小夏🍊
2026-06-18 05:09:46
15622文字
Public Planet a room
 

θ.始まり

現パロ原藤(社会人×学芸員)
そのうちまとめる

 深夜、コインランドリーでの洗濯と、買ってきたばかりの生活用品の最低限の荷解きを終え、ようやく一息ついた頃にはすっかり日を跨いでいた。
……流石に遅くなっちまったな」
 壁掛け時計の針を見上げ、原田が凝り固まった首の後ろを揉みながら息を吐く。
「すみません、なんだかんだと時間がかかってしまって。……お風呂、すぐに洗って沸かしますね」
「いいって、いいって」
 申し訳なさそうに慌てて立ち上がろうとする平助を、原田は片手でひらひらと制した。
「今日はもう風呂洗わなくていいから。シャワーだけでさっさと済ませて寝ようぜ。明日も仕事だろ」
「でも、原田さん疲れてるでしょうし……
「俺がもう眠いんだよ。ほら、おまえから先に入ってこい」
……わかりました。お言葉に甘えます」
 ぱたぱたと洗面所へ向かった平助を見送り、やがて聞こえてきた水音を聞きながら、原田はソファでだらりと背もたれに身を預けた。
 やがてシャワーの音が止むと、ガチャリと脱衣所の扉が開いた。
「すみません、お待たせしました!」
 原田に早く洗面所を明け渡そうとしたのだろう。湯上りでまだ頬が火照っているのをそのままに、行きと同じように小走りでリビングに戻ってきた平助は、真新しい寝間着に身を包んでいた。昨日の新八のサイズの合わないお下がりではなく、今日買ってきたばかりのジャストサイズの服を着ていることに少しだけ安堵する。
 しかし、普段はふわふわとしている白藍色の髪はまだ十分に乾かしきれておらず、若干ぺしょ、と湿ったまま額や首筋に張り付いていた。思わずくっ、と喉の奥で笑いを鳴らす。
……何笑ってるんですか」
 途端に不服そうにむ、と唇を尖らせた平助に、原田は隠すこともなく白状する。
「水に濡れた犬みてえだなって」
「犬……
「急がなくていいっつったろ。風邪引くぞ。……それとも飛び出してきちまうほど俺は待てができねえと思われてるか?」
 揶揄いを含んだ原田の視線と言葉に、平助はそこでようやく自分の髪のことだと気づいたらしい。慌てて、首にかけていたタオルを引っ張り上げ、自分の頭をフードのようにすっぽりと覆い隠した。
「ちが、……と、兎に角! 風呂場は空けたので、早く行けばいいじゃないですか!」
 タオル越しに両手でわしわしと大雑把に水分を拭き取りながら、平助は照れ隠しのように原田をリビングから追い立てる。
 原田は微かに口角を上げながら、平助とすれ違うようにして洗面所へと向かった。
 足を踏み入れてすぐ、その視線がふと、鏡の前の洗面台に引き寄せられた。
 いつもなら、原田が使う無骨なプラスチックのコップと歯ブラシがぽつんと一つ置かれているだけの殺風景な場所に、今日ホームセンターで買ってきたばかりの、平助の真新しいコップと歯ブラシが行儀よく並んで置かれていたのだ。少しだけ距離を空けて並ぶ色違いの生活用品。この家に自分以外の誰かが確実に生活し始めたのだという証拠。それがどうにも擽ったくて。原田は口元を緩め、自身の胸の奥にじんわりと広がる満たされた感覚を噛み締めながら、シャワーを浴びた。

 そうして身支度を終え、眠りにつく準備を整える。
 原田がシャワーを終えて脱衣所から出ると、リビングの明かりはついたままだった。平助の自室となった空き部屋に荷物は運び込んであるのだから、とっくにそっちに入って休んでいるものだと思っていたのだが、平助はローテーブルの前にちょこんと正座したまま、律儀に原田が出てくるのを待っていたらしい。
