mohu09
2026-05-06 19:12:44
19461文字
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晴れた日に、約束を

クロアジのピクニック


 カーテンを開けて、小さな窓から書店の外を覗き込む。空は今にも雨が降り出しそうなほどの曇り空で、辺りは細かな霧で覆われていた。気分が滅入ってしまうような天気だ。ロンドンらしいといえばらしいが、たまには天気の良い日に外へ繰り出したい。
 そんなことを何気なく思った時に、天啓のように素晴らしいアイデアが浮かび上がってきた。
「ピクニックにでも行かないか?」
 ロールスクリーンのカーテンを下ろしてから、クロウリーの方を向いて出来るだけ明るい声音でそう提案してみた。
 私の提案を聞いて、それまで書店の椅子に行儀悪く座りながらうつらうつらと舟を漕いでいたクロウリーが、目を見開く。何を言っているんだお前は、というような怪訝な顔をされた。そんな顔をしなくたっていいのに、と思う。
「エンジェルお前、この天気見て言ってるのか?」
「あぁ、勿論! こんな天気の日こそ、外に繰り出して明るいことをすべきだ!」
「こんな天気だからこそ内に籠ってるべきだろ」
「だから滅入ってしまうんだろう? だったら外に出よう」
 話が通じないと思ったのか、クロウリーがまた目を閉じる。真面目に話を聞いてもらえている気配がない。私は近くにあった椅子を引き摺って、クロウリーの目の前に置いた。
 ジャケットの裾を整えてからそこに深く腰掛け、手をお腹の前で組んで姿勢を正す。これから話をするからね、という意思表示だ。その気配を感じ取ったクロウリーは片目だけを開いて目を眇め、心底面倒臭そうに溜息を吐いた。それが恋人に対する態度なのか、と疑問に思う。
「ピクニックも悪いものじゃないよ」
「面倒臭いしこんな天気の中することじゃない」
「でも君なら天候を変えられるだろう?」
 ニーナとマギーを恋人にするという作戦で雨を降らしたと聞いた。その時のように晴れにでもしてもらえたら、クロウリーも外に出るのを渋らないはず。
「局所的にならな。それでも地獄に勘付かれる」
「別にいいじゃないか」
「俺は嫌だ」
 クロウリーは低く唸るように歯を見せて言ってから、ふいと視線を逸らしてまた目を瞑ってしまった。あの細く鋭い瞳孔が見えなくなる。話す気はない、というこちらもクロウリーなりの意思表示だ。
 私は何も、難しいことを言ってるわけではないはずだ。サタンと対峙する方法を探せだとか謝罪しながら踊れだとか、そんなことは言っていないのだから、話くらい聞いてくれても良いじゃないか。そう思うのは我儘なのだろうか。
 ピクニックのような楽しい行事を面倒臭いと評すなんて、本当に変わっている。綺麗な景色を眺めながら風に吹かれ、バスケットに詰められた色とりどりのサンドイッチやスイーツなどに舌鼓を打つ。なんて素敵な時間なんだ。確かに今日は天気が悪くて綺麗な景色は眺められないかもしれないけれど、それでも外で食べる食事は楽しい時間になるはずだ。しかも、それが恋人と過ごす時間ならば特に。少なくとも、私はそう考えていた。クロウリーは違うようだけれど。
 意見の相違に何だか寂しくなって、私は顔を俯かせた。カーペットばかりが視界に入って、クロウリーの顔が見えなくなる。
 "ピクニックに行く"というのは、そもそも約束だったはずだ。
「約束しただろう」
「約束?」
 私が顔を上げて言えば、クロウリーが語尾を吊り上げて問いかけてくる。それまで目を閉じていた彼は、少し目を見開いて訝しげな眼差しで私を見つめてくる。
「1967年。私が君に聖水を渡しただろう」
「それは覚えてる。忘れるわけがない」
「その時に約束したじゃないか」
……したか?」
 クロウリーは椅子にだらしなく腰掛けたまま片眉を上げて、首を傾げている。この悪魔、約束したことを忘れたというのか。まあ、悪魔だから約束なんて知ったことかと言われたらそれまでなのだが、クロウリーが私相手にそんな言動をするとは思えなかった。悪魔のくせに、案外と誠実なところがあるのがこのクロウリーの良いところだと私は知っている。だから、約束だって思い出してくれるに決まっていると、そう信じたい。
「しただろう! 君の車の中で!」
「約束……だったか、あれは? ただのお前の独り言だろ」
「酷いな! あれは私と君の同意の上で成り立った言葉だ!」
「いや、間違いなく独り言だな。俺は"何処か送っていくか"と聞いただけだ」
 どうやら私はクロウリーを買い被りすぎていたらしい。過去にした約束を約束じゃないと言い張るなんて、あまりにも子供じみたやり口だ。それに、屁理屈を言うだなんて。
 あれは確かに約束だった。私から聖水を受け取ったクロウリーは何かお礼をしたがっていて、私は一度それを拒否した。だが彼がどこか寂しそうな表情をしたものだから、考え抜いた末にピクニックという提案をしたのだ。平和で心休まる時間をクロウリーと過ごしたかったから。その提案をした時は彼も少しは頷いていた気がする。とはいえ考えている内にそんな気がしただけかもしれない、と自信は無くなってきた。
 私は憤慨して、思わず席を立ち上がる。クロウリーが目を丸くしてこちらを見上げてきていた。ベストを整えながら彼を見下ろすと、クロウリーはまた不思議そうに首を傾げた。この悪魔は、本当に私が言いたいことをわかっていないだけなのかも。
「私はこの数千年間、何か君との約束を忘れたことはなかった!」
「俺だってないさ。ただ、あれは約束じゃなかったってだけだ」
「そうやってまた屁理屈を捏ねて……!」
「屁理屈じゃないだろ。ただの事実だ」
 最早言った言っていないの水掛け論になっていた。全くもって無駄な時間だ。それはわかっていたから、これ以上この話題を続けるのはやめにする。多分、続けたところで同じ話題が永遠に繰り返されるだけだ。そんな未来など容易に想像できる。
