うぃすま
2026-05-21 03:32:16
11674文字
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醜い蛙の子

青海先生と東雲君と卓一の話です

・東雲君、卓一の捏造
・ほんの少しモブもいます
・全てが捏造です
・青海√のネタバレが沢山あります

醜い蛙の子

校舎にチャイムが鳴り響く。静かだった校舎は一瞬で生徒達のにぎやかな声で彩られる。自分はそんな中一人、音楽室へ向かっていた。普段であれば昼休みは職員室で休憩を取るのだがここ数日、学校の行事の準備で通常業務がまだ残っていた。一年生の小テスト採点は終わった、次の授業は三年生、使う楽器の点検、その後は
考えていると目的地から鳴る音に気づき、足を止める。校舎は賑やかさを失わない。他の人間であれば聞き逃している。が、その音色はその中に埋もれることなく、輝いていた。ゆっくりと音楽室へと近づく。
 粗削りながら、心地よい、ピアノの音。
確かこの曲は二年生の授業で
 扉の前で立ち止まり、しばし演奏に聞き入っていた。演奏者が私に気づく気配は無い。もう少しこの音色に浸っていたい。だがこの時間の音楽室、ひいては楽器の使用を誰かに打診された記憶も、許可した記憶も、無い。一体誰が。勝手知ったる音楽室の扉をノックもせずガラリと開く。その瞬間、音色はピタリと止む。犯人は扉の開閉音に驚きこちらを見る。
男子生徒、二年一組、名前は―――
 「東雲信造君」
授業で受け持ったことが、というより私は全生徒の音楽の授業を受け持っている。大人しく、目立つ生徒では無い。実技も筆記も優秀でなければすぐに名前を思い出せなかっただろう。音楽系の部活に入っていないことを少々残念に思っていた。そこまで興味がないのだろうと考えていた。だから意外に思う。彼がそこにいることに。
 名を呼ばれた東雲君は茫然とし、しばし私を見た。そしてすぐに慌てて頭を下げる。
 「あ、青海先生!すみませんでした、勝手にピアノを使ってしまって
……
……?」
東雲君は私が黙っているのを不思議そうに見ていた。確かに楽器の無断使用は褒められたものではない。ここは彼を叱るべきだ。……だが。
 「もう一度、」
「えっ?」
「もう一度弾いてみてください、先程の続きを」
「!」
 私の言葉に彼は目を輝かせ、そしてすぐ困惑の色を灯す。どうぞ、と彼に促すように私はピアノに近づき、手で指し示す。その行動で彼は私が冗談を言っている訳ではないと理解し、ピアノに向き直る。彼は鍵盤に触れた。
再びその指が音色を奏で出す。まだまだ改善点はいくつもあるが、才能を感じ、そしてなにより音楽に対する彼の気持ちがにじみ出た一音一音。その演奏に、

