つきのせ さぶろく
2026-05-31 23:26:23
2502文字
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去るものは日々に

【境目卓SS】自陣シナリオ後SS|あやまたず、催花雨【ネタバレ有り】



 桜前線はつい3日前に東京の桜の満開を宣言していた。晴れ間の賑わいはさることながら、雨の日ですら、傘の隙間から花見をする日本人のなんと多いことか。マンションの高層階の窓ガラスは、降る雫を懸命に受け流している。桜はその足元で咲いていた。長い雨のせいで花冷えが訪れていたが、花筏にはまだ早い頃合いだ。
 付き合いの長い芝居仲間と奇妙な共同生活を演じていたのはつい先週ごろのことだ。夢から覚めるように閉じた舞台の幕は、それはもう、読み終わった本を閉じるような呆気なさがあった。
 セットとして借りていた古い家屋の契約をなんとか終結させ、全てを元に戻そうかと考えたが、自分のお人よしなところが作動してしまい、変わり果てた彼を一人にすることができず匿うように自宅へ招き入れてしまった。仕事柄自宅のセキュリティにはかなり気を遣っていたので、ここであれば大抵のトラブルは回避できるだろうと思っていたことも、きっとこの行動に起因している。
 彼────黒瀬玄、もとい、深山莱は、ベランダへ続く大窓から春霖を絶えず見守っている。その膝には、もともとの彼が書き上げた台本が抱えられていた。芝居を終えた直後から、彼の中に黒瀬玄がいないことはわかっていた。一度没入すれば文字通り我を忘れるような人間だったのは確かだが、もはや忘れてしまったものを思い出せなくなるまでかと思うと、かけてやりたい言葉なんて全く見つからなかった。ただし、どんな結果であれ二人が脚本を演じ切ったのも事実である。終わった話をいたずらに延命することを黒瀬は許してくれるはずはない。何が彼の望んだものだったのかわからないままではあるが、以降は記憶を頼りに手探りで現実をなぞることしかできないだろう。少なくとも、黒瀬玄だった体はこの現実で生きている。例えば、現実でもし深山莱が死を選んでしまったなら、そのまま黒瀬玄も死んでしまうことになるだろう。

 黒瀬玄を連れて帰ったつもりでいるものの、やはり彼の中には深山莱だけが存在していることは明白だった。芝居で見た深山莱の所作が今の黒瀬に全て反映されている。強迫的ななにかを思わせるほどの箸の運び方、言葉を探す時の瞳の動き方、極限までに音の少ない歩き方。もうどこにも黒瀬がいないとしか思えなかった。お互いにもうない影を探しているのだろうと気がつくのもそう難しくはない。
……しばらく、君の机を借りていいかな」
春霖通り過ぎて、青旻な空が延々と続くような頃合い。閉ざされていた口がようやく開いた。それは1日を締めくくる夕食での出来事である。
「書きたいものがあるんだ。俺は、これで最後にするよ」
 最後、という言葉に本当にその漢字を当てはめてもいいものだろうか。少しだけ野暮ったい懸念が頭の隅に影を落としたが、それを指摘してどうなるというのだろう。幸い机は日常的に何時間も使うものでもないし、断る理由は見当たらない。
「いいよ。しばらく仕事は日中の撮影だけだから」
 劇中、彼に「黒瀬という人物に心当たりがあるか」と尋ねられたことがあった。その時は、もしかしたら何かがきっかけで彼が自分自身について思い出すのかもしれないと、淡い期待だって浮かび上がっていた。ただ、最後と言った彼の表情はとても黒瀬とは思えなかった。俺はどうするべきだったのだろう。舞台を壊してでも彼をこちらへ戻すのが友人として必要なことだったのかもしれない。
 俺たちは俳優と脚本家だ、でももう長い間この世界で生き過ぎた。全部わかっているのに、きっと俺は、やることを見つけた深山を止めることはできない。
 しばらく彼は、食事が必要最低限以下になった。朝と夕、俺がいる間は心配をかけまいとするのかある程度の食事を摂ってくれているが、昼は全く何にも手をつけていないようだった。ただ、帰宅して書斎を覗いた時に見えた没頭する横顔は黒瀬と同じであることに気がついてしまい、それに安堵してしまう自分もいることに胸が締め付けられた。あの脚本を書いている頃も、きっとあの横顔があったのだろう。結局今でも、彼が何を考えてあの脚本を生み出したのか、その真意は分からない。
「そこに、いるのかい。透くん」
 扉の隙間から覗いていたのがバレてしまったのだろうか。はっと息を飲み、無言で答えたが深山は振り返らず、手も止めなかった。ここはもう、フローリングだけの2LDK程度の家だが、一瞬畳の匂いが戻ってきたような気がした。
……桜は、まだ咲いているかな」
 先生の問いが耳に触れた。これに答えるべきは俺の言葉でないほうがいい。
「桜、まだ咲いてるよ。先生」
「そうか。それならよかった。街に花が長く残るのはいいことだ」
「先生は、……行かないの? お花見とか」
「どうしようか、今はちょうど閃いているところでね。……これが終わったら、行ってみようか」
「うん、そうだね。……それが、いいなあ」
 こんな、お互いの目線も被らない会話に意味なんてあるのだろうか。思い込みだけで進んだシーンなんて、真相にとっては不要なもののはずだ。霧中にいた主人公が最後に気づくのは、どうやったって真実だけである。
「透くん」
 涙が出そうな胸の締め付けを噛み殺している間も、先生は有馬透に言葉を紡いでいる。あの人にとっては、それが日々であり真実だ。
「花が散る前には書き終えるよ。苦労をかけてすまないね」
 西陽すらもう通り越した時刻だ。日が長いのはまだ先、夜は18時には空を覆って息を潜めている。

 ❖ ❖ ❖

 この麗日に、窓辺のカーテンは気持ちよさそうに揺れていた。その下で、薄い影を纏う原稿用紙の束だけが詠み人を覚えている。
 書斎机に残されていたのは、一編の小説と少ない言葉だった。

 去るものは日々にかへらず花の雨