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ugmm_
2026-04-12 02:09:27
15278文字
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現パロ
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おだやかな暮らし
現パロ。『永遠のまなざし』のすぐ後、猫と戦うハミルカル、なんか拗らせているハスドゥルバル、ちょっとだけハンニバル(8さい)。
「その手は何だ」
カップを受け取るより先にハミルカルはそう言って顔を顰めた。
睨み付けられている自分の手を見下ろしてみれば、無数の引っ掻き傷が手の甲や手首についている。改めて見ると怖いなとハスドゥルバルは思ったが、どう説明したものかとひとまずコーヒーカップをテーブルに置いた。
ハミルカルの隣に腰を下ろしたソファには、薄茶色の毛があちこちについている。季節は春、換毛期だった。
「猫です」
「それは見れば分かる」
ベランダに面した窓に目をやれば、吸盤で貼り付けるタイプのベッドの上でアビバアルが午後の温かな日差しを浴びていた。腹を出して足を伸ばし、野性を捨て去った姿で眠るのは安心している証拠、とは、自身も猫を飼っているという新しいハウスキーパーの談である。
三週間ほど前に仔猫を連れて戻って以来、部屋には物が増え続けていた。トイレも水飲み場も寝床も複数ある方がいいと言うし、室内飼いでありがちな運動不足を補うキャットタワーは思いの外大きく、気に入りのものが見つかるまで買い足し続けた玩具は仔猫が自分でケースから引っ張り出すせいで床に転がり、衣装部屋などはアビバアルの侵入を防ぐために二重扉になってしまった。
気侭なひとり暮らしをゆるゆるとやり過ごすためだけの部屋だったが、ここは既にアビバアルの家である。それもこれも暇すぎて猫を構う他にすることがないせいなのだが、ハミルカルは明らかに様変わりした部屋を嫌がっていた。
窓辺の猫を見る目は、あんなに可愛らしいものに対するとは思えないほど鋭い。そのうち打ち解けるだろうと思っていたが、久々に顔を合わせるなりハミルカルが背後から飛び掛かってきた仔猫を投げ飛ばし投げ飛ばされた仔猫が壁を蹴って再びハミルカルに襲い掛かるといった混乱が生じていた。
そろそろかとティーポットからカップへ紅茶を注ぐ。実家から持ち帰った茶葉は香りが強く、隣から漂ってくるコーヒーの匂いと混ざるとあまりいいものではなかった。ハスドゥルバルが電源を入れたことさえないコーヒーメーカーは、いつだったか、自分が不味いコーヒーを飲まないためにハミルカルが置いて行った。それは猫のための物が増えるのと同じことではないだろうか。
「アビー、起きたの?」
折よく、アビバアルが起き出してハスドゥルバルの足に擦り寄ってきた。抱き上げて膝に乗せた仔猫は、貰い受けた時よりも成長したもののまだ小さく、あまり大きくならないかもしれない。柔らかく暖かな毛並みを撫で、首元を擽るとすぐに喉を鳴らし始める。顔を触られるのが好きで、額を撫でる指にしばらくされるがまま甘えていた。
そのアビバアルが突如カッと目を見開いて指に噛みつき、そのまま前足の爪を立て手を捕捉、後ろ足で激しく蹴りつけたのち、またも唐突にその手を放り出して膝から下り走り去った。
寝室に駆け込んでシーツの上を暴れ回っている音を聞きながら、また増えた引っ掻き傷をハミルカルに示す。こういうわけで生傷が絶えないのだった。
「やめさせろ」
「可愛かったでしょう?」
「どこがだ、獣だあれは」
吐き捨てるハミルカルに、肩や背中にも同じような引っ掻き傷があると言ったらどうなるのだろう。アビバアルは幼いからかとにかく活発な猫であり、身軽で、高いところが好き、そして人懐っこかった。ハスドゥルバルが立っていると必ず上着を登ってくるのだ。
「躾をしろ」
「猫って躾ができるんですか?」
「少なくとも手で遊ばせるのはやめろ、玩具だと思っていつまでも噛み付いてくるぞ」
噛む力だけは加減してくれるのだけれど、そんなことを言っても擁護にはならないのだろう。気を逸らそう、と思ってハスドゥルバルは床に転がっていたぬいぐるみを寂しくなった膝に乗せた。犬を模したキャラクターらしいぬいぐるみはアビバアルのサンドバッグにされてあっという間にくたびれていた。
「仕事に復帰すれば自然と傷も減ると思いませんか?」
「
……
まだ駄目だ」
「まだ? 人事と直接話しちゃいますよ」
「話しても無駄だぞ」
