「素直にお腹が空いたって言えばいいじゃないか。まあいいけどね。君と合流する前に、屋台で何が出てるかちょっと見てきたけど、今夜は肉なら鹿とジャガイモの丸焼きとか、煮込み料理があるみたいだ。魚はオクラとかジャガイモのオーブン焼きがおすすめ。甘いものならパイとクレープがあるみたいだったけど、苦手なものとかある?」
隣に肩を並べたモーディスとゆるい坂道を歩きながら、なんでもないふりをして料理の話題を振ってみる。甘党なのは分かっていたが、流石に夕食でいきなり甘いものばかり薦めるわけにはいかない。
モーディスは微かに鼻を動かし、うまそうなにおいがするな、と呟いた。
「苦手なものは特にない。今夜のところはお前のすすめるもので構わん」
「わかった。それならまずは鹿肉をもらいに行こう」
*
鹿肉のオーブン焼きを貰いに広場は行くと、普段は立っていない屋台がいくつも並んでいた。屋台と言っても、殆どはタープで簡易的な屋根を作り、テーブルや椅子、調理器具を置いただけのもので、キャンプ場のようにも見える。屋台にはエリュシオン中の様々な花や麦穂が飾られていて、かぼちゃや林檎なんかの、色のついた野菜や果物も装飾のように綺麗に店頭に置かれていて、意外な華やかさがあった。僕の子どもの頃は装飾といえば麦穂だけで、花があってもせいぜい広場に置かれた共用テーブルの上くらいだったので(収穫された野菜は手押し車に山のように積み上げられ、祭りの最終日にみんなで持ち帰っていた)、やはりどこかで習慣が変わったらしい。
「お前以外は花を身につけているようだが」
「全然そんなの教えてもらってないけど、どうやらそうみたいだな
……」
広場に集まっている人々は各々花冠や腕輪、髪飾り、胸飾りとして花を身につけていて、どうやらモーディスのやり方が正解だったらしい。
「明日は腕輪にでもしておくよ」
なんとなくバツの悪さを覚えつつ鹿肉のオーブン焼きを貰いに行くと、顔見知りのおばさんは花を持っていない僕に「久々に帰ってきたから知らなかったでしょ」と笑い、販売用なのか、あるいは配布しているのか、屋台の奥から青いドライフラワーで作られたヘアピンを前髪につけてくれる。かなり気恥ずかしかったが、「似合うわね〜」と褒められてしまうと文句も言いづらい。
「食べ終わったらお皿は返しに来てね。ところで隣の美人さんが例の旅行者?」
こんがりと焼かれた鹿肉のスライスにじゃがいもや香草を一緒に盛り付けたお皿を僕とモーディスに渡しながら、おばさんが興味津々に口にする。皿を受け取るモーディスは真顔のまま、覚えたてと思われるエリュシオン語で感謝を口にした。
澄ました表情のモーディスからは明らかに一般人とは違うオーラのようなものがあり、案の定おばさんは頬をぽーっと染め、きらきらとした目でじっとモーディスを見つめている。間近で見ると噂の百倍かっこいいじゃない! とはしゃぐおばさんに、モーディスが「通訳しろ」とでも言うように視線を向けて来たが、一旦無視しておく。
「うん、彼はこんな何もない田舎に旅行に来た物好きなモーディス。
……えーと、仕事に疲れて、今は旅行休暇で世界を見て回ってるらしいよ」
音楽をやってる人で、なんてふんわりとでも本当のことは言わない方がいいだろうと悩んだ末に出てきた言葉は、逆にかなり怪しいと言わざるを得ないようなものだった。おばさんは僕の顔を一瞬だけ眺め、すぐにモーディスへと戻し、「旅行を楽しんでね!」と微笑みかけつつ、「握手して欲しいわ」とうっとりした様子で口にする。
「そんな芸能人みたいな扱いしないでやってくれよ」と頬を掻きつつ、モーディスに通訳すると、「握手ぐらい構わんが」と皿を左手に持ち替えて右手を差し出す。
「握手ぐらいいいってさ」
きゃあきゃあとはしゃぎながらモーディスの手を握ったおばさんは、「美人さんに触って寿命が延びた気がするわ」と妙な事を口走っている。その発言はギリギリセクハラだよ。
敢えて真実を通訳せずに「ありがとうってさ」と伝えると、モーディスは僕と話していた時とは違い、にこりともせず、冷めた美貌を浮かべたまま「そうか」と淡々と口にする。
