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もち粉
2026-06-08 23:34:17
4945文字
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雨が止むまで
カブミス
遣らずの雨
1
2
小雨だった。
雨季にしては妙に明るい空で、雲は低く垂れているのに、薄く光を孕んでいる。
空気は冷え、石畳は雨を含んで白々と光っていた。
体の芯から凍るような寒さの中、防水布で厳重に包んで本を持ってきたカブルーは、客間に通されてその暖かさにほっと息を吐いた。
暖炉には火が入れられ、薪の燃える香りが心地良い。凍死の恐れはない季節とはいえ、気温が下がればふんだんに薪をくべられるあたりに、歴然とした財力の差を感じる。
もっとも、寒さを凌ぎたいという欲求さえないこの主のことだ。周囲の使用人が細やかに心を配っているのだろう。
壁には分厚いタペストリーが掛けられ、外からの冷気を遮断していた。
彼がよい使用人に恵まれ、こうして快適な生活を送れているらしいことをカブルーは誰にともなく感謝した。
それとともに、自分が心を砕かずとも彼の生活が整えられていることに針先ほどの寂しさを覚えた。
「写本もできましたので、本、お返ししますね。ありがとうございました」
「ああ、役に立ちそうか?」
「ええ。結局、他の章も面白くて
……
ほぼ全編写してしまいました」
お陰で少し右手が凝ってしまいました、とカブルーが苦笑して手を振ってみせる。
本を返しに来ただけのはずだったが、気がつけば二人で暖炉の前に腰掛け、他愛もない話をしていた。
窓の外の雨のこと、最近の仕事の報告、街で見かけた顔ぶれ。
会話は弾み、あの水底のような地下室にあった静寂はない。
けれど、そこには確かに似た空気があった。
穏やかな話し声の隙間を、かすかな雨音とパチパチとはぜる炎の音が埋めていく。
広い屋敷の中でそこだけが、世界から切り離されたように
――
ふたり。
「まだ降っているな」
お茶のおかわりを淹れようと席を立ったミスルンが、ふらりと窓辺に寄って空を見上げた。
ぱたぱたと軽い音を立て、小さな雨粒が窓を叩いている。
その時、カブルーは気づいた。
曇った硝子を指先でぬぐったミスルンの手が、手のひらを上に向ける。
人差し指と中指が、ほんの少し
――
ひらり、と動いたようだった。
(
……
?)
何かを払う仕草のようでもあり、無意味な癖のようにも見えた。
意味を図りかね、カブルーは何も言わなかった。ただ、蝶の羽ばたきのようなその白い指先のひそやかな動きだけが目に残った。
そろそろ引き上げるタイミングだろう。カブルーは未練を断ち切るように、社交用の快活な笑みを浮かべて礼儀正しく暇を告げた。しかし玄関へ向かう廊下を歩く足取りは、わずかに遅く、重かった。
普段ならミスルンは部屋で見送り、カブルーを玄関へ案内するのは使用人のはずだった。だが今日のミスルンは手元のベルを鳴らすことなく、一人掛けのソファから立ち上がると、黙ってカブルーの隣を歩き出した。
長い廊下の途中、床から天井付近まで続く細長い窓の前でミスルンがふと足を止めた。
窓硝子には細かい水滴がつき、その向こうの景色が淡い銀色の膜を張ったように滲んでいる。
ひらり。
また、同じ仕草。
今度は、はっきり見えた。
窓の外、止みかけた雨雲に向かって、誘うように指先が動く。
――
あ。
不意に昔の記憶がよみがえる。
幼い頃、ミルシリルが花壇の前で「そろそろお湿りが欲しいねぇ」と、同じように指先を揺らしていた。「雨を呼ぶおまじない」だと、笑っていた。
(
……
もしかして)
地下室の、湿った空気。
雨音。
眠たげな声。
――
あの時間を、彼も。
外套を羽織り、玄関の扉を開けたところで、カブルーは足を止めた。
視界は白くけぶり、ひんやりとした空気が流れ込んでくる。
帰れないほどではない。
言い訳にもならないほどの頼りない煙雨だ。
けれど。
「あの
……
」
振り返る。
ミスルンが、静かにこちらを見ている。そのいつも通りの静謐な瞳の中に、祈るような揺らぎが見える。どことなく名残惜しそうに見えるのは、自惚れだろうか。
「雨、思ったよりひどいみたいです」
「
……
そうだな」
ミスルンもカブルーの肩越しに空を見上げて頷いた。
小雨から霧雨へと変わった雨は、風に舞い、わずかな光を反射してきらめいた。
遠くの空は明るく光り、まもなく太陽が顔を見せるであろうことを知らせている。
「
……
もう少し、雨宿りしていってもいいですか」
「うん
……
雨が止むまで、いるといい」
雨は強くならない。
むしろ止みかけ、空は刻一刻と明るさを増していく。
けれど、この瞬間の湿度だけが、二人の間に静かに満ちていた。
沈黙を破るのが惜しいというように、玄関がそっと閉められた。
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