求められる事が増えたが、カバキは拒否しなかった。さらに言えばカバキの方から求める日も増えた。少しでも多く繋がっていたいと思ったからだ。それはトガシも同じようだった。予定の日が近づくにつれ不安が募り、それは顕著になった。ほぼ毎日体を重ねている。トガシも何も言わずにいてくれる。走ったら記憶が戻るような不安をトガシも抱えているのかもしれない、とカバキは思った。
「走らないと、ダメかなぁ
……」
カバキの中に熱を出したトガシが、そのままカバキの胸に抱きついたまま動かなかったと思うと、ぽつりとそういった。
「
……やめます?」
カバキはトガシの頭と首に手を回し抱きしめる。
「いいですよ、やめても。走らなくてもいいですよ
……」
耳元で囁くと、体を僅かに起こしたトガシに耳たぶを食まれる。
「
……そんな心にもない事言わなくていいよ。大丈夫、前に言ったからね、走るって」
トガシの右手がカバキの左頬を包む。耳元にキスが落ちて、頬に、唇に、何度もキスが落ちてくる。
体に回ったトガシの左腕がきつくなる。カバキもトガシの背中に両腕を回し力を込めた。
「遅かれ早かれ、走ることになるよ
……なんとなく、わかるんだ」
トガシがキスを落としながら、ぽつりぽつりと言う。
「もし、記憶が戻って、僕がいなくなったとしてもさ
……」
耳元で囁かれると、カバキは吐息をついて眉を少し寄せた。
「戻らないかもしれないですよ
……」
「たとえ話だから」
「好きじゃないです、たとえ話は」
トガシはゆっくりと上体を起こして、見下ろしてくる。
「聞いて、カバキくん。もし僕がいなくなったとしても
……そのまま好きでいてね」
優しげに微笑むトガシに、頬を撫でられる。カバキは眉をしかめた。
「なに言って
……」
「記憶が戻った僕のこと、諦めないでね。絶対大丈夫だから。今の僕がこんなに好きなんだから、ぜったい記憶を失う前の僕も、カバキくんのこと大好きになるよ」
「それは
……どうですかね?」
そんな現実は想像できない、とカバキは目を伏せる。
「絶対大丈夫、絶対好きになるよ」
大好きだよ、と自分に言い聞かせるようなトガシの声を聴きながら、カバキは頬を撫でるトガシの手に顔をうずめる。
「じゃあ、トガシさんも
……今の、トガシさんもいなくならないでくださいよ。俺、今のトガシさんがいなくなるのも嫌です」
「わがままだなぁ
……」
どっちがですか、とカバキが言うと、ふふっとトガシは笑う。
「記憶、戻らなくてもいいです。戻るなら、今の記憶もちゃんと残しといてください。でなきゃ恨みます、一生」
「そうしたいところだけど
……」
トガシの手をずらして、カバキはトガシの顔を見あげる。トガシはやさしく笑っているが、一瞬、泣きそうだと思った。
「カバキくんが好きになったのは記憶を失くす前の僕だもんね。ちゃんと返してあげるからね」
何故そんな言い方をするのか。カバキは少し怒りがわく。
「そういう言い方、やめてください。どっちも、俺が好きになった同じトガシさんです。昔も、今も」
眉を下げて笑ったトガシは、やっぱり泣きそうな顔だと思った。
「変なこと言ってないで、もう一回、してください」
カバキはトガシの腰に足をからめて、首に抱き着いた。
「いいけど
……優しくできないかも」
冗談めいた声でトガシが抱きしめてくるが、その腕が痛いくらいに強い。
「優しくしてほしいなんて言ったことないですよ
……俺が満足するまでやめないでください」
トガシの唇を食べるようなキスをして、どこからどこまでが自分の舌かわからなくなるまで絡めた。
トガシが走る日がきた。
クサシノの練習場に特別に招き、海棠が小宮を呼んであの日
――昨年の日本陸上の決勝戦とほぼ同じメンバーで走る。
カバキは、家の中を一通り確認した。たとえトガシが記憶を戻して帰ってきても、問題ないだろうかと考える。
