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mohu09
2026-03-29 18:46:33
13348文字
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キスの味
Bottom!Stevenアンソロにて寄稿させて頂いたマクステ
1
2
「ねぇ、一緒に映画観ない?」
そうスティーヴンが問い掛けると、それまで静かに本を読んでいたマークがゆっくりと顔を上げてこちらを見た。
なんて事のない休日。特に何か予定があるわけでもなく、今から何処かへ出掛けようという気にもならない。只々無言で流れていく時間の中、お互い暇を持て余していたところだ。こんなゆったりとした空気も時には悪くはないけれど、折角の二人揃っての休日なのだからもう少し時間を有意義に使いたかった。
本に夢中、というほどでもなかったマークは開いていたページを徐に閉じ、ソファに腰掛けたままスティーヴンの方へと向き直る。
「映画って、今から観に行くのか?」
「ううん。映画館でじゃなくて、家で観たいなって」
近頃は動画配信サービスも充実していて、つい最近まで映画館で上映していた最新作から懐かしの名作まで、様々な映画を家のテレビで観ることができる。スティーヴンもその動画配信サービスに幾つか加入しているから、今から映画を観ようと思えば幾らでも選択肢はあるのだ。今の今まで、それらを観ようという選択肢すら頭に浮かんでこなかっただけで。
「実は前から観たいなぁって思ってた作品が最近配信になったんだ。ポップコーンでも食べながら一緒に観ない?」
そういえばキッチンの戸棚に電子レンジで温めるだけで出来るポップコーンが仕舞ってあったと思い出して、そんな誘い文句を口にしてみる。「ポップコーン」という言葉に釣られたのかどうかは定かではないけれど、マークがほんの少し期待に目を煌めかせて、やんわりと口元に緩く笑みを浮かべた。これは好感触だ。
「良い考えだな。じゃあ、俺はポップコーンを用意してくるから、スティーヴンは映画をつけておいてくれるか?」
「やった!」
スティーヴンは小さくガッツポーズをして、サイドテーブルに置かれたリモコンを手に取った。いそいそとキッチンに向かっていくマークの背中を見送ってから、テレビの方へと視線を移す。リモコンを操作して動画配信サービスのアプリを起動し、見たかった映画のタイトルを検索ボックスに入力する。検索結果一覧に出てきた目当ての映画を選ぶと、キッチンの方から早速香ばしい香りが漂ってくる。スティーヴンはすんすんと鼻を鳴らして辺りの空気を嗅ぎ、だらしなく頬を緩めてしまった。やっぱり、映画にはポップコーンが付きものだな、と思う。これから映画を観るぞという時にポップコーンの香りを嗅ぐと、年甲斐もなくワクワクしてしまうのだ。
映画のサムネイルを見つめながらそわそわとマークの帰りを待っていると、より強烈な香ばしい香りと共にマークがソファに戻ってきた。その腕には大きなボウル型の皿が抱えられており、皿の中いっぱいにポップコーンが詰められているようだった。この量ならば、二人で一緒に食べてもそう簡単には無くならないだろう。
「マーク、ありがとう。良い匂いだね」
「だな。スティーヴンが観たかったっていう映画はこれか?」
ポップコーンをソファの真ん中に置いたマークがその隣に腰掛けながら、テレビの画面を見て問い掛けてくる。
「うん、そう。スパイものなんだけど、人間関係の描き方が秀逸だって話題になってたんだ」
スパイである主人公とその周囲の登場人物達が織りなす人間関係の描写が素晴らしいと話題になっていたので、映画館で上映されている時から気にはなっていたのだけれど、観にいくタイミングがない間に上映が終わってしまっていたのだ。観るのならば是非マークと一緒に観たいと思っていたので、今のこの状況は絶好の機会である。
「それは楽しみだ。じゃあ、再生してくれるか?」
「うん。任せて」