「おまえ、先に寝ちまっててよかったのに。遅くまで付き合わせちまったな」
「いえ。おやすみなさいの挨拶が……まだ、だったので……
 言いながら、ただそれだけのために起きて待っていたのかと自分でもおかしくなったのか、あるいは急に気恥ずかしくなったのか。平助の声は語尾に向かってだんだんと小声になっていく。彼は困ったように眉尻を下げると、自身の膝を小さく擦った。
……すみません、変ですよね。人と暮らすのは、すごく久しぶりで。なんだか、タイミングがよくわからなくて」
 見上げてくる平助が、少しだけはにかむように言った。きまり悪そうに視線を泳がせるその姿が、たまらなく愛おしかった。きっと、藤堂家ではそうだったのだろう。おはようとおやすみを交わすのが当たり前・・・・だった。だから、それを実行しようとした。
 他人に内側を見せず、誰のことも家に入れなかった生活に、平助がこうして自分の輪郭を刻もうとしてくれている。
 原田は胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じながら、誤魔化さず、素直な言葉を口にした。
「いや。……変じゃねえ、嬉しい。待っててくれてありがとな」
 不意に返ってきた真っ直ぐな肯定に、平助は驚いたように目を瞬かせ、それからじわじわと耳の先まで赤く染めていった。けれど、今度は逃げるように視線を逸らすこともなく、嬉しそうに口元を緩める。
……はい。それじゃあ、原田さん。今日も一日、本当にありがとうございました。おやすみなさい」
「おう。おやすみ、平助」
 今度は少しだけ声を張り、けれどどこか名残惜しそうに笑った平助を見送って、パチリとリビングの明かりを落とす。平助の部屋のドアが閉まる音を背中に聞きながら、原田は自室のドアを開けた。
 照明の落ちた部屋はカーテンの隙間から差し込む街灯の薄明かりだけが、静寂に包まれた部屋の輪郭をうっすらと浮かび上がらせている。昨日、他人に部屋ごと貸し出したにしては、これっぽっちも代わり映えのしない無骨な男の自室だ。平助はあの通りひどく生真面目な男だから、部屋の主がいないのをいいことに、クローゼットを開けたりベッドの下を好奇心で漁るような、下世話な真似はしなかったのだろう。
 それどころか、主を失っていたはずのベッドは、彼が今朝出ていく前に整えたのだろうか、律儀に、気持ち程度に皺を伸ばしてきれいに整えられていた。そんなところにもあいつの性格が滲み出ているな、と内心で苦笑しながらシーツを捲る。
 そうして這うようにしてベッドに潜り込んだ瞬間――原田は無意識に息を詰めた。
…………………………、」
 全く、どうしてくれようか。……どうにもできねえけど。
 必然的に共に過ごす時間が増えれば増えるほど、思いは募る一方だ。今日見せてくれた色んな顔も、端的に言ってしまえば愛しくて。本人には言わないが、……かわいくて。
「ふー…………
 そもそも昨夜、平助はこのベッドで眠ったのだ。だから当然、今原田が顔を埋めているシーツや枕には、平助が使ったシャンプーの匂いと、彼の体温を思わせる微かな体臭が、生々しい残り香としてすっぽりと染み付いていた。
 『手は出さない』と宣言した手前、壁一枚を隔てた向こう側に無防備な彼が寝ているという状況に、原田は必死に自らを縛り付け、理性を総動員して、湧き上がる衝動をどうにか押さえ込む。
 耐えろ、耐えろ、耐えろ。駄目だ、嫌われたくねえ。不幸につけこみたくねえ。あいつから、求められなきゃ意味がねえ。 