辞表を出しても受け取ってもらえないのだろう。アビバアルを連れ帰るための手続きを済ませて帰路に着いた時、ハスドゥルバルはてっきりすぐに仕事に戻るのだと思っていた。
まだ駄目に決まっているなどと言われて、せっかく実家から回収した業務用の端末は取り上げられてしまった。なぜそう決まっているのか納得させてもらえないまま、ハスドゥルバルの過ごす日々は場所があの館からこの部屋に変わっただけだ。部屋の出入りが自由であるところだけがまだましではあるというだけ。
「こんなに退屈で、帰ってきた意味がない
……
そうだ、タグスと会ってみようかな、安心させてあげたいから」
そう言うなり奪い取られたぬいぐるみはテーブルの向こうへ弧を描いて、床に落ちた。大人げない。
「あれには連絡したんだろう」
「しましたけど
……
元気な姿を見せてあげるのがいちばんでしょう?」
「見せるな。声を聞かせてやる必要もなかった」
タグスはアビバアルと同じくらい嫌われていた。経緯を思えば分からなくもないが、ハミルカルに何をしたわけでもない気のいい青年である。あの日以来はじめて連絡を入れると喜んでくれて、もう関係は終わったものとして話をしてくれた。なんて物分かりがいいのかと呆れたハスドゥルバルの方から、友人にだってなれるだろうと言ったのだ。
あれも駄目これも駄目。戻って以来ハミルカルは仕事と家族への埋め合わせに追われ、ハスドゥルバルが彼の顔を見たのは今日で二度目だった。今日という貴重な休日をここで過ごすことにした意味が分からないわけではないけれど。
猫にへばりつかれて暮らしているせいで、何も抱いていないと物寂しい。静かになった寝室の様子を見ようとソファを立ち上がりかけたハスドゥルバルは、伸びてきた腕に引き戻された。
抱き寄せられると体は勝手に強張った。隣に座るのだって正しく距離を空けるのに慣れて、十年かけて育てた意識はまだこれはいけないことだと訴えかけてくる。ハスドゥルバルを腕の中に収め、どこに行くのかと尋ねる方にはそんなぎこちなさはなく、理不尽に思えた。
「せっかく来た客をほったらかしか?」
「知りません。お仕事でもなさったら」
どうせ荷物にはラップトップや資料が入っているのだ。顔も向けず身を委ねないでいるとハミルカルは何か言いかけ、思い直して口を閉じた。多分、何を拗ねているのかと言おうとしていた。
ハミルカルが引っ掻き傷だらけの手を取る。せっかく逸らした関心が戻ってきてしまった。痛くないのかと問われて、ハスドゥルバルは何も言わなかった。
こうして近くで見つめると、ハミルカルの手とて誰も手入れをしてやらないからか、指先が荒れていた。爪も艶がない。抱き合いもしないくせにこの指先にオイルを塗ってやっていた、それで安らいでいた日々の長さをこのところ取り返しのつかないもののように感じた。
「もう手で遊ばせるなよ」
「どうしてそんなに拘るの?」
「お前に傷がついているのが嫌だからだ」
「
……
でも、甘えてくれるのが可愛いから、だめなんてとても言えないんです。アビーが甘えてくれなくなったら大人しくしているのに耐えられないかも」
「そんなに甘えられたいなら私が甘えてやる。だから噛ませるのも引っ掻かせるのもよせ」
まじまじと顔を見返してしまった。こうも偉そうに甘えると宣言する人間が他に存在するだろうか。彼の長男あたりは、まあ、似たようなことを言い出しそうではある。この開き直ったような憮然とした顔が親子でよく似ている。
ようやく、ハスドゥルバルはハミルカルに凭れかかった。躾の方法について調べてみると言うととりあえずは満足したようだった。
時計を見れば十四時を過ぎていた。ハミルカルは日曜だというのに午前中は仕事をして、それからここに来ていた。手近にオイルもクリームのないのでとりあえず手のひらを揉んでやりながら尋ねる。
「今日は、お泊まりになるおつもりですか?」
アクセス権限まで停められてメールやスケジュールさえ確認できないので、ハミルカルが明日何をするのか、どこにいるのかもハスドゥルバルは知らなかった。
「申し訳ないのですが、客間が使えないんです。アビーがベッドで粗相をしてしまって」
環境が変わったストレスがあったのだろう、最近ようやく落ち着いてくれたけれどあちこちで粗相を繰り返すうち、客間のマットレスは駄目になってしまった。年数も経っているし買い換えるつもりでいる。
返事がないのでハスドゥルバルは顔を上げた。
「夕食だけここで済まされますか? でもそれだとお帰りの頃には子供たちは寝てしまっていますよね」
