mohu09
2026-04-15 18:27:24
10141文字
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天使が恋をした日

アジラフェルがクロウリーに恋をするお話


 私は罪を犯した。赦されざる罪を。そのことに関しては弁明のしようがない。罪を犯してしまったことは自覚しているし、反省もしている。しかし最早どうしようもないのだ。犯した罪は消えない。この"赦されざる感情"も消えてはくれない。私はすっかり途方に暮れていた。
 それを自覚したのはいつだっただろう。恐らくそう遠くはない日の出来事だ。その時、私が感じた感情は余すことなく覚えている。私にとって、それくらい衝撃的な出来事だったのだ。
 あの日はロンドンらしい酷い曇り空で、シャワーのような霧雨が空から降り注いでいた。空気はじめっと湿っており、吹き付ける風のせいで雨が横殴りに襲いかかってくる。一度外に出れば、全身が濡れてしまうのは必定だった。
 そんな中、私とクロウリーは書店の向かいにあるコーヒーショップに訪れていた。理由は単純。クロウリーが突然コーヒーを求めたから。偶然なことに私も同じタイミングでラテが飲みたくなったので、拒否する理由もなく二つ返事で書店を出たのだ。
 当然ながら外は霧雨とはいえ酷い雨。細かい雫が身体中に吹き付けるものだから、私とクロウリーは小走りでコーヒーショップへと逃げ込んだ。のだが、店内に入った頃には全身びしょ濡れで、到底無事とは言えない状態だった。店主のニーナは少し笑いながら、しかし快く私達を迎え入れてくれて、窓際の二人席へ案内してくれた。
 席に着いた私達はそれぞれお決まりの注文をして、ニーナがカウンターへ向かっていく。外の酷い天気もあってか、店内の客席はまばら。というか、殆ど客がいなかった。周囲に人もいない状態で、私とクロウリーの二人きりの時間が訪れた。
 別に、それは何も特別なことではなかった。書店に居た時は当然二人きりだったし、普段から二人きりになる時間も少なくはない。むしろ多い方だ。違うことと言えば、二人とも身体がびしょ濡れだったということだけか。
「みっともないくらい濡れてるな、エンジェル」
「そう言う君こそ。決まっていた髪型がぐちゃぐちゃだよ」
「俺はこれでも良いのさ。良い男は濡れてなんぼだって人間の本で見た」
「それ、私の書店にあった本だろう? 暇つぶしに君が読んでいるところを見た」
 クロウリーも本を読むのか、と少し意外に思ったのを覚えている。いや、人間の知識に貪欲な彼のことだ。本くらい読むかと納得もした。確か、湖で泳いでいた男性に女性が恋をしてしまう話だ。恋愛小説だったはずだが、クロウリーは案外とそういう系統の話が好きなんだろうか。
「恋愛ものが好き?」
「特には。人間の感情が知れるならなんだっていい。恋愛ものはそういう話が多いってだけだ」
「それは好きって言うんじゃないのかい?」
……そうとも言うかもしれないな」
 クロウリーは少し厳しい表情をして、目線を外に逸らした。特に興味のない話題だったらしい。独特な形をしたサングラスに隠された鋭い目は、何処か遠いところを眺めている。
 彼は興味のない話にはとことん乗ってこない。そういう性格なのだ。長い付き合いだからわかる。そんな時は、話題を切り替えるか沈黙を受け入れるかに限る。今は特に話題もないので、沈黙を受け入れよう。私はクロウリーと過ごす時のこうした静寂も嫌いではなかった。心が穏やかになれるから。
 手持ち無沙汰になった私は、クロウリーの姿をじっと見つめる。綺麗に纏められていた髪は乱れ、ぴったりとサイズのあった漆黒の服は雨に濡れて湿っている。その下の肌が見えそうなくらい。そう思った瞬間、私は原因不明の不整脈に襲われた。心臓が不規則に鳴って、心拍数が上がる。少々息が苦しい。何か身体に不具合でもあったのだろうか、と探るも特に異常はない。心臓が煩い以外には。何も心当たりがなくて、困惑する。何処かでこの症状を聞いた気がしたけれど、それは何だったか。すぐには思い出せなかった。