そんなカバキを見て、トガシも何も言わなかった。
お互いに言わないが、今日、何かが変わるような気がしている。記憶が戻るのか。それとも戻らないままなのか。
わからないが、何かが変わると確信している。
「
……じゃあ、いきますか」
カバキがリビングに置いていた鞄を持ち上げると、じっとトガシがこちらを見ているのに気づく。
「
……どうしました?」
「目に焼き付けとこうとおもって」
トガシが蕩けるように微笑む。
「忘れないように」
「トガシさん」
カバキは荷物を落として、トガシに近づくとその顔を両手で包んで、睨みつけるように視線をあわせた。
「忘れちゃダメですからね。絶対覚えててくださいね」
でなきゃ恨みます、とカバキが伝えると、頬を包んでいる両手をトガシの両手が掴む。
「忘れないよ。絶対忘れないから、大丈夫」
カバキは押し付けるように唇を重ねた。
「
……遅刻しちゃうよ、カバキくん
……」
――これが最後かもしれない。
言葉にしたくなくて、カバキはただ唇を押し付ける。優しく受け止めるトガシの右手が頭を掴み、左手が強く背中を抱きしめた。
「絶対、忘れないでくださいね
……」
唇を離して鼻を触れ合わせたまま囁く。
ふっとトガシが笑う。
「忘れたら、思い切り殴っていいよ」
「タマ蹴りつぶしてやりますから」
こわっ、と言ってトガシが苦笑する。どちらからともなく唇が重なった。
「
……行こうか」
「もう一回だけ
……」
カバキが請うと優しいキスが落ちる。
あと三回の「もう一回だけ」を繰り返して、時間切れになった。
「よぉ、トガシ」
「あ
……っと、はじめまして
……じゃないですね?」
海棠に挨拶されたトガシは引きつった笑顔で頭を掻く。
「樺木ィ、俺のことまで忘れてんじゃねーか」
「会ってなかったから当然ですよ」
「なんでちゃんと説明しとかないんだ」
不満を言う海棠をいさめながら、トガシとの間に入る。
「同じ所属の海棠さんですよ。最初のころ会ったことあるはずです」
「あの頃は、入れ替わり立ち代わり知らない人が来たからちょっと記憶が
……」
トガシが困った様子でカバキの後ろに隠れる。
「記憶
……ほんとに戻ってないんだね」
じとっとした目で海棠の背後から現れた天然パーマの髭が生えた男に、トガシがびくりとする。
「えっと
……こ、小宮選手、でしたっけ
……?今日は、お忙しいところすみません
……」
トガシがぺこりと頭をさげると、小宮が目をひんむいた。そんな顔もできたんだ、とカバキは驚く。
「お、小宮。お前そんな顔できたんだな」
思ったことをそのまま海棠が言った。
「まぁ、とりあえず走ってみっか。記憶が戻っても戻らなくても、いまのトガシの調子がわかるだろ」
ニッと笑う海棠に「はい」とカバキは返事して、トガシにストレッチを促した。
「樺木」
「なんですか?」
「ギリギリまで待ってやったんだ。覚悟決めろよ」
「
……記憶、戻るかわかりませんよ」
「いい加減、現実に目を向けないとな」
離れていく海棠の背中をしばらく見つめたカバキは、手をぎゅっと握りこむ。一つ息を吐いて、ストレッチをするトガシのもとに向かった。
「まともに走るの久しぶりなんで、よくストレッチしてくださいね」
真冬なのでロングスリーブ、ロングタイツを着たうえに、皆ハーフパンツやウィンドブレーカーを着ている。
「ユニフォームで走れれば良かったけどな」
仁王立ちする海棠から少し離れて小宮がストレッチするのを見る。カバキは、トガシのそばでストレッチを始めた。トガシもカバキと同じ動きをする。
「なんか
……独特な気配の人たちだよね」
「トガシさんも似たようなもんですよ」
「えぇ
……そうなの?」
信じられない、という顔でトガシは腕を伸ばす。
「なんか、走り方とかある?」