仕事が立て込んでいるがここには来ないということは、無理をしてでも自宅に帰っているということで、できる限り子供たちの顔を見たいのだろう。結局は、きちんと家に帰って共に時間を過ごすのが幼い子供たちをいちばん満足させるのだから。
なおも返事はない。ハミルカルは何かものすごく苦いものを食べさせられたような顔になっていった。
「客間で寝ろと」
「いえ、客間が使えないので」
「あれも客間で寝かせていたのか」
タグスのことならもちろん寝室で一緒に寝ていた。彼に客間を使わせる方が問題があるだろう、ハミルカル以外にあの部屋で休む人間はいない。
長いため息をついて、ハミルカルがハスドゥルバルの肩に頭を乗せる。それでどうするのだと問おうとした時になって、そういえばとハスドゥルバルは思い出した。いまは彼が恋人なのだった。おそらく。たぶん。そうとは言われていないが。
「あの
……
寝室だとアビーと一緒に寝ることに
……
」
ひとりで眠るよう躾けろと呻くように言われて、そればかりは嫌だとハスドゥルバルはその頭を撫でた。
アビバアルはハミルカルを嫌っているわけではないらしい。
音もなく忍び寄り足に噛みついてステップを踏みながら逃げたり、ハミルカルのいる部屋の扉の前で待ち伏せをして肝試しをしたり、それは敵意によるものでなく遊びだった。確かに懐いているとは言えないが、遊び相手として一応は受け入れている。
そう教えられてもハミルカルは心底どうでもよさそうだった。猫もやきもちを焼くということをするらしく、ハスドゥルバルがハミルカルのそばにいると必ずと言っていいほど抱き上げるようせがみいつまででも鳴き続けるアビバアルを、本当に邪魔そうに見ている。
「痛いっ!」
目を丸くした仔猫が手に噛みついた口をぽかんと開いた。
その手を引っ込めて、ハスドゥルバルはさめざめと泣く、ふりをした。膝からラグの上に転がったアビバアルが戻ってきて伏せた顔を覗き込もうとするのを避けると、めげずに頭を押し付けてくる。そのふわふわとした額が頬に当たる感触に、泣き真似でなく肩が震えた。
「心配してくれるの?」
こんなの、笑わないでいられない。抱き上げた仔猫はひしとハスドゥルバルの首にしがみついた。
「おい」
「アビーはなんて優しい子なんでしょうね
……
」
「躾はどうした」
「したじゃないですか」
もう噛みつきも引っ掻きもせず喉を鳴らしている。ハミルカルは物言いたげだったが、数日ぶりに見たハスドゥルバルの手に新しい傷がほとんどないので黙ってリモコンを持ち上げた。
文句を言うために彼がわざわざ一時停止していた映画は、ハスドゥルバルにはちっとも面白く思えない。この暴れん坊がどこか傷めることがないように敷いた厚手のラグの上に横になって、しがみつく仔猫を抱いたままクッションに頭を乗せた。
金曜の夜だが、毎日猫のように過ごしているハスドゥルバルにはハミルカルがいることの他は何も特別なことがなかった。ひと月ほど滅茶苦茶な働き方をしたおかげでハミルカルはまともな週末を過ごせるらしく、明日の朝には自宅に戻ると言う。
「この俳優に似てると言われたことがあります」
主役を殺そうと暴れ狂っている女を指さすとハミルカルはそれを言った誰かを鼻で笑った。ぼんやりと画面を眺めているとまた映像が止まる。ハミルカルが訝しげに耳を澄ませる仕草をした。
「何の音だ?」
「
……
アビーが首を吸ってる音ですか?」
それとも喉を鳴らす音の方か。前足を踏みしめながら首の柔らかいところを吸うのは、この部屋で暮らすようになってから見せ始めた行動だった。これも猫なりに甘えているらしい。
「指や耳朶を吸う猫もいるみたいです」
「痛くないのか」
「たまに
……
。ハミルカルさま、集中なさりたいなら他の部屋に行きますよ」
どうもハミルカルも真剣に観ていないようだからそばで猫と遊び茶々を入れていたのだけれど。
彼にとっては奇怪な行動しかしない生き物をますます疎ましげに見たハミルカルが、渋々という顔で言うには、前回ここに来た後でハンニバルが猫の存在に気付いたと。
父親のジャケットに取り切れていなかったアビバアルの毛を見つけたハンニバルは、どうして猫の毛がと尋ねる前にどこに行って来たのか、誰と会ったのかとハミルカルに尋ねた。ハミルカルはハスドゥルバルの名を出した。ハンニバルはまだ、ハミルカルがこの部屋を訪れるのを自分がマハルバルの家に遊びにいくのと同じように思っている。
ハンニバルは自分の父親が野良猫を撫でたりしないことを知っている。動物と触れ合うような仕事も趣味もない。周囲に猫を飼っている人間はいなかったはずだが誰かが飼い始めたのだ、と子供は思い、それはしばらく顔を合わせていないハスドゥルバルに違いあるまいと結論づけた。