 当惑する私を、クロウリーの視線が捉えた。彼の眉が顰められたのがわかる。
「どうした、エンジェル」
「いや、なに……ちょっと胸が苦しくてね」
「身体の不具合か?」
「そういう訳でもなさそうで。でも心配しないで。きっとすぐに治る」
 原因もわからないのに治るかどうかなどもっとわからない。だがすぐに治ると告げたのは、クロウリーに無駄な心配をかけたくはなかったからだ。こんな瑣末なことで彼を煩わせたくはなかった。
 私は胸を押さえて、早く治れと念じた。すると不思議と不整脈は治まって、心臓はすぐにいつもの調子を取り戻した。これでよし。そう思うと、気が楽になった。
 クロウリーに向き直ると、店主のニーナが席を訪れた。注文の品を届けに来たのだろう。待ち望んでいたものが与えられて、心が躍る。アガベシロップを混ぜた特製カフェラテに、美味しそうなエクルズケーキ。どちらも私の好物だった。クロウリーの目の前には、大きなマグカップ。中にはまた六杯分のエスプレッソが注がれている。それが彼のお気に入りらしい。
「ケーキ、君も食べるかい?」
……まあ、たまには」
「ふふっ。遠慮なくどうぞ」
 クロウリーの前に皿を差し出すと、彼はゆっくりと手を伸ばしてエクルズケーキを手にとった。そして一口齧ると、うっと呻いて顔を顰め手の中のケーキを見つめる。
「バターの味が濃すぎないか、これ」
「それが良いんじゃないか。嫌い?」
「度がすぎたものは好みじゃない」
 とはいえそう言いながらも、クロウリーは手の中にあるケーキを一口か二口であっという間に平らげてしまった。好みじゃないから早く食べ切ってしまいたかったのか、それとも口ではああ言ったが案外と気に入っていたのか。本当のところはわからないけれど、勧めたものを食べてもらえたという事実だけで私は幸せだった。あのクロウリーが素直に人の勧めたものを食べるなんて、中々ないことだ。雨でも降るんだろうかと考えて、そういえば外はあの有様だったと思い出した。
 私は満足感に笑みを漏らして、カフェラテを口に含む。まったりとしたコクとアガベシロップの優しい甘さが絶妙なバランスで混ざり合ってとても美味しい。喉を潤す甘さに、より微笑みが濃くなった。ニーナが淹れるコーヒーは本当に美味しくて感心してしまう。
「書店の方は大丈夫なのか」
「あぁ。"凄く閉店"にしてあるから大丈夫だよ。お客さんも訪れない」
「お前が何で書店をやっているのか、本当に理解に苦しむよ」
「良いものだよ。クロウリーもやってみたら良いのに」
 そんなことクロウリーがやるはずもないとわかっていて言った。所謂ジョークってやつだ。あまり言ってみたことはないけれど、上手く伝わっただろうか。クロウリーはジョークの達人だからわかってくれるだろう。
 似たようなどうだって良い話をポツポツと交わす。それはいつも通りの展開だった。クロウリーが何かを問いかけて、私がそれに答える。逆の展開もたまにはある。そんな普通のことを続けていたから、私はすっかり油断しきっていたのだ。先程の鼓動の速まりなど忘れて。
 何を言ったかは覚えていない。けれど私が何かを言った時、クロウリーがふっと軽く微笑んでから私の方を向いた。すると途端に笑みを消して、じっと熱い視線でこちらを見つめてきた。何だろうと首を傾げた瞬間、彼は腰を少し上げて向かいの私の席の方に身体を前のめりにさせ、顔をずいっと近付けてきたのだ。驚きに身体が固まる。クロウリーの顔が近い。
「失礼」
 クロウリーは囁くように呟いて、私の額にその細い指を伸ばした。そして額を優しく指先でそっと撫であげてから、そこに張り付いていた髪を払う。彼はうん、と満足気に頷いて元の席に戻って行った。私は何が起こったのかわからなくて、呆然とするだけだった。
「雨で髪が張り付いてた。そのままじゃみっともないだろ?」
 そう言ってクロウリーが微笑んだ瞬間、どっと心臓がその鼓動を速めた。また胸が苦しい。今度こそ呼吸ができなくなりそうだ。
