ながひさありか
2026-05-26 00:24:59
15489文字
Public STR-Phaidei
 

MOONLIGHT MILE3



3-2
 
 モーディスとの約束の時間になるまで、収穫祭で父さんが出品するワインのチェックを手伝い、三本ほどモーディスのために貰っておくことに成功した。二人で飲むならもっと避けておけ、と父さんは言ってくれたが、生憎僕は療養中の身で、医者にも禁酒を厳命されている。酒がないと眠れないだとか、そんな生活をしていなくてよかったなと正直思う。もし僕がそういう性質だったなら、収穫祭の三日間は地獄だっただろう。僕は今は飲めないから、とケースごと渡そうとしてくるのを断り、一旦部屋に置いておく。
 母さんはジャムやパイを振る舞う予定なのか、昨日から日がな一日林檎を煮ていて、今日も家の中はカスタードやリンゴのいい香りがしていた。
 何か手伝おうか、と今度は母さんに尋ねて、今は言われた通りに空の瓶にジャムを詰めたり、リンゴの皮をひたすら剥いたりしている。
 帰省以来、二人は僕が一日家の中でぐったりしていても、何も言わずそっとしておいてくれるので、元気のある時くらいは何かを手伝いたかった。
 時折台所に立つ母さんの背中を眺め、子供の頃も収穫祭の前はこんな風に家の中で両親の手伝いをしていたな、と懐かしく思った。
 さっきまで家にいた父さんも、今は準備のために出かけていた。きっと今頃は中央広場の薪を組んだり、臨時市場として使われる小屋を掃除したり修繕したりしているのだろう。本来であれば僕も力仕事に駆り出される筈だが、旅人の案内があるからと言う名目でそれらの役割を免除されている、事になっている。
 村の人たちは突然帰省した僕が仕事を休んでいる(正確には「休まされている」)ことについて、なんとなく理由を察しているのか、僕が日がな一日麦畑のそばや木陰でぼんやり昼寝をしていても、意外なことに何も言われない。怠惰に過ごしていることを咎められたりするんじゃないか、なんて帰省してすぐの頃はずっとびくびくしていたが(みんな悪い人じゃないのはわかっているからこそ、罪悪感のようなものを覚えていた)、完全な杞憂だった。ただ、桟橋のあたりで水平線を眺めて立っていたり、海に素足を浸していたりすると、誰かが慌てて飛んでくることがあるのは、ちょっとだけ困っていた。彼らが何を想像したのかわかるだけに、放っておいてくれて大丈夫だから、とも言い辛いからだ。
 不思議なことに、僕が子供の頃、畑仕事をサボってすぐに遊びに行ったりしていた頃よりも、今の方がずっと優しく接してもらっている。その優しさにかえって気まずさを覚える瞬間もあるが、僕はみんなの優しさに対して、素直に感謝すべきだった。
 今は幸いなことに、休職を言い渡されてすぐの頃に苛まれた絶望感や厭世観が比較的落ち着いている。勿論、今後のキャリアのことや、そもそも復職が本当にできるのかと言う不安はまだあったが、今は医者の言うことを聞き、余計なことをなるべく考えないようにしつつ、会社の言葉を信じるしかない。
「じゃあちょっと出かけてくるよ。夕飯はもしかしたら家で一人で食べるかもしれないけど、気にしないで収穫祭を楽しんで。父さんに会ったら同じことを言っておくから」
 皮を剥き終えた林檎を母さんに渡し、家を出ると、モーディスを迎えに宿に向かった。
 道中、子供たちが籠に青や赤の花を集めていたり、おばさんたちが小屋の飾り付けをどうしようか楽しそうに話している横を通り抜ける。広場の方では、普段、この時間は仕事をしている人々が集まっていて、それぞれ祭りの準備を進めている。いつもは時間が止まってしまっているかのように静かで穏やかな故郷だが、こんな風に、村全体が活気付いているのは悪くない。