スティーヴンはくるくると手の中でリモコンを弄んでから、テレビに向かって再生ボタンを押した。画面が切り替わって動画が再生され、配給会社のロゴが流れ始める。映画が始まった証だ。
わくわくと胸を高鳴らせながらソファに深く座り直し、ポップコーンの詰まったボウルに手を伸ばす。早速一粒口にしてみると、電子レンジで出来上がったとは思えないほど香ばしい香りと程よい塩気が口の中に広がって、スティーヴンは思わず小さく唸ってしまった。映画を観ながら食べるポップコーンというのはどうしてこんなにも美味しいものなのだろう。それが愛する人と食べるものであれば尚更だ。
そう感慨に浸っている内に本編が始まったので、意識を画面に流れる映画の方へと向ける。スパイである主人公が敵のアジトへ潜入しているところからの始まりだ。片手でポップコーンを貪りながら、緊張感のあるシーンを見守る。静かなシーンになるとポップコーンを食べる手が止まってしまうのはマークも同じなようで、何だかそれが可笑しくて笑ってしまいそうになる。真面目なシーンで突然笑い出すなんてそれこそ可笑しいので、必死に堪えたけれど。
「そういえばね、この主人公の名前、マークって言うんだよ。ちょっと親近感感じない?」
緊張のシーンを見守りながらそういえば、と思い出したことを口にしてみる。マークを見遣ってみれば、彼は何やら複雑そうな表情を浮かべて画面の中の主人公を見つめていた。
「親近感はあまり感じないな。むしろ他人事みたいだ。このワイルドな主人公が俺か、と」
「えぇ? マークだってワイルドで格好いいじゃないか」
「そ、そうか?」
「そうだよ。格好いい」
スティーヴンが真面目くさった顔でそう言うと、マークは頬を少し赤らめながらそうか、と小さく呟いて黙りこくってしまった。言ってから、自分がかなり恥ずかしいことを言ってしまったという自覚が湧いて出てきて、スティーヴンも少し顔を俯かせて黙り込む。
しかし、しかしだ。これは紛れもなく事実なのだから仕方がない。何を隠そうマークはスティーヴンの大切な恋人なもので、彼を格好いいと思うのはごく自然な事なのである。
――
そう。遡る事数週間前、スティーヴンが長いこと抱え込んできた恋心が限界を迎えた時、スティーヴンはマークに玉砕覚悟で好きだと告白をした。すると驚いたことに、マークが実は自分も同じ気持ちだったと言いだしたのだ。スティーヴンはまるで天にも昇る心地で「じゃあ、僕たち恋人同士になれるってこと?」と詰め寄り、マークが「そうだな」と頷いた事によって、スティーヴン達は晴れて恋人同士になったと言うわけである。
つまるところこの映画鑑賞会も、恋人同士が過ごす甘い時間であって、ただの映画鑑賞会ではないのだ。気を抜いているといつもの癖で忘れてしまいそうになるけれど、マークとスティーヴンはもう恋人同士なのである。こういうふとした瞬間に流れる甘い空気にはまだ慣れそうもないが、いい加減慣れなくてはなと思う。
スティーヴンは二人の間に流れる甘ったるい空気を振り払うように大きく咳払いをして、ポップコーンを貪りながら画面に流れる映画に意識を集中させる。序盤の潜入シーンはもうとっくに終わっていて、今は主人公が初めてヒロインと出会うシーンが流れていた。最初は敵同士として出会った二人だけれど、これから徐々に仲を深めて行くのかと思うと胸が高鳴る。早くその場面を見たいなと先が気になる気持ちでいっぱいになってしまった。
そんなことを思い浮かべながら映画に集中していれば、次々に場面は先へと進んでいく。敵同士だったはずの二人がタッグを組んで敵のアジトへと侵入したり、時折喧嘩をしながらも息のあった動きをするヒロインと主人公に、どんどんと惹き込まれてしまう。段々と良い雰囲気になってきた二人のときめきがこちらにも伝わってくるようで、スティーヴンは少しドギマギしてしまった。思ったよりも、恋愛要素に力を入れている映画らしい。