「猫を見たいと言っている」
「アビーは、多分大丈夫ですが
……
ここにハンニバルを入れるというのが
……
」
ハミルカルがここに来るのを意味深に捉えない人間の方が少ない。かと言って猫が見知らぬ家に連れて行かれて初対面の、それもアビバアルにとっては未知の存在である人間の子供の相手などできるか。
愛息子に顔を合わせるたび猫が見たいとねだられ続け、ハミルカルは折れかけている様子だった。自分だけずるいとまで言われているらしい、足を噛まれているのに。
「奥様がいいとおっしゃるのなら」
「それは問題ない。明日連れてくる」
「え? 明日?」
聞き間違いかと思ったのに、ハミルカルはお前に予定なんかないだろうという顔である。誰のせいだと思っているのか──似たもの親子は本当にその翌日やって来た。
ハンニバルは来る途中で買ったらしい、紐の先に小さなぬいぐるみをつけ替えるこのとできる猫じゃらしをしっかりと手に握っていた。
「ハンニバル、久しぶりだね。それは?」
「猫へのおみやげ」
他にもいくつか買ったらしくもう一方の手に紙袋を提げていた。挨拶もそこそこに子供は部屋の奥を覗いたが、アビバアルは見知らぬ人間の気配を察して隠れてしまっていた。
弟たちは一緒ではなく、ハスドゥルバルは犬のほうがいいと言い、マゴーネはただ行かないと言ったそうだ。姉たちは猫は見たいがあの顔は見たくないとかどうとか。全員にやって来られればアビバアルの方が参ってしまうだろうからちょうどよかった。
リビングに入って猫を探すハンニバルを、ハスドゥルバルは好きにさせることにした。ハミルカルから受け取った紙袋には、猫ではなく人間への手土産が包まれている。有名店ではないけれどバルカの人々がしばしば利用する店のケーキは、子供と猫が落ち着いてからにしようと冷蔵庫に入れる。
大人たちはなんとなく物音も立てず口を噤んで、子供が猫を探すのを見守っていた。ダイニングテーブルに落ち着いたハミルカルも、流石にこの時ばかりはアビバアルを邪険にする気配を隠している。
カーテンをめくったり家具の下を覗いたりしていたハンニバルが、リビングボードに置かれたドーム型のベッドを覗いてこちらを振り返った。ハスドゥルバルの方を見るので近付けば確かに中にアビバアルが息を潜めているようだった。
「寝てる?」
「どうかな
……
」
そっと手を入れて引っ張り出した仔猫はすぐに逃げ出したりはせず、おとなしくハスドゥルバルの腕に抱かれる。ラグの上に座ってしばらく撫でてやっていると至極落ち着いた様子に思えた。
ハンニバルはその顔を正面から見ることなく、そうっと鼻先に手を差し出した。予習もしっかりしてきたらしい。アビバアルがその手を嗅いで嫌がる様子を見せないので、顎の下を撫でるよう促してみると、上手に指で掻いてやっている。
「アビー、この子はハンニバルだよ。アビーと遊びたくて来てくれたの。どう? 遊んであげる?」
ハスドゥルバルが額を撫でてやると喉を鳴らし始め、既に人間たちに構われてご満悦といった様子である。何の心配もいらないだろうとハンニバルの膝に乗せた仔猫は、自分から子供の顔を覗き込んで鼻先をくっつける挨拶をした。
少しぎこちない手つきでハンニバルが体を撫でても噛み付かずにいる。人懐っこい仔猫はすっかり子供の存在を受け入れていた。あの館でも使用人たちに懐いていたし、ボミルカルにもすぐに慣れていたのだから、ハミルカルへの態度だけがおかしいのだ。
「ハミルカルさま、アビーのおやつを取っていただけますか。上の戸棚に
……
いつから撮ってらしたんです?」
それもスマートフォンではなくハンディカメラを構えている。当の被写体はカメラの存在などあってないようなものという様子だった。
撮るのに忙しいという仕草をされたので自分でキッチンの戸棚から一日に一袋だけと決めているおやつの小袋を取り、ハンニバルの手に数粒を落とした。その手にしがみつく勢いのアビバアルが手のひらに顔を突っ込んでくるのをハンニバルがくすぐったいと笑う。
「ハンニバルを気に入ったみたいだね」
「もっと難しいかと思った、父上は嫌われてるって言ってたから」
「お父さんはアビーの喧嘩友達なんだよ」
「
……
仔猫と、けんか?」
意味が分からないと言いたげな目線がカメラに送られたが父親の返事はなかった。今度足を噛むところを動画に撮っておこう。
持参した猫じゃらしで遊び始めた猫と子供のそばを離れる。猫じゃらしを使うのがハスドゥルバルよりよほど上手いハンニバルに操られるようにしてアビバアルが高く飛び跳ねるのを、カメラの画角から出てしばらく見守ったが、見守る必要さえなさそうだった。