「やあ、今朝ぶり。部屋で待っててくれればよかったのに」
 モーディスはてっきり部屋で待っているだろうと思っていたが、彼は宿のそばの休憩用のベンチに長い足を投げ出すように腰掛けて、ぼんやりと空を眺めていた。モーディスは黒いタンクトップに涼しそうな半袖の白いシャツを羽織り、胸ポケットにサングラスをさしている。
 ゴツめのベルトをしているせいか、腰回りが上背の割に細く見えることに気づいてしまい、夢の光景を思い出し、なんともいたたまれない気分になった。完全に彼のスター性に魅了されてしまっているようだ(僕ってこんなにミーハーだったか?)。
 あまりに背景が牧歌的すぎるが、「今から撮影だ」と言われても納得してしまいそうな雰囲気さえある。一流のスターはいつだって絵になるものらしい。
「部屋に引きこもっていては旅行に来た意味がない」
 ベンチから立ち上がったモーディスは眩しそうに瞳を細めたかと思うと、じっと僕の全身を値踏みするように眺める。
「何か気になることでもあるのかい?」
 ちょっとだけドキッとしつつ尋ねたが、「いや」とモーディスは真顔で首を振り、それ以上は何も言わない。変な服着てたっけ? と一瞬不安になったが、自分ではおかしなところは見つからない。
「とりあえず残りを案内するよ。その後一人になりたければ僕は帰るし、話し相手が欲しければ言ってくれ」
「ああ」
 モーディスの簡潔な返事は、果たしてどちらを希望しているのかはわからなかったが、昨日今日の反応を見るに、彼は必要なことははっきりとものを言うタイプだろう。できれば少し話がしたかったが、別にそれは今日でなくてもいい。
 宿から道を下り、行きにきたのと同じように小屋の横を通り過ぎる。話し込んでいたおばさんたちはどこかへ行ってしまっている。遠目に見える広場の方にはさっきよりも人が集まっていて、屋台を立てたりと準備が進んでいるようだった。
「ここは祝祭の庭。昔は司祭さんがいて毎週末にはお祈りだのなんだのしてたらしいんだけど、僕が子どもの頃にはすでになくなってて、普段は昼寝したりぼんやりする場所になってる。カーペットとクッションがあるだろ。君も昼寝をしたかったら自由に使っていいよ」
 石造りの小さな建物に入り、ふかふかのクッションとカーペットが敷かれた一角を指す。建物の中は誰かが手入れをしているのか、壁際には赤い花の咲くプランターがいくつも置かれていた。
「二階から眺める景色が僕は結構おすすめだよ」
 モーディスを連れて階段を上り、村を一望できるバルコニーまで案内する。モネータのドレスのような黄金色の麦穂が波のように風に揺れ、陽光にきらきらと輝いている。風にのって、麦のいい匂いが微かにした。今残っている麦は、収穫祭の後に刈入れをする今年最後の区画だ。また来年の麦が育つまでの間、村の中はしばらく、果物と花々が目に付くようになるだろう。麦の香りだけを残して。
 船着き場では桟橋で釣りをしている人の姿があり、水平線の向こうにはどこまでも続く空と海があった。操縦室から眺めるガラス越しの海と空とはまた違うな、と当たり前のことを考える。
 あそこでは潮のにおいがしないし、鳥の囀りも聞こえない。代わりにエンジンや計器音、副操縦士との会話があった。この風景のほうが懐かしいはずなのに、操縦室の緊張感や慌ただしさが今は懐かしい。そんな気がした。
「いい景色だ」
 隣に立ったモーディスがバルコニーの手摺に体重をかけ、麦の波を見下ろしている。視線と顔がゆっくりと上がり、麦を挽きながら回る風車へと瞳が向けられる。
「僕もここからの景色が気に入ってる。さっき説明したように、下で昼寝をするのもいいけど、二階でのんびりするほうがもっとおすすめかな」