 だが、それはそれとして、原田とて大人の男ではあるので。それなりに持ち合わせた肉欲は確実に限界まで刺激されていた。暗闇の中、好きな相手の匂いにこれでもかと当てられ、どうしたって原田の下半身にじわじわと持て余した熱い血が集まって、行き場を失って下腹部でひどく疼いている。
 平助の匂いが最も濃く残るシーツに顔を押し当て、目を閉じた。
 ——吐き出しとかねえと、駄目だなこりゃ。
 脳裏に浮かぶのは、シャワー上がりの濡れた白藍色の髪や、無防備な白い首筋。
 荒くなる呼吸を押し殺し、原田は暗闇の中でひっそりと一人、ティッシュケースを引き寄せた。罪悪感も劣情も一緒くたにして握り締める。

 ……そういや、おやすみ、なんて、これまで生きてきて言ったことも言われた記憶も殆ど無かったな。



 浅い眠りから原田を引き上げたのは、キッチンの方から微かに漂ってくる香ばしい匂いだった。
 スマホのアラームが鳴る前にもそりと重い身体を起こし、大きな欠伸をひとつ零す。後ろ頭を片手で適当に掻き混ぜて自室のドアを開けると、そこには予想通り、昨日と同じように既に身支度を整えた平助がキッチンに立っていた。
 テーブルの上には、バターがとろりと蕩けたこんがりキツネ色の食パンと、ウインナーと卵のスープ、そして湯気を立てるコーヒーが並べられている。
「あ、おはようございます原田さん」
……おはよう。早いな」
「朝は強い方でして。すみません、またキッチンお借りして。……お口に合えばいいのですが」
 平助が申し訳なさそうに眉を下げる。一昨日コンビニで買った余りだろうか、原田の冷蔵庫に辛うじて残っていたウインナーや卵を使って、少しでもまともな朝食にしようと捻り出してくれたのだ。原田は向かいの席に腰を下ろしながら、気にした風もなく首を振った。
「いや、十分だ。作ってもらっといて文句言うほどガキじゃねえよ。いただきます」
 サクッ、と音を立ててバターの染み込んだトーストを齧り、温かいスープを胃に流し込む。優しいスープの塩気と卵の甘みが、寝起きの空っぽの胃にじんわりと染み渡っていく。
「うま…………つか、普通にスープすげぇよ。うちに塩胡椒、ケチャマヨ以外があったんだな。悪ぃ、食材も買いに行かなきゃだったな」
「ええ、本当に何にもなかったんですけど、戸棚の奥から何とか鶏がらスープの素を発掘しました! ある程度キッチンの勝手も把握しましたし、昨日お鍋も買ってもらいましたから……今日帰りに、スーパー寄りますか」
「助かる、天才。そうしようぜ。使い手がいるならキッチンも喜ぶだろ」
 原田が心底感心したように雑に褒めると、平助は少しだけ照れたように、けれどどこか得意げに自分の分のパンを齧った。小せえ口を黙々と動かしていた平助が、ふと何かを思いついたように顔を上げる。
「そういえばパンがあるってことは、原田さんは朝、洋食派なんですか?」
「んァ? ……いや、おまえが来るから適当に買っただけで特にこだわりはねえよ。そもそも朝飯食う習慣すらなかったからな。いつも出がけに缶コーヒー流し込んで終わりだ」
「えっ、朝ご飯食べてなかったんですか!?」
 原田の口から出たずぼらな食生活に、平助は心底驚いたように目を丸くした。しかし、すぐに思い当たることがあったのか、「ああいや、そりゃあの惨状なら……そうですよね……」と一人で納得して小さく呟いている。
 そして、コホンとひとつ咳払いをして、すかさず小言モードに入った。
「朝は一日のエネルギー源なんですから、ちゃんと胃に物を入れないと駄目です。脳に糖分が回らないと、仕事のパフォーマンスだって落ちますよ?」
 プラネタリウムで星の軌道を語る時のような理路整然とした口調で、すっかりお説教モードに入った平助に、原田は苦笑しながらパンの耳を齧る。
