後にアクシズ・ショックと称されるようになる光の奔流の果て、その中心地にいたアムロとシャアは、二人は揃って地球へと墜落していた。
アムロはともかく、ただの脱出ポッドのみであったシャアに至っては正直なところ生きているのが不自然なほどだ。本来であれば大気圏の摩擦熱で燃え尽きて塵も残らない。しかし二人ともに打撲や骨折程度で生きているのだから、一時期世話になったカミーユ・ビダンが気味悪そうに首を傾げていた。
もはやサイコフレームの共振による何らかの超常的な現象、としか表せない奇跡であった。
いつの間にか医者となり、地球でファ・ユイリィと共に小さな医院を営んでいたカミーユは、墜落した二人を見つけ、怪我が治るまで匿ってくれていた。しかし、いつまでも一医者である彼に迷惑をかけるわけにもいかない。シャアは明らかに戦犯であるし、アムロもまた連邦軍にとっては戦歴故に手放せない厄介な人間だ。
総帥を失った新生ネオ・ジオンは敗走している、と情報を得たが、おそらくシャアを捜している者は多いだろう。アムロも同じだ。ニュータイプという概念を忌み嫌いながらも手放そうとしない上層部の意向は彼の足枷である。なにより、戦友であるブライト・ノアならばアムロの生存を諦めまい。
「……いいんですか。アムロさん」
「いいんだ」
別れ際にカミーユは、何とも言えない顔をしていた。かつてはクワトロ・バジーナを上司として慕っていた彼だが、今のシャア・アズナブルが危険な存在であることなど承知している。「殺さなくていいのか」と暗に問うカミーユは、複雑な心境だろう。
アムロは安心させようとして失敗した、歪な微笑みを浮かべていた。殺すべきだとわかっていても、結局殺せなかったからだ。だからこそ、アムロは生存を願ってくれているであろう戦友にも連絡しない不義理をしてでも、シャアを見張ることにしたのだ。それが彼女なりの責任の取り方だった。
「今度こそ、私がちゃんと、捕まえておくから」
そうして、二人の逃亡生活は始まったのである。
*
シャア・アズナブルは、かつての激情を宇宙に置いてきたかのように、虚脱した日々を過ごしている。対してアムロ・レイは、そんな彼を野に放てばまた同じ過ちを繰り返すと信じて疑わず、その監視を自らの義務として課していた。
二人が当面の拠点として住み着いたのは、南欧のとある街の外れにある、スラムにもほど近い、所謂『訳アリ』の者たちが集う場所だった。脛に傷を持つ者もおり、隠れ蓑にはちょうど良かった。
駆け落ちしてきた男女、という風体で紛れ込んだ。……恋愛を絡めるには、二人の間に流れる空気は殺伐としていたけれど。
南欧は比較的温暖な気候だが、山間部では雪が降る。さらにはここ十数年の間にコロニーやら隕石やらが落とされたこともあり、地球の気候は随分と狂った。アムロたちが住み着いた街でも、寒冷化が進んでいるのか、冬の到来と共にちらちらと雪が降り始めている。
借りた石造りの家の中、アムロが直したジャンク品の暖房器具はすでに仕事を始めている。
「……アムロ、いつまで篭っているつもりだ。食材もただではないんだが?」
ノックと共に投げかけられた皮肉げな声に、アムロはハッと意識を取り戻す。プライベートスペースとして割り振ったアムロの部屋のドアが叩かれていた。声の主は同居しているシャアである。
咄嗟に起き上がろうとして、しかし、腹部に激痛が走ったことで固まってしまう。
「う……っ」
噛み締めた歯がぎりりと鳴る。喉の奥から込み上げる吐き気をどうにか飲み下した。自然と腹を庇うように腕を回し、胎児のように丸まる。再び「アムロ?」と呼びかけられるが、応える気力もない。
視界の端に見えた窓のカーテンは開けっ放しだった。空の色はすでにオレンジ色に移り変わりつつある。
――もしかして、痛すぎて、気絶していたのか。
思い至って、アムロは目覚める前の記憶を振り返る。朝、起きた記憶はあったけれど、そこから先は曖昧だった。シャアの言葉通りなら、朝食も昼食も食べずに部屋に篭っていたことになる。苦言を呈すのも当然だろう、今の二人は衣食住をまかなえてこそいるが、決して贅沢や無駄を許される懐事情ではないのだ。