 私は怒りを鎮めるために目を閉じながら大きく深呼吸をしてから、また服の襟を直したり蝶ネクタイを整えたりベストを引っ張ったりして身なりを整えた。そうすると、私の場合気分が落ち着くからだ。それを知っているクロウリーは仕方がないなといった風に、椅子に肘をつきながら私を見上げている。
「わかった。約束云々はもういい。目的だけを言うならば、私は君とピクニックがしたいだけだ」
「何でそんなこと」
「わからないのか。デートだよ! 君と出掛けたいんだ」
「こんな天気の日に?」
「それは、その……そうだけども」
 私が徐々にボリュームを絞りながら口籠ると、クロウリーが突然ふっと声を漏らして微笑んだ。それが意外も意外で、私は勢いよく顔を上げる。するとクロウリーはその細い瞳孔をより鋭くさせながら、形の良い唇で綺麗な弧を描いた。
「言ったろ、こんな天気の日にすることじゃないって」
「だから、それは……
「だったら、別の日にすれば良い。今日みたいなどんより雲の日じゃなくてな」
……それって」
 私が期待に溢れた目でクロウリーを見つめると、彼は愉悦に満ちた笑顔で外を見遣り、ぱちんと一つ指を鳴らした。すると、空の分厚い雲の隙間から一筋の美しい光が差し込んできて、窓のすぐそばにある水たまりを照らした。ほんの一筋の光だったが、それは周囲のどんよりとした空気を払い霧を晴らして、まるで心までもが晴れる日のような雰囲気を生んでくれている。
「こんな日にな」
 クロウリーの愉しそうな声色と外の明るさに、私の表情も引っ張られる。それまでの怒りが嘘だったかのように笑顔になってしまった。私も忙しい天使だな、と自分でも思う。
「晴れたら、ピクニックをしてくれるってことかい?」
「まあ、してやってもいい」
「面倒臭いと言っていたのに?」
「たまには恋人の面倒なお願いを聞いてやるのも必要だろ?」
 面倒臭そうな声色で、でもどこか嬉しそうにクロウリーが言うので、私は彼に抱きついた。「重い」と呟かれたから「失礼だな」と返しておいた。恋人に重いは色々な意味で失礼すぎる。クロウリーにはそういう気遣いが足りていないと思うのだ。
「どういうピクニックにする? 場所は? お弁当は持っていくかい?」
「好きに決めたらいい。俺はそれに従う」
「言ったね? 今度こそ約束だぞ」
「あぁ、約束だ」
 言質はとった。これでピクニックがなくなるということはないだろう。50数年ぶりの約束が果たされるのだ。
 どんなピクニックにしよう。場所はやはりいつものセント・ジェームズ・パークが良いだろうか。それとも、どこか別のところ? レジャーシートはタータンチェックの柄が落ち着くかも。あとはピクニック用のバスケットを買って、そこに詰め込む料理を決めなくては。
 次々とピクニックの計画が思い浮かんで止まらない。幸福感も止まらなかった。クロウリーとピクニックが出来る。ずっと思い描いていた夢だ。こんなに嬉しいことはない。入念に計画を立てて、完璧なデートに仕上げなければ。
 そう覚悟を決め、クロウリーに抱きつきながら目を閉じて空へ想いを馳せる。我が神よ、空に祝福をください。なんて、少し罰当たりなことを思い浮かべた。





その日は本当に、見事なまでに晴れ渡った日だった。空は青く澄み、燦々と輝く太陽を遮る雲など一つとしてない。眺めていると心まで冴え渡るようだ。ロンドンにしては珍しい、見惚れる程に空が綺麗な日であった。本当に神の祝福があったのかもしれない。これぞピクニック日和というやつだ。
 私はその空を見て早朝から浮かれており、それまでに準備してきた道具を引っ張り出してきてはピクニックの準備に勤んだ。本当に浮かれきっていて、クロウリーに「今日にしよう! 今日を逃したらもうチャンスなどないかもしれない!」とだけ電話して返事も聞かずに通話を切ってしまい、それからすぐにクロウリーから「何がだ!?」と怒りの電話を貰ってしまった。
 その後取り急ぎ説明をして、クロウリーに書店まで迎えにきてもらってから公園へ向かうことになった。彼に運転を任せるのは本当に怖いけれど、こればかりは仕方がない。諦めて送ってもらうことにした。
 目指すは、いつもクロウリーと会っているセント・ジェームズ・パークの近くにあるハイドパークだ。こちらもセントラルロンドンの象徴的公園。見渡すばかりの緑地が広がっており、有名な湖もある。ピクニックには最適だと判断した。
 呼び出してからものの数分で書店へと迎えに来たクロウリーの愛車であるベントレーに乗り込んで、目的地へ向けて出発する。彼の運転に対する不安は募るばかりだった。
「大丈夫か、エンジェル?」
「全然……大丈夫じゃない。ふらふらする」
 本当にあっという間に目的地に着いて、ベントレーから降りた瞬間に足元がふらついたので車体にしがみついた。クロウリーの運転は速すぎる。公道だというのに、恐らく時速100km近くは出ていた。周囲の車を蛇行して避けながら走る運転の仕方は、私には合っていない。あれが合う人間や天使など存在しないと思うが。悪魔はどうか知らない。
 私はふらついて覚束ない足元のまま、大事に抱えていたピクニックバスケットを持って歩き出そうとする。しかし上手く足を踏み出せなくて、何もないところで転びそうになってしまった。それをクロウリーに支えられたので、咄嗟に彼を見上げる。
「無理するな。少し休んでから行こう」
 抱えられて触れた身体から、クロウリーの香水の匂いがする。ダークフローラルのような重めの香り。嗅ぎ慣れたその香りに、少し安心感を覚えた。しかしそれと同時に羞恥心も浮かんだ。だって、ベッドの上で嗅ぐ彼の香りと全く一緒だったから。当たり前だけれど、彼と身体を重ねる時に同じ香りがするものだから、最早その香りは行為のトリガーのように作用してしまうのだ。
