遊音。(ゆね)
2026-04-10 20:54:21
4838文字
Public 記憶喪失
 

かりそめ。

トガカバ(tgkb)でtgsが記憶喪失な話です。捏造設定あり。kbkがちょっと乙女です(当社比)。シリアスめです。

トガシが劇的な復活を遂げた日本陸上の100メートル決勝戦。ゴールしたトガシはそのまま倒れて、病院へ運ばれていった。
次にカバキが会った時、トガシはカバキの知るトガシではなかった。文字通り――記憶を失っていたのだ。
名前も、これまでの人生も、もちろんカバキのことも。そして陸上のことさえも。
代わる代わるいろんな人がお見舞いに行っても、トガシは何も思い出さなかった。足の手術に加え、混乱し続けていたため暫く入院することになったトガシを訪れる人は次第に減っていった。場所も本来住んでいる東京ではなく大阪だったのも原因かもしれない。
カバキは実家が近いという理由で毎日通った。二言、三言会話をして状況を確認するだけだが、それでも毎日通った。
ある日、動かせない足をそのままにベッドに座っていたトガシが困惑したような笑顔をたたえながら、聞いてきた。
『あ、のさ。カバキ……くんと僕ってなんか特別な関係だった?いや、なんか陸上関係者に聞いてもそんなに仲良かったとかじゃなかったみたいなのに、こんなに毎日来てくれるから……不思議だなって』
ふとした出来心。
そうだったら良かったのにという願望。
都合のいい状況につけ込んだ嘘。
一瞬で駆け巡った思考が、思わず口をついて出てしまった。
『俺……トガシさんの、恋人なんです』
トガシが目を瞠るので、カバキは慌てて訂正しようとした。ただでさえ混乱しているところに、恋人が男だなんてことを伝えてどうするのか。しかも嘘なのに。余計な情報をあたえて悪化したりしたらどうしよう、とカバキは慌てる。
『すみません、ホントはちが……
『なんか……そんな気がしたんだよね……
トガシは柔らかく笑ったかと思うと、拒否でも驚愕でもなく、後頭部を軽く掻きながらそう言うので、カバキは驚いた。そんなにあっさり受け入れらるものなのか。それとも実はトガシは、カバキに対して少なからず好意を持っていてくれていたのだろうか。
『思い出せなくて、ごめんね』
眉を下げて謝るトガシに、カバキは胸が少し痛むと同時に高揚する。嘘なのに謝られて何と言っていいかわからず、カバキは黙ったまま首を振ると、トガシの手が伸びてきて、そっと右手を握られた。
後戻りできない嘘が始まって、カバキは後ろめたさと高揚感を同時に覚えていた。