深く呼吸を繰り返す。とにかくシャアに返事をしなければならない。情けない姿を見せるわけにはいかない。アムロはシャアの監視役なのだから。
「すま、ない。……食事はいい、夕食も、あなたの分だけで……」
「……体調が悪いのか?」
思ったよりも弱々しい声が出たことに内心舌打ちする。案の定、異変に気付いたシャアの声音が変わった。
二人暮らしを始めてみても、アムロとシャアの間には冷えた空気だけが横たわっていた。互いの食事は用意するけれど、一緒に過ごす時間は少ない。シャアはアムロに嫌味やら皮肉やらをぶつけ、アムロもまた言い返す、そんなコミュニケーションしかしていない。
それでも、体調を崩した相手を心配する程度には優しさのある男だと、アムロは知っている。
どうか開けるなと願っていたドアは、アムロが鍵をかけ忘れたこともあり、あっさり開けられてしまう。ずぼらな自分を心底恨んだ。
部屋へと踏み込んだシャアは、ベッドの上に不格好に丸まるアムロの姿に目を丸くしていた。
(ああ、……よりによって、こいつの前で……)
「アムロ……!?」
アムロの顔は紙のように白くなっていた。唇は色を失い、額には脂汗が滲んでいる。自らの腹を守るように回された腕は震え、指先は痺れたように固まっている。
駆け寄ったシャアがベッドのそばに膝をつく。脈拍をとるために触れた女の手首は氷のように冷たい。
「どうしたんだ……痛むのか? 内臓か? まさか何か持病でも……」
「違う……っ、放っておけ……」
「放っておけるか。貴様、顔色も尋常じゃないぞ。……医者を呼んでくる。確か闇医者を名乗っていた奴がいたな、それまで――」
「やめろ……っ、目立つようなことは、するな……っ……いいんだ、これは、病気じゃない……」
即座に判断を下し、立ち上がろうとするシャアの袖を掴む。力の入っていない指先で、必死に引き留める姿にシャアは困惑を隠せない。
「病気でないなら、何だと言うのだ! ――貴様、死ぬ気か!」
シャアの声は苛立っている。だが、その瞳は不安と恐怖が揺れていた。気付いてしまえば、もう隠し通すことは無駄だと察する。
「……っ、ただの……月の、障りだ……。……生理だよ……ッ」
吐き捨てるように、羞恥にまみれた声でアムロが告げた。
「…………何?」
シャアは絶句していた。
――アムロ・レイは女である。生まれた時から女であった。
もともと彼女の月経は、どちらかと言うと軽い方だった。それが変容したのは一年戦争後、ニュータイプ研究に半ば強制的に協力させられてからだ。いくつかの薬剤の投薬がホルモンバランスの崩れを招いたらしい。戦争というストレス過多によって不順気味ではあったのだが、それがさらに助長し、症状もまた重くなった。
アムロは病気ではないと思っていたが、はっきり言えば月経困難症である。軍にいた頃は、軍医から低容量ピルを処方してもらっていたほどだ。
だが、逃亡生活ではなかなか医者にもかかれない。結果、アムロの苦しみは再発した。ここ数日、彼女の体調は最悪だった。慣れない環境、逃亡生活、シャアとのコミュニケーション不全……それらは確実にストレスとなり、彼女の身体を内側から蝕んでいたのだ。
「……少し、休めば……動ける……から……」
アムロはのろのろと身体を起こし、自嘲気味に笑う。だが、すぐに下腹部を焼灼されるような激痛が走った。視界が白く明滅する。あまりの痛みに一瞬意識が遠のき、そのまま倒れ込みそうになる。シャアは咄嗟に腕を広げ、アムロの身体を抱き込むように支えた。
「……!」
細い――真っ先に思った。
シャアとて今まで幾人かの女性と浮名を流し、その生理現象についても知識としては持っている。だが、目の前で苦しむ『アムロ・レイ』という存在と、その概念が、彼の脳内でどうしても結びつかなかった。
シャアにとって、アムロは因縁の相手であり、仇敵であり、好敵手であり、そして自分を打ち負かす唯一の超越的な『強者』だった。性別などという瑣末な境界線は、彼の中に無かったのだ。
「……アムロ」
彼女の身体は、驚くほど細かった。腕の中に収まる肩幅、華奢な骨格。
(軽い……。こんなにも、小さかったのか……?)