 どうして、こんな。困惑に振り回されながらも思考を巡らす。今、クロウリーに髪を払われた時私は心臓が止まってしまったかのように感じていた。あの優しい手つきで額を撫でられた瞬間に、呼吸が止まった。
 そう、あの指だ。細くて冷たくて、けれどどこか温かみを感じる指先。あのひんやりとした指先が額に触れて私は胸が高鳴ったのだ。そしてその時視界に映ったのは、いつもとは違う崩れた髪型をしたクロウリーの姿とその彼の濡れた身体だけ。そして、サングラスから透けて見える細い瞳孔。それだけが私の視界を埋め尽くしていた。それ以外何も感じられなかった。
 つまるところ、私はクロウリーに胸を高鳴らせてしまった。彼以外何も感じていなかったのだから、そういうことだろう。また鼓動が速まる。人に、というか誰かに胸を高鳴らせてしまうという行為は、何というのだっけ。必死に記憶を辿る。本や映画、味わってきた人間の娯楽というもの全てを思い出す。
 そうだ。"恋"だ。恋や愛とやらは、人の鼓動を速めてしまう。それは間違いない。正しい知識のはず。では、今のは。今の現象は、恋によって引き起こされた現象だというのか。
 恋? 私が、クロウリーに? そんなことあるはずがない。大体、いつから? わかりもしないのに、恋だなんて言えるものか。そう思うのに、恋という思考が離れてくれなかった。だって、胸が高鳴ったのは事実だから。もしも、本当に私がクロウリーに恋をしているのなら。それは赦されざることだ。私とクロウリーは天使と悪魔。天使が悪魔に恋をしてしまうなんて、あり得ないこと。罪を犯している。
 あぁ、なんてことだ! 私は罪を犯してしまった! 罪を認識した途端唐突に実感が湧いてきた。そうだ。私はクロウリーに恋をしている。あの細い身体と燃えるような髪、黄金に輝く瞳を見ていると、胸が苦しくなる。そんな感情、天使が抱いていいはずもないのに。
 いつからかなんてそんなこと、思い出せやしない。恋なんてそんなものなのだと何処かで読んだ。記憶力は良いはずなのに、覚えてはいられないものなのだなと冷静に思う。
 問題なのはいつから恋をしていたかではなくて、恋をしてしまったこと自体が問題なのだ。悪魔の誘惑――誘惑されていたかなんて知らないが――に心堕とされてしまうだなんて、天使失格である。だがこれは事実だ。私は天使としてあるまじき罪を犯したのだ。
 自分が信じられなかった。クロウリーに恋をしているなんて。思ってもみなかったのに、そう考えると何故か腑に落ちてしまう。だが、まだ胸は苦しい。鼓動が速くて息が詰まる。胸を押さえて呼吸を荒くしている私を、クロウリーが怪訝に見つめる。
「どうした、アジラフェル」
 その低く甘い声で名前を呼ばれて、余計心臓が高鳴った。追い討ちをかけないでくれ、と思う。
「あぁ、いや……なんでも、ないんだ。気にしないで」
 無理がある言い分だとは思ったが、それ以外に返す言葉がなかった。私は自分の中に溢れ出す感情を整理するのに精一杯で、もう他に何か考えることなどできない。これ以上罪を犯したくはないのに、クロウリーの声を聞いただけで胸がいっぱいになる。もう何も感じたくないし聞きたくなかった。
 それから、どうやってクロウリーと別れて書店に戻ったのかは覚えていない。唯一わかるのは、私はあの時罪を犯してしまったということだけだ。それが赦されることなどない。
 想いを自覚してから、本当に長い間クロウリーとは会っていない。電話が来ても無視していたし、当然こちらから連絡するようなことはなかった。会えるはずもなかったのだ。恋心を自覚して、まともにクロウリーと話せるほど私は恋に慣れてはいない。なにせ初めての経験だったから。
 今になって思うと、前兆はあった。自覚する前兆は。あの日のように胸が苦しかったり、クロウリーばかりを目で追ってしまったり、彼のことばかり考えていたり。それを自覚し始めていた。いつから始まっていたかまではわからないが、その感情自体はあの日に始まったものではないことはわかる。