 私はすっかり惚れ込んでしまった。

 「ピアノにずっと憧れがあったんです。」
演奏を終え、私はひとまず彼に話させた。
「自分もピアノが弾けるようになりたくて、でも自分の家にはそもそも楽器なんてなくて、ピアノを習う程の余裕もなくて。そしたら山田君が昼休みの間音楽室はいつも誰もいないからこっそり使えばバレないって、鍵を貸してもらって、こっそり……。すみませんでした」
 東雲君は静かに自分の犯行を告白した。授業で私が弾いている様子を見様見真似で、思い出しながら練習していたそうだ。山田とは二年三組の吹奏楽部副部長のことだろう。彼はよく部活で鍵の管理をしていたはずだ。今度注意しておこう。山田君にも。
つまり常習犯
断罪を待つ彼の視線が私へ向けられる。
 「音楽室の無断使用を見過ごす訳にはいきません、気づいた以上」
私の言葉に東雲君は申し訳なさそうに視線を足元に向ける。
 「ですから、明日からはここへ来ます。私も」
 パッと、視線が自分に向けられる。私は言葉を続ける。
 「鍵は開けておきます、ので借りる必要はありません。これからは」
 「え、えっ、いいんですか!?」
「はい」
「その、明日からもピアノ触ってもいいんですか、」
「構いません」
「青海先生……!」
 贔屓なのだろう、これは。一人の生徒にだけ、担任を受け持っている訳でもなく、部活動で接している訳でもないのに。
 それでも。
惜しいと思ったのだ。この若い芽を摘み取ってしまうのは。
 ピアノの裏手にある棚から一つ箱を取り出し、中にある楽譜を一つ、彼に差し出す。
「お貸しします。君が弾いていた曲です。先程」
「あ、ありがとうございます!」
彼は嬉々として楽譜を受け取る。ふと、手元に彼の視線を感じる。
「どうしましたか」
「あ、いえ、その……
彼はもごもごと口ごもった後、私に問う。
「先生はいつも手袋をつけたまま演奏していらっしゃいますが、何か理由はあるんですか」
彼の疑問に動揺はしない。よく聞かれることだ。いつも通り、用意してある答えを示せば良い。
「手を冷やさないようにしているんです。ですがそこまで真似をしなくても問題ありませんよ。私の」
彼が返事をしようとしたその時、
予令のチャイムが鳴る。彼ははっとして慌てだす。
 「あっ、すみません先生。僕この後移動教室なんです」
私も急ぎ授業の準備をしなくてはならない。彼に頷く。
「分かりました。ではまた明日。待っています」
……っはい!」
 元気よく返事をし教室に速足で戻る彼の背中を見ながら、私はひとり、「母」のことを思い出していた。
 雨ざらしの世界にいた私を連れ出し、教育を施し、ピアノを、与えてくれた「母」……
自分は彼女の真似事をしているのかもしれない。
 沈んだ思考を頭から追い出す。授業の準備をしなければ。



「東雲君、予定はありますか。今週の日曜日」

 東雲君の演奏を見守り、時には指導するようになってからひと月が過ぎていた。この昼休みの時間を待ち遠しく思う程に彼と親しくなり、彼の演奏を聴きながら業務をすることもあった。彼の成長、才能は留まることは知らず、そして自分の指導の限界を感じ始めていた。
 母校の伝手で格安でピアノを指導できる者はいないか探したこともあったが中々見つからず、そもそも東雲君が言っていたように彼の家には楽器を習う程の経済的な余裕はなかった。
 彼に自分を重ねていたのかもしれない、ここまで躍起になっていたのは。
 そして一人だけ、見つけてしまった。
彼の才能を伸ばしうる人物を。