アムロの頬は少し痩け、瞼の下にはうっすらと隈が落ちている。今日一日の不調ではないことは明らかだ。気付けなかった自分の節穴具合に、シャアは情けなさすら感じた。彼は自身でも自覚なく、慎重な手つきでアムロを横たえる。
シャアは、自分の指先が微かに震えていることに気づいた。――アムロは、女だ。当たり前の事実が、今さらになって現実味を持って彼を襲う。
かつて宇宙を翔け、自分を翻弄したニュータイプ。白いガンダム。星のような輝き。その内側にいたのは、これほどまでに脆く、血を流し、痛みに耐える一人の『女』だったのだ。
「……シャア……?」
苦痛の只中にあっても、様子のおかしいシャアを案ずるように、アムロが彼の名を呼ぶ。
シャアは自身の中にある複雑な感情が、湿った熱を帯びて変質していくのを感じていた。目の前の女を、もはやただの因縁の相手として見ることはできない――――その事実に、彼はかつてないほどの動揺と、言いようのない昏い独占欲を抱き始めていた。
「何か……そうだ、薬を。痛み止めくらいなら、備蓄の中に……」
「市販の薬は……効かないんだ……」
アムロは青白い唇を震わせ、諦観の滲む息を吐いた。
「投薬への、耐性が……つきすぎているんだ。市販の鎮痛薬、なんて、……ラムネ菓子、みたいなものだよ」
その告白は、シャアの胸を鋭く刺した。
自分がアクシズを落とそうとしていた間、あるいはそれ以前の空白の期間、彼女がどのような道を歩んできたのか。軍という組織が、どれほど非人道的な扱いをしてきたのか透けて見える。
「……ッ」
アムロが再び短く呻き、身体を丸めた。貧血による冷えのせいか、指先は氷のように冷たく、かたかたと震えが止まらない。
かつて戦場で、あれほどまでに激しく猛々しくぶつかり合った宿敵の、あまりにも無防備で弱々しい姿に、シャアは言いようのない焦燥感を抱く。
アムロの部屋を見回しても、ごちゃごちゃとしたジャンク品や工具などしかない。シャアはベッドに放りっぱなしの毛布を彼女にかけると、自身の部屋へと向かった。通路を挟んで隣。殺風景な部屋のベッドから自身が使用していた毛布を掴むと、急足でアムロのもとへと戻った。
そうしてアムロの上にさらに毛布を重ね、シャアもまた、アムロの隣に並ぶようにベッドに潜り込む。
「な、……何を……っ」
「狭いが許せ。貴様の身体は冷えすぎている」
驚きで目を見開くアムロを無視し、彼はその背中に逞しい腕を回し、小さな身体を抱き込んで密着させる。
「……私は、貴様よりは体温が高いだろう」
シャアの言う通りだった。軍人として鍛え抜かれた彼の肉体は、熱を帯びた炉のように熱い。
最初は困惑し、こわばっていたアムロだったが、意識を埋め尽くす激痛と、芯まで凍りついた身体の欲求には抗えなかった。
「……あ……」
無意識のうちに、アムロは温もりを求めてシャアの胸元に顔を埋めた。冷え切った指先が彼のシャツを掴み、熱源を求めるようにその肢体を擦り寄せていく。
「……あったかい」
ほう、と安堵したような、震える吐息がシャアの鎖骨のあたりに吹きかかる。
その瞬間、シャアの背筋に奇妙な戦慄が走った。
腕の中に収まったアムロの身体は、驚くほど柔らかかった。細い腰の曲線、胸元から伝わる控えめながらも確かな膨らみ。それらは紛れもなく『女』の造形であり、かつてモビルスーツのコックピット越しに感じていた、あの研ぎ澄まされた強者の残像を塗り替えていく。
(……この私が、動揺しているというのか)
シャアは自嘲した。
今まで幾人もの女を抱き、愛を囁いてきた。だが、今この腕の中にいる女から伝わる体温は、それらとは全く異質の重みを持っている。
静まり返った部屋の中で、重なり合う二人の鼓動の音だけが響いていた。
*
シャアの体温に浸食されるように、アムロの身体を支配していた強烈な痛みの波が、ゆっくりと凪のような鈍い疼きへと変わっていった。
(……ああ、落ち着いてきた……)
痛みが少しばかり遠ざかる。波がまたやって来ることは明白だが、アムロには束の間の休息が与えられた。
