その後の伊織くんの眼鏡

「ピグレット便の配達員」おまけ小話、「伊織くんの眼鏡」その数十年後。
なにも書かれてはいませんが、情事中の話になります&中年のふたりが出てくるのでご注意ください。
元ネタはピグ便装画のみっちゃんさんのポストで出た、リーディング眼鏡から。


 いつもの夜だった。襖むこうは暗く、枕元に置いた小さな灯りだけが、敷いた布団の縁を淡く照らしている。
 布団の上、組み敷かれたタケルを見下ろす、おとこの顔にあるもの。
「なんだ、今日はありなのか」
「なにがだ」
「これ」
 そう云うとタケルは、かぶさる伊織の顔にある、眼鏡へと手を伸ばした。

 難ある目つきをやわらげようと、仕事中のみかけているもの。あれから何本も新しくしてきたのをタケルは見ている。
 けれど近ごろの伊織は、どこぞで買ってきたのか、見覚えのない眼鏡をかけるようになった。
 一番最初にこうして伊織を見上げたとき、その顔に眼鏡はなかった。せり上がったなにかを押しとどめるような面差しに、首に腕を絡め引き寄せたのを、昨日のことのように覚えている。
 帰宅後もかけたままの眼鏡を、仕事ではないぞと取り上げた日もあった。結局は翌日、ふたりして寝不足で仕事へ行くはめになったっけ。
 外すのを忘れて抱き合って、邪魔だとむしりとったことも、脂で曇ったレンズではよく見えんと取り去ったこともあった。
 結局眼鏡は外すのだ。だから、伊織はタケルといるときはかけないことが多い。なにせこのおとこは、視力が悪いわけではないのだから。
 けど、いまは。
「眼鏡か」
 レンズには枕元の灯りがほのかに映り、伊織の目を半分だけ隠している。そっと触れたつもりのフレームが、ちり、と硬い音を立てた。
「かけていてはだめか」
「だめとは云ってない。でも、するときはかけてないことが多いだろ」
 言外にどうしてを含ませると、伊織の眉間に薄くしわがよった。叱られたわけでもないのに、どこか居心地が悪そうな顔になる。
……見えんのだ」
「ん?」
「見えんのだ。最近は近くのものが」
「なんだ、老眼か」
 伊織の顔がますます渋くなった。
 情を交わすこの場で、己の衰えのひとつを指摘されたことがよほど面白くないらしい。眼鏡奥の目がふいと逸れていった。
 ……図星か。まったく、なにをいまさら気にしているのだか。
 タケルからすれば、伊織の老いなどちいとも気にならない。それどころか――
「気にするほどのことか? だってきみ、見えなくてもわかるだろ」
 私のことなんて、と。
 長年肌を重ねて、どこをどう触ればこの身が高く啼くのかを、見ずとも知りつくしているくせに。
 そんな憎まれ口めいたいろを乗せ、口の端を上げた。
「眼鏡なぞいらんのじゃあないか。かけたければかけてもいいけどな」
 そう告げると、伊織はそんなことはないと云う。
「未だ、わからないことだらけだな」
 逸れていた海色の目が、ふたたびタケルのほうを向いた。
「だから、見たい」
 そうして伊織は顔を傾け、少しずり落ちた眼鏡の縁から、覗き込むよう改めて問うてきた。
「だめか?」
 ずるい、と思う。
 だめかと問うてはいるが、これはもう問いの形をした願いだ。こちらの拒否など、はなから勘定に入れていない顔をしている。
 笑うとき出るようになった目元の線も、襟足に残る日焼けの縁も、なんならほくろの位置だって――とうに知っているだろうに。
 それでもこのおとこはわからんという。いつまでも飽きずにいるという。あますとこなく、いまのおまえをこの目に焼きつけたいという。
 そんなものをねだられ、だめだと云えるわけがない。ずっと見ていたいのだと告げられて、嬉しくないわけがあるか!
「きみなぁ……
 タケルは深々と息を吐いた。
「そういう顔をすれば、私が頷くと思っているんだろう」
 喜びなぞおくびにも出さずに、唇を尖らせてみせる。
 すると伊織は悪びれるでもなく、
「まぁ、それも少しは、ある」
 なんて、あっさりと云ってのけるではないか。
 ……認めた!? とうとう認めおったぞこのおとこ!?
 かつての伊織なら、こうも容易くは出てこなかった言葉だ。問われるも断ったところで、あれやこれやと道理や理屈を説かれては、結局うんと云わされてしまうのだ――それがいまや、ぬけぬけと白状する。
 ……きみってやつは、きみってやつは!
 呆れと、その図太さへの慄きと――それからふつふつとこみ上げてくるもので、先に吹き出したのはどちらだったか。
 気づけばふたりして顔を見合わせ笑っていた。しょうもない、実にしょうもない。
 ひとしきり笑って、タケルは伊織へと両手を伸ばした。今度は外すためではなく、下がった眼鏡をかけ直すために。
「なら、これからはずっと眼鏡だな」
 指の腹でつるを摘み、そっとフレームを持ち上げる。そのまま手を滑らせ、耳にかかる部分を整える。耳横の髪をかき分け、触れた指先で淡く耳を撫でると、伊織の目がく、と細くなった。
 最後に鼻あての位置を直してやる。ずれていた眼鏡があるべきところに収まり、レンズには灯りの映り込みが戻ってきた。海色が半分隠れてしまうのが、少し、惜しい――
 おかしなものだと思う。かつてなら引き抜いてしまったものを、いまはこうして、きみに戻してやるなんて。
 伊織は抵抗しなかった。薄いプラスチック板の向こうから、ただ、こちらを見ている。
「きみにじっと見られるのは……いつまでたっても慣れんなぁ」
 そう、くすぐったい笑みがこぼれるのを、止めることができなかった。
 長く連れ添ってよいところも恥ずかしいところも、格好の悪いところさえ数え切れぬほど見てきたというのに、それでもこうして新しい顔が出てくる。長くいるからこそ、見える顔がある。
 タケルが腕を下ろすと、返事とばかりに伊織が深く抱き込んできた。少しだけざらついた肌、変わらぬ硬い胸、枯れ草の匂いの髪。
 さらに肌を擦り寄せたくて腕を回すと、混じり合うあたたかさに自ずと目が閉じた。眼鏡のつるがタケルのこめかみにあたる。
 
 それすらもう、邪魔ではなかった。