「ちょ、トガシさ
……」
「もうちょっと」
口腔を弄られるキスは朝のコーヒーの香りが残る。
土曜日だがバイトがあるトガシを玄関先で見送ろうとしたカバキだったが、トガシのキスに摑まった。
手で柔らかくトガシの胸元を押して引き離す。
「遅刻しますよ」
「もう一回だけ、ね」
玄関先の段差のせいで上目遣いで強請られると、カバキの気持ちが揺らぐ。再び唇が塞がれてカバキは困ったと思いながら、胸元に置いていた手でトガシのシャツを掴み、ついしばらくされるがままになる。
「んッ
……トガシさん、ほんとに
……」
これ以上は色んなところが反応してしまいそうになって、カバキが再度体を引き離すと、トガシは少し辛そうな顔をしたあと、苦笑した。
「ごめん
……じゃ、いってきます」
最後に名残惜しそうに頬にキスを落として、やっとトガシが出て行ったので、カバキは壁に上体を預けた。
――困った
……。
どんどんスキンシップがエスカレートしている。あの日、帰り道に想いを告げられてから一週間。あれからトガシは遠慮をしなくなった。今まで我慢していたといいながら、朝も夜も関係なく触れてくるし、キスをしてくるから困る。まだ一線は超えていないが、それも時間の問題だと思われた。
一つ屋根の下に住んでいて、むしろまだ本番まで手を出されていないのは、トガシの気づかいかもしれない。
ずるずると壁に上体を預けたままカバキは沈み込んでしゃがんだ。
――どないしよ
……。
こうなることを望んだのは自分である。触れられることも、キスされることも、全てが正直嬉しい。
ずっと好きだった人なのだ。
トガシの声で好きだという。
トガシの顔で微笑まれる。
トガシの手で触れられる。
トガシの唇でキスをされる。
抵抗しろという方が無理ではないかとカバキは唸る。
だが、今のトガシは本来のトガシではない。明日には記憶が戻るかもしれない。記憶が戻ったらどうなるのか。
今の関係を全く覚えていないのか。
今の関係を知って憎悪されるのか。
今の関係を知ってなお付き合ってくれるのか
――。
三つ目は絶対にないな、と思って溜息をつく。
憎悪されるならまだいいと思っている。それならいっそ諦めもつく。問題は、全く覚えていない場合である。
知らない間に関係をもち、あまつさえストレートに違いないトガシと、男の自分が関係を持っていたなど、トガシにとってはホラーでしかないだろう。カバキにとっても、もはや普通ではいられない。あの手を、瞳を、唇を
――求められる甘さを知ってしまった。今まで通りにトガシと関係するなど不可能だ。
「まずいやろ
……」
このままいけば間違いなくトガシはさらに一歩踏み込んでくる。そうなったとき、自分はどうしたいのか、どうするべきなのか。
だめなのはわかっている。けれど自分にむけてまっすぐ『好きだ』と伝えてくるトガシに、本当のことを告げて引き離すことなどできるだろうか。
「やっぱ、まずいやろ
……」
それでも、まだこの甘い夢に酔っていたいと思ってしまうカバキは、低く唸り声をあげながら顔を両手にうずめた。
「何かから逃げるみたいな走り方してるな」
急に後ろから海棠に話しかけられて、カバキはびくりとした。顎に滴る汗をぬぐいながら振返ると、海棠がいつものサングラスをかけたまま、口元だけで笑っていた。
「そう、ですかね」
クサシノの練習場で会うのは久しぶりな気がした。相変わらず派手な緑色のウェアを着ている。
「トガシは元気か?」
「元気です」
「相変わらずか?」
「ですね」
記憶が戻ってないことを暗に返事する。
「リハビリはわりと順調だと思いますけどね」
「いっぺん、ここに連れてきて一緒に走ってみるか?」
海棠に提案されて、カバキは胸の奥がドロリとして気分が悪くなった。走ったら、記憶が戻るのではないか、という気がしてならない。
本気で走ったら
――あの人は思い出すのではないか。
そうなってほしいのか。このままでいてほしいのか。
カバキは答えられない。
「なんなら小宮も呼ぶか?」
色々と過去にトガシと因縁のありそうな小宮だが、記憶を失った直後の入院先で小宮が会いに来てもトガシは何も思い出さなかった。だが、走ったらどうなるか。