カメラを構えるハミルカルは自分の存在をアビバアルが思い出さない距離を保って、その横顔は穏やかなものだった。
昔は、努力して息子たちに甘い顔をしないようにしていた。厳格と言うほどでもなかったけれど線引きをはっきり示しながら、彼らが軍を率いる立場に相応しく育つよう注意を払っていたものだ。可愛いと思えばそう口に出してなんら問題がないというのは幸せなことだろう。
ハンニバルとアビバアルの無尽蔵と思える体力が尽きるまで遊びは続き、おやつにしようというハスドゥルバルの声にハンニバルが振り返る頃には夕方になっていた。
「また見に来ていい?」
帰り際、遊び疲れて眠ってしまったアビバアルを撫でながらハンニバルはそう言った。せっかく仲良くなったのだから忘れられてしまう前にまた会いたいと、可愛いことを続ける。
実のところ、連れて帰ると言い出すかと思っていた。この子にそう言われたら、ハミルカルがこの子のお願いに負けてしまったら、譲らないでいられるだろうかと少し心配してさえいたのだ。ひとりで過ごすのはあまりに寂しいから。
「もちろん。お父さんとお母さんがいいと言ったならね」
「うん。母上には自分でお願いする、今日もそうしたから」
「
……
そう。でもあまりお母さんを困らせないようにね」
「なんで母上が困るんだ」
「私が君にアイスをいっぱい食べさせるような大人だからだよ」
結局あれについてはお叱りを受けていないけれど。ハンニバルはそれもそうかという顔になって、名残惜しげにしながら立ち上がった。
父親によく似た面差しがこちらを向いて、ハスドゥルバルの特に変わりないだろう姿を上から下まで眺める。
「ちゃんと帰ってきてよかった」
ハンニバルがそう呟き玄関に向かうと、ハスドゥルバルはその場に取り残されたような気分になった。ボミルカルの言では不在を誤魔化し、起こったことについて何も話していないはずだが、あの子が相手ではまったく通用しなかったらしい。どんな理解をしているのか、少し誤解があるような気もする。
親子が帰りしばらくして、お腹を空かせて起き出してきたアビバアルは、あの小さな人間はどこだとしばらく鳴いていた。
どうやらハミルカルの言う「まだ駄目」は警備体制の問題だったらしい。
玄関扉の向こうで繰り広げられている応酬と、激しい物音を聞きながら、ハスドゥルバルは腕の中で小さく身を縮めているアビバアルを撫でた。扉を閉めた寝室の隅で,上着の中に潜り込んだ仔猫は震え続けていた。
静かになってしばらく、インターフォンが鳴らされて、アビバアルがハスドゥルバルの腕に思い切り爪を立てた。寝室に残してやるのがいいと思いながらも引き剥がせずに抱いたまま玄関に出て、見知った顔を前にため息が出たのは、多分安堵のせいだっただろう。
「ヒミルコ殿が来られる必要はなかったでしょうに」
「それはそうだが、行けと言われればな。それに私も心配だったから」
久しぶりに見た旧知の顔に微笑んで、アビバアルにつられて緊張していたらしいと分かった。
すぐにオフィスに戻ることはあるまいと家の中に招き入れたものの、アビバアルがしがみついたままでは紅茶を淹れることもできない。ハンニバルに用意して残っていたフルーツジュースの缶をテーブルに置くとヒミルコは何も言わずにプルタブを引いた。椅子に落ち着いて向かい合って見ると疲れが滲んでいる。
「今回は顔見知りではないんだよな?」
「見覚えはあります、話したことはありません」
アビバアルは、留守番ができない。
最初に試したときには、たった三十分の外出でも玄関先で鳴き続けて声を枯らしてしまった。相性のいいハウスキーパーのいる時間に出かけるとまだましだが、ひとりきりにされるのをひどく嫌がる。それでも近いうちに仕事に出るようになるのだから慣れさせなくてはと、ハスドゥルバルは目的地のない散歩などをして留守番の練習していた。
決まった道があるわけでもない、気侭にただ歩くだけで、同じ顔とすれ違っていることなど意識しなかった。そのうちのひとりがハスドゥルバルの顔をじっと見ていたらしいことも、今日はすれ違ったあと後ろをついてきていたことも。
セキュリティの充実しているはずのマンションに入り込んで、ハスドゥルバルが玄関を開いたところに押し入ろうとしたのをどうにか突き飛ばし扉を閉め、当然ながらハスドゥルバルはすぐに警察に通報した。ここを住まいとしてから何度も通報しているうえ刺されたのも近所なので管轄の警察官とは顔馴染みになってしまっている。しかし、警察より先にもっと古い顔馴染みたちが男を取り押さえたのだった。
従者、便宜上そう呼んでいるバルカ家の警護担当者たちはハスドゥルバルにも割り振られることになったらしい。