「だから、こうして朝からパンでも腹に入ってるだけ、今の俺はすげえ健康的なんだよ。……男の一人暮らしで自炊ってだけでも面倒なのに、流石、平助は毎日ちゃんと食ってたんだな」
 半分呆れつつも感心したように言うと、平助は当然とばかりに頷いた。
「はい。基本的に夜に少し多めにおかずを作って、翌日のお弁当用にも取っておくので。朝はそれと一緒に、ご飯とお味噌汁を食べるのが日課でした」
「へえ、弁当まで作ってたのか。マメだなあ……なら、朝は完全に和食派か」
「そうですね、やっぱりお米を食べないと一日が始まらないというか……。なので」
 そこまで言って、平助はふと何かを思いついたように顔を輝かせ、テーブルの向こうからぐっと身を乗り出してきた。
「原田さんにこだわりが無いのであれば、明日——というか、まずは今日の夜、楽しみにしててください! せめて僕がこの家にお世話になっている間くらいは、栄養のあるものをちゃんと食べていただきますからね」
 きゅっと小さく拳を握り少し意気込んだように胸を張る平助本人は、ただお世話になるからには、という生真面目な義務感から口にしたのだろう。だが、そんな何気ない言葉の端々から温かな生活感が滲み出すたびに、原田にとっては致命的に甘く響いてしまう。
……おう。頼むわ」
 内心の激しい動揺と浮き立つような喜びを悟られないよう、原田は努めて大人の余裕を装って短く返し、残りのパンとコーヒーを急いで胃に流し込んだのだった。

 あっという間に朝食を平らげ、二人は揃って玄関へ向かう。それぞれのサイズが違いすぎる靴を履き、同じドアから外へ出て、並んで駅へと歩き出す。原田のバイクは科学館の駐車場に置かれたままなので、昨日と同様に駅までは同じ道のりだ。
 少しだけひんやりとした初夏の朝の空気が頬を撫でる。通勤や通学を急ぐ人々が行き交う中、隣を歩く平助が、ふと顔を上げて口を開いた。
「今日は僕、プラネタリウムの解説担当じゃないので……、早上がりになると思います。なので、その、……
「? ……あァ、先に家入っていいからな。そのために合鍵渡してんだから」
……はい。ありがとうございます。役所の手続きとか色々と済ませたらお邪魔させてもらいますね」
 言い淀む平助に首を傾げたが、その手元で弄ばれているものを見て、ひとつ頷く。平助なら大丈夫という信頼もあるし、正直、盗られて困るものもない。
 当の本人は合鍵という単語の響きに、自分が本当に原田の家へ帰る権利を与えられていることを改めて実感したのか、少しだけ照れくさそうにはにかんで頷いた。「俺は仕事が終わったら一旦科学館に寄って、バイク取ってから帰っから、……どうしても少し遅くなっちまうけど……
 そこで原田は言葉を切り、横を歩く平助を見下ろした。
「夕飯の食材の買い出し、どうする? おまえ、先に行って適当に見繕っとくか?」
 料理の腕に自信があるらしい平助だ。一人でスーパーに行って必要なものを揃えることも十分できただろう。そう思っての提案だったが、平助は歩みを少しだけ緩め、戸惑うように視線を彷徨わせた。
 それから、どこか窺うように原田を見上げて、おずおずと口を開く。
……出来れば、一緒に、行きたいです……。何を作るか、見ながら一緒に決めたいですし」
…………、」
 だらしなく綻んでしまいそうになる口元を、原田は片手で覆って必死に押さえ込む。
「原田さん?」
「わかった。なるべく早く帰る。仕事終わったらバイク取って速攻で向かうから、家で待ってろ……あー、もう仕事行きたくねえ」
「ふ、駄目ですよ。急がなくていいので気をつけて帰ってきてください。ちゃんと待ってますので」