 本当は手摺を乗り越えて屋根に上り、その上で昼寝をするのが一番のおすすめだったが、さすがに子どもっぽい提案なので黙っていた。それに、万が一にも屋根から落ちたりして怪我をさせたら取り返しがつかない。
 果たしてこんな穏やかな風景を薦めても本当に楽しんでもらえるのか甚だ疑問だったが、モーディスは気に入ってくれたらしい。口許が柔らかく緩んで、微かに笑っているような気がした。
 盗み見るようにモーディスに向けていた視線を空に戻し、二人でぼんやりと空を眺めていると、遠くの方で、ちりんちりん、とカンパナの澄んだ音が立て続けに聞こえてくる。子どもたちが面白がって、村中のカンパナを鳴らして回っているのかもしれない。
…………………………、」
 モーディスは音が鳴るたびに、そちらに視線を向け、小さく鼻歌で音を取っている。僕にはまるで意味のない音の羅列のように聞こえていたけれど、隣でモーディスが歌う鼻歌を聞いていると、なにか意味のある旋律のように聞こえてくるから不思議だ。
 連続して一つの音が何度も鳴るようなってからしばらくの後、カンパナの合唱が止む。
「わらべ歌かなにかだったのか?」
 モーディスがふむ、と考えるような顔をしながら僕に向き直り、そう尋ねた。え? と聞き返した僕に、モーディスはフレーズとして成立していた(らしい)ものを歌う。
「いや、あれは適当に子どもたちが鳴らしただけだと思うよ」
 モーディスが歌っていたフレーズは、聞いたばかりなのにもう思い出せなかった。ただ、いい声だな、と感じた感覚だけが胸に残っている。不思議な高揚感だった。
「そうだったのか。中々興味深いと思ったが」
 そう言いながら、モーディスは昨日、部屋で何かメモをしていたらしき小さなノートを開いて、そこに何か書きつけつつもう一度鼻歌を歌っている。
「何を書いてるのか聞いても?」
「音のメモだ。気になったものや思いついたものを残している。いつかどこかで使えるかもしれないからな」
 さすがに紙面を見せてはもらえなかったが、なるほど、と相槌を打つ。僕には音楽のことは殆どわからないが、きっと曲を作る人にとっては、お気に入りの詩編を書き綴っておくようなものなのだろう。
「気になるか?」
 小さなノートをペンをしまったモーディスが口角を吊り上げて、試すように僕に尋ねる。
「え、ええと、……まあその、プロのクリエイティブを見たことがないから興味はあるけど、僕が盗用するかもしれないから見せないでくれ」
 小さな高揚感がまだ続いていたせいか、その表情にどきっとして、しどろもどろな受け答えになっていた。
 僕の答えにモーディスは盗用、と小さく呟いて瞬きをしたかと思うと、次の瞬間、ハ、と息を吐いて表情をくしゃくしゃに崩して笑う。
「っ、馬鹿にしたな」
 むっとして言い返すと、モーディスは「いや」と首を振り、僕に手のひらを見せて、反対の方へ顔を向けた。もしかするとそれは彼なりの誠意だったのかもしれないけれど、くくっ、と喉から笑い声が漏れているし、肩が震えている。どう考えても馬鹿にされている。
 顔を反らされてしまったせいで表情は今は分からなかったが、モーディスの震える肩を眉をハの字に下ろして笑う表情が網膜に焼き付いて離れない。もっと皮肉そうに笑う男だと思ってたのに、意外と素直に笑うのか。
 バルコニーに片手をついたまま、笑い声を誤魔化しているつもりらしいモーディスの姿に、段々そんな変なことを言ったか? と羞恥がこみ上げて来た。普通、プロなら素人の頓珍漢な質問はスルーしてくれるもんじゃないのか。
「そろそろ笑うのをやめろよ……。そんなに面白いことを言ったつもりはないんだけど」
「いや、人の良さそうな顔をしておいて、そんな大それた冗談を言うのかと意外に思……っ、」
「やっぱり馬鹿にしてるよな?」