「最初から私に話を通していればセキュリティに手こずることもなかったのに」
「
……
ここに住んですぐのこと覚えてないのか?」
「え? 何かありました?」
「大学時代のストーカーがついてきただろ」
「ああ
……
」
オフィスのエントランスで騒ぎを起こされて大変だった。色々と心外なことを大声で言っていた、騙したとか、淫売とか。ハミルカルのそばにいるとそう見えるらしい。あれで社内での印象が悪くなってしまったのだから迷惑な話だ。
「あの時もハミルカル殿は人をつけようとしただろう。それをハスドゥルバル殿が鬱陶しいって言うから
……
」
「今回はこっそり付けようと?」
「もうこっそりじゃないから言うが、あいつらが追いつけるくらいにおとなしく過ごしてくれ」
ハスドゥルバルはにっこり笑って、上着の中のアビバアルを撫でた。ヒミルコも期待はしていなかったのか言い募りはせず、缶を傾ける。案外甘いものが好きなのだ、親子揃って、そう思ってから思い出すものがあった。
「マハルバルは元気ですか。余計なことを言われて落ち込んでいません?」
ヒミルコは目を丸くして、咄嗟に元気にしていると言おうとした。しかし口籠もり、最近は調子を取り戻していると正直に言った。あの子には嫌なことを思い出させてしまったし、さまざまなことを連想させただろう。意識せずともずっと恐れているようなことを。
「あなたが元気な姿を見せてやってくれ、そうしたら落ち着くだろうから」
「ハンニバルと一緒に猫を見に来るよう伝えてください。アビーは子供が好きみたいです」
「アビー? ああ、その膨らんでるのが猫か」
もう爪は立てていないが脇に顔を突っ込んでじっとしているアビバアルに出てくるよう促してみるとそろりと顔を出したが、ヒミルコと目が合うなりまた戻ってしまった。
さほど猫に興味のないらしいヒミルコがスマートフォンを見て、そろそろ戻ると席を立った。
「ハミルカル殿が仕事を片付けられ次第ここに向かうと仰ってるが」
「今日はアビーが怯えると可哀想なのでご自宅に戻られるよう勧めてください」
「
……
ハスドゥルバル殿のせいでハミルカル殿は猫のことを毛玉とかけだものとか言うんじゃないか?」
「まさか」
とにかく、こんな週の半ばに必要もなくわざわざ来てもらうほどのことは何も起こっていない。そう伝えるよう頼んで、ハミルカル当人からの連絡が何もないのでハスドゥルバルはすっかり彼が来ないものと思っていた。
いつもよりも早く寝支度を済ませ、ひとりでベッドに入った。アビバアルはあんなに甘えたがりのくせに時々ひとりの時間を過ごしたがるところがあって、今夜は一緒に寝てくれないのだろうかと思っていたとき、軽い足音が玄関の方に駆けて行った。
それに遅れて鍵の回る音がして、扉が開く。いい加減にしろとか踏むからどけとか、そんな声がして、ハスドゥルバルは寝室を出た。
「ハミルカルさま?」
アビバアルの首根っこを掴んで捕まえたところのハミルカルがこちらを見る。まだ二十一時を少し過ぎたところで、自宅に戻ろうと思えば戻れるはずだ。
眠気の晴れない頭のまま立っていると、アビバアルを床に下ろしたハミルカルが大股にこちらに近づいた。
「怪我は?」
「していません、ひとつも。ヒミルコ殿にもお伝えしたはずで
……
」
「お前が誤魔化したらヒミルコには見抜けないだろう」
それはそうだけれど、今回ばかりは何も誤魔化していなかった。揉み合いになったとはいえ擦り傷もない。何事もなかった部類に入る。
ハミルカルはちっとも納得していない顔で分かったと頷いた。
「それなら
……
もうお帰りに?」
「泊まる」
「はい
……
」
ジャケットを受け取って、夕食はと尋ねると済ませたと返事があった。ならばすぐ浴槽に湯を張り直さなければと思うのに、ハスドゥルバルはその場に立ち尽くしていた。
その足元にするりと柔らかい感触があって、体を擦り付けながら足の間を通り抜けたアビバアルがリビングに入っていく。またハミルカルにちょっかいを出して叱られているのを、もう飽きるほど繰り返されたやり取りのように感じる。
慣れ親しんだ匂いのするジャケットを抱き締めて、頭がぼんやりとしているのはもう眠いからではなかった。
入浴にさほど時間をかけないハミルカルを待つのはまったく苦ではなかった。ただ、それが自分の寝室で待ち構える格好になるのにはなんだか慣れない。
もう何年も彼の休息の場だったのに、客間はすっかり用無しになっている。猫が入り込んでこないのを確かめながら扉を閉めたハミルカルが、ハスドゥルバルがシーツの上に座り込んでいるのを見て目を瞬いた。
「寝ていなかったのか」
