伊織くんの眼鏡

イベント無配としていた小話。「ピグレット便の配達員」ピグ便アフターなので、本編をお読みになってからお楽しみください。


 風呂を上がり、髪を乾かしたタケルが居間に戻ると、壁に寄りかかりぼんやりとテレビを見ている伊織がいた。 
 その顔にはいつもならばないはずのものが鎮座している。
 眼鏡だ。
 まだかけている。
 伊織は仕事中眼鏡をかける。これは一緒に配達していたころからの伊織の習慣だ。視力が悪いわけではなく、目つきで顧客を怯えさせないためなのだとタケルは聞いている。
 いつもなら仕事終わりにロッカーに入れてくるはずのものを、今日はかけて帰宅したのには気づいていた。だが風呂を上がったいまも、その顔にはフレームが乗っている。仕事中の顔で、外との境界線を残したまま。

「イオリ」

 タケルは伊織の膝を押しひらき、自身の体を割り込ませた。

「どうした?」

 伊織が不思議そうにタケルへと顔を向けると、レンズが部屋の明かりを反射して瞳を隠してしまった。

 ……やはり、見えないのはつまらんな。

 タケルは手を伸ばした。

「もう仕事中ではないぞ。伝票も、客も、ここにはない」

 細いフレームに触れる。両の手でそっとリムを持ち上げると、そのまま手を耳にかかるつるに滑らす。つと指先が耳の縁をかすめ、伊織の体がわずかに揺れた。風呂から上がってしばらくたつのに、思いのほか肌が熱い。

「だから、これはいらないだろ」

 タケルは壊れ物を扱うようゆっくりと、丁寧に眼鏡を引き抜いてゆく。硬質なつるが耳から外れ、耳横の毛が流れた。鼻あてが肌を離れると、押さえられていた鼻筋両脇にはうっすらとくぼみが残る。フレーム動きに合わせレンズの光がひるがえり、隠されていた海色があらわになってゆく。
 伊織は抵抗しなかった。されるがままに目を細め、ふたりを隔てていたプラスチック板が取り払われるのを待っている。
 眼鏡が離れる寸前でタケルは手を止めた。レンズ越しにこちらを見る伊織はなにも云わない。黙っているのをいいことに、外した眼鏡を手ににやりと笑ってみせた。

「ん」

 伊織の口から小さく声がもれる。独り言のような、納得のような声音。動かず、ただじっとこちらを見ている。その目は眼鏡という遮るものを失い、凪いでいた夜の海には波が立った。

……いいのか?」
「うん? なにが?」

 タケルが問い返すと顔を伏せ、伊織はひとつ、深く息を吐いた。そうして膝にあった手が上がったかと思うと、次の瞬間には腰を抱かれていた。ぐいと強く引き寄せられ、その腕の中に閉じ込められてしまった。
 近い距離。呼吸が触れる距離。洗いたての伊織の匂いが鼻孔をくすぐり、とん、と鼓動が跳ねる。胸板に頬があたり熱い。これは湯上がりのせいだろうか。
 伊織は答えなかった。そのかわりタケルの手から眼鏡を取り上げ、ローテーブルへ置いてしまう。テレビの音があるはずなのに、ことりと立った物音が妙に耳に残る。

 ……なにがいいというんだ?

 眼鏡を外したことなのか、それともこうしてくっついていることなのか。
 ただ、囁かれた伊織の声はいつもより低く、こちらを見る目のいろが変わったとは思った。

 ……なんだろうこれは。抑えていたなにかが外れた、そんな気配が……

 タケルの戸惑いが伝わったのか、頭の上から拗ねたような声が降った。

「明日はふたりとも休みではないだろう?」
「そうだな。それがなにか――あ」

 視界の端に、隣の和室へと続く襖があいているのが見えた。そこにはすでに、ふたりぶんの布団が敷かれていて――

「そ、そういうことか!」
「そういうことだな」

 その言葉が意味するところに思いが至り、声が大きくなった。顔が火照る。耳まで火がついたようだ。
 明日は仕事だ。時間を気にしながらはいやだから、するのは休みの前と取り決めている。なのに……

「今日はだめだ! しない。しないからな!?」

 いったいなにが伊織をその気にさせたのかわからない。やったことといえば眼鏡を外したことだけだ。
 すっかり赤くなった顔を俯けていると、首筋へと伊織が顔を埋めてきた。

「あ、うぁ」

 まだ湿り気のある髪を鼻先でよけられ、肌に伊織のあたたかい息がかかる。

「いいだろうか?」

 
 夜はまだ、始まったばかりである。