その冷めた反応はまさに僕の知っている、と言うよりイメージする「メデイモス」の姿だった。どこか不遜で無愛想な振る舞いなのに、迫力のある美人なせいか、嫌そうな顔をしないだけで特に悪印象はつかない。現におばさんも「うちに連れて来てくれてありがとう」と僕ににこにこ笑顔でお礼を言っている。
「これはいくらだ?」
モーディスが真顔のまま受け取った皿に視線を下ろし、それから、屋台にメニューが置いていないかと顔を上げる。
「いやこれはタダだよ。そこの板に『今晩は鹿肉のオーブン焼き、お酒以外はタダ』って書かれてるから。お酒は物によるけど大体五百テミス。でも、水が良ければ共有テーブルのあたりに設置されてるよ。それは村の井戸水を使ってるからタダ」
「
……どうやって経済が成り立っている?」
「どうやってと言われても、昔からそうだから考えたこともなかったな。まあでも、祭り三日間だけで、普段はこう言った大規模な炊き出しのようなことはしてないから大丈夫。
有料といえば
……、村の外から仕入れた珍しい食材を使った物なんかは材料費をちょっとだけ支払うんだけど、逆に僕や君みたいに都会暮らしの経験がある人には大して珍しくない料理が多いんだ。少なくとも僕がざっと見た限りではそうだったけど、君は違う感想を持つかもしれないから、後で全部の屋台を案内するよ」
おばさんにお礼を言い、一旦座る場所を確保しておこう、と食事をするために並べられているテーブルや椅子の一角へ向かう。既にお酒を飲みまくって出来上がっている老人たちからは少し離れた場所にもらって来た料理を置き、二人分の席を確保する。
「水でいいなら君の分も持ってくるよ。屋台巡りはちょっと腹ごしらえをしてからにしよう」
「食事のために食事をするとは随分な贅沢だ。水はあれか? 持って来てやる」
君は座って待ってて、と言おうとした僕の肩にそっと触れたモーディスは、数メートル程先の水飲み場に一人でさっさと向かってしまう。
僕がやるから、と引き留められなかったのは、肩に触れられた衝撃で硬直してしまったからだ。
君って意外とスキンシップ偏重なのか?
……そう尋ねてみたかったが、そんなこと、聞けるわけがない。何を言っている? と嫌悪感を出されたらおしまいだ。
たかが肩に触れられたくらいで、気にしすぎだろ。
これが一般人ならその感想は正しいのだが、さっき料理をくれたおばさんみたいに、モーディスに触れられるのはかなり特別なイベントだ(イベント、と茶化す必要が僕にはあった。舞い上がってしまうからだ)。
恐る恐る、ゆっくり首を動かしてモーディスをふりなえると、水の入った杯を二つ持った状態で、また別のご婦人に声をかけられていた。
しまった、と助けに行こうとすると、宿屋のおかみさんが現れて、何事か説明してくれている。言葉が通じないと教えてくれたのかもしれない。
「おかえり。ごめん、ついていけば良かった」
「? 気にするようなことがあったか?」
モーディスはテーブルに杯を二つ置くと、丸太を縦にしただけの椅子に腰を下ろして首を傾げる。
「あー、そうか。言葉が通じない『だけ』って君は逆にすごく経験があるか」
「ああ。そのおかげで挨拶程度は何ヶ国語もできるようになるがな。歓迎されていて、容姿を褒められたことだけは雰囲気でわかった。だから気にしていない」
涼しい顔で口にしたモーディスはナイフとフォークを手に取ると、鹿肉をカットして口に運ぶ。
「ソースが美味い。作り方を聞いておきたいものだ」
考えながら食べているのか、モーディスが真剣な表情でそんな事を言う。
「皿を返しに行く時に聞けばいいんじゃないか? 聞いてあげるよ。僕には珍しい味じゃないから逆にピンとこないけど、エリュシオンでしか手に入らない食材とかはなかったと思う」
モーディスが妙に感動しているらしいソースは、子どもの頃から良く食べる味だった。モーディスは真剣な顔で鹿肉のソースをじゃがいもにつけ、香草と一緒に口に運んでいる。
「考えてみれば確かに昔から鹿肉のオーブン焼きは彼女のが一番美味しい。ソースが決め手だったのかも」
「かもではなくそうだ。いや、他と比べてみないことにはわからぬが」
「君って確か結構料理も作るんだっけ?」