青海卓一。名曲作曲家であり、私の、父親。

 東雲君本人と彼のご両親から了承を得た私は、彼を連れて奥多摩にある父の別荘へ向かった。父はここ数年、殆どの時間をこの場所で過ごしている。仕事も、生活も。都会が肌に合わず喧噪離れた関東山地の東の端まで逃れたのだろう。
 「まさか先生のお父さんがあの作曲家だったなんて……
 行きの電車内で彼がそう呟く。
 「あまり人には話していませんから。特に職場、学校では」
 端的に、そう返す。
 父と最後に話したのは音楽学校の卒業式で、ここ数年は顔も見ていない。良い関係ではない、世間的にも、自分から見ても。東雲君の指導者として父を思い浮かべた際、かなり迷った。正直今も迷いが無いと言えば嘘になる。妄想の強い方だ。果たして彼を正しく導いてくれるか。さらに言えば、引き受けて下さるだろうか……
 「じゃあ、青海先生はお父さんの影響で音楽の先生になったんですか?」
 東雲君が問う。邪気一つ無い、好奇心の問い。
 「……正解です。……半分」
……お父さん以外にも理由があったんですね」
 彼は深く追求せず、納得した顔で車外の景色に目をやる。聡い子だ。彼に話す気もないのに「半分」などと口走る必要なんて無い、しかし彼に嘘はつきたくなかった。深く追求されなかった、いや、しないでくれた彼に感謝しながら、意識を私も景色へと移す。
 そうしている内に最寄りの駅に到着し、歩いて移動する。奥多摩の人の少ない寂しい場所に父の城はあった。
 彼と連れ立って歩く。少しぎこちない歩きに心配になり、視線を彼にやる。彼は手のひらを指でなぞり、手を口元へやる。緊張をほぐすおまじないだろう。私は自分の手を見やる。黒い手袋に包まれた自分の手。この手が視界に入る度に、私を守ってくれる小さな鎧。その手袋に「人」の字を三回書き、彼に習って手のひらを口元へやり空気を飲み込む。彼は私を見ると少しほっとした様子で前を向く。その先には目的地がすぐそこにあった。
 私は先だって近づき、扉を叩く。
 「楓です」
自分の名を名乗る。
 扉が静かに開かれる。見覚えのある年老いた女の使用人が出迎え、我々にペコリと頭を下げる。自分も礼をし、東雲君はそんな私を見て慌てて頭を下げた。
「父はどちらに」
「防音室の方でお二人をお待ちです」
 ありがとうございますと彼女に簡潔に礼を述べ、東雲君を連れて室内へと上がる。迷いなく廊下へと進む。彼はキョロキョロと所在なさげに自分の後を追う。彼女が玄関から動かない様子を見て不思議に思ったのだろう。
「先生はここに住んでいたことがあるんですか?」
「いいえ。ですが心配ありません、部屋の場所は理解しているので」
学生の頃は年に何度か訪れていた、ここは何一つ変わらない。この家はあの人を映す鏡だ。
 足を止める。東雲君は私にぶつかるすんでのところで動きを止める。私の前には扉が一つ。彼に視線をやる。彼もここにあの人がいると理解したようだ。互いに頷いた後、扉へと体を向け、少し身だしなみを整える。扉を叩く。大した音ではないのにここでは何倍も響いて聞こえるようだった。
 「お久しぶりです。楓です」
 私の呼びかけに対する返事はない。
「入ります」
扉を開ける。
 そこに父はいた。グランドピアノの前の椅子に腰かけ、静かにそこにいた。父の視線がゆっくりと我々を捉える。
 「ご連絡していた通り、彼を連れてきました」
私の隣、正確には半歩後ろにいる彼の背にそっと手を添える。彼は自分を見やる、心配そうな顔をしていたが自分が再び頷くのを見て顔をキュッと引き締め、父に向き一歩踏み出す。
 「――私立――中学二年の東雲信造、でございます。青海先生のご紹介で、本日お伺いしました」
かなり緊張しているようだがはきはきと自己紹介をする東雲君を見て心配が薄れる。きっと大丈夫だろう。教え子の姿に自分も勇気付けられ、父に視線を戻す。
 「彼の才能を伸ばして頂きたいんです。家計を理由にピアノを習わないのは音楽の損失です」
私の言葉を聞き、父は東雲君をようやく見やる。我々と父の間にしばしの沈黙が流れる。父は見定めるように東雲君の頭から爪先をじっと見つめていた。そして、椅子から立ち上がり、その横に立つ。
 「一曲、何か弾いてみなさい」
「!」
東雲君は興奮した様子で自分を振り返る。その瞳はきらきらと輝いていた。いってらっしゃい、と口には出さず彼の背をそっと叩く。彼はそうっと、引き寄せられるように父の元へと歩き出す。父は先程まで自分が座っていた椅子を指差し、座れと暗に指示する。彼ははらはらとした様子で椅子に腰かける。美しい曲線が黒光りするグランドピアノ。その存在感、威圧感には私にもまだ息を飲むものがある。そんなピアノを前にした彼の緊張、心の内は計り知れない。彼は胸に手を当て、ふうと息を吐く。つい、私も同じように胸に手をやっていた。父はずっと彼を見つめている。
 東雲君は意を決したように大きく目を開く。鍵盤に指をひたりとつける。そして、その指を沈める。
静けさが均衡を保っていたこの部屋に、彼の繊細な音色が響き出す。あの時、廊下で私の足を止めた音色。それはあの日から少しずつ磨かれていった。
 父を見やる。父は目を見開き、彼を食い入るように見つめている。その目に。顔に。
少し、驚いた。
あんな顔もできるのか。この人は。貴方は。
 東雲君を見る父を見ていると音色は最後の音を名残惜しそうに鳴らしながら消えていった。再び部屋に緊張の静寂が訪れる。東雲君は高揚した様子で力無く鍵盤を見つめている。静寂が続き、父に声をかけようと口開きかけた。しかしそれよりも早く、父が口を開く。
「名前は、何と言ったか」
「東雲信造、です」
彼はどぎまぎしながら答える。父はしののめ、しんぞうと呟き少し考える素振りを見せ、再び口を開いた。
「来週、同じ時間にまた来なさい」
父はそう言い残し、防音室を後にした。
 東雲君は、はくはくと口を動かした後、ぎぎぎと音がなりそうな動きで椅子から立ち上がりこちらへ駆け寄る。
「来週も、って、」
「はい」
ふらりと揺れる彼を慌てて支え、答える。
「また、僕のピアノ、見て頂けるって、こと、でしょうか」
彼はふるふると震え私を見る。
「はい。そういうことです。……やりましたね。本当に」
彼は笑う。微笑んだその瞳にはうっすらと涙が滲んでいた。