 私は頬を熱くしてクロウリーから身体を離し、ごほんと咳払いをして気持ちを切り替えた。平和なピクニックの日に、こんな感情は似合わない。
「もう落ち着いた。大丈夫だ」
「本当に? 休んだって良いんだぞ。公園は逃げない」
「天気は変わるかもしれないだろう? だから早く行こう」
 無理矢理理由をつけて歩き出す。まさかクロウリーの香りに少し興奮してしまったとは言えなかった。
 公園に足を踏み入れれば、見渡す限りに美しい深い緑が広がり、その緑の上で幾人もの人がレジャーシートを敷いてピクニックをしていた。流石ピクニックスポットと呼ばれるだけはある。今日は天気も良いからか、数えきれない程の人だ。
 友人同士と見られる子連れの女性たちや、カップルであろう男女、仲の良さそうな老夫婦など老若男女がこの公園を訪れているようだ。野原だけではなく、歩道を歩く人や湖を望むベンチに座る人など過ごし方は様々だけれど、皆一様に穏やかな表情をしていた。今日のこの天気のおかげだろうか。
 私は自然の中で人間たち皆が楽しそうに、幸せそうにしている光景に心打たれて、すっかり浮かれてしまっていた。
「どう思う、クロウリー?」
「うんざりするくらい全員幸せそうだ」
「私はそれが気に入った! この中に混ざれるなんて私こそ幸せだ!」
「だろうな。俺はもっと不気味な雰囲気のところの方が好きだ」
 クロウリーは相変わらずだ。こうして人々が楽しそうにしている光景を見るより、むしろ人々が避けているような不気味な場所に行くことを好む。墓場だとか。申し訳ないが何が楽しいのかわからない。それが悪魔というものなのかもしれない。
 とはいえ今の私にはそんなクロウリーの不満ないし我儘などは関係なくて、早くこの愛や幸せ溢れる空間に混じってピクニックを始めたかった。
 うんざりとしたような空気を出すクロウリーの手を掴んで、緑地へと足を踏み入れる。いきなり身体を引っ張ったからか「おい」と不満げな声が背後から聞こえてきたが気にしない。
 辺りを見渡して、ピクニックが出来そうなスペースを探す。人が大勢いるからなかなか空いている箇所がなかった。
「こんなに混んでるのに、空いてる場所なんてあるのか?」
「わからないけれど、"奇跡的に"空いてるかもしれない」
 そう言って丘を進むと、少し進んだ池の隣に不自然なまでにぽっかりと空いたスペースがあった。丁度私の用意したレジャーシートを広げられそうなスペースだ。
 その箇所までクロウリーの手を握ったまま進んで、ここでどうかな、と意見を伺うようにパッと彼の方を振り返った。
「お前、奇跡使っただろ」
「バレてしまったか? だが、今日ぐらいは少し使っても許されるだろう?」
「またくだらないことに使ったとか注意されるぞ」
 クロウリーが呆れたように言うので、私は肩を竦めた。天国だって、こんなに天気が良くて素敵な日に恋人と過ごす時間を大切にすることを咎めたりなんてしないはず。それは希望的観測すぎるだろうか。
 まぁ、それは良いとして。この"奇跡的に"空いたスペースにまずはレジャーシートを広げなければピクニックも何も始まらない。
 私はピクニックバスケットとは別に持ってきたトートバッグからレジャーシートを取り出して、空いているスペースに広げる。タータンチェックの大きなシートが緑の上に敷かれた時、何だかしっくりきた。やっぱりこの柄にしてよかった。
「タータンチェック? 嘘だろ?」
「何が不満なんだ。素敵な柄じゃないか」
「お前はこの柄に固執しすぎてる」
「だって好きなんだ。落ち着くから」
 レジャーシートの端を伸ばしながら言うと、頭上からクロウリーの溜息が聞こえてきた。たかがレジャーシートの柄ごときに、そんなに呆れなくたっていいじゃないか。
 タータンチェックは、伝統的な格子柄だ。スコットランドを発祥の地とする柄だけれど、今ではファッションなどのデザインとして地球上の人々に広く親しまれている。私はこの柄が好きだ。特にクリーム色のものが。見ていると何だか落ち着くし、実に紳士的で良いと思う。クロウリーにも良さをわかってもらいたいからこの数十年間色々と試してみているが、何も良さが伝わってないらしい。むしろどんどん嫌われていっている気がする。私のせいなのだろうか。
 レジャーシートを綺麗に敷き終わった途端、クロウリーが靴を履いたままシートの上を歩き、その長い足を伸ばして座り込んだ。レジャーシートが土で汚れている。お気に入りだったのに。
「どうして靴を履いたまま乗るんだ」
「はぁ? そういうものだろ。靴を脱ぐ方がおかしい」
「せっかくのレジャーシートなのだから、汚さないようにした方がいいだろう。わざわざ汚す必要はない。それに……お気に入りだったのに」
「じゃあ持ってくるな。シートなんて汚す為にある」
「あぁもう、わかったよ。でも私は脱がせてもらう」
 私はそう宣言して靴を脱ぎ、ゆっくりとシートの上に座った。やっぱり柄が素晴らしい。土で汚れてしまったのが惜しいくらいだ。帰ったら、きちんと洗おうと思う。そうしたら綺麗になるだろう。
 地面に置いていたピクニックバスケットをレジャーシートに乗せて、誇らしい気持ちでクロウリーを見る。彼は眉を持ち上げて、不思議そうに私を見ていた。
「お弁当を持ってきたんだ」
「お前が? 自分で作ったのか?」
「あぁ、勿論! ただ、その……見た目は気にしないでもらえるとありがたい」
「見た目、ねぇ……
 クロウリーは訝しむように呟くと、サングラスの下から胡乱な目でこちらを見て、そっとピクニックバスケットの蓋を開けた。中には、私が一生懸命本を読みながら作ったサンドイッチと小さなチョコレートマフィン。どちらも形は崩れているけれど、食べられはするはずだ。多分。正直に言って、味に自信はない。