荒い息がおさまり、痺れていた指先の感覚が戻ってくる。痛みで狂っていた感覚が正常に戻り始めていた。同時に、アムロの脳内には羞恥という名の熱が別の意味で上り始める。
自分を追い詰め、アクシズを落とそうとした男。戦場で殺し合い、この地上に降りてからは刺々しい言葉をぶつけ合ってきた宿敵。その男の胸に、自分は今、子猫のように丸まって収まっている。
逃げ出したい。突き放したい。恥ずかしさから拒絶が湧き上がる。けれど、この熱を手放せば、再びあの孤独な寒気が襲ってくることを、本能が理解していた。アムロは微かな葛藤を見せるように指先を動かしたが、結局は重い瞼を閉じ、彼の腕の中でじっと息を潜めることを選んだ。
そんなアムロの心の揺れを見透かしたのか、シャアの腕に僅かな力がこもる。
「……無理に動こうとするな。大人しくしていろ、アムロ」
抱き込まれたまま、耳元で低く囁かれる。シャアの大きな手のひらが、硬く強張っていたアムロの背中を、節くれだった指先でゆっくりと、慈しむように撫で下ろしていく。
その手つきは、敵も味方もなくただ目の前の人間を気遣う、一人の男としての優しさに満ちていた。分厚い掌から伝わる一定のリズムと熱が、アムロの頑なな心を壁を一枚ずつ剥いでいく。
――孤独だった。一年戦争の時から、彼女はずっと戦士として扱われ、この身体に訪れる女としての苦しみなど、誰にも打ち明けられずにいた。デリケートな話題でもある。ピルを飲み始めたことでマシにはなっていたけれど、ただいつも、痛みの中で冷えた手足を自分で温めようと丸まっていた。けれど今は、自分以外の温もりがある。アムロを囲い、温もりを分け与えてくれる人がいる。
まるで、そう、守ってくれるみたいに……
「……っ」
痛みで弱気になり、ひび割れた心から弱音がこぼれ落ちていく。
「……お腹、……お腹も、さすってほしい……」
言ってから、アムロは自分自身の声の甘えた響きに愕然とした。だが、口に出した願いはもう消せない。シャアの撫でていた手が、一瞬だけ止まる。
彼は、腕の中にいるのが他ならぬアムロ・レイであることを再確認するように、わずかな沈黙を置いた。この無防備な要求に応じることが、二人の間に取り返しのつかない境界線を引くことになると予感しながらも――……
「……ああ」
シャアの手が、横たわるアムロの身体をゆっくりと動かす。向かい合っていた体勢からころりと半分寝返りを打たされて、今度は背後から抱き締められる。毛布の下、武骨な男の手のひらがアムロの腹部へと滑り込んだ。
シャツ越しに触れる、しなやかで薄い女の腹。だがその奥では、命の源が激しく疼いている。
シャアは、大きな手のひらで円を描くように、優しく、祈るような手つきでそこをさすり始めた。アムロの口から、張り詰めていた緊張が解けるような長い吐息が漏れる。
彼は指先に伝わる柔らかな感触に、得も言われぬ危機感を覚えていた。この腹の下には、命を育むための器官がある。女だけが持つ内臓。十月十日、赤子を育む場所。生の営みの象徴。
(このアムロの中に、……私の、あるいは誰かの……)
――その想像は、シャアの理性を昏く掻き乱した。
シャアの指先が、アムロの柔らかな下腹部を僅かに強く圧迫した。まるで、その奥にある繊細な内臓の鼓動を、自分の支配下に置こうとするかのように。
「……痛みが、辛いか?」
「……? ……そりゃあ、ね。どうして女に生まれてしまったかなって、思うくらいには、辛いよ……」
アムロは疲弊しきった声で答える。シャアの腕の温もりに毒され、本来なら見せるはずのない弱音を、彼女は無防備に溢していた。
「……君をその月経の苦痛から解放する方法が、ひとつだけある」
「え……?」
アムロは予想外のことを言われ、目を瞬かせながら背後を振り返る。シャアは射抜くような、それでいて深い熱を孕んだ真剣な眼差しで、彼女をじっと見つめ返していた。
「十ヶ月なら、私の手で止めてやれる。……君を苦しめるその疼きを、別の熱で塗り替えてやってもいい」
く、と意識させるかのように、熱い手のひらがアムロの腹をかすかに押す。
最初は、何を言っているのか理解できなかった。あまりに唐突で、傲慢な物言い。
(……十ヶ月? シャアの、手で……?)