 はぁ、と私は溜息を漏らしながら紅茶を飲む。味なんてさっぱりわからなかった。あの日からずっとそんな調子だ。楽しかった地球の食事もすっかり喉を通らない。服が少し緩くなってきた気がする。
 どうするのが正解なんだろうか。あれから恋愛小説を読み漁ってもみたが、正解らしいものは見つからなかった。皆それぞれ結末が違う。恋が実ったり、失恋したり、それでも新しい恋を見つけたり。もしかすると、恋に正解などないのかもしれない。それでも、今私が求めているのは恋という感情に対する"回答"だ。どう対処すれば良いのか。クロウリーとどう接していけば良いのか。それがわからない。
 はぁ、ともう一度同じような溜息を吐いた瞬間だった。
「アジラフェル!」
 書店のドアが乱暴に開かれ、酷く聞き馴染みのある怒号が部屋中に響き渡る。私は紅茶を取り落としてしまいそうなほど驚いて、思わず席から立ってしまった。玄関のドアの前に立つのは、肩で息をして怒り心頭といった様子のクロウリー。あぁ、まずいと思った。
「クロ、クロウリー! どうしてここに!」
「どうしてもこうしてもあるか! 32回だぞ!」
「はっ?」
「電話を無視した回数だ! もう我慢ならん! 何があったか聞かせてもらう!」
 どすどすと音を立てて、クロウリーが詰め寄ってくる。私は慌てて紅茶を机の上に置き、手を前に突き出して彼を拒絶する意を示す。だが、それはクロウリーには通じなかったようだ。前に突き出した腕は簡単に振り払われて、顔と顔が引っ付いてしまいそうなほど近付いた。サングラスの下にある黄金の瞳がよく見える。また胸が痛い。これ以上は無理だ、と思う。
「何があった。全部聞かせろ。一つ残らずな」
 こうなることを予想していなかったわけじゃない。クロウリーが書店へやってくるということを。しかし、流石にこんな風に威圧的に詰め寄られるとは思っていなかった。私は現状を楽観視しすぎていたようだ。
 クロウリーの鋭い視線が突き刺さるようで痛い。顔をゆっくり逸らすも、その視線は逸れてくれていないのをじんわりと肌で感じた。顔が近い。胸が苦しい。まともな言葉なんて紡げる訳がない。だって私はまだ想いを自覚したばかりなんだ。
……お願いだ。それ以上、近寄らないで」
「なに?」
「む、胸が苦しい」
 怪訝な表情で、クロウリーが口を噤んだ。おかしなことを言った自覚はある。けれど、それが私の本心だったのだ。これ以上近付かれたら、きっと私は心臓発作か何かで身体を壊してしまう。それは良くない。後処理が面倒だ。
 心臓発作など起こしたくはなくてそっと後ろへ後退るも、クロウリーは追いかけてくる。何で追いかけるんだ、と悲鳴をあげたくなった。
「なあ、エンジェル」
 "エンジェル"と呼び掛けられるのが好きだ。もちろん、アジラフェルと名を呼んでもらうのも。中々ないことだけれど。つまりどちらも好きで、どちらも心臓に悪いのだ。呼び掛けられることすら苦痛に感じる。全てが私を惑わす。これぞ悪魔の誘惑なのかもしれない。
「何があったかなんて知らんが、それは俺に言えないようなことなのか?」
……言ったら、きっと君は私から離れていく」
「俺達はその程度の仲か? まあ、少なくともお前はそう思ってるみたいだな」
 余計な誤解を生んだ。そんなことが言いたかった訳ではないのに、クロウリーを失望させてしまった。本当に、上手くやれない自分に嫌気が差す。黙っていたことも、こうして詰め寄られて上手く言い返せないことも、全てが中途半端だ。上手く感情を隠すことが出来ていない。生来嘘をついたり誤魔化したりすることが苦手なのは自覚しているが、それでも今回はもっと上手くやれたはずだ。自分の感情に手一杯だった。このままでは何もかも中途半端に終わってしまう。そんなのは嫌だ。
「違う、私はそんなこと……
「じゃあ言ってみろ。俺は離れて行かないって証明してやる」
