ながひさありか
2026-05-26 00:24:59
15489文字
Public STR-Phaidei
 

MOONLIGHT MILE3


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3-1

「遅かったな」
 帰宅してドアを開けた瞬間、へ、と間抜けな声が喉から洩れた。
「モ、モーディス?」
 勤務服のネクタイを外そうと指をかけた姿勢のまま硬直し、何故かそこで腕を組んで仁王立ちしている男――モーディスを見つめた。オクヘイマに帰って来てから、そういえば彼と同棲してるんだった、とあり得ない気付きをそこで得た。あり得ない。僕みたいな一般庶民が、彼のようなスターと付き合っているなんて。理性ではそう感じているのに、これが現実なのだと理解してもいた。少し不満そうに僕を見つめるモーディスは、メディアでよく見るような長い髪に三つ編みを一房垂らした髪型ではなく、ハーフアップに三つ編みを垂らしていた。初夏の陽気だ、室内とは言えもしかすると暑かったのかもしれない。シャツの上から見ているからこそわかる、触り心地が良さそうでハリのある胸部が、腕を組んでいるせいでより強調されてしまっている。鎖骨に落ちている金のネックレスチェーンが気になり、思わず視線を下げる。別にモーディスはそんなつもりじゃないだろうに、僕が勝手に「そういう」アピールだと思い込んで、目のやり場に困っていたからだ。だけど、視線を下げたら下げたで、長い脚が収まっているタイトなボトムの太腿の部分だとか、Tシャツの裾から僅かに覗く素肌と赤いタトゥーが色っぽくて「しまった」と感じた。
「どこを見ている?」
 喉の奥で笑ったモーディスが、からかうように僕と距離を詰める。いや、と言い訳を口にしかけた僕を壁際まで追い込み、ぐっと顔を寄せた。鼻先が触れ合いそうなほど距離を詰められ、胸を当てないでくれ、と一番どうしようもない言葉を言いそうになった。だけど、触れ合ったそこが予想よりずっと柔らかくて、心臓がどきどき暴れ出してどうしようもない。モーディスは機嫌が良さそうに、僕をからかって楽しそうに、それでいて獲物を仕留める肉食獣のような獰猛で美しい表情で口角と瞳を吊り上げて笑っている。黒く光るエナメルの指先が僕へと伸ばされ、ぐいっとネクタイを引かれる。金色の瞳が真っ直ぐに僕を見つめている。その妖しい光に完全に魅了されていて、まるで僕はメデューサの目を見て石化してしまった男のように動けない。激しく脈打つ心臓が、胸を突き破って今にも飛び出してしまいそうだった。触れ合った肌の上から緊張と鼓動がモーディスに伝わってしまいやしないかと不安だった。
「ファイノン」
 モーディスが僕の耳朶に唇を触れさせ、低く甘ったるい声で僕を呼ぶ。モーディスの毛先が頬をくすぐり、輪郭から彼の肌の熱さを直接感じる。レザーとスパイス、南国の果実と花を思わせるような華やかな甘さが鼻先にふわりと香り、それを嗅いだ瞬間、体の奥で燻っていた火種が勢いよく燃え上がった。全身に熱が一気に広がって行く。胸が苦しい。君が好きだ。君が欲しい。今すぐ君の唇を塞いで、その美しい声と音を奏でる指と君自身を僕だけのものにしたい。君の前に跪き、君を押し倒し、「お前が欲しい」と呪いと祈りを同じ音で奏でるその喉で言わせたい。君が魂を磨いて光り輝く様をもう誰にも見せないで欲しい。いや、全世界に知らしめたい。強烈で過分で余計で自意識過剰すぎる激しい情動に理性がぐちゃぐちゃにかき回される感覚に快と不快の両方の感覚を覚える行き場を失って下げていた両手を思わず腰に回しそうになり――ふと、いや、おかしくないか? と違和感を覚えた。
 激しいノイズ混ざりの、モノクロの砂嵐が流れる画面を見ていたことに気付いたような、奇妙な感覚だった。宙空に手を持ち上げたまま硬直する。
「君がここにいるはずがない」
 そもそも僕はまだエリュシオンにいる筈だ、と眼前のモーディスの両肩を掴んで引き離す。モーディスは愉しそうに口角を上げたまま、何を言っている? と首を微かに傾げ、僕に向かって笑っている。その表情の柔らかさとリアルさに再び脳が混乱する。え? もしかしてこれって現実なのか?
「どうせまた頭が少しおかしくなっているのだろうが、いい加減に現実を受け入れろ」
 喉の奥で笑ったモーディスが、僕の胸に片手を置く。エナメルの指先を動かし、シャツのボタンを器用に開けている。思わずごくりと喉を鳴らしてしまい、あの、と震えた声が喉から洩れる。現実なのか? 本当に?
 モーディスが瞼を下ろした美しい顔を僕に近づけ、唇が今まさに重なろうとしていた。
「待っ、」