「なんだか目が冴えてしまって」
それはすまなかった、と悪いと思っていなさそうに言われてハスドゥルバルは薄く笑った。それなりに拘って選んだクイーンサイズのベッドは、彼が隣に並んでも窮屈さを感じさせなかった。寝そべったハミルカルが広げた腕の中に収まってしまうと、広すぎるくらいだ。
ハミルカルはまだ疑っているような慎重さのある手つきでハスドゥルバルの顔や頭を検め、首元や肩を確かめた。それから手を取って、消えかかった引っ掻き傷だけを見つける。
「もう噛んだり引っ掻いたりしなくなりましたよ。アビーは賢い子ですから」
「ああ、そうらしいな。賢いかどうかはともかく」
「そうやって、ヒミルコ殿にもアビーの悪口を?」
「愚痴くらい言わせてくれ」
くすくすと笑い声を立てるハスドゥルバルの髪を、こちらも荒れたところのなくなった手が撫でる。それに安らいだ心地がして、彼の手のひらに頬を寄せた。
「来てくださって嬉しい」
「来るなと言っておいてか?」
「だって
……
忙しい時期だもの、お疲れでしょう? 出張のない日くらい子供たちの顔を見ていただきたいし」
それでもここに来てくれて、迷惑に思うはずがなかった。異様な形相の人間が突進してくるのを見れば、その手に何か握られているのではと思う。またあの痛みを味わうのかと思うとやはり身は竦む。それは死を恐れるかどうかとは別の感覚で、どうしようもなかった。その嫌な感触さえ、ハミルカルに触れていると思い出さずに済む。
今夜はここで過ごして、明日はどうするのだろう。朝は早いのだろうかと、先回りして確かめられないのがもどかしかった。
「ハミルカルさま」
囁くように呼べば穏やかな眼差しが返ってくる。それで彼がこのまま眠るつもりだと分かったが、朝早く出ていってしまうならもう少し話していたかった。
「ね、甘えてください。約束通り」
数秒の間、ハミルカルは何も言わずに相手の顔を見つめていた。具体的に何をどうするのか決めていなかったのだろうとハスドゥルバルはすぐに言葉を打ち消そうとしたが、手首を引っ張られる。
ぽすんと彼の頭にハスドゥルバルの手が置かれた。ハミルカルの髪はすっかり乾いて、整髪料の落とされた少し硬い感触が手のひらに伝わる。それで意図が分からないほど鈍くはなく、髪の流れに沿って手のひらを滑らせるとハミルカルは満足げに目を閉じた。
その仕草を猫みたいだと思ってしまって、口に出さないよう無心に手を動かしていると、ハミルカルが布団の中に潜り込む。その額が胸に押し当てられるのと、彼の腕が体に回るのは同時で、ハスドゥルバルは思わず手を止めた。
止めるなと言う代わりにぎゅっと抱き寄せられる。見下ろしても視界に入るのはつむじばかり、シャンプー類にこだわりのない彼の髪から自分と同じ匂いがした。
形の良い頭をまた撫で始めたハスドゥルバルは自分の心臓が落ち着いていることに感謝しなくてはならなかった。やり方が猫と同じせいでこれが甘えているのだと理解できてしまったのだから。わずかに腕の力を抜いたハミルカルの吐息を布越しに感じるに至って、鼓動も呼吸も落ち着いているのに心臓に差し込むような痛みを覚えた。
もしかすると、不安にさせてしまったせいかもしれない。昼間の出来事くらいのことはこれまでも何度もあったけれど、ハミルカルの頭にはまだ最悪の事態がちらつくのだろう。ならばこれもいっときのものかと思うと、あまりにも惜しかった。
「ずっとこうしていたい
……
」
思わずそう呟いて、寝かしつけるつもりで髪を梳く。腕に抱き込んだ頭が動いてハミルカルの顔が覗いたが、彼は訝しむように眉を寄せていた。
「ずっと?」
「また一緒に寝るときは、こうさせてください。ずうっとこうして
……
」
「ずっとこうして、何もせずに眠れと?」
ハスドゥルバルがこの部屋に戻ってから何度か、ハミルカルはこの寝室で眠ったが、眠る以外のことはしなかった。寝室に入れろとアビバアルが鳴き続けて、ハスドゥルバルにくっついて寝るのだから仕方がなかった。いつもあの仔猫を抱いていたから彼がそばにいてもそのことを考えないで済んでいたのだ。そうなってほしい、けれどそうなるのが怖い、そんなふうに思い悩まなくてよかった。
そうではない、とハスドゥルバルは思い直していた。ハミルカルが自分に触れないことでずっとハスドゥルバルは寂しい思いをしてきたが、こんなふうに甘えてもらえるならそれはなくとも我慢できる。
ちょうどいいと思うんですとハスドゥルバルは微笑みを浮かべた。
「私ももう、若くもないし、あなたの他を知っていて、興醒めするような傷までできてしまって
……
