スマホのアラーム音で目が覚めたカバキは、時間を確認して、うわっと声をあげた。
「トガシさん、もう7時すぎてます。いつもよりだいぶ遅い
……」
布団に潜り込むように隣で眠っていたトガシに声をかけると、片方だけ半目を開けて、また目を閉じたかと思うと腕が伸びてきて抱きしめられる。狭いシングルベッドの中なので逃げ場がない。
「ちょっと
……」
「いいじゃん、今日お休みだし」
「そうですけど、ジョギングいかないと
……」
「寒いし
……布団にいようよ
……」
「ちょっと、トガシさん
……昨日さんざんしたでしょ
……」
「ジョギングよりこっちがいい」
頬を撫でられた手で頭を引き寄せられて、唇を重ねる。
「んッ
……もうゴムないですって
……」
「じゃあ、キスだけ
……」
「で、終わらないでしょ
……」
悪態をつきながらも素直にキスを受け入れてしまう。トガシの手が体をまさぐってくるのに合わせて、カバキは自分の足をトガシの足に絡めた。
ジョギングを諦めようと思った今朝は、確かに寒い。年も明けていくつかすぎた週末だった。
最初の頃は体を重ねても、目が覚めた時に記憶が戻ったらと考えて一応お互いに自室で寝ていたが、それも何度かすると面倒になってそのままどちらかのベッドで過ごすことが多くなってしまった。
一緒に暮らし始めたときには年を超えるとは思っていなかったので、カバキはすっかり馴染んだこの生活にこの頃は違和感がないことを不安に覚える。すっかり慣れてしまった。記憶を失ったトガシにも、それを受け入れている自分にも。
結局散々抱き合った後にシャワーを浴びたので、すでに9時近い。カバキは濡れた髪の毛を拭きながら、リビングのテーブルでコーヒーを淹れる。
「いい匂い」
トガシの声がしたと思うと、後ろから回ってきた腕がお腹の前で組まれて背後から抱きしめられる。肩口からトガシが覗き込んでくるので、カバキの頬が少し濡れた。
「ちゃんと髪乾かしてくださいよ」
カバキは後ろから抱かれたま、自分の頭を拭いていたタオルを、器用にトガシの頭にかけてやる。
「カバキくんだって濡れてるじゃん」
チュッと音を立てて頭にキスをされる。そのまま耳を軽く食われて、カバキは身をよじる。
「コーヒーこぼすんでやめてくださいってば」
「耳弱いもんね」
ふふっと笑われてうなじにキスが落ちてくる。
「さっきまで散々しましたよね
……?」
「いくらしても足りないんだよね」
不思議、と言いながらチュッと音を立てて首にキスが落とされる。
「今日は買い物いきますからね」
「わかってるよ。トーストにする?」
名残惜しそうに背中から離れたトガシが食パンを手にしてキッチンに向かう。
「目玉焼きもつけてください」
幸せすぎてこそばゆくなる朝も、既に数えるのはやめた。
――これはこれで、幸せなんかな。
珈琲を淹れ終わったカバキはキッチンに行き、仕返しとばかりにトガシの背中に抱き着く。
「トガシさん」
「わかってるよ。半熟ね」
フライパンを持つトガシの肩に顔をうずめる。
「火傷してもしらないよ」
「気を付けてください、トガシさんが」
「
……どこ触ってるの?」
カバキはトガシのシャツをたくしあげて腹筋を撫でる。
「良い感じになってきましたね」
「誰かさんに鍛えられてるからね」
「
……薬局かコンビニ、寄りましょうね」
「
……カバキくんも足りなかった?」
「俺、若いんで」
「たった4歳差でしょ
……」
振返ったトガシがムッとした顔をするので、カバキは笑って顔を寄せる。
「4歳差はでかいんですよ」
カバキは、まだ何か言いたげな唇を自分のそれで塞いでやった。
「調子よさそうだな、樺木」
「あけましておめでとうございます、海棠さん」
年が明けて初めて会うので、カバキは海棠に新年の挨拶をする。
「おう、おめっとさん。トガシはどうだ?」
「そろそろ調整に入れるくらいには復活してると思います」
「そうか」
海棠が微笑む。海棠も間違いなくトガシの復活を期待している。あの人の復活を待っている人は多いだろう。
カバキだって復活してほしい。復活してほしいが
――。
「記憶失っても走れるのか?」
「たぶん、大丈夫じゃないですか?トガシさんですし」
たしかにな、と海棠が笑う。
「小宮のとこと調整してやるから、一回連れてこい。一緒に走ったら思いだすんじゃないか?」
海棠もそう思っている。きっとそう思っている人がたくさんいる。本気で走れば記憶が戻る
――と。
でも
――戻らないかもしれない。
それでもいい、とカバキは思っている。今のままのトガシでもいいのではないかと思い始めた。
前と同じようには走らないかもしれない。前のような陸上に対する情熱はないかもしれない。
それでも、今のトガシが満足できるならいいのではないかと思う。
「そですね
……今度、連れてきます。日程調整させてください」
夢から覚めるのか、夢が続くのか。