 再び噴き出したモーディスの肩を小突くと、「褒めたつもりだ」と今度はスンッと唐突に表情がなくなる。スイッチを切り替えるかのように表情の変わる様に感心するのと同時に、壁を作られたようにも感じた。
「話を戻すが、お前は悪い男ではないだろう。だから見るか? と言ったんだ」
 真顔のモーディスの言葉に、なんとも言えないむず痒さを覚える。昨日会ったばかりだからお互いのことは良く知らない筈なのに(僕はアーティストとしての彼の事は少し知ってるけど)、モーディスは僕のことを深く理解いるような気がしてならなかった。多分これは錯覚で、自分に都合がいいように考えようとしているだけだ。自惚れるな。相手は世界的に有名なスターで、たまたまこんな田舎にやってきて、たまたま僕が村を案内すると言う縁が出来ただけだ。僕が彼に選ばれたわけじゃないし、僕が掴み取った縁でもない。
……過大な評価をしてもらってるみたいで嬉しいけど、案内以外何もできないよ」
「それを望んでいる」
 頬をかいた僕に、モーディスが眦を緩めて、なんだか意味深に笑う。「それ」以外にも何かを望んでいそうだ、と感じたが、それもきっと僕の思い込みだろう。モーディスのカリスマ性に当てられて、浮き足だっているせいだ。
……昼寝スポットには困らなそうだ。次の場所へ行こう」
 モーディスはバルコニーから手を離し、踵を返して下り階段へ向かう。僕もその背を追い、昼寝スポットを後にした。

 祝祭の庭から村唯一の学校を案内し(収穫期の今、学校は閉鎖中で、特段案内できるところはない)、村の外れにある池に向かう。
 その途中、頭に青と赤の花で編まれた花冠を乗せ、同じような花冠を編んでいる子どもたちに会った。彼女たちは三軒隣の双子の女の子で、僕が村を出ている間に産まれた子達だ。
 彼女たちが村中の花を摘んでいるのはちらほら目にしていたが、どうやら花冠を作るために編んでいたらしい。
 双子はモーディスの顔を見上げて「外から来たお客さんってお兄さん? きれー」ときらきらした瞳で口々に呟いた。
 子どもたちの賞賛の言葉を「君が綺麗だってさ」と通訳してあげると、モーディスは僕が思わず恥ずかしい感想を口走った時のような真顔ではなく、優しい笑顔を見せながらしゃがみ込み、目線を合わせて挨拶をしている(どうやら一晩で挨拶だけは覚えたらしい)。
 偏見なのはわかっているが、子どもが苦手じゃないのも見た目に合わなすぎて意外だ。 
「モーディスは村の言葉があまりわからないから、ゆっくり喋ってくれ」
 興奮したように綺麗だの美人だの捲し立てている双子に慌てて伝えると、僕の言っていることはよくわからなかったようだが、ふと気づいたように花籠に入っていた花冠を双子の片方がモーディスへ差し出す。
「君にプレゼントだって。『収穫祭おめでとう!』」
 収穫祭で花冠を配るなんて風習はなかった筈だけれど、記憶の中よりも花が村に増えていることから考えても、村を出ている間に出来た新しい決まりなのかもしれない。
 モーディスは差し出された花冠を芝居がかった所作で受け取り、特に抵抗なく頭の上に乗せる。双子がそれを見てきゃあきゃあと嬉しそうにはしゃぐのを微笑ましく思いつつ、花冠を頭に乗せたまま立ち上がったモーディスへ視線を向けてしまう。金色の髪に赤と青の鮮やかな花弁が咲いたようで、よく似合っていた。
 モーディスの都会的な服装に花冠を合わせるのは違和感を覚えそうなものだったが、美人はよっぽど奇抜な格好でもしない限り浮かないのか、はじめからそういったコーディネートだと言われれば納得してしまいそうだった。
「お前の分はないのか?」
 モーディスは僕の視線に特にコメントを零さず、花冠を指さして口にする。
「僕には似合わないと思うけど……