 そうしてくすくすと笑う顔を見せられれば、定時で上がるために今日の仕事を全力で片付ける以外の選択肢などあるはずがなかった。何より、担当曜日でも十八日でもない日に会えるのが、あまりにも原田にとっては大きいことで。
 他愛のない、けれどあまりにも生活感に溢れた会話を交わしているうちに、やがて駅の喧騒の中へと到着する。それぞれの乗る路線へと向かう改札前で、二人は立ち止まった。
「じゃあ、行ってきます」
「ああ、行ってくる。平助も気をつけてな」
 小さく手を振って改札へ吸い込まれていく小柄な背中を、見えなくなるまで見送った。朝に会うのも不思議な感覚なのに、夜になれば一緒にスーパーへ出かけて晩飯を選び、同じあの部屋に帰るなんて……まだ夢を見ているみたいだ。
「おはよう」から「おやすみ」まで。平助にとっては不運なことに、原田にとっては幸運に舞い込んできた僅かな機会を、決して逃す訳にはいかなかった。

 その日の夕方。定時のほんの少し前、原田の尻ポケットでスマホが短く震えた。画面を開くと、律儀に一件のメッセージが届いている。
『無事にお家に入りました。原田さんも気をつけて帰ってきてくださいね』
 それから例の謎の生き物のスタンプ。内容はただの帰宅報告だが、しかし『お家に入りました』という、生真面目な文面に、原田は思わず緩みかけたのを誤魔化すように咳払いをひとつ。恐る恐るうちの鍵を使って家に入り、リビングか自室で大人しくしてんだろうな、と簡単にその姿が脳裏に浮かぶ。
 いつも以上に帰りたい一心で、すぐさま残りの仕事を片付ける。無心でタイピングを続けていれば、背後からひょっこりと顔を出した上司の勝に声をかけられた。
……あれ? 僕がズレてるのかと思ったけど違うな。今日だっけ、原田くんの定時推し活日」
「なんすかそれ」
「社内じゃ有名だよ。原田くんのハートを射止めた相手は誰だって。ま、ほら、君がいつも血相変えて定時で上がるのって、決まった曜日だったじゃない。今日は違うはずだよなーって」
 勝はそう言ってから、顎に手を当てて不思議そうに首を傾げた。
「あー、……暫くの間、出来れば毎日早めに帰りたいんですけど」
 少しだけ気まずそうに視線を逸らした原田を見て、勝はニヤリと揶揄うように口角を上げる。
「そりゃぁ君の働き次第だ。……ま、お上さんも重たい腰上げてテレワークの検討も始まってるみたいだから、持ち帰りくらいなら許されるんじゃない?」
 勝の気のいい言葉を背中に受けながら、原田は残りのデータを強引に保存し、パソコンの電源を落とす。丁度、壁時計が定時を知らせるようにぼーんと低く鳴り響いた。
「んじゃあそうします。お疲れ様でした」
「君ねえ……
 呆れ顔から逃げるように、職場からさっさと退勤する。昨日から丸二日放置していた愛車を回収するためだけに急いで科学館へと寄り道し、いつもなら心地よいはずの夜風を鬱陶しく感じながら、バイクのアクセルを回して自分のマンションへと急いだのだった。

 マンションの駐輪場にバイクを滑り込ませ、足早に自室のドアの前へと立つ。いつもなら暗く冷たいだけの鉄の扉の向こうから、今日は微かに人の気配が感じられた。ガチャリと鍵を回してドアを開けると、既に付けられている玄関の照明の下に、待ち構えていたかのようにぱたぱたとスリッパの足音が近づいてくる。
「あ、原田さん。……お疲れ様です」
 ひょっこりと顔を出した平助は、出迎えてくれた事実に少し照れたのか、もごもごと口ごもりながら視線を彷徨わせた。それから、意を決したように小さく息を吸い込む。
……おかえり、なさい」