「カバキくん、これ、こっちでいい?」
段ボールを持ったトガシが玄関で叫んたので、カバキはマスクを顎にずらして叫んだ。
「それキッチンにおねがいします!」
トガシがキッチンに向かうのを確認すると、カバキは再びマスクをして室内の掃除を続けた。やっと2台分のベッドの組み立てと全部屋のカーテンを取り付けたので、掃除をしたらマットレスにシーツをかけないといけない。
カバキとトガシは今日から同じ場所に住むことになった。いわゆる同棲である。
入院を終えて東京の実家に戻ったトガシだったが、親族といえど結局トガシにとっては知らない人間であり、落ち着かなかったようだ。人生の軌跡をたどるように古い友人が学校や懐かしい場所に連れて行ったようだが、それでもトガシの記憶は戻らないまま日々だけが過ぎた。たまに様子を見に行っていたカバキだが、残暑の続く8月終わりに会った時に『カバキくんといるほうが落ち着くんだよね』と苦笑するので思わず一緒に住むかと聞いてしまった。トガシはすぐに『それって、すごくいいかも』と笑うのであっという間に同居がきまった。付き合ってるとは知らないトガシの両親には単純に感謝されたが、軽い気持ちで答えたカバキとしてはここまでになるとは思っておらず、内心不安を抱えていた。もし、いまトガシの記憶が戻ったらどうなるのか――という不安をよそに、あっさりとよい物件が見つかり引っ越しとなった。
こんな日がくるとはおもっていなかったな、とカバキは嬉しさを抱えつつ、はたしてこの関係がいつまで続くのかと悩んでもいる。傍に居れる嬉しさと、嘘をついている罪悪感がずっと付きまとう。
相変わらずトガシの記憶は戻っていない。日常的なことは分かるらしく、基礎的な学力も普通にある。単純に、これまでの自分の人生に関わる個人的なことがすっぽりと抜けている。クサシノとの契約もなくなり、陸上をしていたことも全く覚えていないというトガシだが、もし記憶が戻ったときに走れなくなっていると困るのではないか、という海棠の提案でリハビリを含めた筋力トレーニングだけはしている。だが、本人は与えられたメニューを淡々とこなしているだけで、不満や違和感も覚えていないようだ。ただ「足壊すまで走るなんて、よっぽど陸上が大事だったんだね」なんていうので、カバキは何と答えていいかわからなかった。陸上選手としての記憶がない今、練習メニューやリハビリの様子をカバキなら見守れる。そういう意味でも、一緒に住むのは好都合だった。たとえ記憶が戻っても混乱がすくなくてすむだろう。
トガシはいま、昔の友人の伝手で小さなスポーツ用品のお店でバイトをしている。本人はなぜかわかっていないが基礎知識はあるらしく、シューズの知識があり提案ができるのを自分で驚いていた。「俺ってほんとに陸上選手だったんだね」と笑ったトガシをみて、カバキは胸の奥がざわつく。陸上しか知らない人なのに、陸上でしか世界と繋がっていないような人なのに、その軸がなくなってこの人はどうなるのか。
当の本人はあまり気にした様子がなく、日々を困った様子もなく過ごしている。むしろ困らないということにカバキは驚いている。もっと混乱してもよさそうなものなのに、全部が新鮮、と言いながらトガシは楽しんでさえいそうだった。もともとあまり執着やこだわりを持たない人なのだろう。性格も大きく変わったところはなく、むしろ影や棘がぬけてただ爽やかな好青年という感じになった。こういう人だから、ただ走るのが早いということが軸になったんだろうとカバキは納得する。
「よし……
掃除とベッドメイクまで終わると、カバキはマスクを取って額に流れる汗を腕で拭った。暦的には秋にさしかかる季節とはいえ、まだまだ暑い。エアコンを入れようかと思ったが、開いた窓から心地よい風がふいてきたので、カバキは窓辺に向かった。郊外の高台にあるマンションの2LDKだった。7階なので窓をあけると風がよく通って気持ちがいい。近くには大きな公園があるのでジョギングにもちょうどいい。トガシのバイト先と、クサシノの練習場にもほどほどに近く、また都心にも出やすい。そこそこの広さだが、駅から遠い分安く、二人で折半するとかなり安かった。
「カバキくん、終わった?」
「終わりました。トガシさんは?」
「細々したものはあるけど、だいたい大丈夫かな。休憩しよ」
「コーヒーでもいれましょうか?」
カバキが頷いて提案すると、トガシはいいね、と笑った。
電気ケトルを段ボールから探し出して、カバキは電源をいれる。水を入れたポッドを設置しながら、スイッチをいれた。
