もち粉
2026-06-08 23:34:17
4945文字
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雨が止むまで


カブミス
遣らずの雨

空気がしっとりと湿り気を帯びている。
酒場の地下にあるカブルーの部屋に、石壁の湿った匂いが漂っていた。窓がないぶん、外の気配は音と匂いでしか分からない。
けれど、雨季の湿気は階段をひたひたと降りてきて、足元にじわりと染み込んでいた。

なんとなく音の伝わり方も鈍くて、上の酒場の喧騒もぼんやりとしている気がする。

ミスルンが腰を上げた瞬間、
階上の扉が開き、ドヤドヤとした足音と男たちの胴間声が急にはっきりと響く。その後ろに激しい雨音が聞こえた。

「あー、参ったわ。とうとう降り出しちまった」
「こんな大雨じゃ仕事になりゃしねぇよ。おぅい店主、酒くれよ強いやつ」

喋りながら移動する声が、店内へと入っていく様子を伝える。やがて新客たちの声は酒場全体のざわめきに紛れていった。

しん、と部屋が静まり返る。
……だいぶ降ってるみたいですね、よかったらしばらく雨宿りしていって下さい」

カブルーが言うと、ミスルンは扉の方へ視線を向けた。
表情は変わらない。
けれど、湿気を含んだ空気が彼のふわふわとした髪を少しだけ重くして、その影が頬に落ちる。

「そうか。ではしばし世話になろう」

ミスルンが再びベッドに腰を下ろしたのを確認してから、カブルーは立ち上がった。

「お茶を取ってきます。すぐ戻りますから」

​階段を上がった途端、雨音が一気に耳を塞いだ。酒場の扉が開くたび、白い水煙が吹き込んでくる。
これは――思っていたより、ずっとひどい。
店主から受け取った茶器を抱え、地下へと戻る。足元の板が立てる軋みも、湿気を含んでいつもより鈍く、重い音を立てていた。

​地下室の扉を開けながら、思わず言葉が漏れた。

……すごい雨ですよ」



指先を温めるようにカップを両手で包み込み、ゆっくりと口元へ運ぶ。ミスルンが無言なのは、いつものことだった。

雨粒が地面を叩く、地響きのような音だけがくぐもって伝わってくる。
二人はしばらく、黙ったままその音に耳を傾けた。

​静寂の中、水気を含んだ空気がゆっくりと身に入り、とぷんと肺を満たしていく。
呼吸の音さえ相手に届いてしまいそうなほど、距離が近い。

​いつもなら考えるまでもなく次々と話題を紡ぎ出す口が、今日に限ってうまく動いてくれなかった。この沈黙は、いつもよりずっと長く感じられた。


ふと気づけば、ベッドに腰掛けているミスルンのまぶたが重たそうで、その目の下にはうっすらと隈が見えた。

……最近、眠れてますか?」
「どうだろう、多少は寝ているようにも思う」

――これは寝てないな。

「今、眠たいですか?」
「わからない」

カブルーはミスルンの手の中から空のカップをそっと取り上げた。

「よかったら、今ちょっと横になっててもいいですよ。目を閉じてるだけでも、少しは違いますから」

返事を待たず、そっと頭に手を添える。
ほんのわずか横に導いただけで、彼は素直に重力に身を預け、ぽすり、と上半身をベッドに横たえた。

​足を床に下ろしたまま、少し身をよじるようにしてカブルーを見上げてくる。
その無防備なまなざしを正面から受けた瞬間、カブルーははっと息を呑んだ。

​(……俺の、ベッドに)

​どきりと高鳴った心臓から意識をそらすように、頭をよぎった妄想を認識する前に立ち上がる。

「お借りした本の写本を作ってしまいますね。楽にしていて下さい」

不自然な早口になっていなかっただろうか。
何か掛けてやったほうがよかっただろうか。
背を向けて机に向かうが、紙は湿気を吸って、羽根ペンが思うように滑らない。


(今日は、やけに書きづらいな)


​「……湿気がすごいな」

​ランプの灯りが、机に向かうカブルーの背中を淡い橙色に照らし出している。その背中に向けて、ミスルンがぽつりと言った。
珍しく、彼の方から投げかけられた話題だった。

​「雨季ですからね、どうしても。特にここは地下ですし」

​ふふ、と吐息だけで笑うような気配が背後から伝わってくる。

​「……お前の髪が、いつもより巻いている」

​ほんの少し、その髪に触れてみたいと欲するように、白く細い腕が伸ばされた。けれど、紙面から目を離さずに応じたカブルーは、その密やかな動きに気づかない。

​「そうなんですよね。雨の日はいつもこうで」

​ようやく振り返り、あははと自分の髪をかき混ぜてみせる。
薄暗い部屋の中、カブルーの寝台に広がった銀の髪が、ランプの光を浴びてしっとりと煌めいていた。

……その本だが、必要のない部分も多い。お前の知りたがっていたことなら、一章と二章、最後の総括だけでも充分だと思う」
「たしかに、後半は省けそうですね」

返事をしながら筆を走らせる。

ミスルンの声は穏やかだが、返答の間が、少しずつ長くなっていく。
ふと振り返ると、彼のまぶたは、さっきよりも重たそうだった。
瞬きをするたび、視線が定まらない。

​「……眠くなってきました?」
「そうかもしれない」

​その声も、どこか曖昧だ。
カブルーは穏やかにミスルンを見つめながら口を開き——言ってから、自身の言葉に心臓が跳ねた。

​「足、上げて……ちゃんと毛布に入って寝てもいいですよ」
​慈しむような声音が、湿った空気に溶ける。

——え、泊まり?

​自ら放った言葉の意味が、遅れて脳内で警鐘を鳴らした。
(いや、待て。ベッドは一つしか……

​心臓が一気に早鐘を打ち始める。ミスルンの反応を確かめるのが怖くて、慌てて視線を逸らし、逃げるように机へ向き直った。背後からの視線を意識しすぎて、肩がひどく強張る。

​「雨のな……

​ミスルンの、夢の淵にいるような声がした。

​「雨の音が……、拍手のように聞こえることがある……

​その言葉を最後に、彼はまどろみに落ちたようだった。


ばたばたばたばた……
窓のない地下室に、遠い喝采のような雨音と、カブルーの隠しきれない鼓動だけが響いていた。


眠りにつく寸前に、ミスルンが毛布を握りしめてカブルーの寝具から立ち上る匂いを肺いっぱいに吸い込んだことをカブルーは知らない。



やがて、夜が深くなるにつれて、
雨音が少しずつ弱まっていく。
階段の上から流れ込む湿気も、ほんのわずかに軽くなる。
たった四行しか進んでいない写本を前に、カブルーがため息をついた頃。
――しとしとと続いていた雨音が、ふっと途切れた。


不意の静けさに、寝ていたと思ったミスルンが顔を上げる。

……上がったな」




「じゃあ、足元気をつけてくださいね」

階段を上がり、夜半の街へとミスルンを見送ってから地下室へと戻った。
さっきまで満ちていた他人の気配が、嘘のように消えていた。
なんとなく、彼の横たわっていたあたりを手のひらでなぞってみる。
粗い織りの毛布が、わずかにじっとりした感触を伝えてくるのみだった。

その時、何か柔らかいものに足先が触れた。
ベッド下に押し込んでいた、使い古した寝袋。冒険者だった頃、ずっと使っていたものだ。

……あったな)

​安堵なのか、それとも落胆なのか。
手近な解決策さえ忘れていた自分の間抜けさに、力が抜ける。
先ほどミスルンを見送った戸口から窺う空には、雲の切れ間から星が覗いていた。