だが、その言葉の意味をひとつずつ噛み砕いていくうちに、アムロの青白かった頬が、サッと朱に染まっていく。それは羞恥であり、怒りでもあった。
「……っ、貴様……!」
意味を理解した瞬間、アムロはもがくようにシャアの方へと身体を向け、男の胸を突き飛ばそうとした。しかし、腹に走る激痛がそれを阻む。突っ張る腕が痛みで震えた。
「……本気で、言っているのか……? 冗談にしても、悪趣味すぎる……っ」
「冗談なものか」
シャアの声に揶揄いの色はない。どこまでも真実味を帯びていた。先ほどまで彼を支配していた嫉妬という名の濁流。アムロを自分以外の誰かが『女』として愛でるなど、万死に値する――その衝動が、この歪な提案へと彼を突き動かしていた。
「……っ、この……ッ!」
一方、アムロは激昂していた。
抱き竦められた状況を打破すべく、腕を突っ張りながら、まだ自由な下肢で男を蹴り飛ばそうとする。だが、急激な動作は下腹部の深部を、まるでナイフで抉るような激痛となってアムロを襲った。
「ぐ、ぅ……っ!」
狙いは逸れ、蹴りは弱々しくシャアを引き離すだけまった。それでも、無理やり身体を起こし、男の腕を振り解くと、ベッドの端へと身を引く。
毛布は跳ね飛ばされ、冷たい壁が背に当たった。途端に、彼が与えてくれていた熱が奪われ、アムロの身体は急速に冷え切っていく。ぶり返した鈍痛と目眩。そのまま這いつくばりそうになるのを、彼女はシーツを掴むことで辛うじて耐えた。
肩を荒く上下させ、脂汗を流しながら、アムロは宿敵を睨み据える。
「……弱った女に、男の種を植え付けるのが貴様のやり方か!? 卑劣にも程があるぞ、シャア!」
罵倒する声は震えているが、その瞳にはかつてのパイロットとしての、烈火のごとき意志が宿っていた。
「そもそも、私と貴様は恋人でも何でもない……! 殺し損ねた敵同士だろう!? ……それを、どの面下げて……! それでっ、口説いているつもりか? センスがなさすぎるんだよ、恥を知れッ!」
痛みに呻きながら、これ以上ないほどの嫌悪をぶつける。
だが、罵倒を浴びせられたシャアは、狭いベッドの上で、じりじりと獲物を追い詰めるようにアムロに近付いていく。
「ふむ。センスがない、か。……確かに、君の言う通りだ」
シャアは飄々と宣う。彼はアムロの逃げ場を塞ぐように、彼女の両肩を掴む。
「だが、理屈ではないのだよ、アムロ」
「……何、を……」
「君が欲しい。……ただ、それだけだ」
その言葉は、どんな甘い愛の言葉よりも重く、独善的だった。――地球を燃やし尽くそうとした男が、今、目の前の一人の女に、全存在をかけて執着している。
「アクシズで決着をつけられなかった。ならば、私に敗北を教えた君という女を、私の支配下で屈服させてみたいと思うのは……それほど不自然なことか? ……その痛みからも解放できる。君にとっても、悪いことじゃないはずだ」
シャアの指先がアムロの頬を掴む。蕩けるような、夢を見るような青い瞳が近付く。鼻先が触れ合い、そのまま口付けでもされそうな距離だった。
だが、アムロは首を振る。そのまま近付いた額に頭突いてやろうとすれば、察したのか、男の手が離れて失敗した。
ぎり、と噛み締めた奥歯が鳴る。今のアムロの中には、痛みを上回るほどの怒りがあった。
「私を孕ませて、この痛みから解放するだって……? は、笑わせるな……そんな馬鹿げた救済を私が望むとでも思っているのか……ッ」
女の激越な声が、冷えた室内を劈く。脂汗で濡れた髪が額に張り付き、身体は激痛で小刻みに震えているが、その双眸だけは射抜くような光を失っていない。
「私に子供を産ませたいなら、せめて……まずはただの男として口説きに来い! そんな度胸もないくせに……生物学的な機能に逃げて私を支配しようとするな、卑怯者! ――――……父親になる覚悟も、責任を負う気もないくせにっ……そもそも、好きでもない女を、口説くな……!」