マークはどうだろうか、とチラリと彼の様子を覗き見る。マークは特に変わった様子もなく、ただ無表情で画面を見つめながらポップコーンを口に運んでいた。やはりマークくらいになると恋愛要素の強い映像作品を見てもドギマギはしないらしい。というより、スティーヴンがあまりにも恋愛経験が無さ過ぎるだけなのだろうが。
マークの様子を窺っている内に少しだけ場面が進んで、映画も段々と中盤へ向かっているようだった。敵に捕まった主人公が拷問を受け、尋問されるという目を逸らしたくなるような痛々しいシーン。しかし、そんな主人公を助けに颯爽とヒロインが現れて、二人がまた良い雰囲気になっている。
助かった主人公はじっとヒロインの目を見つめて、「ありがとう」と囁く。するとヒロインは小さく「マーク」と主人公の名を呼んで、ゆっくりと顔を傾け、主人公の唇にキスをした。「わ、」とスティーヴンの口から小さく声が漏れる。
まさか突然ヒロインからキスをするとは思ってなくて、心の準備が出来ていなかった。ポップコーンを食べる手が止まり、スティーヴンの目が泳ぐ。よくよく考えてみると、付き合いたての恋人同士でキスシーンを見守るというのはかなり気まずいというか、こそばゆいような、とにかく居心地が悪い。
目の前で濃厚なキスを交わす主人公達を見つめながら、居住まいを正す。わざとらしく咳払いをしたけれど、声が裏返ってしまった。マークに動揺がバレてはいないだろうか、と恥ずかしくなる。
スティーヴンがこんなにもキスシーンに動揺してしまうのは、多分スティーヴン達が今までキスというものをしたことがないからだ。恋人同士ならばキスなど日常的にするものなのだろうけれど、今までに一度だってマークからキスをされたことはないし、逆も然りだ。それはスティーヴンの恋愛経験不足が原因なのか、はたまたマークの奥手具合が原因なのかは分からない。恐らく、その両方が原因なのだろう。
マークはきっと、恋愛経験が不足しているスティーヴンのことを気遣って、キスの一つもしてこないのだと思う。その気遣いはとても嬉しいけれど、そろそろ自分達もキスくらいしても良いんじゃないかとスティーヴンは思うのだ。お付き合いを始めてからもう数週間も経っているのだし、普通だったら軽いキスの一つはしているものなのではないだろうか。
自分達だって、この画面の中の二人のようにキスをしてみたい。そんな思いが気まずさと共に沸々と湧き上がってきて、最早映画の内容など殆ど頭に入って来なかった。
スティーヴンはキョロキョロと視線を彷徨わせながら、もう一度マークの方を窺ってみる。やはり、彼は表情ひとつ変わっていない。何だかそれが悔しくて、スティーヴンはソファの上に置かれたマークの手に自身の掌を重ね、アピールを試みる。マークは突如重ねられた掌に困惑したのか、スティーヴンの方を見て怪訝に眉を顰めている。
「
……
スティーヴン?」
実に優しい声音で名前を呼ばれて、ぴくんとスティーヴンの肩が跳ね上がる。少し大胆なことをしてしまったという羞恥心と、これから自分が経験するであろう行為への期待。二つがごちゃごちゃに入り混じって、頭が沸騰してしまいそうだった。やっぱりこんなこと、今言うべきではないのだろうか。いやでも、今を逃してしまったらいつ言い出せるかわからない。頭の中で何度も弱音と言い訳を繰り返して、スティーヴンはぎゅっと固く目を瞑った。
「
……
したい」
「え?」
「僕たちも、そろそろキスしたいなって」
唐突に告げられたスティーヴンのお願いにマークの思考が追い付いていないようで、マークはぱちぱちと忙しなく瞬きを繰り返していた。そりゃあそうだ。映画を見ていたと思ったら、突然恋人からキスをおねだりされたのだから。
スティーヴンだってマークの立場になったら、呆然としてしばらく喋られなくなってしまう自信がある。
案の定、目を見開いて呆然としているマークの手をより強く握り、映画はそっちのけでマークの方へと詰め寄る。
「だって僕たち、付き合ってから一度もそういうことしたことないじゃないか。そろそろしたっておかしくないかなと思うんだ」
「
……
言いたいことはわかるが、何で今なんだ?」
「
……
主人公たちがキスしてたから、羨ましくなって」