   *

――え? 痛っ!」
 突き放そうと慌てて手足をばたつかせた瞬間、落下する感覚に心臓が縮む。数秒の後、強かに肩を打って声が出た。
 痛みに悶絶しながら、あ、夢だ、とさっきまでの不自然な出来事に対して、今度こそ本当に気が付いた。当たり前だ。僕はオクヘイマの自宅には戻っていないし、そもそも、モーディスと同棲なんてしているはずがない。大体、彼とは昨日出会ったばかりだ。
「欲求不満なのか……?」
 まさかあんな夢を見るなんて、と肩をさすりながら一人で恥ずかしくなっていると、部屋の扉が大きく叩かれる。父さんの声だ。
「大丈夫、ベッドから落ちただけ!」
 ドア越しに声を張り上げると、ガキじゃあるまいし、と笑う父さんの声が聞こえた。本当だよ。
「はぁ……
 この歳でこんな目覚め方をするなんて最悪だ。下半身に不快感がないのがせめてもの救いだろう。とは言え、ここ一、二年はそんな気分になること自体がなかったので正直なことを言えば混乱していた。最後に恋人がいたのって何年前だったっけな、と不毛なことを考えそうになっていたのを強制終了する。不毛だ。
 着替えを持って部屋を出、畑の見回りから帰ってきた父さんと母さんが朝食を取っている横を通り抜けて洗面所へ向かう。
 顔を洗い、鏡に映る自分をまじまじと見つめた。顔色は悪くない。気分は……罪悪感と羞恥心はまだ引きずっていたが、夢の件を加味しなければ特に問題はない。
 昨日、初対面の人を半日案内し、色々と気を遣ったにしては調子のいい朝だった。目覚め方は最悪だったが、それを除けば無理をしている感覚はあまりない。意外な結果だったが、できれば、村の案内はなるべく早く完遂したかったので、この結果に感謝すべきだろう。人と交わした約束を違えるのは、僕にとってかなり苦痛なことだからだ。
 着替えを済ませて洗面所から出て来た僕に、父さんが「朝食はどうする?」と声をかけて来た。
「ちょっと宿に顔を出して来る。朝食はその後食べるよ」
 モーディスに今日の予定を確認するのが先だった。