 クロウリーが私の作った料理を見た後に何だこれは、とでも言いたげにこちらを見てきた。そんな目で見ないで欲しい。段々と恥ずかしくなってきてしまうから。
「見た目は気にしないでといったろう!」
「何も言ってない。ただ……車の中で酷く揺らされたみたいな見た目をしているなと思って」
「実際君の運転は酷い。きっとそのせいもある」
「俺のせいにするな」
 いや、実際クロウリーの運転のせいもあるだろう。だって彼の運転は速すぎるし、蛇行運転なせいで車の中でピクニックバスケットが揺れた記憶がある。一応大事に抱えてはいたけれど、それでも守りきれないような動きだった。絶対に多少はクロウリーのせいで崩れてしまったと思う。まあ、元から殆どこんな感じではあったが。
 クロウリーに遠回しに貶されてしまったので、少し落ち込む。彼に褒められたくて作った節もあるから、上手く出来なかった自分が情けない。でも仕方ないのだ。料理は食べるのは好きだが、作ったことなど殆どないのだから。超が付くほどの素人なのに、綺麗な見た目で作れるはずもない。サンドイッチという簡単な料理でも。
 しょんぼりと落ち込む私を見て、クロウリーがまた溜息を吐いた。凄くわざとらしく。また貶されるんだろうか。
「奇跡を使えば良かったろ。そしたら綺麗に作れた」
「それじゃあ楽しくないし……
「楽しくないし?」
「君への愛情が籠らない。愛情を籠めたくて、一生懸命自分の手で作ったんだ」
 落ち込んだ声色のまま告げると、クロウリーは黙り込んでしまった。愛情を籠めると言ったくせに上手く作れなかった私に失望してるのだろうか。それは嫌だ。失望されたくはない。けれど、上手くやることが出来なかった私にも非はあるだろう。
……お前からの愛情なんて十分に伝わってるぞ、エンジェル。料理なんて必要ないだろ」
 少し強く吹く風に掻き消されてしまいそうな声量で告げられた言葉に、私は耳を疑う。クロウリーは今、なんて言ったのだろう。およそ普段の彼から聞こえてくるような言葉じゃなかったと思う。風に髪を吹かれながらぼんやり遠くを眺めているクロウリーを見て、私は瞠目する。あまりに驚きすぎて、しばらく何も言えなかった。
 六千年間愛の言葉など口にしてこなかったクロウリーが、こんな素敵な言葉を私に贈ってくれるなんて。素晴らしい日だ。これならば崩れてしまった料理を作っても良かったな、と思える。また聞かせてはくれないだろうか。風の音が煩くて、殆ど聞こえなかった。甘い言葉を言ってくれたことはわかったのだけれど。
「もう一度言ってもらえるかな?」
「二度は言わない。一度で理解しろ」
……意地悪」
「何とでも。それが悪魔だ」
 そう言われたらもう何も返せない。クロウリーは"悪魔"という言葉を言い訳にしている節がある。それを言われたら、私が何も言い返せないことをわかっていて言うのだ。悪魔は確かに嘘を言うし意地悪だし悪事が大好きだけれど、クロウリーは違うと信じている。本当は心根が優しくて、私を何よりも想ってくれているのがクロウリーだ。口にしなくてもわかる。だって六千年の付き合いだから。
 クロウリーとは、本当に長い付き合いだ。地球が生まれる前から付き合いがある。クロウリーが天から堕ちる前のことを覚えているかは定かではないが。恐らく覚えているのだと思うが、本人はそれを認めたがらない。
 しかしこうして恋人関係になったのは、本当にここ数年の出来事である。六千年間の付き合いを経て、数年前にやっとクロウリーが想いを告げてくれた。私はと言えばお恥ずかしいことにそれまで自覚がなくて、クロウリーに告白されてから数日後にやっと想いを自覚した。彼への気持ちは親愛でなくて愛情なのだと。
 まあとはいえそこから紆余曲折を経て恋人になった私たちは、これまで以上に逢瀬を重ねるようになった。恋人関係にあると天国や地獄にはバレぬよう、慎重に。だからこうして表立ってデートをすると言うのは、本当に久々というか珍しいことなのだ。久々だからこそ、私も浮かれきっているわけで。クロウリーと素敵な場所でピクニックをする為に奇跡を使ってしまうほどには浮かれていた。
「さぁ、では、お弁当を食べよう」
「あぁ、それがいい。俺はそれを見てる」
「なに?」
「ワインでも飲みながらな」
 そう言うと、クロウリーは指を鳴らしてワインのボトルを自分に手元に出現させた。そのボトルのラベルには、"レッドランズ"と書かれている。確か、その名はイングランドで作られた赤ワインのはずだ。クロウリーはこれが好みなのだろうか。今度ワインセラーで探してみようか。
 いや、今はそれはどうでもよくて。私がお弁当を食べようと言ったのに、『それを見てる』とだけ言われたことが問題なのだ。
「そのワインは?」
「今適当に出しただけだ。種類が何かは知らん」
「君はそれだけで満足するつもり?」
「あぁ。何か問題でも?」
 問題だらけだ! 私はクロウリーの為にこうして奇跡を使わずに料理までしてきたと言うのに、彼はそれを一口だって口にもしないつもりなのか。あまりにも酷い。やっぱり私の愛情は通じてなかったことになる。自分の手作り料理を食べて貰いたいという気持ちは、どうやってもクロウリーには伝わらないのだろうか。だとしたら酷く悲しいし寂しい。
 彼は、いつだって私が食事をしているところを眺めているだけだ。何が楽しいのか知らないが、いつもアルコールを喉に流し込みながら私の食事風景をじっと見つめてくる。それも、熱い視線で。悪魔だから食事が必要ないのはわかっているが、それでも食べてみれば絶対に良さがわかるのに、と思う。
 人間の食事はこの身体にじんわりと染み渡り、安らぎをくれる。視覚や嗅覚でだってそうだ。色とりどりの野菜やスイーツ、脂の乗ったステーキなど、どれも極上の幸福感をくれる。他の娯楽では味わえないタイプの幸福だ。クロウリーだって、多分それは知っているはずなのに。私の料理では味わえないとでも言うのだろうか。