 と言っていると、「ファイノンお兄ちゃんも!」と双子が僕に青い花だけを使った花冠を差し出す。
「あ、ありがとう。似合わないから手首につけてもいいかな」
「だめ。それだと頭がよくならないよ!」
「僕はもう大人だから別にいいんだけどな」
 理屈はわからなかったが、この花冠はそういう意味合いのものになっているらしい。手首に通そうとする僕に、双子がそろって唇を突き出して不満そうな顔をするので、二人の前でだけはつけてあげよう、と頭に乗せる。
 双子は花冠を乗せた僕たちをじろじろと眺めると、満足そうに頷いて「広場で配ってくるからじゃあね!」と僕たちに手を振って風のように去って行く。
 手を振って二人の小さな背中が去って行くのを見送り、姿が完全に見えなくなったところで花冠を頭から下ろす。
「なんだ、外してしまうのか」
「君と違って僕には似合ってないよ」
 花冠を乗せたまま腕を組んで双子を見送っていたモーディスが、僕の手の中の花冠を見て口にする。
「そうでもない」
「え? そ、そうかな……
 揶揄うような声音ではなかったが、かといってどう受け取ればいいのかわからない声だった。
「似合ってるって?」
「ああ」
…………あ、そう。それはどうも」
 調子に乗るな、と鼻で笑われるかと思ったが、そうはならず、モーディスに真顔で肯定されてしまう。口説かれてるわけじゃないよな、と自惚れも甚だしい勘違いが脳裏を過る。顔が熱い。
「仕事を休んでいるといっていたが、モデルでもしていたのか? お前ほどの容姿であれば俺が知らないのも不思議ではあるが」
「え!? まさか、そんな華やかな仕事はしてないよ」
「そうか。…………………、」
 何を言い出すんだ、と慌てる僕に対し、モーディスは平静なままだった。
 モデルではなかったか、と確認するように小さく呟くのが聞こえ、気恥ずかしさでまた顔が熱くなる。さすがに過大評価だ。職場でも、冗談でもそんなことをいわれたことはない。
「まぁいい」
「???」
 僕の返答に、何か考えるような顔をしたモーディスは眉を少しだけ動かし、一人で納得したように頷いている。その姿に困惑しながら彼の言葉を待ったが、この話題はここまでのようだった。モーディスは花冠を乗せたまま、僕を置いて池に向かって進んでいってしまう。
 池の傍には、木の枝にロープを結び付けた簡易ブランコが下がっている。子どもの頃は父さんに背中を押してもらったこともあったな、と思いながら、子どものころから置いてあるくたびれた椅子に腰を下ろした。
「一応連れて来たけど、特に説明することはないかな。浅い池だから、足を浸してぼんやりするにはいい場所だよ」
 ブランコのロープを握り、興味深そうに軽く揺らしているモーディスを見つめながら答えると、足首になにかが擦り付けられる感覚がした。ん? とテーブルの下を覗いて、桃色の毛をした猫がいることに気が付く。
「やぁ、君はどこの家の子だい」
 白色の首輪をしている猫を抱き上げて話しかけると、にゃあ、と小さく鳴き、にゅるんと僕の腕から逃げていく。そのままどこかに行ってしまうかと思えば、池を眺めていたモーディスの足許にすりすりとまとわりつき、長い尻尾を巻き付けた。紫色の大きな瞳でモーディスを見上げ、構って欲しそうに鳴いている。
「宿にも猫がいたが、猫を飼っている者が多いのか」
「昔は猫より犬が多かったはずだけど、最近は番犬の需要がないのかもしれないな。でも、この子は見た記憶がないから、里帰りした誰かの猫かも」
「『ライ麦畑でつかまえて』? 変わった名だな」
 モーディスは足許にまとわりついている猫を手慣れた様子で抱き上げ、喉を撫でながら器用に首輪についていたタグに爪先をひっかけている。もし本当にそれが猫の名前だとしたら随分と変わった名前だし、やっぱり聞き覚えがない。
