雨が降っている。雨音の中、子供が一人。実の母親は周りにいない。親は子供を見ない。子供は腹を空かして、口に含むものを探して歩き回った。ふと、視界に映る赤に足を止める。子供は赤いそれを摘み取って、口へ入れる。酸味と、ほのかな甘み、そして赤が持つ棘が舌を刺す、痛み。
子供は赤のそれをいくつも口に入れることで空腹から逃れることができると知っている。
子供は赤色のそれが野イチゴと言うことを知らない。
摘んで、含み、飲み込む。ぷち、ぷち。ざあ、ざあ。咀嚼音と雨音で子供の世界は満たされる。だから近づく影に、足跡に気づかなかった。
「かえでくん」
凛とした声。子供は名前を呼ばれて動きを止める。声の主を見なかったのは、今まで名前を呼ばれることなんて、両の手で数えることができる程しかなかったからだ。それが自分と他人を識別するものだと、理解していなかった。
肩に温もりが触れる。かえではゆっくりと声の、温もりの主を見る。女性が一人、こちらに傘を差しだし、微笑んでいた。かえではそのとき、自分が今雨に浸されていないことを知った。かえでは彼女に手を引かれ、彼女に習い、歩き出す。彼女は傘をかえでの方に傾け、くるくると回しながら、かえでを連れ出す。
その日から彼女はかえでの「母」となった。
「母」はかえでに苺の味を教えた。ピアノを教えた。礼儀作法を教えた。たくさんのおまじないを、教えた。
楓は温もりを知った。
「母」に引き取られ、数か月が経った。楓は彼女の家を自分の居場所だと思うようになるまでにここでの生活に馴染んでいた。その日も彼女に勉強を教えてもらっていた。楓は小学校に通えていない分を取り戻すように知識を吸い込んでいた。来月には近くの学校へ編入することが決まっており、新たな世界への期待と学ぶ楽しさに胸を膨らましていた。
玄関口の方からパタパタと騒がしく駆ける音が駆けてくる。慌ただしく部屋に入室してきた使用人が「母」の元へ来てそっと何かを囁く。彼女はその言葉に静かに頷き、自分に今日はここまでだと、しばらく自分の部屋で遊んでいてねと告げ、部屋を出て行った。楓は一人、道具を片付け、何をしようか考えていた。とりあえず自室へ戻ろうと。部屋を出た。玄関口にいる人間達の話声が耳に入り込んでくる。何を言っているのかは分からず、「母」の言いつけを守ろうと自室の方へ歩みを進める。
「――楓が――――」
耳に自分の名前が飛び込んできた。初めて聞く声だった。なんて心地いい声なのだろう。優位性のあるはっきりした声。雑音の少ない綺麗な声。その声の主が自分の名前を呼んだ。一体誰なのだろう?「母」の言いつけを忘れ、自室へ向かっていたはずの足はいつのまにか玄関口へと導かれるように楓を運んだ。
廊下の曲がり角からこっそり玄関を覗く。「母」が応対していたのは見知らぬ男性だった。そしてその男性が声の主だと分かった。話の内容は難しく、理解しきれなかった。楓はずっとその男性の声に聞き惚れていた。
視線がぶつかる。楓の視線に男性が気づいたのだ。楓は驚き、角へ身を隠す。心臓がドクドクと熱い。「母」も楓がそこにいることに気づいたのだろう。話を辞め、こちらへ近づく。はじめて「母」の言いつけを破ったのだ。楓は今更になって自分の行動を恥じ、俯いていた。「母」はそんな楓を責めることはしなかった。手を引き、男性の前まで連れていき、膝をつき楓と視線を合わせる。そして男性の方へ視線を向ける。
「この子が楓君です」
そう言い放った。そして楓の方を見る。
「貴方のお父様よ」
父親。楓は自分とって縁のない存在だと思っていたそれに出会い、少しの戸惑いと高揚を覚えていた。楓は期待に満ちた目で父を見上げる。先ほどぶつかった視線は合わない。父は楓見ているようで見ていなかった。そして
「……また来る」
とだけ言い残し、背を向ける。「母」は玄関先まで父を見送りに出る。楓はそんな二人を、いや、「母」が戻ってきても尚、ずっと父を見つめていた。
「母」は父、青海卓一の見合い相手であり。自分の実の母親は卓一とたまたま出会った芸子で、酒に酔った勢いで自分が生まれたこと。父は子供を欲していないこと。それら全てを理解するのにそう長い時間はかからなかった。
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