「私の料理ではダメ?」
「何が」
「幸せを感じられない?」
「そんなこと誰が言った。俺に食事は向いてないってだけだ」
 向いてないってなにが。どうして。質問責めにしてやりたかったけれど、クロウリーからまともなことが返ってくるとは思えなかったから口には出さなかった。どうせ「そういうものだ」とか「いいから黙って受け入れろ」だとか適当な言葉しか返ってこないに決まっている。しかしそれが黙って受け入れられるか。クロウリーにも食べて欲しい。そして感想を言って欲しい。それが普通の反応だと思うのだ。
 私が不満げな表情を浮かべていると、クロウリーがワインをボトルごと直に飲みながら、こちらを横目で見遣った。
「言っておくが、お前の料理がダメなわけじゃないからな。そこは勘違いするなよ」
「なら食べてくれ」
「嫌だ」
「どうして君ってそんなに頑固なんだ!」
「お前こそ」
 そう言ってほくそ笑むクロウリーが腹立たしくて、私はふいとそっぽを向いた。池でカモが一匹、泳いでいるのが見える。可愛らしい。だが今はそれどころではなかった。
 私だってこれくらいで諦めるほど意思は弱くない。クロウリーの言う通り、そこそこ頑固な自覚はある。しかしこのまま食べてくれと言い続けたって、この悪魔は私の料理を食べてはくれないだろう。ならば、手っ取り早く最終手段に出ることにする。
「食べてくれないなら、別れる」
「はぁ!?」
 それまで余裕そうな様子でワインを飲んでいたクロウリーが、素っ頓狂な声をあげて私の方を見た。私はそっぽを向いてカモが泳ぐ様子を見つめたまま、腕を組む。
「どうしてそんなに思考が飛躍する!?」
「飛躍していない。君が頑固だから、私も頑固な手段に出ただけだ。それとも、君は私と別れてもいいって思ってる?」
「そんなわけ……! お前卑怯だぞ!」
「何とでも。これが天使だ」
 クロウリーに言われた言葉を、そっくりそのまま返してやる。
 どうやらクロウリーは、私から別れを切り出されたことが相当に堪えたらしい。ふるふると小刻みに震えて、サングラスの奥の綺麗な瞳が揺れている。動揺している証だ。珍しい。まあ、動揺するのは当たり前か。
 あのクロウリーも、まさか私から別れるだなんて言われるとは思ってなかっただろう。たかが食事くらいで。だが私だって本気なのだ。それはわかって欲しい。恐らく、今の発言で伝わったとは思うが。
「エンジェル、お前本気か?」
「本気も本気さ。君に料理を食べて欲しいんだ」
「それくらいで別れるなんて言うか普通!」
「"それくらい"じゃない! 私にとっては重要なことだ!」
 逸らしていた顔を元に戻し、正面からクロウリーを見つめる。彼は酷く歪んだ表情をしていた。多分、私もそうだろう。だって、必死に作った料理を食べてもらえないのは辛い。本当に最終手段だったけれど、これなら食べてもらえると思ったのだ。失敗したら全てが終わるが。
「ねぇ、クロウリー。お願いだから食べてみてよ。そんなに難しいこと言ってないだろう?」
……くそっ」
 クロウリーは小さく口汚い言葉を吐き捨ててから、ワインボトルを激しく地面に置いて、ピクニックバスケットの中に詰められたサンドイッチを手に取った。そしてそれに荒々しく齧り付く。何度も。結構ワイルドな食べ方をするのだな、と思った。クロウリーが食事を摂っている姿なんて殆ど見たことがないから、とても珍しく思える。ほどなくしてサンドイッチを食べ終えた彼は、肩で息をしながら手についたソースを舐めとっていた。舌がとても長い。やっぱり元は蛇だからだろうか。そんなどうでもいいことを考える。
「満足か」
「そりゃあもう! 美味しかった?」
「美味かったに決まってるだろ。お前が作ったんだから」
「ありがとう、クロウリー!」
 嬉しさのあまり抱きつく。クロウリーは私を支えようとして倒れそうになっていたけれど、ギリギリのところで持ち堪えていた。
 耳元で溜息が聞こえる。そこには安堵の息も含まれている気がした。別れると言われて流石のクロウリーも焦ったのだろうか。少し可哀想なことをしてしまったか、と思った瞬間だった。
 突然胸倉を掴まれて、引き寄せられる。そしてそのままクロウリーにキスをされた。突然のことに戸惑い、腕をどこに回していいかわからず躊躇する。キスの味は、サンドイッチのソースの味だった。これは美味しく出来ているかも、と場違いなことを思う。
 キスはごく短くて、すぐに解放された。はぁっ、と息を吸い込むと、クロウリーがこちらをまっすぐに見つめてくる。
「二度と別れるなんて言うな」
「ご、ごめん……
……本当に、心臓に悪い」
 そう呟いてクロウリーが再びキスをして来ようとするので、私は慌てて手でそれを阻止した。横目で辺りを見渡す。視線が痛い。周りの人たちが皆こちらを見ているような気がする。多分勘違いじゃないだろう。そりゃあそうだ。気の合わなさそうな二人がピクニックをしていたと思ったら、突然キスなんかし始めたのだから皆見てしまうに決まっている。きっと私でも見てしまう。
「ちょっと、待って……視線が痛い」
「別に、見させておけばいい。減るもんじゃない」
「減るとか減らないとかじゃなく……恥ずかしいんだ」
「そうか? 俺は見せつけたいけどな」
 君はそうかもしれないけど、と言いかけたところでキスで唇を塞がれた。あぁ、もう。クロウリーはこういうところが強引だ。
 深いキスではなく、唇を押し付けるだけのキスが何度も降ってくる。可愛らしいリップ音を立てて。それがまた羞恥心を煽るのだ。周りに聞こえてやしないかと心配になる。多分聞こえてはいないのだろうけれど、視線は痛いほどに感じる。恥ずかしくて頬が熱い。
 仕方がないのでクロウリーの背中に腕を回すと、キスがより激しくなった。頼むから待ってくれ、と伝えようとした瞬間にレジャーシートへ押し倒されたことに気付く。これ以上は耐えられない! 