もうハミルカルさまに差し上げられるものなんてないでしょう。だから、これからはこうして
……
」
「嫌だ」
「
…………
」
「いくらあの毛玉のお陰で我慢強くなったとはいえ生殺しもいいところだ」
「生殺しって?」
それは、彼の隣に座って寄り添わず、腕を抱かずに手にばかり触れるようなこと? こんなふうに髪に触れたり互いの体温に包まれたりせずに、じっと目を覗き込むことも避けるようなことだろうか。彼はずっとそれで満足していたと、その口から確かに聞いた。
腰にただ置かれていた手が際どいところに下りてハスドゥルバルは思わずそれを掴んだ。起き上がることも離れることもしなかったけれどその手を自由にすることもできず、ハミルカルを見つめる目には困惑が滲んだだろう。
掴んだと言ってもただ制止しただけのハスドゥルバルの手から簡単に抜け出して、ハミルカルの指がぐっと腰に食い込む。
「私に触れられるのが嫌なのか」
「
……
どうして? 私じゃなくて、ハミルカルさまが
……
その気になられなかったんでしょう? 私がもっと美しかったときだって
……
」
「私がイベリアで最後に見たお前は
……
」
ハミルカルが一度言葉を切ったのは、ハスドゥルバルがはっきりと悲しみを顔に浮かべたからだった。
「
……
いまよりも年を重ねていたが、美しかった。私はお前の若さを食い散らかして捨てた覚えはないが、そう思っているのか?」
それにはハスドゥルバルがはっきりと否を言うと、ハミルカルは額から力を抜いた。
「分かった」
「よかった、それじゃあ
……
」
「まずは行動で示そう。それが早い」
「え?」
視界に影が落ちて、自分がシーツに背をつけている、つまり仰向けになっているのに気がついた時には、両方の手を抜け出せない強さで押さえつけられていた。
見上げたハミルカルは穏やかな、優しげでさえある笑みを浮かべた。待って、とその時ばかりでなく一晩中ハスドゥルバルは言ったのに、彼は一度も待ってくれなかった。
アビバアルは朝五時に起きる。
自動給餌器はもっと遅い時間に設定しているし、そんな習慣にした覚えもないのに、空腹に耐えられない、自分はこの世で最も飢えた哀れな猫だと鳴き続けるので、ハスドゥルバルはほとんど毎日一度起きてその要求に応えていた。
その鳴き声がすぐ近くに聞こえているのに目蓋が上がらず、細く呻く。腕も上がらないのでアビバアルがどこにいるのだか分からない。
やっとのことで目を開いたとき、薄茶色の毛並みが鼻先にあった。ハスドゥルバルが起きたことに気がついたアビバアルが枕元でまた一際大きく鳴き声を上げる。
「わかった、ごめんね、すぐ用意するから」
ハスドゥルバルを叩き起こしておいてこんなことを言わせるのはこの仔猫だけである。とにかく重い体を引き摺るように起こし、自分が長衣を着ていることを少し意外に思いながらベッドから足を下ろす。寝室にハミルカルの姿はなく、もう出て行ったのだろうかと、開いたドアのところでハスドゥルバルを待つアビバアルを追おうとした。
しかし立ち上がった途端に、かくんと脚の力が抜けてその場に座り込んだ。
床に手をついてしばし、虚脱に近い心地でいた。経験からしばらく立てないことが分かっていたがアビバアルは鳴き続けている。
「おい、お前の飼い主はまだ
……
どうした?」
出て行っていなかったハミルカルは、そう尋ねてから仔細を把握したらしい。足元をうろうろと忙しないアビバアルを辛うじて蹴らずに近づいてくる。
「
……
そいつのパウチの餌ならやった。猫のくせに人間を騙そうとしているぞ」
「え、ああ
……
、ありがとうございます
……
」
「まだ七時だ、寝ていればいい」
ハミルカルはそう言ってハスドゥルバルを支え起こしベッドに戻そうとしたが、余韻など消え去ったさっぱりとした彼の風情に思ったことがそのまま口をついて出た。
「おふろ
……
」
「風呂? 湯に浸かりたいのか?」
頷くと手を取られてベッドに座らされ、ハミルカルは準備がいるとさっさと出て行った。
ふらりと横向きにシーツへ倒れ込む。指先まで満ちた気怠さがまた眠りに引き込もうとするのに抗いがたく、目蓋がまた落ちた。アビバアルがハミルカルを追いかけていって、多分また足に襲いかかったのだろう、叱るのが浴室の方から聞こえる。
しばらくして足音が寝室に戻ってきたが、彼は何も言わずそばに腰掛けて、微睡みを破らぬようそっと肩に触れた。目蓋は腫れぼったくひどい顔に違いないのに、準備ができたと揺り起こすまでずっと、ハスドゥルバルを見つめていたようだった。
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