「樺木」
呼ばれて振り向くと、海棠が腰に手をあてている。サングラスの奥の瞳が何を言いたいのかは見えない。
「
……現実を見ろよ、樺木。お前も掬われるぞ」
「
……ご忠告感謝します」
もう、遅い。とっくに夢に足を取られてる。
――大丈夫。
カバキは自分に言い聞かせる。あの時覚悟を決めた。たとえ夢から覚めたとしても、自分には陸上がある。夢が覚めないなら
――それでもいい。それくらいには、もう今のトガシはカバキにとって大きい。
だがどちらがいいか、と問われたらわからない。
早く帰ってトガシに会いたい、とカバキは思った。
「全力で走るの?」
「はい、そろそろ足の調子も問題ないと思うので、一度本気で走ってみたほうがいいかと」
今後の調整もあるので、とカバキが言うと、ご飯を口に運んだトガシは丁寧に噛んでから、口を開いた。
今夜は和食である。トガシの用意してくれた夕食を一緒にリビングのテーブルで対面食べる。すっかり慣れた日常だが、カバキの楽しみの時間の一つだった。
「別にいいけど
……その
……小宮選手だっけ?その人まで一緒に?その人凄い人じゃなかったっけ?」
「現状日本一ですね」
カバキは頷いてぶりの照り焼きを一口大にして、口に運ぶ。
「やっぱりトガシさんの作るぶりの照り焼き、美味しいですね」
「だよね。簡単なレシピなんだけど、すっかり覚えたよ」
出汁にこだわってるんだよね、とトガシが自慢げに言うので、カバキは微笑んだ。ぶりの照り焼きはトガシがこの家で夕食を作るようになってからの十八番料理の一つだ。
「で、その凄い人まで来てもらうって、大変じゃない?」
「まぁ、いまオフシーズンなので、そんなに、っていうのと。海棠さん
……うちの事務所の人が、なるべくあの時と同じメンバーのほうがいいんじゃないかって」
「僕が記憶失った日?」
カバキは頷いて味噌汁の碗に口をつけた。
「それって、僕が思い出す確率をあげるため?」
「
……まぁ、そういう気持ちもあるかもしれませんね」
なんとなくトガシの顔が見れない。カバキはもう一度碗に口をつけて視線を避けた。ゆっくりと碗をテーブルに置く。
ふーん、とトガシは変わらない顔でぶりの照り焼きを口に含むと、白米を続けて放り込む。咀嚼して、ぶりの照り焼きを箸で切りながら、トガシは口を開いた。
「
……その小宮選手って、僕と関係深いんだっけ?」
魚を口に運ぶトガシの視線は食卓に落ちたままだ。カバキも飯碗の中の白米を丁寧に集める。
「なんでも、小宮選手に走り方教えたのトガシさんらしいですよ」
「へー。それで日本一になっちゃってんの?」
「それもインハイデビューでそこから学生無敗、そのまま日本の代表選手としてずっと第一線です」
「
……それって、昔の僕、どんな気持ち?」
味噌汁の碗を持ちながらトガシが聞いてくる。
「自分に聞いてください」
「覚えてないからなー」
碗を置いたトガシは、首後ろを撫でながら視線をあげた。
その後のインターハイでも、社会人になってもトガシはずっと走り続けている。トガシの気持ちはトガシにしかわからないだろう。
「走るのはいいんだけど
……思い出しちゃうかもね」
トガシもそう思うのか。やはり体が覚えているのかもしれない、とカバキは思った。
「思い出しても忘れないでいてくれるんでしょ、トガシさん」
トガシは手を止めて一度箸をおくと、腕を組む。
「カバキくんのことは忘れないけどさ
……もし万が一、思い出して、この期間のこと忘れたら、僕はどこにいくのかなって。全く消えちゃうのかな」
カバキは飯碗と箸を持ったまま止まる。
――今のトガシの存在が消える。
「それは
……嫌ですね」
「あ、そう思ってくれる?」
少しふざけたように首を傾けて伺ってくるトガシに、カバキは真剣な気持ちで見つめ返した。
「当たり前です。俺のこと好きだって言ってくれるのは今のトガシさんですから」
ふっと笑ったトガシが目を伏せる。
「大丈夫だよ。カバキくんを好きだって気持ちは絶対なくならないよ。たとえ僕がいなくなっても、絶対」
「
……すごい自信ですね」
「毎晩夢みさせてやるから。カバキくんの」
「怨霊みたいじゃないですか」
笑って言ったカバキだが、すぐに笑顔を引っ込めて顔を伏せた。
「トガシさんが
……いなくなるのは嫌です」
「
……それって、どっちの?」
答えられなくて、カバキは下唇を噛む。
「ごめん
……いじわるだったね」
トガシはそういって、再び食事を続けた。そのまま、二人とも食べ終わるまで無言だった。
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タイムリミットはもうすぐです。
次回予告「小宮君がほぼ空気」でお送りします。
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