その激しい言葉の礫は、シャアの喉元に突き刺さり、彼を沈黙させた。
反論しようとして、口が動かない。
――自分はこの女を愛しているのか? その問いに対し、シャアは未だ明快な回答を持ち合わせていなかったからだ。
あるのは、狂おしいほどの征服欲であり、執着だ。
だが、彼女が痛みに顔を歪めていた時、心臓を直接握りつぶされるような戦慄と心痛を覚えたのも、事実だった。自分以外の誰かが彼女に触れることを想像した瞬間に沸き上がった、黒く濁った嫉妬もまた。
「君が……」
ふうふうと息を乱し、シャアを睨みつける女。痛みに呻き、シャアの腕の中に治り、安心したように息を吐いていた女。
アムロ・レイ。もはや何もかもどうでも良くなったシャアの、ほとんどすべて。
「その痛みで指先一つ動かせなくなるのを見るのは耐え難い。それが私のエゴであってもだ」
シャアは絞り出すように言った。
「君には……――――」
言葉が続かない。
幸せになってほしいのか?
穏やかに過ごしていてほしいのか?
自分と永遠に戦い続けてほしいのか?
彼女を傷つけたいのか、守りたいのか、その境界線が自分の中でさえも複雑に混じり合い、はっきりと捉えられない。愛と呼ぶにはあまりにも暴力的で、憎しみと呼ぶにはあまりにも献身的。
アムロ・レイという存在に対して抱くこの衝動を、既成の言葉で定義することなど、土台不可能なのだ。
「……ッ、放せ……!」
アムロが弱々しく抵抗する。だが、シャアはその抵抗など気にせず、彼女の細い身体を力任せに、しかし壊さぬよう細心の注意を払って抱きしめた。
伝えきれない言葉の代わりに――自らの体温のすべてを彼女に流し込むかのように。
「シャア……」
冷たい壁から引き剥がされ、再び男の腕の中に閉じ込められたアムロは、唇を噛み締めると彼の肩に顔を埋めた。
情け無い男だ、本当に。ああ、けれど、どれほど言葉で拒絶し、どれほどその傲慢さを罵倒しても……今、自分を包み込んでいるこの男の熱だけは嘘をつかない。
芯まで冷え切った身体に、彼の力強い鼓動が伝わってくる。その一定のリズムが、皮肉にもアムロの痛みを、そして張り詰めていた孤独を、少しずつ、少しずつ解かしていく。
悔しいほどに温かかった。
このままこの男の熱に溺れてしまえば、どれほど楽だろうか。しかし、ただの男と女のように温もりを分かち合うには、二人の背負う業と、過去の悲しみと怨恨が深すぎるのだ。二人の間に横たわる、ララァ・スンという女の傷が、それを増長させる。
シャアがそうであったように、アムロもまた、彼をただの『男』として見ることができなかった。彼女はシャアに好かれているなんて思ってもいなければ、自身もシャアを責任感以上の好意を抱くことなどないと思い込んでいる。
それは一四年にも及ぶ長い因縁の弊害だ。いつまで経っても自分たちは平行線の向こう側で、銃口を向け合うことしか出来ないのだと結論付けてしまった。
そしてアムロは、その関係性を変えられることを少しだけ、恐れてもいる。
(だって、きっと、)
――――愛されたのならきっと、自分もまた、愛してしまう。
アムロは震える手を、拒絶するようにシャアの胸に当てていたが、やがて指先から力が抜け、彼のシャツを弱々しく掴んだ。
答えの出せない静寂が落ちる。
憎悪とも情愛ともつかぬ体温が奇妙に溶け合う冬の夜、二人はただ、互いの存在という名の唯一に、無言のまま縋りついていた。
*
連日降っていた雪は止み、冬の柔らかな陽光が床に一筋の線を引いていた。
