遊音。(ゆね)
2026-04-05 20:19:03
8078文字
Public 約束シリーズ。
 

おまたせ。

約束シリーズ最終話です。ありがとうございました…!
tgkbです。


イヤホンから出力されて耳の奥に響く音は意味をなしたものではなく、カバキにとっては集中力を高めるためのものだった。
此処まで調子はよい。既に標準記録も突破しているし日本陸上の出場権は出ている。にもかかわらずこの地方の大会に来たのは、もしトガシが出るとしたら此処だろうと思ったからだ。あの日以来、トガシには会えていない。連絡も取れていない。他の競技会にも出ていなかったが、カバキは元々この試合だろうと思っていた。この試合が日本陸上への出場権を得るほぼ最後のチャンスになるからだ。トガシは他の競技会にエントリーはあったものの実際に出た履歴はなかった。おそらく今日に賭けてくると思っていたので、カバキは初めからエントリーすることを決めていた。果たして――数日前に出た確定エントリーリストにトガシの名前があった。予選は午前中に終わり、午後一で決勝が始まる。予選の組は分かれたが、決勝に残った名前を見て、カバキは少し口元を緩めた。
――やっぱり。
出走者一覧にトガシの名前を見てから、一度ロッカールームに戻ろうと通路を歩いていて、向かい側から現れた白いTシャツの姿に、カバキはデジャヴを感じた。
「カバキくん」
経った数か月だったはずなのに、ひどく懐かしい声だと思った。いつかと同じ、迷いのない顔がそこにあった。
「トガシさん……
「カバキくん、まだ約束、守れてる?」
不安のないまっすぐな声。でも分かる。きっと安心はしていない。カバキは黙ってトガシを正面から見つめる。沈黙がおりても、トガシは余裕のある微笑みを称えたままだ。
カバキは思わず微笑んだ。
トガシは一つも疑っていない。
「もちろん、ちゃんと守ってますよ。約束ですからね」
トガシはにっこりと笑うと、軽く頭を掻いて「じゃあ、トラックで。終わった後で、また」と言って歩き去っていった。
カバキは大きく息を吸って、吐いた。負けられないな、と思った。


トラックでスタート位置に着くと、カバキは何度かジャンプした。自分は3レーン。隣の4レーンはトガシだ。
いつもよりやけに心臓の音がうるさかった。あえて隣のレーンは見なかった。いつもと同じように。トラックでは自分のレーンしかみない。みな同じだ。スターティングブロックの位置を確認しながらカバキは思考をクリアにしようと努めた。視界の隅に赤が映る。怪我はもう完全に大丈夫なのか。完全に復活したのか。何を思ってそこにいるのか。ふとすると思考に邪魔がはいるのを退ける。
この場所は自分との闘いである。真剣に向き合わない方が失礼だと思った。日本陸上の出場権を手にしていたとしても、隣のトガシと真剣勝負できることのほうが大事だった。
どんな結果だろうと、スタートラインに立ったら全力で走るだけ、いや全力で走ることしかできないのだ。
カバキが位置に着くと、隣のレーンでトガシが位置についた。視線をトラックに集中させる。
赤茶色のレーンにだけを視界にいれる。いつもと同じスタートライン。何千回と繰り返したこの瞬間はいつもと同じ。耳を研ぎ澄ませ、この後響く音に集中する。
号砲と共に、カバキは足を蹴った。
クリアな視界。世界が白く開ける。前にだれもいない世界。いつもの光景だった。
カバキはより一層足に力を籠める。一瞬たりとも気を抜いたりはしない。
広いフィールドに、自分のレーンだけが見える。風を感じる。
このまま、クリアなまま終わるのだろうか、と一瞬だけよぎった刹那、真横から赤い風が吹いた。
自分を半歩追い抜いた、赤いユニフォーム。
カバキの口元が弧を描く。
追いかけたのは、彼の赤いユニフォーム。
追い越したのも、この赤いユニフォーム。
この人の視界に入るために、ずっと走り続けてきた。
カバキは思い切り足に力を込めて走る。並んだ瞬間、笑ったトガシが一瞬だけこちらを見た気がした。
カバキはトガシと二人、ほぼ並んで走る。
ずっとたどり着きたかった世界にいると、やっと実感した。
世界が煌めく。
やっぱり此処が良い――カバキは足に力を込めて微笑んだ。