 私はぐっと言葉に詰まる。何も言い返せなかった。そんなことあり得ないと突っぱねることも、本当に? と期待に満ちた声で問いかけることも出来ない。
 私は罪を犯した。自覚はある。だから、それを彼に懺悔するのも悪くはないのかもしれない。悪魔に懺悔するなんておかしな話だが。
 恋をしてしまったことを告げれば良いだけだ。それだけなのに、喉が詰まったような感じがして上手く喋ることが出来ない。小さく呻き声をあげる。クロウリーが先を促すように首を傾げた。胸がドキドキする。
……こ、恋を、したんだ」
「誰に」
 そう食い気味に言ったクロウリーの声色には、僅かに怒気が含まれているような気がした。どうして、と思うもそれを聞く余裕はない。今は自分の感情を告げるのに精一杯だったからだ。
「だから……その……君にだよ。悪魔である君に、天使である私が恋をした。そんなおかしな話はない。私は罪を犯したんだ」
 私はギュッと目を瞑って、震える声で訥々と言葉を紡いだ。クロウリーの反応が気になって、けれど目を開く勇気もなく、ただ自分の想いを伝えた。それだけでもう心臓が破裂してしまいそうだった。
 クロウリーがどう返してくるかわからないことが恐ろしくて、ベストの端を両手で握り締める。俯いてみると、両手に力が籠りすぎて真っ白になっていた。ベストが破けてしまうかもしれない、なんてどうだっていいことを思い浮かべる。
「どうして、それが、罪を犯したことになるんだ」
 一つ一つ言葉を丁寧に発音して、クロウリーが問い掛けてくる。やっぱりそこには怒気が含まれていた。勘違いじゃない。私は俯かせていた顔をそろそろとあげる。クロウリーは顔を歪めて、真っ直ぐに私を見つめていた。どうしてそんなに君が怒っているのかがわからないよ、と告げたかったが、どうやらそういう雰囲気でもないらしい。
 ベストを握り締めていた手を離して、無意味に弄る。その手とクロウリーの顔とを交互に見つめ、私は重い口を開いた。
「わかるだろう。私は天使だ。君に恋をするなんて許されない。それに、こんな想いを自覚したのは最近で、どう対処したらいいかわからなくて……
 そう告げた瞬間、シャツを乱暴に掴まれて、強引に身体を引き寄せられ唇をくっつけ合わされた。こういうの、なんて言うんだっけ。冷静に考えて、そうだキスだと思い出した。
 クロウリーとキスをしているのが信じられなくて、身体がカチコチに固まる。何もかもどうして良いかわからず、腕をぎこちなくクロウリーの背中に回すしかなかった。呼吸が苦しくなった途端、クロウリーがまた乱暴に離れて行った。はぁっ、と息を吸い込む。少しだけ沈黙が流れて、私とクロウリーの呼吸音だけが部屋に響く。何があったんだ、と頭が混乱してる中、クロウリーが口を開いた。
「そんなの、俺はとっくの昔に自覚してる」
 何の話だ、と暫く考えてから、恋の話かと納得する。納得? 納得しただろうか。だって今、クロウリーは「俺はとっくの昔に自覚してる」と言った。それはクロウリーも同じ想いを感じたことがあって、彼はその感情をとうの昔に整理してしまったということを指している。同じ想いだと。では、クロウリーも私に恋をしているというのか。そんな都合の良いことがあるのか。
 私はキスを落とされた唇を押さえて、荒く呼吸を繰り返した。気持ちが整理できない。何故キスされたのかもわからない。全部がわからなかった。
「天使だ悪魔だなんてことはくだらないことだ。そんな話じゃなくて、お前の想いを聞かせろ、アジラフェル。お前は俺を好きなんだな?」
 咄嗟に頷くことが出来なかった。私はクロウリーが好きなのだろうか。ずっと自問自答してきたことだ。この数週間何度も考えて、いつも同じ答えに辿り着いていた。私は多分、いや確実に、クロウリーに恋をしていて彼のことが好きなのだと思う。想いを自覚したあの日から、ずっと胸の中でわだかまっていた気持ちだ。きっとそれを口に出したかったのだと思う。
……好き、だ。私は君が好きなんだ、クロウリー」