モーディスの好きな料理は今も思い出せなかったが、自炊をかなりすると答えているインタビュー記事を職場で読んだ記憶があったので、ちょっと白々しい聞き方になっていた。
あれは確かフライパンだか鍋だかの調理器具の宣伝の一つだったけど、かなり売れたと社内でも話題になっていた。
「仕事柄自炊をしないと栄養が偏る。
——と言うのもあるが、趣味と実益を兼ねた娯楽といった方が正しいだろう。健康は食事が七割、運動が三割とも言うが、自炊をするのは単純に気分が落ち着くからだ。栄養素だけを考えれはサプリメントで補う程度でいいだろうが、それでは味気がない」
モーディスの言葉には、敬虔な信徒が祈りを捧げるかのような神聖な響きが何故かあった。
「お前は作らないのか」
「村にいる間に散々両親に仕込まれたし、村を出てからは独り暮らしのようなものだから、料理自体はできるよ。ここ数年はだいぶサボってるから、殆どやってないけどね」
もしかして、多忙を言い訳に食事の手間を抜いたから僕は「こう」なったのか? ここ一年ちょっと、外食ばかりで、キッチンに立つのはインスタントの飲み物を入れる時くらい、だったような気がする。昔は休日に作り置きなんかもしてたのに。
「僕も暇な時はサラダくらい作ろうかな」
「野菜が好きなのか」
「なんでも好きだよ。好き嫌い自体あんまりないから。ただ作るならサラダが得意ってくらい」
野菜を切るだけだろう、と馬鹿にされるかも、と思ったが、その予想は裏切られ、ほう、とモーディスは興味深そうに視線を僕へと向ける。
いつの間にか、ものすごい速さで鹿肉を食べ終えていたモーディスは、ソースで汚れた唇をハンカチで拭う。舐めて終わりにしそうなものなのに、と考えた瞬間、思わず俯いた。邪な想像が脳裏をよぎり、何考えてるんだ! と頭の中で自分をビンタしておく。
モーディスは僕が一人で悶々としていることには気づかず、水を飲み干すと、ふぅ、と満足そうに息をついた。
「得意ならならそのうち作ってくれ」
——なんだって?
「
……い、いけど
……、宿で?」
「キッチンを貸してもらえるかどうかはまだ交渉していないが、可能であればな」
聞き間違いかもしれない、と思ったが、どうやら聞き間違いではないらしい。
あの「メデイモス」が、たかが一般人の僕にサラダとは言え食事を作ってくれだって? と、動揺する僕に興味はないらしく、モーディスは物珍しそうに夜の収穫祭の雰囲気を味わうようにあたりを見回している。
すっかり陽の落ちた広場の中心では、高く組まれた薪が燃やされ、火を絶やさぬようにと時々薪が追加されている。クラシックギターの旋律と笛の音と一緒に、上機嫌な合唱が始まりつつあった。
歌っている人々の方へ視線を向けているモーディスを見つめていると、「どうかしたか?」とテーブルに肘をついたモーディスが僕の方に顔を向ける。
装飾のついたガラスの卓上ランプから放射状に伸びた光と影が、モーディスの顔をステンドグラスのように彩っている。
「サラダを作ってくれだなんて、僕のことを信用しすぎじゃないか
……?」
「サラダにドラッグでもかけるつもりがあるのか」
「ないよ。ないけど、君はなんだって疑った方が安全だろ」
ロケとかじゃないんだからさ、と続けた僕に、
「お前はそんな真似はしない」
何故か確信めいた口調で、モーディスが瞳を細めながら口にした。
金色の瞳にランプの灯りが囚われ、ちかちかと火花のように光り輝きながら、僕を真っ直ぐに見つめている。その瞳の穏やかな色香に、動くな、と命じられたような気がしてしまった。緊張で心臓が縮み上がり、どくどくと力強く鼓動が脈打っている。突然視界が狭く明るくなり、世界の音が遠くなって行く。
僕の視界には、頬杖をついて僕を見つめるモーディスの姿しか映っていない。その表情は僕の記憶の限り、この村でしかみたことのないものだ。
なんだってそんな無防備な顔を見せてくれるんだ? いや、無防備だと感じているのは僕の勝手な妄想で、モーディスに落ち度は本当にない。
「えっと
……、信用されるような事は特になかったと思うけど、信用してくれてること自体はありがとう
……」