「まだ、本格的に走れるほどじゃないですよ」
「ま、そのうちだな。太らせるなよ」
「それ、俺のせいになるんですか?」
ハハハ、と笑いながら海棠が離れていく。カバキは大きく息を吐いた。まだ、オフシーズンであるし、本格的に走れるようになるにはまだもうすこしかかる。
――まだ、もう少し。
カバキはしゃがんで、トラックを見つめる。あの上に立ったら、あの上で走ったら、あの人と走ったら
――思い出すのではないか。
そんな確信がある。
まだ、夢の中にいさせてほしい。カバキは現実から逃げるように再び走り出した。
「ただいまです」
家に帰ると、いつもならおかえり、とかえってくる返事がなかった。浴室からシャワーの音がする。
浴室にいるようなので、カバキはそのまま室内にあがって上着を脱ぎ荷物を置くと、洗面所の代わりにキッチンで手を洗った。もしかしたらトガシのバイトが残業だったのかもしれない。この時間なら料理をしている事が多いが、その様子もなかった。変わりにテーブルに買い物袋が無造作に置いてある。中はレトルトだったので、なるほど今日は時間がなかったのだろうな、と納得して中身を整理しようと袋からいくつか品物を取り出したところで、カバキは固まった。間違いなく、コンドームとローションだろうと思われる品物が入っている。
「あ、カバキくん、おかえ
……」
風呂上りのトガシが上半身裸のままハーフパンツ姿で髪を拭きながら出てきたが、カバキがレジ袋を見下ろしてるのを見て、慌て始める。
「ちょっ、まっ
……!あ!それダメ
……!」
手を伸ばしてくるが、しっかり見たのでもう遅い。カバキはレジ袋を持ったまま顔だけトガシに向けた。
「トガシさん
……」
「見ちゃったね
……?見ちゃったよね
……」
トガシが気まずい顔で首の後ろに手を置く。
「
……すみません
……」
カバキが思わず謝ると、トガシは視線をさまよわせる。
「ごめんね、まだ帰ってこないと思ってて
……今日、ちょっと在庫の整理で時間オーバーして、汗もかいたから先にシャワーあびちゃってた
……」
トガシはカバキが持っていたレジ袋を受け取って、品物をテーブルに出していく。
「あのさ
……バレちゃったからもう言うんだけど
……」
ゴムの箱をテーブルに置きながら、視線を少しさまよわせるトガシを見る。言いよどむ感じが可愛いな、とカバキは思ってしまった。
何を言われるかなんて、わかりきっている。
「僕は、したいんだけど
……だめかな?」
思わずカバキは笑った。
「
……いつ襲われるかと思ってました」
冗談めかしていうと、トガシは心外だなとわざらしく眉をよせる。
「襲わないよ
……めちゃくちゃ我慢してるけどね」
トガシはレジ袋を畳んでテーブルに置くと、カバキの腰に腕を回して引き寄せた。カバキの腰の後ろでトガシが両手を組むので、腰が密着する。カバキはトガシの胸に手をおいて少しだけ上体を引き離す。
「ダメ
……かな
……?」
熱のこもった視線を向けられて、カバキは顔を背けた。そんな顔で見つめられたらまずい。カバキは体が熱くなるのを感じる。
「
……記憶、戻ってないじゃないですか」
「それって関係ある?」
「あります」
「したことがないから?」
カバキが思わず顔を正面に戻すと、トガシは苦笑する。
「わかるよ、反応みてれば。キスもほとんどしたことなかったでしょ?」
「
……トガシさん、記憶ないんですよね?」
「ないけど、経験値はあるみたい」
「それってずるくないですか?」
やたらキスが上手いので不思議に思っていたがそういうことなのか。バレていたことが恥ずかしくなって、カバキは視線を落とした。
「もしかして、実は
……恋人じゃなかった
……とか?」
カバキはびくりと肩を揺らす。それもバレてしまったとしたら、どうしたらいいのか。
先ほどまでの熱が引いて一気に冷や汗が吹き出そうになった。
逃げたくなって腰を引くと、逃がさないとでもいうように強くホールドされる。
「ねぇ、カバキくん。僕を見てよ」
トガシの右手がカバキの顎に添えられて、無理やり顔を合わせられる。
「ホントのこと教えてよ。なんでそんなウソついたの?」
もうバレているのなら嘘をついてもしょうがない。カバキは意を決して、トガシを睨むように見た。
