めやぬら
2026-05-31 23:46:16
6097文字
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こども

不定期週刊燐一
夢の中で、子供の頃の一彩に会う燐音の話。
きっとこうしたかったんじゃないかな、こうしてほしかったんじゃないかな、という妄想。現実では、燐音は過去のことについて謝らないと思います。


 戸惑う幼き一彩に、腕を広げる。かつてこの頃の齢の自分がしていたようにおいでと言えば、恐る恐るじりじりと寄ってきて、本当にいいのかと躊躇いながら抱きついてこようと伸ばされる腕。その手がジャケットやシャツを掴むまで待てず、囲めるくらいに近寄ったとき、すぐさまぎゅっと腕を回して捕まえる。

「っ!はなせ、離して!」

 すると、すぐに警戒してじたばたともがき出した。子供の全力は結構厄介だが、抑え込めないような力でもない。まして、今の一彩にとって、自分は兄の面影が残る人なのだ。本気で抵抗なんてできやしない。

「暴れんなって、何もしねぇよ」
「ぐぅっ、ゔーっ!やだ、嫌だ!」
「大丈夫だいじょうぶ……ほら、お前に害は与えねぇよ、な?」
…………
「お前は賢いから、お兄さんが悪い人じゃねぇって分かってるだろ?」
…………うん」
「そう、いいこ……良い子だな、一彩」

 危険なことなんてしないとわかれば途端に大人しくなった一彩は、暴れなくなったものの、さっきの沈んだ空気に戻ってしまった。ぽんぽんとあやすように背を叩いて、頭を撫でて、身を預けるのを許す。この頃の燐音がしていたことだ。懐かしい実感があるが、一彩にとっては今のこと。今し方、もうなくなったと思った安心できる場所だ。

……っず」

 そのうち、控えめにシャツを掴んでいた手に力が籠って、鼻を啜る音が聞こえた。小刻みに震える体はあたたかくなってきて、噛み殺しきれない嗚咽と共に体重が預けられる。

…………
……よしよし、どうしたんだ?何があった?」
……にいさんが」
「うん」
…………ひぅ、ぅゔ〜〜〜……
「どうしたどうした、言えないぐらい辛かったか」

 兄さんが。

 それだけで何があったか大体わかる。この頃の自分は暇さえあれば都会に行っていた。おおよそ、今回だってそうなんだろう。今日で三日か、四日か。複数日帰らないこともあって、帰った時はひどく叱られ罰を受けたが、それでも懲りなかったという筋金入りだ。
 あの頃、一彩は燐音が帰ると真っ先に、喜ぶよりも怒った。悲しいとか寂しかったよりも、どうして出ていったのか、皆の迷惑になるとなぜ分からないのかと詰った。
 もしかして、その裏で、一彩もこうして泣いていたのだろうか。今は、というよりもこの夢の中の一彩は、俺が抱きしめて泣かせてやることができるけれど、確かな過去の一彩は、こんなことができたのだろうか。

「兄さんがどうした?言ってみ?」
……いいたく、ない」
「そっか。……じゃあ言わなくてもいい。よくここに来たな、えらいえらい」
…………
「偉いな、一彩。よく頑張った、泣かずに頑張ったな」
……っぅえ、ぅう……
「悲しいな、辛いな……大丈夫、大丈夫だよ。この小屋に怖いものはないからな。辛いことは泣いてもいい、誰にも聞こえない。内緒で教えて?なにがあった?」
……ぅ、ゔ、うぇ、にいさん、兄さんが、ぁっ」
「うん」
「帰って、こないんだ。都会に、もう何日も」
「うん」
「また僕のせいだ、もうかえって、こないかもしれない、」
「帰ってくるさ」
「ぼくのせい、ぼく、ぼくがわるくて」
「一彩のせいじゃない」
「あやまりたい、のにっ、もうかえってこない、無事かもわからなっ、どこにいるかも、にいさん死んじゃったかも」
……
「追いたい、のに、わからない。ぼくが話を聞いてなかったから、僕がアイドルを好きじゃなかったから、アイドルのこと、分からなかったから……ごめんなさい、兄さんごめんなさ……アイドルのこと、分からなくて、ごめんなさい……

 そう叫べば帰ってくるのだとでも信じているように、自らの無理解を謝罪する一彩は、まるで未熟で子供だ。けれどその理解の無さは一彩に責があるものじゃない。この歳の子に強いるには、随分と深すぎる後悔。もはやトラウマや傷といえるようなもの、それを一彩に刻み込んだ己を縊り殺してやりたくなる。

……大丈夫、帰ってくるよ。お前がアイドルを好きじゃなくても話を聞かなくても、お前の兄さんは帰ってくる」
……ほんと?」
「ほんと」
「、なんで?」
「お前の兄さんは、お前のことを大事に想ってるから」
…………

 見え透いた嘘ででも、慰めになるのならそれで泣き止んでほしかった。昔は口が裂けても言えなかった場当たりの愛情を、こうして白々しく言えるようになるのだから、大人になるというのは便利なものだ。

……ちがう」
「違う?なにが」
「兄さんは、僕のことなんか大事に思ってない」

 泣きに揺らぐ幼い声は、それでも自分と、彼の兄の愛を否定した。

……なんで?」
「だって、だって帰ってこないんだもん。んっ、く、ぼく何回も行かないでって言ったけど、いっつも、僕がおねがいしても、っ、かえってこないんだもん…………ゔっ、んっ……っぅ、うぅっ、ゔわぁあ゛あぁん!」
「あーあーあー……よしよし怖いな、大丈夫だいじょうぶ」

 決壊したかのようにわんわん泣く弟。こんな風に泣いていたのはもっともっと幼いときだけだった。もっと、まだ俺が抱き上げて歩いてやれるくらいの年齢の時。こんな風に、大人びて諦めて、何をしたって事実も現実も変わらないなんてことを知らなかったときだ。
 やはりここは夢の中。
 誰の夢なのかは、分からない。
 罪を償いたい俺の夢なのかもしれない。一彩が一人で立てないことをどこかで望んでいた俺の夢。
 それか、一彩の夢なのかもしれない。泣いて喚いたら抱きしめて慰めてくれる人がいる、やさしいやさしい夢。虚しいだけの慰めで、果てぬ寂しさを濯ぐ幻。

「大丈夫……大丈夫だから。ごめんな、一彩」

 無我夢中でしがみついて身を震わせる幼い子供にならないと、お前は泣けもしなかったのか。寂しいと、兄がいなくなって不安だと言うことさえ、思うことすらできなかった。

 現実の、あの頃の一彩は慰めを得られたのだろうか。アイドルを、兄を奪ったものを滅ぼしてやると息巻いて追ってきた一彩に、こんな脆い温もりが与えられたことは、一度でもあったのだろうか。
 きっと無かった。無かったから、憎しみは折れず追ってこられたのだ。
 愛しさが先に立つなら、きっと一彩は都会になど来なかった。

 別れの傷を、ただの事実として処理した。その合理性は認められて然るべきだ。その過程で心を切り離したおかげで、一彩は狂わず歪まず純粋に何かを憎み、愛しむことができた。都会の喧騒に飛び込んで、知らぬ世界についていくことができた。

 たった一人、一彩自身を過去に置き去りにして。

 ぎゅっと燐音の服を掴む手は小さく、その現実感の無さが余計に哀しさを誘う。その幼い一彩の形をした夢を抱きしめる。
 泥濘む微睡の中で、あえかな温もりに触れて、身動きできなくなっているのはどちらだろう。