 そうして彼と私の二人は別荘を後にした。既に日は傾きはじめており、このまま彼の家に彼を送り届けることにし、駅へ向かう。鮮やかな夕焼けが彼を祝福するようだった。
 帰りの電車は行きよりも人数が少なく、ゆとりを持って座ることができた。慣れぬ場所で慣れぬことをし、かなり疲れたのだろう。東雲君はゆらゆらと船を漕いでいた。
「疲れたでしょう、とても。着いたら起こします。眠っていて構いませんよ」
「はい……
ぼんやりと彼は答える。隣の彼から手元へと視線を移す。明日の予定の確認をしようと手帳を取り出した。
「先生……
「はい」
寝言だと思い、手帳に目をやったまま口だけで返事をする。
「僕、嬉しかったです……あの時、音が、くの、そんし……って……くれ。ぼく……せん……
彼の言葉を受け彼を見る、と、同時に彼の頭がぽすりと私の肩に寄りかかる。少しすると健康的な寝息が聞こえてきた。私はしばらく彼を見つめた。私の黒皮に包まれた手が彼の頭を撫でる。
「おやすみなさい」



 今まで自分はこの別荘に好んで近づくことはなかった。来たところで歓迎される訳ではないからだった。学生のときからずっと。
 ここの景色に目が慣れるごとに聞こえてくる音色は益々磨きがかかっていた。
 「青海先生!」
「東雲君、どうですか。調子は」
 彼はにこにこと自分に近づいて来る。緊張しなくなる程度には彼もこの場所に慣れたようだ。
 「父はどちらに」
「卓一さんは書斎の方にいらっしゃいます、呼んできましょうか?」
「いえ、私も向かいます」
 彼と共に書斎へ向かう。父はなにやら机上を睨みつけているようだった、白紙の楽譜達。
 「卓一さん、先生が来られました!」
「おお、信造戻ったか」
 父は東雲君に微笑みを向ける。本当にここに来てからはじめてのことばかりだ。父のこんな顔を見られる日が来るなんて。ほのかに胸に灯が生まれる心地だった。
 「私はもう少しやることがある、部屋の外で待っていなさい」
 父の東雲君に対する言葉はまるで親が子に送るような響きがある。彼の、東雲君の優しさ、明るさと才能が父を変えたのだろう。これでは東雲君はまるで自分の弟のようだ。
 二人で部屋を退出し、扉を閉めたそのとき、東雲君は自分に近づき小さな声で話し出す。
 「先生、卓一さんを待つ間、聴いて欲しいものがあるんです」
そう言われ、彼に手を引かれる。親に隠れて悪戯を企む兄弟はこのようなものだろうか。ピアノを置いてある防音室は書斎から離れた場所にある。父と東雲君の音楽教室。しかし今は私と彼の秘密基地へと姿を変える。
 辿り着いた彼は私の手を離し、腰を下ろし、ふうと息を吐く。緊張している?不安から来るものではないようだ。
「最初に聞いてもらうのは、青海先生だって、決めてたんです」
 彼は静かに瞬きをする。まだ幼さが残る指が鍵盤を滑り踊り出す。