「探してる人がいるかもしれないし、広場につれていったほうがいいかもしれない。僕が預かるよ」
 椅子から立ち上がり、猫を受け取るためにモーディスの傍へ行く。モーディスに撫でられてゴロゴロと気持ちよさそうに鳴いていた「ライ麦畑」を受け取ろうとすると、嫌そうに身をくねらせて、またにゅるんと液体のように地面へ落ちてしまった。
「動物に嫌われる体質か」
「そんなことないんだけどな。昔は僕も犬を飼ってたし……
 猫と初対面なのは僕もモーディスも同じなはずなのに、何故か僕から逃げるような素振りに少しだけショックを受けた。
「君、ポケットに猫の好きそうなおやつとか入ってないか? それか昼食の魚料理を足首にこぼしたとか」
「生憎だが菓子は持ち合わせていない。食事を服に零していれば着替えているが、そんな真似もしていない。お前が嫌われているだけだろう」
 モーディスは僕の言葉に呆れた顔をすると、小さくため息をついた。
 しょうもないことを言い合っていると、ライ麦畑はにゃーんと小さく鳴いて、草むらに入っていってしまった。暫くがさがさと草の擦れる音がしていたが、すぐに聞こえなくなってしまう。
「広場で探してる人がいないか後で聞いておくよ。もしかしたらここによく遊びに来る子かもしれないし」
「お前はここを昼寝スポットにはしていないのか?」
「寝転ぶには向いてないし、家から少し遠いから。昼寝がしたいならさっきの祝祭の庭か、まああとは普通に麦畑のそばとか木陰とか、そのあたりがおすすめだよ。日差しが気持ちがいいし、麦のいい匂いがするんだ。…………その、君がするとは思えないけど」
 真面目に答えてしまってから、この歳で何を言ってるんだ、と急に恥ずかしくなった。モーディスにからかわれたような気がしたが、恐る恐る表情を伺うと、モーディスは池の傍にしゃがみこんで指先を水に浸し、「ふむ」と何かに納得したように頷いている。 その納得が昼寝には向いていないと思ったのか、そうでないのかはわからない。小魚がモーディスの指の間を逃げて行くのが見える。
 モーディスは指先でちゃぷちゃぷと水を何度か跳ねさせてから、「足を浸せる服で来るべきだったな」と口にした。確かに、今日のモーディスのボトムはかなりタイトな生地なので、靴を脱いでも足首が少し見えるのがせいぜいだろう。
「桟橋の方が海が見えて気分がいいんじゃないか? 夕暮れ時は特に綺麗だよ」
「それもいいだろう」
 モーディスは話を聞いているのかいないのか曖昧に頷き、腰を上げたかと思うと、ブランコのロープに手をかけ、少し引っ張ってから慎重に腰を下ろした。ブランコは小さく軋む音を立ててたが、大人一人が腰かけても問題はないらしい。
 特にこれと言った感情の浮かんでいない真顔で、僅かにブランコを揺らし、長い脚を持て余すように腰をかけているモーディスのなんとも言えないシュールな姿に、どう声をかけるか迷う。童心に帰っているのだとすれば、指摘しないほうがいいような気もする。
「案内はこのくらいだよ。昨日言ったレストランは収穫祭の間は開いてないから、場所を教えるくらいになるけど、それでもいいなら案内するけど、どうする?」
 考えた末、無難な言葉を口にした。別に大人がブランコに座っちゃいけないなんて決まりはないんだし(僕が記憶する限り、村の大人がブランコを使う姿をみたことはないけど)、都会育ち(仮)なのであれば、素朴な遊具が物珍しいのかもしれない。
「お前の故郷はいいところだな」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。ただ、自然豊かな代わりに、何もないけどね。村を出ないなら農家を継ぐしか仕事もない。別に農家が嫌だってわけじゃないけど、」