 真っ直ぐとサングラスの下にある目を見つめて言うと、また胸倉を掴まれて荒々しくキスをされた。やっぱり驚いてしまって、両手が宙を掻く。クロウリーは何度も私の唇に唇を押し付けてきて、その荒々しさに息が上手くできない。キスというのはこんなものなのだろうか。小説や映画で見た時はもっと穏やかだった気がする。キスにも性格が表れるものなのだなと思った。
 突然突き放すように身体が解放されたと思ったら、何故か次の瞬間には抱き締められていた。クロウリーのしたいことがわからない。突き放したいのか、抱き締めたいのか、どちらなんだ。とはいえぎゅうと力強く抱き締められたから、私もぎこちなくだがそれに応じた。クロウリーの背中に腕を回す。
 キスをされたのは驚いたけれど、でも嫌ではなかった。恋をしているのだから当たり前なのだろうが、私にしてみれば驚くべき事実だった。キスとはこんなにも幸せな気持ちになれるものなのかと。クロウリーもそう感じてくれていれば嬉しい。
 クロウリーは少し息を荒くして、私の耳元に唇を寄せてきた。
「俺も好きだ。愛してる、アジラフェル」
 まさか愛してるとまで言われるとは思わなくて、頬が熱くなる。そんなにも想ってくれていたとは知らなかった。クロウリーは一体いつから想いを自覚していたのだろう。彼がそんな想いを抱えていたなんて、私は全く気付かなかった。隠すのが上手いなと思う。私とは大違いだ。いや、私が鈍感すぎただけかもしれないが。
 クロウリーの背中に回した手のひらで、彼の服を少し強く握り締める。クロウリーの体温を感じて心地良かった。
……それで……これ、からどうなるの……?」
「恋人ってやつになる。人間の映画で観た」
「恋人……そうか、そうなるんだね……
 私は感心したように呟く。恋人。本や映画で観たことがあるから、知識としては知っている。恋という感情を通じ合わせた人間達が、お互いの関係性を変えた状態のことを言う。まさかクロウリーとそういう仲になるとは思わなかった。数百年前の自分に言ったら腰を抜かしそうだ。
 恋人と言ったら、デートやキスをする。キスはもうしてしまったが、デートは出来るだろうか。考えて少し不安になったけれど、でもクロウリーとするのなら悪くはないなと感じた。むしろ、してみたいという興味すらある。恋人の特権とはこういうものか、と理解した。
 私は、罪を犯したのだろうか。赦されざることをしたのだろうか。改めて考える。クロウリーは、「天使だ悪魔だなんてことはくだらないこと」だと言っていた。もしかしたらそうなのかもしれない。私達は、とっくにそういったものを飛び越えた関係だった。ならば、クロウリーと恋に落ちたのも罪ではなかったのかも。そう考えたら、少し胸がすっと軽くなった。だから、真偽はわからないけれどそう思うことにする。それで私の罪悪感が少しでも軽くなるのなら、きっとその方がいい。
 私はクロウリーに小さく頬擦りをして、彼を強く抱き締めた。やっぱり細い。私が力を込めたらぽっきりと折れてしまいそうだ。
「クロウリーって細いね」
「お前が丸いだけだ。少しは痩せる努力をしろ」
 返す言葉もない。昔から人間の食べ物を食べすぎてしまうのは悪い癖だ。だって美味しいのだから仕方ない。それもクロウリーに誘惑されて始まったことだったな、とふと思い出す。
……だが、そんなお前も悪くないと思ってる」
 クロウリーがボソリと呟いたので、私は今度こそ言葉に詰まった。クロウリーときたら、本当は情熱的な悪魔だったのだなと思う。そんな感情をずっと隠してきただなんて、勿体無い。彼こそ早く私に想いを告げてくれれば良かったのに。そうしたらきっと、もっと早くに恋人というやつになれていたかもしれない。私が恋という感情を受け入れられたかはわからないけれど。
 私は頬を赤くしながら微笑んで、クロウリーの身体をもっと強く抱き締めた。私の全てを受け入れてくれる彼が愛おしい、と思った。こんな感情を覚えたのは初めてだったから少し困惑したが、でも悪いものでもなかった。
「君は私に甘いね」
 呟いて、私はくすりと笑みを漏らしたのだった。