 耳に届く音は、
美しい旋律。
風のように自由で。
どこまでも広がる可能性を秘めた構成…………

 最後の鍵盤が沈む。彼の手はそうっと鍵盤から離れ、彼の両膝へ着地する。
「どう、でしたか」
彼の視線がピアノから私へ向けられる。視線が交わる。
 「素晴らしいです。とても」
こういうとき、自分の口下手の所が心底嫌になる。それでも、自分の欠点に甘えてはならない。
「ここしばらく、君の演奏を誰よりも聴いてきました。今日の音色は一番良いものでした、これまでが比べ物にならない程に」
 彼の顔に笑顔が咲く。良かった、本当にそう思った。
 「はじめて聞く曲でしたね、題名は何というのですか」
彼に問うともじもじと手を動かし、視線も手元へ向かう。
 「題名はまだ無いんです……。僕が、作ったんです……
……!」
 これほどまでに彼が成長していたなんて。
 正直、少し迷いがあったのだ。彼の才能がいくら素晴らしいとはいえ、奥多摩の別荘まで通わせていて、私の「こうあるべき」を彼に押し付けていないかと。勉学との両立はできるのか、彼の負担になっているのではないか……
 だが今の演奏と、彼の、笑顔を見ていると。私のしたことは間違いではないのだと。教育者として、母の子として。彼に与えることができたのだと。
若い才能の発芽がこれほどまでに嬉しいなんて、知らなかった。
 手袋を外し、彼の頭をそっと撫でる。彼は驚いた顔をしたがすぐに微笑みが顔に戻る。
「ありがとうございます……!」
 良かった。教師になって本当によ、

 「青海先生の手、暖かいんですね。卓一さんと同じなんですね……

















 それからしばらくして、東雲君は自殺した。



 東雲君は父の別荘で首を吊って死んだそうだ。その日私は部活の大会の引率として遠征に同行していた。大会はまずまずの結果に終わったが、生徒達の後悔のない顔を見るに彼らは全力でやれたのだと。それならば良かったと、少し離れた場所で彼らを見守りながら一人思考を巡らしていた時、同僚が血相を変えて私の元へ駆け寄ってきた。そこで知った。彼の死を。

………………………………何故?

 そう、思った。
 ありえない。
彼は繊細で、人一倍痛みに弱くて。いつもひたむきで。どんなに悲しいことがあろうと。
死を選ぶような子ではないのに。
 私は同僚に謝り倒してその場から奥多摩へ、あの場所へ、父の元へ向かった。
ひどく雨が降っていた。向かう私に対して、水滴は刺し殺さんとする勢いで降り注いでいた。私のことを酷く責め立てるような豪雨だった。傘は意味を成していなかった。雨粒が身体を貫き、衣服の重みを増やし私の足を引っ張る。どうか止めてくれるな。
 やっとのことで別荘に辿りついた頃にはとっくに日が沈む時間であった。酷い雨雲で太陽は隠され、そのことに私は気づかなかった。扉を叩くと同時に自ら扉を乱暴に開け、断りもなく上がり込む。使用人が慌てて手ぬぐいを持って近づいてきたが結構です、と彼女の顔も見ず。私が見つめる先はただ一つ。
 「父さん!」
 父は書斎で楽譜を書いていた。父は体も顔も動かさず、部屋に侵入する無礼者に、視線だけを向ける。しかし私と父の目は、交わっている気など全くしなかった。
 「東雲君が亡くなったと、ここで首を吊ったと聞きました」
挨拶もせず、本題に切り込む。父の視線は楽譜へと戻る。
 「何があったのですか、何か知りませんか、何故―――――
声を荒げる私に父はただ一言だけ、
「帰りなさい」
と。
心地良い声。これが私を拒絶する声でなければどれほど良かっただろう?。
私を見る気配は無い。私よりも、東雲君の死よりも。父は白紙の楽譜を埋めることの方が大切なのか。
私は何か言おうとして、辞めた。こうなったら、もう、私の言葉なんて聞いて下さらない、と、思った。
それから父の元へ何度も通い、何度も問いかけた。しかし父が私の声へ耳を傾けることは決してなかった。まだ庭に潜む蛙の鳴き声の方が父の気を引いていた。そしてついに、別荘の戸さえ開かなくなった。使用人も皆解雇されてしまったようだ。
 何故、どうして。東雲君が死んでしまった訳を、貴方が本当に知らなかったとしても。
私はせめて、貴方の気持ちが知りたいのに。
ただそれだけを。
たったそれだけすら、私には与えて下さらないのか。