「好きだから
……でも、見込みなんて一つもなかったからです。ずっと好きでした。でも、ずっと隠してました。トガシさんが俺のこと好きになる可能性なんて1ミリもなかったんですよ。元カノに会ったっていってましたよね。ノーマルだったんですよ。男なんて好きになるはずない。それに、トガシさんは俺のことなんてまったく何とも思ってなかった!」
「それで、記憶がない僕なら、嘘つけば信じると思ったの?」
「思ってないです。思わず言ってしまったんです!まさか信じるなんて思ってなかったし、こんなことになるなんて思ってもみなかった」
顎を掴まれたまま、カバキは強く頭を背ける。
「ねぇ、僕を見てよ、カバキくん!カバキくんを好きなのは、僕だよ。記憶をなくすまえの僕じゃない」
「でも、俺が好きになったのは、トガシさんです。陸上に生きる、トガシさんです。憧れたのも、追いかけたのも走ってるトガシさんです!」
「僕は、トガシじゃないの?」
答えられない。
トガシと同じ顔、同じ声、同じ体。
記憶がなくても同じ人間である。
「走らないなら僕じゃないというなら、走るよ。陸上だってなんだってやるから、だから、僕を見てよ」
両頬を掴まれて顔を戻され、視線をホールドされる。やはり違う、とカバキは目を強く閉じる。トガシは他人のために走るような人ではない。
「カバキくん、今の僕をみて。カバキくんを好きな、僕をみてよ」
「
……記憶が戻ったら?俺とのことなんて忘れますよ。こんなことしてたとわかったら、気持ち悪いって思うに決まってる。今なら俺はなかったことにして耐えられる。でも、体までつながったら俺は無理です。なかったことになんてできない!」
「記憶が戻る保証なんて、どこにもない!」
トガシの腕が背中に回りきつく抱きしめられて、肩口に顔を押し付けられた。髪の毛が顔にあたって自分と同じシャンプーの香りがする。
「一生戻らないかもしれない。たとえ戻ったとして
――忘れない。絶対に忘れないよ。だってこんなに好きなんだ。カバキくんを失うなんて無理だよ」
「トガシさッ
……」
痛いほど抱きしめられて、カバキは思わず声をあげる。
「カバキくんは、記憶を失う前の僕だけが好きなの?今の僕じゃだめなの?」
ずるい、とカバキは思った。その質問にカバキは正解を出せない。好きになったトガシとは
――陸上を軸に生きていたトガシとは、確かに違う。だが記憶がないだけで同じ人物なのだ。求めていた腕に包まれて、同じ声で縋られたら抗えない。絶対に手に入らないと思っていたものが手の中にあって、手放せる人間がいるだろうか。
背中に回っていた腕が解かれたかと思うと頬を両手で包まれる。トガシの黒目が濡れていて、吸い込まれそうだと思った。
「好きだよ、カバキくん。大好きなんだ。キスしたいし、触れたいし、君の全部がほしい。君のことなんて気にかけなかった僕じゃなくて、今の僕を見てよ」
喉が渇く。受け入れたらダメだと頭の奥で警鐘がなる。それでも、カバキにはこの手を離す力がない。トガシの手を振りほどくことも、目を背けることもできない。すべてカバキが望んでいたことだ。その欲望は自分の中にもある。求めていたものが手に入るのに、振りほどくことができるわけがない。
「カバキくん、嫌なら本気で抵抗してよ
……」
唇がトガシのそれで覆われる。嫌なわけがない、抵抗できるわけがない。
――どうせ、夢なんだ。
カバキは薄く唇を開くと、トガシの舌を受け入れる。トガシの背中に腕を回して、しがみつく。とことんまで溺れてしまおうと思った。
貪るようなキスはカバキの思考を毒のように麻痺させた。
④へ→
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さーて次回の『かりそめ。』は?「ますます新婚さんみたい」でお送りします。(まだまだ続きます
…)
いつものトガシとどっちが好きですか?って聞いたら「まちがいなくこっちですね(真顔の冗談)」って言うカバキはいると思います。(横でショックを受けるトガシさん25歳(※当社))。
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