歯切れの悪い言葉しか出てこないのは、僕が自分に自信を失っているからかもしれない。好きだと思ってしまったのならこういうチャンスを掴むべきだと頭では
——経験から
——わかっているのに、現状の情けなさを思うと、やっぱり「釣り合わないな」と言う答えしか浮かばなくなる。
「見ず知らずの他人の通訳と、地域の案内を請け負ったお人好しを信用しない方が不自然だとは思わないか」
「うーん
……、それはそうかもしれない
……?」
モーディスは「そう言うことにしておけ」と話を打ち切ると、椅子から立ち上がり、「屋台の一番外側はどこだ?」と口にする。
「北の方だよ。だけどその前に食器を返しに行って、ソースのレシピを聞きに行こう」
「メモはお前に任せるが、共用語で頼む」
「滞在中に読めるようにしておくのもいいと思わないかい?」
「一理あるが、それは後日お前にやってもらうことにしよう」
モーディスが気軽に約束をしてくれるたびに、無駄な期待が積み重なって行くのが自分でもわかる。
(それって祭りの後も僕と会いたいってことでいいのかい? 君がこの村を出ていくまでのことだってことはわかってるけど)
食器を返してレシピのメモを取る間、モーディスは興味深そうに腕を組み、酔っ払った大人たちが口々に「神の恵みに感謝!」だの「オロニクス様〜歳月が来年も今年以上に巡りますように!」だの適当なことを言っては乾杯して、浴びるようにワインだのネクタールだのを飲んでいる痴態を見つめている。
焚火のそばのテーブルには、麦穂や村で取れた野菜や、ハチミツ、果物、今朝飼って来たと思しき鹿が、オロニクスに捧げるための供物が積み重なっていて、この後徐々に炎と一緒に焼かれて天に帰っていか、と言うのが唯一の儀式らしい儀式だ。
「あれは童歌か」
レシピのメモが終わり、移動しようとおばさんへ挨拶をすると、モーディスが呂律の怪しい声で弾き語りをしている男を見つめながら尋ねて来た。
昨日も感じたことだが、モーディスは自分のジャンル外の音楽にもきちんと興味があるらしい。音周りに関して何か記事を読んだ記憶がないのだが、本当に読んでいないのか、読んだ当時の僕があまりに興味がなくて忘れてしまったのかはわからなかった。
覚えていれば、もう少し君と同じ目線に立てただろうに。
「本当はオロニクスへの祈りの歌だったんだけど、今じゃ歌うのは父親以上の世代の大人だけかな。
……そう言えば、楽譜は確か先生の図書館にあったと思うよ。祭りの間は管理できないからしまってるんだけどね」
「図書館があるのか?」
歌い手を見つめていたモーディスの視線が僕を向く。焚火の炎のゆらめきがモーディスの横顔を照らし、髪の輪郭と毛先を白く際立たせている。
「お前と先方の都合で構わないが、その図書館に連れて行ってくれ」
構わない、と口にした割には、随分とそわそわした様子だった。
「楽譜はあまりなかったと思うけど
……」
「楽譜かどうかは関係がない。本自体に興味がある」
「もしかして本が好きなのかい?」
「ああ。特に拘りのない乱読派だ」
共用語の本は殆どなかったように記憶しているが、それが正しい記憶なのかどうか、はるか昔のことすぎて思い出せなかった。まあ、先生に聞けばわかるだろう。
「君ってその見た目で読書家なのかい? 見かけによらないとは思ってたけど、かなり意外だ」
「
……………………お前はお人好しのくせして、時折恐ろしく失礼な物言いをする男だな」
はぁ、と目を瞑って深い溜息をついたモーディスが、やれやれと言うように緩く首を振る。褒めてるつもりだったのだが、どうやら気に入らない評価だったらしい。
「まあいい。図書館の件は任せておくから、決まったら教えてくれる。
——いい加減別の食事を紹介しろ。中途半端に食べたせいで、胃が活性化して腹が減った」
「ごめんごめん」
苛立った様子で眦を吊り上げ、ジト目で僕を睨んでくるモーディスに適当な相槌を打ち「向こうから見て回ろう」と案内を再開する。
さっきの反応は、きっとお腹が空いているから癇に障ったのだろう。
*