 そうして、別荘の戸が開くことはないと悟り、帰路を辿る。電車は私を決められた通りに運ぶ。最寄り駅で下車すると、人々の営みの賑やかさが私を包む。その日は太陽が既に傾きかけていて、青空に朱色がほのかに滲んでいた。雑音に塗れた世界を歩き続ける。とある電気屋の前を通り過ぎた。すると私の耳ににある広告のラジオ音声が流れてきた。店先に置かれてある最新ラジオの方を見やる。割引の札が貼られていて、少し人が集まっている。今、確か。
 「口笛の少女」、と。
今をときめく若手女優、大江杏が主演を務めているその映画。
 そういえば、父が監修したという映画も、そんな名をしていたような。
 私はその広告に導かれるように、そのまま劇場へと足を運んだ。父は劇中歌の童謡を楽曲提供し、大江杏へ音楽指導を施したという。東雲君が亡くなった時、丁度その仕事をしていたはずだ。父の気持ちが言葉として知ることができなくとも、音楽ならば。音楽家の気持ちは音楽からなら知ることができると思った。
愚かにも。
 劇場は人で溢れかえっていた。親子連れ、若い学生、老夫婦……。子供の無邪気な笑い声が走り回る。人の多さと彼らの笑顔で戦後の復興をまざまざと体感する。指定された番号の扉を開け、自分の券に書かれた席を探す。後方に自席を見つけ、腰かける。
 そうしている内に劇の幕は上がる。観劇は学生の頃以来だ。
映画が始まる。
嫌な汗がつうと、体のどこかを駆けていった。
スクリーンいっぱいに少女が駆け回る。舌っ足らずな喋りが愛らしい。幼さの残る彼女が妖艶に微笑む。口をすぼめる。
そして
その童謡を、口笛、を、ふ、く………………………






ああ…………

手が震える


みみにとどくおとは













うつくしいせんりつ

『最初に聞いてもらうのは、青海先生だって、決めてたんです』

かぜのようにじゆうで

『どう、でしたか』

どこまでもひろがるかのうせいをひめたこうせい

『題名はまだ無いんです……。僕が、作ったんです……








 その日どうやって自宅に帰ったか覚えていない。


 私は東雲君のご両親の元を訪ねた。お二人の顔を見るのは彼の葬儀以来だった。葬儀の際、特に彼の母君はひどく顔色が悪く、途中離席をしてしまい、彼女らに話しかけることができなかった。急な来訪を出迎えてくれた二人は私の顔を見るなり、
「先生、まずは上がってください。先生もお疲れでしょう」
と、声をかけてくださった。少し肩透かしを食らった気分だった。どんなに罵倒されても、頭をはたかれようが構わないと覚悟を決めていた。ご厚意を断れず、家に上がる。ふと、玄関にある鏡が視界に入る。成程。ひどく顔色の悪い男がそこにいた。罵倒する気も、叩く気にもなれないような男だった。
 客間に通され、お二人と向かい合う。私は床に手をつき、頭を下げる。
「この度は、誤った指導を行い、その結果、ご子息を死なせてしまい、誠に申し訳ございませんでした」
頭をさらに深く下げる。お二人の顔は見えない。見ることができない。
 がたり、と机と机上の湯飲みが揺れ動く音が静寂を破る。
「先生、そんな、顔を上げてくださいっ」
どちらともなく、声が上がる。
「先生のせいではないんです、お願いです、そんなことしないでください」
優しい方達だ、と思う。
「私が青海卓一を息子さんに紹介したのは紛れもない事実です。申し訳ありません」
これ以上、この人達の優しさを汚したくない。
 お二人が動く気配を感じる。とすぐに自分に駆け寄って来られた。
「信造はいつも言っていたんです、青海先生のおかげでピアノができてるって、最近毎日がすごく楽しいんだって
背中に、頭に、温もりを感じる。
抱きしめられている。
「私達じゃあの子に楽器を触らせてやることなんてできなかったんです」
ピアノに触れなければ彼は死ななかった。
「あの子は幸せでした」
幸せの対価が死であっていいはずがない。
「先生、」
私は。
「誰も悪くないんです」

誰も悪くなかったら。どうして誰も涙を止められないのだろう。
だからやはり。私が一番悪いのだ。
 
 頬を、畳を濡らす私を二人は抱きしめて共に泣いて下さった。
せんせい、ありがとうございます、せんせい、あのこをしあわせにしてくださってありがとう。
 東雲君はさぞ、愛されて育ったのだろう。この温もりが彼を形作ったのだろう。この温もりを私は知っている。「母」の温もり。
愛されて育ち、類稀なる音楽の才能を持って生まれてきた。