   *

 宿に顔を出すと、玄関まわりを掃除していたおかみさんに「あんたの分の朝食はないよ」と笑われる。
 いらないよ、と苦笑すれば、「モーディスさんは食堂で朝食を取ってるよ」と質問したいことを先読みした答えが返って来た。
 見た目から受けるイメージと言うか、僕の勝手な思い込みだったのだが、意外なことに彼は夜型ではないらしい。
「おはよう、昨日はよく眠れたかい?」
 スープを啜っていたモーディスは僕の来訪にも表情を変えず、嚥下してから「おはよう」と口にし、見た目のいかつさからは考えられない丁寧な所作で紙ナプキンで唇をそっと拭う。
 そう言えば、実家はかなりの資産家だとか、昔どこかのインタビューで読んだのを思い出した。彼の母方は音楽一家で、幼少期はクラシックをやっていたものの、中学時代にロックと出会ってうんたらかんたら。
「朝早くに来たと言うことは、調子はいいのか」
「あ、ああうん」まずい。声が裏返った。「いや、本当に大丈夫。昨日は変なところを見せてすまない、今日は大丈夫そうだから、村の案内をどうするか聞いておきたくてさ」
 声が一瞬震えてしまったのは、モーディスの生い立ちを思い出していたせいではない。妙な夢を見たせいで、拭われた唇に一瞬意識を持っていかれてしまっていたからだ。
 勝手に気まずくなり、視線をそっと反らした僕にモーディスは少しだけ不思議そうな顔をみせたが、特に何も言わない。昨日もそうだったが、彼はかなり人の機微に敏いほうなのかも、と考えかけて、スターってそういうものか、と思い直す。「俺のやり方についてこい」、とファンに言うタイプなんだろうと思っていたけれど、案外そうでもないのかもしれない。僕は彼のファンコミュニティについては全然知らないので、曲のことしか知らないが。
 もし村にまともなインターネット回線があったなら、きっと僕は昨日の夜から明け方までずっとモーディスのことを検索し続けていただろう。今は回線がなくてよかったと思っているが、そのうち、「部屋の回線を貸してくれないか」と言い出しそうな気もした。
「収穫祭は今日からだったか」
 モーディスが昨日、書き物をしていたのとは別の小さなノートを取り出して言う。
「そう。正確には今日の日中は前夜祭で、今夜の宴会からスタートだけどね。だから村を案内するなら日中がいいかな。村の人たちが僕らに構ってる暇がないからね。あと実家に帰らな過ぎてすっかり忘れてたんだけど、父さんがワインを作っててそれを出品するらしいから、もし興味があるなら数本くすねておくよ。甘くておいしいんだ」
 モーディスは僕の言葉に興味深そうに「ほう」と呟き、「美味ければ買い取る」と口にした。
 収穫祭は今日から三日で、それぞれの家庭の味やら、村の外で仕入れて来たお酒や食品なんかを広場に持ち寄って好きに出店していいことになっていた(出店といっても、殆どは炊き出しのような形で振る舞われることが多い。両手が空いていれば、料理やお酒を押し付けられてしまう)。
 夜になれば広場ではいよいよ自由に豪勢な食事とお酒が振る舞われ、組んだ薪が燃やされる。
 今年も歳月がきちんと流れ、無事に恵みを収穫できたことをオロニクスに感謝し、村長が感謝の祈りを捧げる。その後、村のみんなで奉納舞のかわりに、広場におこされた炎の周りで踊ったり歌ったりする(好き勝手飲んで食べて踊るだけだが、そう言うことになっている)。
「今日から三日間は明け方まで飲む人が多いから、明日から日中はかなり自堕落でのんびりした雰囲気になるかな。……説明しておいてなんだけど、僕自身村の祭りはそんなに面白い物じゃないと思ってるんだ。けど、君は一応、祭りを見に来たんだよな?」
「そうだ。お前にとっては子どもの頃から見飽きた光景なのだろうが、俺には興味深い」
「ならいいけど」
 そう言いつつ、本当につまらないと思うんだけどな、と少しだけ不安に感じた。楽しんでくれれば勿論ありがたいけど、「こんなものか」と思われる可能性の方が圧倒的に高い。
「特にこれといった目的がなければ、昼食の後に迎えにくるよ。急いで回るほど村は広くないから、それでも十分夜の宴に間に合うから」
「案内はお前に任せている。お前がそれで十分だと思うのならその案でいい」
 モーディスは食後のハーブティーに優雅に口をつけ、満足そうに頷いている。
 何もない小さな村だが、少なくとも食事は彼の舌に合っているらしい。
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