カバキはトガシが好きだ。トガシに憧れて陸上をはじめて、同じ所属になりたくてクサシノに入った。はじめて会った時のことをよく覚えている。挨拶すると愛想笑いをして、握手をしてくれた。ただの社交辞令。この人は周りを見ていない。自分以外は何も見えていないのだなと分かった。そこから、目が離せなくなった。ロッカールームで、練習場で、本社で。会うたびに交わしたのはただの挨拶や世間話程度。トガシにとってはただの後輩、もしくは自分を追い越すライバルの対象くらいだっただろう。カバキには違った。会うたび、言葉を交わすたび、欲が増えていった。もっと知りたい、もっと話したい、もっと触れたい――この人の世界に入りたい。それが恋愛対象として好きだという感情だと理解するのにそれほど時間はかからなかった。だから隠していた。トガシに過去に彼女がいたことも知っている。男で年下でライバルになりえる自分のような人間がトガシの恋愛対象になるはずはないと分かり切っていた。だから、あの日、最初で最後のチャンスだと思ったのだ。これを逃したら触れ合うような機会などないと思ったから、願望が先に口を出てしまった。まさか、こうして一緒に住むようになるまでとは思いもしなかった。
明日記憶が戻るかもしれないし、十年後かもしれない。一生戻らないかもしれない。
今のトガシが、カバキが好きになったトガシと完全に一致するかといわれたらわからない。トガシはトガシだ。基本は変わっていないように思う。それでも、彼の軸である陸上がすっかりなくなった、走らなくなったトガシはやはり違う人間にも思えた。熱がない。影がない。はたして、それは自分が好きになったトガシと言えるのだろうか――カバキはごぼごぼと音を立てるポッドを見つめる。
「大丈夫、カバキくん?」
はっとしてカバキは我に返る。いつの間にか隣にきていたトガシがインスタントコーヒーを手に、顔を覗き込んできていた。
「すみません、ぼーっとしてて……あ、お湯沸きましたね」
くすりと笑ったトガシがマグカップを取り出す。粉をいれて用意したマグカップにトガシがお湯を注ぐと、片方のマグカップを渡してくれたのでお礼を言いながら受け取った。
「あとでさ、買い物いかない?お揃いのマグカップ買おうよ」
「いいですね、同棲ぽくて」
「でしょ。ついでにコーヒーフィルターとかも買おうかな」
口角をあげてみせるトガシがマグカップに口をつけた。トガシが珈琲を飲む人だったかどうかが思い出せない。会う時は練習場だったからスポドリを飲んでるところしか見てなかったな、とカバキは思い出す。飲み会で何を飲んでいただろうか。もしかしたらこだわりがあっただろうか。いや、なかっただろうな、と思い直す。飲物の嗜好すらろくに知らないのに、一緒に暮らし始めていいのか、とカバキは逡巡しながらキッチンにおかれたマグカップを見つめる。
「カバキくん」
呼ばれたカバキが顔をトガシに向けた途端、唇が何かに塞がれた。トガシの閉じた瞼と睫毛が見えるなと思ったのと、何をされたのかわかったのは同時だった。
……トガシさん……?」
唇が離れて、カバキは戸惑った声をあげる。
「ごめん、したくなって……もしかして、キスとかまだだった?」
……いえ、そんなことは……
とっさにまた嘘をつく。心臓の奥がドロッとした。思わず視線をはずす。
「ただ、まだ記憶、戻ってないから……
トガシは苦笑して頭を掻く。
「そうだよね。変だよね……カバキくんとの事も少しも思い出せないのにね……でも恋人だったらしてたかなって思って……僕じゃ……記憶の戻ってない僕じゃ、やっぱり嫌?」
トガシは記憶を失ってから一人称が「僕」になった。そこだけが違和感。それでも、同じ顔、同じ声、同じ体。
カバキに抗えるはずも、否定できるはずもない。トガシはトガシなのだ。
――やっぱり好きだ。
記憶がなかったとしても、変わらない、とカバキは思いながら首を振った。
「まさか……嫌なわけないです。トガシさんはトガシさんなんで」
……良かった」
微笑んだトガシの腕が腰にまわり引き寄せられる。再び唇が重ねられてカバキは目を閉じた。
ファーストキスは苦かった。


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またシリーズになります。七話か八話予定(たぶん)。好きなんです、記憶喪失ネタ
定期的に上げれたらいいなと思います。トガシの『僕』に違和感を抱えながら書いてます。
珈琲はね、二人ともそんなこだわりないと思います。二十代前半だから。量があったほうがよくない?ってインスタント買うと思います。
相変わらずカバキの付き合う人はトガシが初めてです。