月経が終わる頃、アムロを苛んでいた烈火のような痛みは、潮が引くように去っていった。顔色には赤みが戻り、自力で台所に立てるほどに回復した彼女は、すっきりと正気になった頭で、時折あの数日間の記憶を反芻しては頬を微かに染めていた。
言葉では激しく罵った。卑怯者だと、無責任だと。けれど、その後も痛みで意識が朦朧とする中、自分の冷え切った指先を大きな掌で包み込み、抱き込んで、夜通し温め続けてくれたのは他ならぬシャアだった。食べやすいように粥を作り、貧血に良いとされる乾物をどこからか入手してきたのも彼だ。ただ献身的に、シャアはアムロを温め続けてくれた。
その後の生活では、二人の間には以前のように殺伐とした空気はなくなっていた。代わりに流れるのは、視線が合うたびに逸らしてしまうような、ひどくぎこちなく、それでいて微かな熱を孕んだ気まずさだった――――
その日、リビングで壊れたラジオを修理していたアムロの背中に、シャアが静かに声をかける。
「……アムロ。体調は、もういいのだな」
「ああ。……もう、なんともない。あの時は、その……悪かったよ」
「謝る必要はない。……ところで、前言を撤回させてほしい」
アムロが手を止め、怪訝そうに振り返る。シャアは窓辺に立ち、逆光の中でその端正な横顔を少しだけ歪めていた。
「生物学的な機能に逃げて君を支配しようとしたのは、確かに私の失策だった。……改めて、聞かせてくれないか。ただの男として、君を口説き直してもいいだろうか」
「……!」
アムロの指先が揺れた。持っていた小さなドライバーが床に落ち、カラン、と高い音が静かなリビングに響く。
最近のシャアの様子から、アムロも予想はしていた。けれど、いざ真っ直ぐに、飾らない言葉で問われると、心臓の鼓動が耳の奥まで届くほどに跳ね上がる。
動揺を隠すようにアムロは落ちた道具を拾い上げ、漂う甘ったるい空気の中、身の置き場を探して座り直す。
「……あ、なた、ね……本当に……強引すぎるんだよ。いつも、自分のペースで……」
「拒絶するなら、今のうちだ」
シャアは歩み寄らず、彼女の返答を待っている。その眼差しには、ただ一人の女性の心を乞う、臆病な誠実さが宿っていた。
アムロはしばらくもごもごと口元を歪め、沈黙を守っていたが、やがて、小さく息を吐く。その頬はほんのりと赤く染まっている。
「勝手にすればいい。……けど、条件がある」
「……条件?」
あちこちへと逸らしていた視線を、真っ直ぐにシャアへと向ける。そうして、確かな意志を込めて口を開いた。
「……十ヶ月後も、その先も――ずっと一緒にいるなら、いいよ。……その覚悟があるなら、口説けばいい」
その言葉は、あの日、彼が提案した『十ヶ月』を一生という時間に書き換える契約だった。
「それから、もし……ち、父親になる気があるなら、ちゃんと! ……責任と覚悟を持つこと!」
シャアは目を見開き、それから、憑き物が落ちたような穏やかな笑みを浮かべる。
彼はゆっくりと歩み寄ると、アムロの隣に腰を下ろす。そろりと伸ばされた男の手が、冬の寒さに冷えた女の手をそっと握りしめた。
それは支配するためではなく、繋ぎ止めるために。
「ああ。……約束しよう。君はずっと、私を監視してくれればいい」
「え? ……ははっ、なんだそれ」
一瞬きょとんとしてから、吹き出すようにアムロが笑う。「あなた、やっぱり口説くセンス、無いんじゃないか?」と揶揄うようにそう続けて、重なった熱い男の手を、握り返した。
ムッと子供のようにむくれた男が意趣返しのように口付けを落とし、「手が速すぎる!」とその端正な頬に紅葉色の手形が刻まれるまで、あと数秒。
二人の間に流れていた冷たい冬の空気は、少しばかり早い春の兆しを帯びて、静かに溶け始めていた。
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