 それは、ひどくぎこちなく、どこか探るような響きを持っていた。他人の家で、その家主を迎える言葉としては正解なのか迷っているような、あるいは誰かを出迎えること自体が久しぶりで戸惑っているような、そんな不器用な出迎え。
 だが、原田もまた、その言葉を受け取ることにひどく不慣れだった。新八がいた頃ならともかく、扉を開けた瞬間に誰かの声が降ってきた経験など殆どないのだから。
……おう」
 途端に愛しさと気恥ずかしさが込み上げてきて、原田は誤魔化すように後頭部をガシガシと掻いた。どう返せば正解なのか、いい大人のくせに一瞬頭が真っ白になる。それでも、このむず痒くてたまらなく温かいやり取りを無下にしたくはなくて、少しだけ声を低くして口を開いた。
……ただいま」
 言い慣れないその四文字をぽつりと落とすと、平助は耳の先をほんのり赤くしながら嬉しそうに「はい」と微笑んだ。

 そうして合流した後、そのまま連れ立って外へ出た二人は、並んで近所のスーパーマーケットの自動ドアを潜る。
 夕飯時のスーパーは家族連れや仕事帰りの人々で賑わっており、二人でカートを押しながら歩く光景は、どうしようもなく『日常』そのものだった。
「さて、何にしましょうか」
 野菜コーナーを抜け、精肉コーナーの前に立った平助は、腕まくりをしてすっかり張り切っていた。
「せっかくお鍋や包丁も買ってもらいましたし、今日は少し手の込んだものを作りたいです。原田さんは何が食べたいですか? リクエスト、何でも聞きますよ!」
 ふんふんと鼻歌を鳴らしそうなほどご機嫌に見上げてくる平助。凝った料理を振る舞って、少しでも居候の恩返しをしようという彼なりの意気込みなのだろう。
 定番のハンバーグや肉じゃがか、それとも手の込んだ煮込み料理か、唐揚げなんて揚げ物もありだろうか。或いは餃子を包むのを横で手伝うのだってありかもしれない。仕事中も色々考えて、選択肢なら山ほどある。
 けれど、何でも作ってやると笑う平助を前にして、原田の口から無意識にポロリとこぼれ落ちたのは、全く別の単語だった。
……カレー」
……え?」
「いや、……カレーが、食いてえな、って」
 言ってしまってから、我ながらそのあまりの子供っぽさに原田はカッと耳の裏を熱くした。張り切っていた相手に対して、まるで小学生の男児のようなリクエストだ。咄嗟に誤魔化そうと目を伏せたが、平助はきょとんとした後、ふはり、と堪えきれないように笑い声を漏らした。
「そういえば、以前の星空キャンプの時も、大人気なく子供達に混じっておかわりしてましたね……本当にお好きなんですね、カレー」
……三食カレーでいい」
「良くないですよ。栄養が偏ります」
「野菜入ってるじゃねえか、夏野菜カレー?」
「そういう問題じゃないでしょう」
 呆れたように笑いながらも、平助は「でも、リクエストなら仕方ないですね」とカレールーの箱と豚肉をカートに放り込んだ。迷いなくカートと共に店内を縫うように歩くその背中を見下ろしながら、原田は目に焼きつけるようにその後ろをついていった。

 マンションに帰り、では早速とキッチンに向かった平助。昨日も今日も起きた時には既に朝食は殆ど完成していて、ろくにキッチンに立つ姿が見られなかった。だからこそ、原田はカウンターに寄りかかり、平助がせかせかと立ち働く様をのんびり特等席で眺めてやろうと陣取っていた。
 だが、シンプルな黒いエプロンを身につけた平助がそれに気づき、ジロリとこちらを睨んでくる。
「原田さん、どうせ暇なら手伝ってください。働かざる者食うべからず、ですよ」
……マジか。客に手伝わせんの?」