屋台の端から端まで周っている間、何軒かは今日の分の食事の提供が終わってしまっていた。モーディスは「明日はそこから行く」と、テーブルいっぱいに食事を広げ、次から次へと僕に「何の料理だ」と聞きながら平らげている。メモを取らなくていいのかいと尋ねれば、「部屋で思い出せなければお前を呼ぶ」と真顔で答えて、今はパンをちぎりスープを啜っている。
僕は「また」だ、とモーディスの向かいで、モーディスの半分以下程度しか受け付けない胃と食事に向き合っていた。
なんだか、未来の約束をいくつかさせられているような気がしてならない。完璧に言葉が通じるのは僕だけだからだろうと思っていたが、別段、モーディスは言葉が通じない程度でコミュニケーションに臆する人間ではないことともうわかっている。食事を受け取って回る間、モーディスはカタコトとは言え簡単な言葉で村の人たちとコミュニケーションをはかっていて、もしかしなくても、別に僕がずっと隣にいなくてもいいんじゃないか
……? と言う疑問が脳裏に浮かび始めていた。
勿論モーディスと合法的に(と書くと逆に違法行為のようだ)約束を取り付けるのは嬉しいが、何か騙されているような、妙な違和感があった。
僕は歌手としての彼のことは一方的に知っていたけれど、モーディスは僕のことを知らない筈だ。何となく会話のテンポは馬が合うなと感じているけれど、それだって僕は好きになってしまったから「馬が合う」と思い込もうとしているだけだろう。
嬉しい筈なのに腑に落ちない、と思いつつもモーディスの料理やエリュシオンの文化なんかの質問責めに応えているうちに、今日の分の供物が炎の中にどんどん追加されて行く。
明け方、熾火になるまで火の番をする人たちがいるから、今夜のところはそろそろゆるゆるとそれぞれの家に帰り始める時間だった。
食事が途切れた後、僕たちは炎と楽しそうに喋っている村のみんなをしばらく眺めていた。意外と沈黙が苦にならなかったのは、祭りの雰囲気があったからだろう。
そらそろ戻る? と蜂蜜酒を飲み終えたモーディスに声をかけ、広場を後にした。
「ファイノン」
「? なんだい」
宿と自宅へ向かう別れ道で「それじゃ」と背を向けようとした僕に、モーディスが声をかける。
広場から少し離れると、月と星明かりだけの夜だった。歩くには苦労しないが、モーディスの表情は半分ほど影になっていて、はっきりとは見えない。
「明日の夜はどうする」
「寝込んでなければ、今日と同じくご飯を貰いに出てこようと思ってるよ」
「そうか。出てこられるようなら、迎えに来てくれ。お前とは舌が合うようだ。明日の夕食も楽しみにしている」
「
……、
…………………、」
モーディスは僕の肩にそっと触れたかと思うと、「じゃあな」と宿の方へすたすたと歩いて行ってしまう。
花冠で纏められた夕焼け色の髪が時折月明かりを反射し、僕の瞳に星のようにちかちかと眩しく瞬くのが見えていた。
——いや、そんなのはさずに、僕の目の錯覚だろう。
「
…………また明日」
かろうじてモーディスの背中にそう声をかけると、なんだか不思議な気分のまま帰路に着いた。
お酒も飲んでいないのに頭の中がふわふわして、なんだか軽くていい気分だった。
家の中には灯りがついていて、母さんがリビングで日記をつけていた。父さんの姿はなかったけれど、概ねまだ飲んでいるのだろう(広場で飲んでいるのを見かけたので、逆に声をかけなかった)。僕の子どもの頃も、収穫祭の時だけは遅くまで飲んで、昼過ぎに起きる生活をしていた。
「おかえりなさい、案外遅かったのね。また無理してるんじゃないかって心配してたけど、その顔を見る限り杞憂だったみたい。モーディスさんとは随分気が合うのね」
「へ?」
「あら、楽しくなかったの? ファイノン、あなた嬉しそうな顔をしてるのに」
思わず自分の頬を触るが、勿論どんな顔をしているのかはわかるわけもない。
汗を流すふりをして洗面所に行き、鏡を見ると、確かにわかりやすく、しまりのない表情をしていた。じわじわと耳まで赤くなってくるのが見え、くそ、と心の中で悪態を吐く。
「『慣れてるから気にしない』って言ってたの、悔しいけど本当なんだろうな
……」
良くも悪くも他人からの視線に慣れすぎている男相手に、一体どうやって意識して貰えばいいのだろう。
これはかなりの難題のような気がした。