 私はクロウリーの背中を全力で叩いて、キスの中断を求めた。するとしばらくして、クロウリーが私の唇から離れていく。ようやっと解放された。呼吸が上手くできない。
「やりすぎだ!」
「お前が別れるなんて言うから」
「それは、だから……悪かったと言ってる!」
「もう言わないな?」
「言わないからもうやめてくれ!」
 私は涙目で殆ど叫びながら起き上がり、乱れたコートの襟と蝶ネクタイを整えて服についてしまった土を払う。まさかこんなところで押し倒されるだなんて思わなかった。クロウリーの強引さにはびっくりだ。これからは発言に気を付けなければならない。特に、「別れる」という単語はNGなのだと強く思い知った。
 私は周囲の様子を窺う。近くでピクニックをしていた人たちは皆こちらを見ていて、私と目が合った瞬間に慌てて視線を逸らしていた。やっぱり見られていた。当たり前だが。となると、私がクロウリーに押し倒されたところまで見られたことになる。なんて恥ずかしいのだ! あんなこと、外ですることじゃない。手当たり次第見ていた人の記憶を消してしまおうかとも思ったが、それこそ奇跡の多用で天国に叱られる可能性がある。人々の記憶に残ってしまったことは諦めるしかないだろう。
 涙目のまま、自分で作ったサンドイッチに手を伸ばす。ボロボロのそれを口に含むと、ベーコンの脂の乗った香ばしさとトマトの瑞々しさをレタスが際立たせていて、パンの表面に塗ったバターの濃厚な味と特製ソースの味が後味に残る。これは確かに美味しい。見た目は酷いが、味はちゃんと出来ていた。嬉しくて思わずクロウリーの顔を見ると、「だろ?」という風に首を傾けられた。それまでの絶望感は忘れて私は何度も頷き、もう一つサンドイッチを手に取ってクロウリーにはデザートのチョコレートマフィンを渡した。
「また食べろと?」
「勿論。デザートは別腹だろう?」
「わかったよ。食べればいいんだろ」
「話が早くて大変よろしい」
 クロウリーの呆れ顔に向かって微笑んで、サンドイッチに齧り付く。風に吹かれてそよぐ木の葉や、美しい波紋を作り上げる池の水面を眺めて食べるサンドイッチは普段よりも何倍も美味しく感じられた。しかも、そばでは私の作ったマフィンを食べる恋人の珍しい姿が見られるのだから、満足感が無いわけがない。クロウリーとピクニックに来られて本当に良かった、と心底思った。





ピクニックの道具とバスケットは一度車にしまい、再び公園へ戻って少し散歩をすることにした。こんな天気の良い日を、短いピクニックだけで終わらせてしまうのは本当に惜しい。
 先程の沢山のピクニック客がいる草原を通り過ぎて、散策路をゆっくりと歩く。時折湖などで白鳥やガチョウを見かけるので、私が興奮気味にその子たちを見ているとクロウリーは何だか面倒臭そうな表情をしていた。こんなに可愛いのに愛おしくは思わないのだろうか。不思議でならない。
 そうしてしばらく散策路を歩くと、薔薇園にたどり着いた。様々な色の薔薇が咲いている。オーソドックスな赤色やピンク、白色とオレンジ、あまり見ない色だと茶色など。本当にそれぞれ違う色をしていて個性豊かだった。
「見てよ、クロウリー。綺麗な薔薇だ」
「あぁ、そうだな」
「あまり興味ない?」
「興味ないこともない。が、観葉植物の方が好きだ」
 確かに、クロウリーの車には観葉植物が大量に乗っている。種類も様々だろう。地獄から与えられた部屋に住んでいた頃には、もっと沢山の観葉植物を育てていたと聞いた。それくらい、クロウリーにとっては大切でかけがえのないものなのだろう。ほんの少し妬けてしまう。植物に嫉妬するなんて、おかしな話だが。
 そんな話をしながら順路に沿って進み、薔薇を眺める。私も植物が好きだ。見ていると落ち着いた気分になれるし、何となくこちらに語りかけてくるような気がして一人でいる時などは寂しさが吹き飛ぶから。つい話しかけたくなってしまう。
「今日は天気がいいけれど、調子はどうだい、薔薇さん。沢山の人が見に来てくれて良い気分だって? それは素晴らしい!」
 私の問いかけにも答えてくれる薔薇の美しさに魅了されて、ほんの少しだけその茎に手を伸ばす。皆のために頑張って咲いていることを褒めたかったから。その茎には棘があるのだということも忘れて。茎にそっと触れた瞬間、鋭い棘が指先へと刺さって「いたっ」と短く声が漏れた。何故だか、クロウリーが隣で目を見開いている。
 次の瞬間、クロウリーは薔薇に詰め寄りぶつぶつと低い声で呟き始めた。
「お前、俺のエンジェルに傷をつけたな? 炎に燃やされる覚悟は出来てるか」
「ちょっと! 薔薇が怯えてるじゃないか!」
「だがお前の指が……
「傷なんてついてないよ。少し棘が刺さっただけ」
 ふるふると震える薔薇が気の毒になって、私は薔薇とクロウリーの間に割って入る。何より、公共の場にある植物を燃やされては困る。
 クロウリーは目の前に割り入ってきた私の手を掴んで、傷がないかどうかを入念に確認していた。そこまで心配しなくても。たかが植物の棘に触れただけなのに、傷をつけただなんて大袈裟だ。クロウリーは時々そうして暴走気味になることがある。まあ、いつも暴走気味と言われれば確かにそうだと頷くしかないのだが。
「ね、傷なんてついてないだろ? 君は心配性すぎる」
「お前が痛いと言ったから……
「そりゃあ痛いさ。棘が刺さったんだから」
……傷が無いならいい」
 傷が無いことを確認して満足したのか、クロウリーが興味をなくしたように私の手のひらを解放した。少しは冷静になってくれたらしい。薔薇の震えもおさまっている。良かった、と私は胸を撫で下ろした。