すっかり人気がなくなった競技場を出ようとエントランスに向かうと、着替えてウィンドブレーカーを着たトガシが待ち構えるように立っていた。
「お待たせ、カバキくん」
微笑をたたえたまま、待っていたはずのトガシが言うのでカバキも少し口元を緩ませた。少し離れてトガシの前にカバキは立ち止まる。
「ほんとに……間に合わないかと思いました」
「いや……君にあのとき活を入れてもらわなかったら、無理だったと思うよ」
トガシは軽く頭を掻いて苦笑すると、微笑して見つめてくる。
「約束、守っていてくれてありがとう」
……やぶると思いました?」
「いや、まったく――カバキくんだから、信じてたよ。だから此処までこれた」
「感謝してください。連絡先全部ブロックされても好きでいてくれる恋人なんていませんからね」
「うん、ほんとに……カバキくんがカバキくんで良かった」
トガシが頷くので、カバキは微笑む。
「だから、俺も約束を守ろうと思って」
カバキは首を僅かにかしげる。
「約束、トガシさんが?」
「あはは、覚えてないかな。君を追い越したらちゃんと言うって言ったんだけど」
カバキは目を僅かに瞠る。
「今日は俺が勝ちましたけど?」
「0.01秒差でね。そうじゃなくて」
トガシは少し視線を落とすと「あの時、聞いたよね、俺」と言葉をつむぐ。
「俺のために死ねる?って。カバキくん、すぐ否定したよね」
問いかけるようにトガシが首を僅かにかたむけて視線を向けてくる。カバキはトガシが何を言いたいのかはかりかねて、小さく頷いた。
「俺はね、カバキくん。君のためなら死ねるよ」
――は?」
カバキは言われていることの意味がわからなくて、目を見開いた。
「俺が死んで君が助かるなら迷いなく死ねるよ。もし俺の足を犠牲にして君が助かるなら、迷いなく足を差しだせるよ」
トガシが一歩足を出して近づいてくる。カバキは一歩後ずさった。トガシが何を言っているのかわからない。
「あの日、君が公園に来てくれた日、もう陸上がなくてもカバキくんさえいればいいかな、なんて思ってた。でも、カバキくんのほうが、俺のこと何倍もわかってたよね」
トガシがさらに一歩踏み出した。今度はカバキは動かなかった。だが、耳に届く言葉が信じられない。
「俺はね、あのとき――走れなくなるより、君を失う方が怖かったんだ。カバキくんの言うとおりだよ。俺は陸上でしか世界と繋がれない。あのまま、走れなくなったら君まで失うところだった。君の言葉であらためて気づかされた。だから、必死になったよ。復活できるまで君に会わないって追い込んだんだ。おかげで、ここまでこれた」
トガシがさらに一歩近づいてきて、カバキの左手を取った。トガシの両手に包まれた左手が温かい。
「君が走るとき視界に映るのは俺でいたい。他の誰かじゃなく。俺だけがいい」
カバキの左手の上に重ねられたトガシの左手が、大事そうに手の甲を撫でてくる。トガシの右手にそのまま手が引き寄せられたかと思うと、手の甲側の指にトガシの唇が触れた。
「ねぇ、カバキくん。責任とってくれるかい?俺は陸上でしか世界と繋がれないけど、君なしではもう陸上には戻れない」
……ほんと、最悪ですね、アンタって……
なんて真っすぐでバカな人だろうか。カバキは先ほどまで感じていた感情を理解する。怖さだ。他人の人生が付きまとう重圧。けれど、カバキは笑った。このプレッシャーがたまらなく好きだ。生きていることを実感できる。
「勿論――だから責任取るって言ってます。トガシさんみたいな面倒な人と付き合えるの、俺だけなんで」
トガシが手から唇を離して笑う。
「良かった」
「それと――俺がトガシさんを救うことはあっても、俺のために死なせることはありませんから」
「ほんと、頼もしいなぁ、カバキくんは」
手に取られたままだった左手を引き寄せられて抱きしめられる。カバキはされるがままに、トガシの背中に腕を回し、その肩口に顔をうずめた。久しぶりにトガシの匂いを吸う。この人を追いかけてきた人生だった。そしてこれからもこの人に振り回される。トガシの世界に自分がいる。やっと夢じゃないと実感できる。目の奥が熱くなって、カバキはトガシの肩に強く顔を押し付けた。
「トガシさん……好きです、ずっとずっと好きです。一生好きです」
頭をくしゃりと撫ぜるように掴まれて、耳元に優しい呪いが吹き込まれる。
「うん、約束だよ、ずっと好きでいてね」
はい、と答えた声がトガシのジャケットに染みた。やっと、言葉が届いたとカバキは思えた。



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一旦ここで『約束シリーズ』おしまいです。お付き合いいただきありがとうございました!
この二人はまたSSとかで番外編書くかもです。あとそのうちPixivにまとめる時に追記修正します。
シリーズイメージソング:良かったらぜひ一緒に聞いてください
BUMP OF CHICKEN「アカシア」
次ページは私のあとがき(長い)なのでお暇な方だけ良かったら