「ないです。たぶん、体が覚えてますよ。何も考えずに走ってください」
「何も考えずに
……ねぇ
……」
カバキはトガシの横顔を見つめる。いつもの様子と変わりないように見える。こうしていると、クサシノの練習場に居たときのトガシとそんなに変わらないな、と思った。
――まぁ、なるようになる。
カバキは心の中で自分に言い聞かせる。トガシを促して、ウィンドブレーカーを脱いだ。
「じゃ、いきましょ。海棠さん、小宮さん、お願いします」
二人が頷いて、トラックに入る。
「財津も呼べばよかったかな」
海棠が笑いながらスタート位置に着く。
「決勝に財津さんいませんでしたよ」
カバキは海棠に答えながらトガシをスタート位置に誘導した。
海棠、小宮、トガシ、カバキ。去年の日本陸上
――トガシが記憶を失った日と同じ並び。
「やっぱ、ユニにすればよかったんじゃねーか」
海棠がいいながら、スターティングブロックに足をつけた。
続いて、小宮が、カバキが、最後にトガシがスタート位置につく。
「俺は手を抜けないからな」
「僕も」
海棠と小宮がそう言うと、トガシが怯えた顔で見つめてくるので、カバキは笑った。
「気にせず。そういう人たちなんで。トガシさんは目の前だけみて全力で走ってください」
「
……わかった」
トガシが緊張しているのをみて、カバキは安心させるように微笑んだ。
位置につく。
静寂が訪れる。
全員が耳をすます。
カバキはちらりとトガシを見た。僅かに口元が緩んで、トガシの唇が何か動いた気がした
――途端、号砲が鳴り、体が反射的に動き出す。
トガシが真横に並ぶ。小宮、海棠の背中が見える。
思ったよりトガシが早い。
――この走り
……。
カバキが憧れた背中。
追いかけた背中。
いつかカバキが追い求めた背中がすぐそこにあった。
追いついて、追い越していく。
あっという間の10秒。全力ではないとはいえ、カバキとほぼ同じくらいの速さでトガシがトラックを駆け抜けていく。
「くそう、負けた」
海棠が小宮に負けて悔しそうに言う。小宮は相変わらずの無表情だ。
「トガシ、どうだ?」
海棠が声をかけるのは、走り抜けた先で、立ち尽くしているトガシにだ。小宮も荒い息をつきながら見守る。
「
……トガシさん?」
カバキも息を整えながらその背中に声をかける。心臓が走った後の速さから収まらない。ドクンドクンと耳の奥でうるさいほど鳴り続ける。
振返らないトガシを、じっと3人は見守った。心臓が痛い。カバキは胸元を掴んだ。
トガシが左右を見渡して、ゆっくりと振り返る。
「あれ
……?なんで
……俺
……ここ、クサシノ?」
カバキの心臓がドクンと一度鳴って、音が失くなった。
――俺って言った
……?
「あれ?足は
……痛くない!?あれ、小宮君?俺たち、どっちが勝ったの?」
トガシが混乱した顔で矢継ぎ早に質問を繰り出し、小宮と海棠が駆け寄る。
カバキの頭の奥でパチンと音が鳴る。
長い夢が弾けて壊れた音だった。
⑥へ→
https://privatter.me/page/69ecaa47de7a7
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次回からトガシ視点になります。
次回予告『トガシさん、俺は花粉症じゃないです』でお送りします。
作業用ソング:
Mrs. GREEN APPLE – 点描の唄【LIVE from ゼンジン未到とヴェルトラウム〜銘銘編〜】
→最後の夏を冬に変換して聞いてます。
tuki.『晩餐歌』Official Music Video
→やっぱりサビがいいですよね。何万回の夜を過ごしたって忘れぬような最高のフルコースの夜が二人にあったはず。
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