「あなた家主でしょう。見られるの、落ち着きませんし……ほら、お米研いでください! あと、焼くのは出来ますよね。お肉炒めるの任せますから」
 結局、腕まくりをして原田もキッチンに並んで立つ羽目になった。男二人が並ぶには少し手狭なキッチンで、肩が触れ合いそうになりながら作業を分担する。ザルで米を研ぎ、次いで熱した鍋に油を引いて豚肉を炒め始めると、ジュワッという小気味よい音とともに香ばしい脂の匂いが立ち昇った。
 ふと隣を見ると、平助は買ってきたばかりの真新しい包丁を握り、玉ねぎやじゃがいもを信じられないほどの速さで切り揃えていた。トントントン、と軽快でリズミカルな音が響く。流石、包丁の扱いまでお手の物らしい。
「おまえ、すげえ手際いいな」
「ええ。……仕事から帰ってきた母に、少しでも楽をして欲しくて……いえ、褒めて欲しくて、頑張りました」
 炒めた肉に野菜を放り込みながら、平助がふんわりと目を細めて懐かしそうに笑った。
「ああでも……そういえばもっとずっと昔、母とこうやってカレーを一緒に作ったことがあります。……子供用の小さな包丁を持たせてもらって。左手は猫の手ですよ……なんて言われながら、横で野菜を切って……今の今まで忘れていたのに、懐かしい、です」
 ぐつぐつと煮え始めた鍋を見つめながら、平助の言葉が静かに紡がれる。
 母親しかいなかったけれど。その母も、一緒にいない父の事ばかり考えていて、どこか寂しい家庭だったけれど。それでも、キッチンで並んで料理をしたあの時間には、確かに小さな幸福があったのだ、と。
 平助の横顔は、そう静かに物語っていた。
……そっか」
 木べらで鍋の中をゆっくりと掻き混ぜながら、原田はその言葉を反芻していた。
 あたたかな、家族の記憶。ふと、原田の中でパズルのピースが噛み合ったような気がした。
 ……ああ、そうか。自分の記憶の中には、そんな温かいものはちっとも存在しなかった。キッチンに誰かと並んで立った記憶も、誰かが自分のために手料理を作ってくれた記憶も。
 だから、カレーが好きなんだと、原田は唐突に自覚した。
 大きなひとつの鍋で作って、みんなで皿に分け合って、同じテーブルを囲んで一緒に飯を食う。それは、原田にとって家族・・の象徴だった。何も混ぜられてない信頼・・が確かにそこにあった。自分には絶対に手の届かない、分厚いドアを挟んだ向こう側の、どこか別の世界のおとぎ話。
 手に入らなかったからこそ、無意識にずっと憧れていて、執着していたのだ。
「原田さん? 焦げちゃいますよ」
「おっと、悪ぃ」
 平助の声にハッとして、慌てて木べらを動かす。隣を見れば、鍋の火加減を調整しながら、平助が「もうすぐルー入れますね」と微笑んでいる。
 子供の頃、ドアの向こう側の別の世界だと思っていた光景が、今、自分のすぐ隣にある。自分だけの城だったはずのこの部屋で、自分のために、大きな鍋でカレーを作ってくれる人間がいる。
 ぐつぐつと煮える音と、香辛料が混ざりながらもどこか甘い匂いが、原田の空洞だった胸の奥を、これ以上ないほど温かく、隙間なく満たしていった。


 結局、翌朝テーブルに並んだのは昨夜から一晩寝かせてさらに深い色合いになったカレーと、それに付けるために香ばしい湯気を立てる食パンだった。
……朝は和食派って言ったばかりなのに……
 少しだけ申し訳なさそうに、けれどどこか嬉しそうにはにかむ平助の顔を見て、原田は寝起きの頭のまま、小さく笑いをこぼした。
「カレーパン、良いじゃねえか。三食カレーらしくてよ」
 向かい合って座り、スプーンを口に運ぶ。一晩寝かせてコクと旨味が増したカレーは、昨夜よりもさらに丸みを帯びた優しい味がした。