……愚かだ。私は。

彼は、最初から全て「持っていた」じゃないか。

私と違って。


 青海卓一。
私の父親。
寡黙で。静かで。内的で。
ひどい父親。
でも。

綺麗な人…………………………………

『青海先生の手、暖かいんですね。卓一さんと同じなんですね……
私は彼の手のひらの温もりなんて知らない。この体のどこにも父の体温を知る場所は無い。「母」からの愛を受け取る度に、父を思った。楓と名前を呼んで、頭を撫でてくれたら。それだけで良かった。水かきを嘲笑した名前でも、貴方の美しい声で呼んで。猫を殺した手でも、美しい音色を奏でるその手のひらで撫でて。貴方から欲しかった。
 私の手。五本の指の間に張る四つの水かき。ピアノ奏者には向かない手。父はこの手を見てさぞ失望したのだろう。ただでさえ酒の勢いで作った望まぬ子だとはいえ、音楽家の自分の息子の手がこんなもので。だから楓と。蛙のような手だと。
 ずっと父を見てきた。父を知ったその日からずっと。冷たく、音楽を愛し音楽に全てを捧げた人。
父は、私の。

あの微笑み。彼を見つめるあの瞳。
冷たい人ではなかったのですか。家族に見向きもしなかったその目を。どうして彼に向けているんですか。

音楽教室の首吊り死体とあの口笛。
何故彼から曲と命を奪ったのですか。家族を顧みず、音楽に全てを捧げていた貴方が。どうして中学生から盗作したのですか。

私は、貴方をずっと。貴方に、ずっと。

 父は別荘の戸を決して開きはしない。私はずっと扉の前で蹲っている。コレが教師の姿か?生徒に嫉妬し、あまつさえその子を殺した殺人鬼に焦がれ続けて。なんて醜い。それでも、扉に縋り、叩き、ただ貴方を呼び続ける。お願いします。真実をください。たった一度だけでいい。人生で一度だけ。

私に与えてください。

お前なぞ早く死んでしまえと、甘い囁きが脳に響く。早く。生きていていい訳がないのだ。こんな人間が。

だから本当が欲しいのです。理由が欲しいのです。

はやくらくになりたい。


 父が死んだ。風邪をこじらせて、一人寂しく逝った。音楽家が、なんともあっけない最後だった。葬儀は身内のみの静かなものだった。「口笛の少女」により一般大衆にも名を広めた父だったが、その後は曲を作ることもなく業界から姿を消した。そんな父のあらぬ噂を囁く者達は少なくなかった。いや、確かに何かがあった。あったからこそ父は全てから逃げ、孤独と共にあの世へまで逃げおおせた。一つの音楽と一人の命を奪って得た名声は。父には背負いきれなかったようだ。
 父の訃報を知ったとき、涙は出なかった。そして、私にはもう。真実を知ることはできないのだと理解した。
 父の別荘はかつての整えられた音楽家の家ではなく、過去の罪からの妄想に苛まれる老人の家だった。手入れされていた庭の植物達は均衡を崩し小さな森を作っている。磨かれた床は埃と虫が舞い、窓は汚れを介してでしか外界を知ることができない。書斎は荒れ、机の上には灰皿から溢れんばかりの煙草の吸殻があった。音楽教室にはただ一枚、「口笛の少女」の楽譜のみが譜面台に置かれていた。父はどんな気持ちでこの曲を奏でたのだろう。私にはもう分からなかった。父のことが。

 遺品整理の際、父の眼鏡を手に取った。細い黒縁の丸眼鏡。レンズはさして分厚くないそれをかける。度が弱いとはいえ初めての感覚に少しクラりとする。これが、父の景色。黒縁に視界が少々歪んだだけでさして何も変わりはしなかった。同じ物を身につければ父になれるといった、くだらない希望は風の前の砂のように吹かれていった。
 私を教え導いた「母」。私がずっと欲しがった父。二人の本当の子になりたくて音楽教師を志した。私の愚かな夢のせいで一人の天才少年は死んだ。

 私は結局、父の過ちの、子を成すことで父に取り入ろうとする浅ましい人間の腹から生まれ落ちた、醜い蛙の子に過ぎなかった。