「ここは危険すぎる。別の場所に行くぞ」
 やっぱり冷静ではないかもしれない。ここのどこが危険だというのか。クロウリーの頭の中を見てみたいと思った。
 クロウリーが落ち着かなくなってしまったので順路をどんどんと進んで足早に薔薇園を去る。もっとゆっくり見ていたかったので名残惜しく薔薇園を見ていると、クロウリーに「行くぞ」と怒気を孕んだ声で急かされてしまった。どれだけ薔薇園が嫌いだというのか。本当に気難しい人である。
 薔薇園を出て暫く歩いていると、サイクリングをしている人とよくすれ違うようになった。サイクリングコースもあるし、この公園の広さが丁度いいのだろう。
 私がサイクリングコース側を何気なく歩いていると、クロウリーに無言で腕を引かれて反対側の方へ立たされた。つまり、危険な方は俺が引き受ける、という意味だろう。不覚にも胸がキュンとする。クロウリーは無自覚にこういうことをやってのけるところがあるから、油断ならないのだ。
……君って、そういうところ格好良いよね」
「急に何だ」
「何でもない!」
「おい。気になるだろ」
 クロウリーが顔を覗き込んでくる。その距離の近さにまたドキンと胸が跳ねた。何度か同じやり取りをしてから視線を逸らす。すると聞いても無駄だと思ったのか、クロウリーは私の顔を覗き込むのをやめた。ホッと胸を撫で下ろした瞬間、クロウリーがぼそりと呟く。
「俺はお前のどんなところも可愛いと思う」
 本当に小さな声で、周りの喧騒に巻き込まれて消えてしまいそうほどの声量だった。私は驚いて、目を見開く。今日は一体どうしたというのだ。クロウリーの口からどんどん甘い言葉が飛び出てくる。ピクニックという状況のせいなのか。
 私の言っている言葉の意味をわかっていなさそうだったくせに、的確に私をときめかせてくるところはクロウリーらしいなと思った。
「そういうところだよ」
「ははっ、なるほどこういうところか」
「わかってくれてなにより」
 後ろで手を組みながら頷くと、クロウリーがそっとその手を片方攫って行った。そしてそのまま、ギュッと握り締められる。
 歩きながら手を繋ぐなんて殆どしたことがなくて、足取りがぎこちなくなってしまう。クロウリーの細い指が私の手に絡みついてきて、緊張する。どうしよう。手汗はかいていないだろうか。いや、たぶんかいているだろう。だって握った手のひらは少し湿っている。クロウリーの手汗かもしれないけれど、それはわからない。もしかしたら両方かも。ただ私たちは、互いに緊張しながら暫く手を繋いで歩いた。
 そんなこんなで公園を一周できそうなほどに歩き回って、青々しい木々に囲まれたベンチで少し休憩しようということになった。
 クロウリーはいつも通り酷く行儀の悪い座り方で、その長い足を遠くへ投げ出して座っている。ここは人通りが少ないのか殆ど人が来ないからまだ良いけれど、人が集まってる場所では恥ずかしいからやめて欲しいといつも思う。
 私はベンチに座って、はぁと溜息を吐いた。流石に沢山歩いたから、溜息が出るほどには疲れてしまった。
「足が痛いよ」
「いつも歩かなさすぎだ。もう少し書店の外に出ろ」
「だからこうして出てるだろう?」
「時々すぎる」
 軽口を叩き合って、暫く会話のラリーを続ける。何度か会話を続けた後に、ふと無言の時間が訪れた。
 何気なく、空を見上げる。木陰にいるからあまりよくは見えないけれど、空はオレンジ色を水に溶かしたみたいな色に染まっていて、少し周囲も薄暗くなっている。もうこんな時間か。
 相変わらず空は美しくて、見ていて気分が良い。一日中天気が良く、素晴らしいピクニックになった。本当に、今日にして良かったなと思う。無理矢理クロウリーを呼びつけた甲斐があった。
 クロウリーは、今日一日を楽しいと思ってくれただろうか。思ってくれていたら嬉しい。私は、とても楽しいと思えたから。
……楽しかったか?」
 こちらから聞こうと思っていたことを先に聞かれた。驚いて、クロウリーを見る。サングラスを少し下げて、黄金の瞳を僅かに覗かせていた。心臓が跳ねる。
「勿論、楽しかったよ。君とこうしてピクニックをするのは、ずっと夢だったからね」
「そうか。なら……良かった」
「君は?」
「俺か?俺は……
 クロウリーはサングラスを持ち上げて、言葉を詰まらせる。正直に言うのを躊躇っているのだろうか。クロウリーはお世辞にも素直とは言えない悪魔だし。
……悪くはなかった」
 まあ、そう言うだろうなと予想はついていた。六千年の付き合いだ。大体はわかる。
 けれど、素直じゃないクロウリーが"悪くなかった"と言うのならそれはつまり"良かった"という意味でもあるだろう。そのはずだ。少なくとも、経験上はそうだったことが多い。
 クロウリーにも楽しい想いをさせてあげられたことが嬉しくて、私は思わずふふっと笑みを漏らした。クロウリーがわざとらしく音を鳴らして舌打ちをする。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑ってるだろ。お前が考えているようなことは思ってない」
「素直じゃないな、君は」
 あまりにもクロウリーが素直じゃないから、もっと笑みが漏れる。何だか楽しくなってきてしまった。
 私はお腹の前で組んでいた手を解き、ベンチの上を這わせてクロウリーの方へ伸ばす。彼に触れることはできなかったけれど、意図は伝わったはずだ。案の定、しばらく経った後にクロウリーが眉を顰めながらも手を伸ばしてくれて再び指が触れ合った。
 クロウリーはその細い指で私の指を一本一本撫でてから、慎重に手を絡め合せてきた。ベンチの上で、深く手を繋ぎ合う。お互い何も言わずに。