 そう口にし、なんとなく空を眺める。陽が少し傾きはじめ、橙色になりつつある空に白い鳥が群れをなして飛んでいる姿が小さく見えた。その白いシルエットに、ジェット機の姿を夢想する。
 子どもの頃、空を飛ぶのに憧れたのは鳥が飛ぶのを見たからじゃあなかった。時々、今見えている鳥たちよりも少し小さなサイズで、ジェット機が村の上を飛んでいくのを見たからだったと思う。当時村にいた先生はあれは人が操縦する乗り物だと丁寧に教えてくれて、色々な本を持ってきてくれた。
……嫌なわけではないが?」
 モーディスの声が耳に届き、ハッとして視線を天上から足許へ下ろし、波紋一つない水面を見つめた。
「ああごめん。うん、別に家業を継ぐのが嫌なわけじゃなかったけど、でも、ここじゃ夢は叶えられなかったんだ。だから村を出たんだけど」
「故郷を出て夢は叶ったのか」
……一応かな」
 この休暇が終わった後、どうなるかはわからない。そもそも休暇が終わるのかどうかすら、まだわからないのだが。一旦三か月休みましょう。そういう診断だった。
「叶ったのであれば、そう暗い顔をするな。時には休暇を取ることも必要だ」
「え……
 意外なモーディスの言葉に、伏せていた視線を上げる。
 モーディスは相変わらずブランコの上で足を開いて座っていて、頬杖を突きながら僕を見つめていた。金色の瞳と視線が交差し、穏やかで、だけどどこか蠱惑的なその目から逃れられなくなる。体が固定されてしまったかのように、モーディスの整った顔を見つめたまま、心臓が音を立てて跳ねる。
 今朝見た猥褻な夢のことを思い出し、罪悪感がこみ上げた。けれど、完全に彼に惹かれている。それは世界的に有名なスターとお近づきになれた、と言うミーハー心だけではないと思いたかったが、まだわからない。モーディスと言う私人に惹かれていると言い切るのは、なんだか傲慢な気がしたからだ。
「俺も休暇中だと言っただろう。理由は疲弊したからだ。疲れただけで休むのかと最初は周囲にいわれたが、疲労をそのままにしておけばいつか取り返しのつかない日が来るかもしれん。だから休暇を取ることにした」
……君みたいな有名人はそりゃ疲れるだろ。僕とは違うよ」
 モーディスが慰めてくれていることはわかったが、かえって情けない気持ちになっていた。
 確かに僕の仕事は人命に関わるもので、だからこそ健全な心身であることを厳に望まれている。少しメンタルが落ちている自覚はあったけれど、ちょっと疲れているだけだと言い聞かせていた。カウンセリングに行くほどのものじゃないし、一日二日、何もしない日を作ってのんびりしておけばすぐにまた前向きになるだろうと思っていた。そうはならなかったわけだけれど。
「どこまで許容できるかはひとそれぞれだ。他人と比べるようなものではない。だからそう暗い顔をするな」
 ブランコから立ち上がったモーディスが僕に近づいてくる姿が、随分とゆっくり視界に映っていた。
「少なくともお前は、休暇を取ったことで俺との縁ができている。そうそう経験のできることではない」
 そう思わないか?
 瞳を細めて口角を持ち上げるモーディスの蠱惑的な表情に、僕を口説いてるのか? と舌先まで出かかった言葉を飲み込み、「君じゃなかったらとんでもない嫌味に聞こえるよ」と返すことができたことを誰か褒めて欲しい。
 モーディスは僕の答えにふん、と鼻を鳴らすと、花冠を頭から下ろし、大事そうにそれを見下ろした。
「一旦宿に帰る。夕食は広場で摂ってくれと主人に言われているから、お前も元気があれば付き合え」
「わかった。多分、二時間後くらいから宴会がはじまると思うから、その頃に迎えに行くよ」



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