もち粉
2026-05-12 00:00:00
4635文字
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最適解と不合理(前編)「最適解を、君に」


カブミス
八年越しの告白(回答期限あり)



その夜、ミスルンは寝台の中で、幾度も寝返りを打った。
目を閉じれば、カブルーの射抜くような青い瞳が浮かび、耳元ではあの低い声が響く。
今日に限って――どうしてあんなにも。

……おかしい)
これまで何度も、同じ話はされてきた。
冗談めかして、あるいは真剣に。
そのたびに、私は同じようにあしらってきた。

けっして短命種のトールマンを一人前の人間だと認めていないわけではない。
むしろ逆だ。
短命ゆえに濃密な時間を生き、責任ある判断を下せる存在であることをカブルーを通して知った。

だからこそ、線を引いていた。

前途ある一人前の人間を背負い込めるほど、自分は立派ではない。
年若い者の思慕は麻疹のような一時の熱だ。年長者はそれに付け込まず、輝かしい未来へと飛び立たせてやるべきだ。
それが正しい在り方だと、……そう思っていた。

(本当に?)

視線が合った拍子に、妙に落ち着かなくなることがあった。
声が低くなるのを、耳が追うことがあった。
肩が触れただけで、意味もなく息を整えた夜もあった。

……いつからだ)

若いと思っていた。ずっと。
だからこそ、年上の余裕で戯れだと片づけてこられた。
軽いキスを受け入れてしまった自分も、雰囲気に流されただけだと言い訳をして。

『正しいこと』は分かる。
『最適な方法』も分かる。
エルフとして生きた長い年月による知恵と経験が、考えずとも最適解をはじき出す。

それ以外を選ぶ欲など、もうなかった。
『正しければ』それで、十分だったはずだ。

なのに。

「俺を、選んで」

長年積み重ねた正しさが、軋みを上げる。
線を引く言葉が、見つからない。

……考えられない)

思考が、音を立てて止まる。
……少しだけ、眠ろう。
そうすれば——

ミスルンの意識が、泥へ沈むように深く深く潜る。

その底で、別の何かがすくりと起き上がった。


✢✢✢

〈五月十三日〉

五月の風は光を孕み、窓の外の新緑を眩しく照らしていた。城の廊下はひんやりと心地よく、石床に靴音がよく響いた。

昨夜追い詰めた時の、絶望したようなミスルンの顔を思い出し、胸が少し痛んだが後悔はなかった。

今日こそ言うと、あの時決めていた。
たとえ今までの関係を壊しても。

……でも)

思い返せば、昨日のミスルンは、明らかに動揺していた。言葉に詰まり、視線を逸らし、カブルーの手が近づくたびに、震える吐息を整えていた。

いつだって余裕で俺の本気を躱していたあの人が。完璧な距離感で、けっして「年上」の立ち位置を崩さなかったあの人が。

それが昨夜は、違った。
自惚れかもしれない――でも、あの夜確かに
あの瞳に一瞬だけ色が乗った。

(俺と、同じ場所に立っていた)

エルフは長命だ。時間感覚もゆっくりで、カブルーには長かった八年もミスルンには大した時間ではないだろう。

欲を失い、他人の世話を必要としながらも、どこか隔絶された存在――そんな彼が、まれに弱みを見せてくれる瞬間が愛おしく、抜け出せないほど嵌っていった。

昔から人の感情や癖を読むのは得意だった。なんとか彼の力になろうと世話を焼き、背伸びをして彼の視界に入ろうとしていた。
しかしカブルーが歳を重ねるにつれて、もっと自然にミスルンのことを慮れるようになった。欠落を抱えながらも生きようとする彼を、包み込んで、守ってあげたくなるような気持ちだった。

(上手くいくかもしれない)

そんな期待が胸をよぎり、少年のように軽い足取りのまま会議室の扉を開けて元気な挨拶をしてしまった。

「おはようございます!」

室内の者たちからぱらぱらと挨拶が返る中、カブルーの視線は自然と奥に座っていたひとりに吸い寄せられる。
高窓から降り注ぐ陽光に彼の輪郭が白く輝く。黒い瞳にも光がさして一瞬銀色に輝いて見えた。

「こんにちは」

ほんの少し首を傾けて、柔らかく、穏やかで、非の打ち所のない微笑み。
けれど、胸が一瞬、ひやりとする。

……あれ)

声の調子。
間の取り方。
視線の高さ。
そこに昨夜の動揺は、微塵も残っていなかった。

「さて、宰相補佐殿もいらしたことだし、始めよう。いよいよ来月に迫ってきた三国間評議会について今日の議題だが……

淡々と、滞りなく、会議は進んだ。
ミスルンは過不足なく説明し、必要な資料を提示する。余計な雑談は一切挟まれない。
カブルーに意見を求める時も、目が合ったのに、いつものように瞳の奥をかすかに緩ませたりはしなかった。

会議が終わり、皆が立ち上がる。雑踏をかき分けてカブルーは声をかけた。

「ミスルンさん、少し――
「すまないが、私はこのあと大使館で来客がある。何かあれば次官へ言ってくれ」

やんわりと、しかしきっぱりと遮られた。
礼儀正しい。
非難も拒絶もない。
ただ、入る隙がない。

その背中を見送りながら、胸の奥がすっと冷えていく。

これが返事か。
昨日までの、甘くて優しい距離ではない。
公務上の、適切で、誰にも文句を言わせない距離。

……駄目だった?)

期限を切ったのは俺だ。
逃げ道を塞いだのも俺だ。
 
それで拒絶されたのなら、受け止める覚悟は、していたはずなのに。

……でも)

「こんにちは」と微笑んだミスルン。
あまりにも整いすぎていて、昨夜までの人と、微妙に噛み合わない。

……違う)

カブルーの知っているミスルンじゃない。
昨日まで、そこにあったものが、どこかへ引き上げられた。
そんな気がした。

あの人は――どこへ行ってしまったんだろう。