 自分から始めたことなのに何だか恥ずかしくなってきて、私は手を引こうとした。しかしそれは許されることはなく、クロウリーが私の方へ擦り寄ってきながら繋ぎ合わせた手を持ち上げ、私の小指についているリングに小さくキスをした。そこには魔除けの意味もあるのだと知っているのだろうか。ひょっとしたら知っていてキスをしたのかもしれない。皮肉の意味を込めて。
 私が勢いよくクロウリーの方を見ると、彼はサングラスの下の瞳を輝かせながら私に迫ってきていた。思っていたよりも距離が近い。ドキン、と心拍数が一気に上がる。
「クロウ、」
「キスしてもいいか」
 突然そんなことを問われて、一瞬だけ思考が停止する。何故そんなことを聞く。昼間は何の許可も得ずにしてきたではないか。なんて言葉すら紡げなくて、ぱくぱくと口を開閉させるしかなかった。してもいいかと聞かれると、途端に恥ずかしさが増す。キスなんて何度もしてきているのに、何故か慣れないことのように感じてしまうのだ。
「なぜ、そんなことを」
「さっきは嫌そうだっただろ。だから聞いただけだ」
「今したじゃないか」
「指にじゃない。唇に」
 当たり前だ。キスといえば、普通は唇にするものを指す。わかっていて言った。何とか逃れられはしないかと。
……誰か来るかも」
「ここじゃ誰も来ない」
「でも……
「何から逃げたいんだ、アジラフェル?」
 問われても、よくわからなかった。
 ここが外だからだろうか。クロウリーとキスをする時は、九割書店の中だ。外でしたことなど殆どない。昼間のアレだって、あんな人のいるところでキスをしたのは本当に初めてのことだったのだ。だから恐ろしく感じるのかも。自己分析したところで、恐怖が消えるわけではなかったけれど。
「だってここは……外だ」
「別に外でキスするのは犯罪じゃない」
「誰に見られるかもわからないから、怖いんだ」
「見られたらやめればいい」
 逃げ道が塞がれていく。もう言い訳は思いつかない。クロウリーが再び指にキスをして、顔を迫らせてきた。身体を仰け反らせるけれど、追いかけられて意味がなかった。
「クロウリー……
 拒否も肯定も出来ず震えた声で名を呼べば、クロウリーはふっと微笑んでから私の唇にキスを落とした。びくん、と身体が揺れてベンチの肘置きに寄りかかると、クロウリーがそれを追いかけてくる。ちゅ、ちゅ、と音を鳴らして落ちてくるキスに身体を固くすると、クロウリーの右腕が腰に回ってきた。それにすら驚いて、跳ね上がってしまう。
 優しいキスが何度も繰り返されて、心が蕩けていくのを感じる。誰かに見られてしまうかもだとか、そんな心配はどうでも良いことだと思い始めてしまっていた。クロウリーの思う壺だ。悔しい。悔しいけれど、キスは気持ち良い。
「ん、ん……
 私はクロウリーの背中に腕を回して、彼を掻き抱く。閉じていた目を開ければ、サングラスの下の欲を纏った黄金の瞳とその背後に見える夕陽が眩しくて、思わずまた目を閉じてしまった。
 クロウリーの唇は私の唇を少し喰んだ後に、ゆっくりと離れて行く。それがどうしても名残惜しく思えて、私はクロウリーの背中に回した腕を離さずに彼を引き寄せ、消え入りそうな声で呟いた。
「い、いかないでくれ……
 本当に消えてしまいたいほどに恥ずかしかったのだけれど、ついそんな言葉が口をついて出てしまったのだ。だって、心地良い風に吹かれながらするキスはとても気持ちが良かったから。
 クロウリーは私の言葉を聞くと、少し固まった後に何も言わず再びキスを落としてくれた。それも、深いやつを。
 緩く開かれた私の唇のあわいをこじ開けて、クロウリーの細く長い舌が入り込んでくる。彼の舌は口内を一通り舐めてから、私の舌を絡め取った。細い舌がぬるぬると絡みついてきて、それが酷く気持ち良い。私が身体を捩らせると、腰に回されたクロウリーの腕がそっと私の背中を撫でてきた。背筋がぞわりと震える。
 私たちは人に見られるのではという心配すら忘れて、キスを繰り返す。深く舌を絡めて。最早外界のことなどどうだって良かった。私たちさえいれば、それで。
 やがて、はしたなく涎が唇の端から垂れた瞬間、クロウリーの唇が離れた。名残惜しさは消えなくて、彼の身体を離してしまいたくなかったのに強引に離されてしまった。なんで、と声が漏れる。
 私は今にも涙が溢れそうなほどに瞳に膜を張ってクロウリーを見上げる。クロウリーは、何かを堪えるような表情をしてからふいと顔を逸らした。
「帰るぞ」
「えっ……
 突然そう告げられて、訳もわからず目を瞬かせるしかなかった。帰るって、今? この状況で? 一体何を考えているのだ彼は。
 人も来ないのだし、もうちょっと続きがしたいと言おうと思った瞬間、クロウリーが小さく舌打ちをした。
「続きがしたい。書店に帰るぞ」
 思っていたことと全く同じことを言われたので、私はただ呆然としながら浅く頷く。クロウリーも同じ気持ちだった。それが嬉しくて、笑みが溢れてしまう。ふふ、と私が笑うと、クロウリーは忌々しそうに顔を逸らす。
「笑うな」
「笑ってないよ」
 同じやり取りをして、二人で同時に立ち上がり車を停めた場所に向かって歩き出す。いつの間にか空はすっかり闇を纏うように暗くなって、街灯だけが公園を照らしていた。そんな中転ばないようにということなのか、クロウリーに突然手を握られたので、私も少し驚いてから手を握り返す。どうせ暗闇で見えないのだから、手を繋ぐくらい良いか、と思った。

その後、100km近くスピードを出したベントレーで書店まで送られた結果、案の定ふらふらになった私にとって最早キスなど眼中になかったというのは言うまでもない話だろう。