スティーヴンが渋々と理由を告げると、マークが突如ふは、と小さく噴き出した。珍しくマークが笑ったことへの驚きと、何故笑われたのかという疑問とで頭の中が混乱で満ち溢れる。何か笑われるようなことを言っただろうか。
「妙に大人しいと思ったら、キスに気を取られてたのか? 本当に可愛い奴だな」
「かわっ
……
」
まさかそんな返しをされるとは思ってなくて、今度はスティーヴンが目を見開く番だった。キスに気を取られていたことを揶揄われているようで、羞恥心に頬が熱くなる。 だって、仕方がないじゃないか。目の前でキスシーンが流れたら、経験の少ないスティーヴンはキスを意識せざるを得なくなってしまうのだ。そんな言い訳が頭に思い浮かんだけれど、こんなことを言ったら余計に羞恥心が増してしまうだけのような気がしたので口には出さなかった。
スティーヴンは頬を真っ赤に染め上げながら俯いて、「だって
……
」と呟くしかない。力強く握りしめていたはずのマークの掌がするりとスティーヴンの手から抜け出して、髪の毛を優しく撫でてくる。子ども扱いされてるようで気に食わないが、今は抵抗する気にもなれなかった。
「そんなに気になるなら、してみるか?」
少し笑いを堪えたような声音で、そう問いかけられる。スティーヴンは弾かれたように顔を上げて、きらきらとした瞳でマークを見つめた。
「いいの?」
「あぁ、もちろん。ダメな理由がない」
「でも君、今まで僕にキスするそぶりも見せなかったじゃないか」
あまりにもマークがそういった意味で触れてこようとはしないものだから、てっきり彼はスティーヴンとそういうことをしたくないだけなのかもしれないと思い始めていたところだ。恋人として付き合ってくれたのだからそんなはずはないと思いたかったけれど、そんなマイナスな考えがスティーヴンの頭にこびりついて離れなかったのだ。
なんてことをかいつまんでマークに説明してみると、彼はまた失笑してスティーヴンの頭を撫でまわしてきた。
「そんな訳ないだろう。俺はただ、お前の為にゆっくりと先に進もうかと思ってただけなんだが
……
そんな思いをさせたなら失敗だったな」
マークは悲しげに微笑んで、ごめんなと小さく呟いた。別に謝られたかったわけではないけれど、マークの気持ちを聞いたらどことなく安心出来た気がした。やはり、マークはスティーヴンの為を思ってキスや触れあいからわざと遠ざかっていたのだ。マークの優しさがじんわりと胸に沁みるようで、心がぽかぽかと温かくなる。それほど彼に想われてるのかと思うと、嬉しくて口角が上がっていってしまう。きっとこの恋人は、世界で一番スティーヴンを想ってくれているのだろう。それが何よりも嬉しかった。
「
……
じゃあ、キス、してくれる?」
「
……
あぁ」
マークは静かに頷くと互いの身体の間にあったポップコーンのボウルをサイドテーブルへと追いやり、じりじりとスティーヴンの方へとすり寄ってきた。そして両手を優しく握ってきて、「いいか?」と囁くような声で問いかけてくる。もうすでに頭がいっぱいいっぱいなスティーヴンは、問いかけられている意味すらも分からぬままこくこくと頷き、固く瞼を閉じて全身に力を入れた。いつキスが降ってくるか、と心臓をバクバクと跳ね上げさせながら待っていると、マークの唇が耳元にあてがわれる。
「そんなに緊張するな。痛くなんてしないし、怖いことは何もない」
うん、という言葉すら喉が詰まってしまって上手く声に出来なくて、スティーヴンは必死に頷くだけだ。
やがて数秒か、はたまた数十秒か経った頃に、耳元にあてがわれていたマークの唇がゆっくりと顔に迫ってきて、何処か冷静な思考が頭の片隅で「あぁ、キスされる」と呟いた瞬間、互いの唇同士がやんわりと重なり合った。初めて感じるマークの唇の感触に、心臓がはちきれそうなほど高鳴っている。人の唇ってこんなに柔らかかったんだ、とか、マークって意外と薄い唇なんだな、なんていうどうでもいいことをぼんやりと考えて、必死にキスを受け止める。
「
……
ん、ん」
何度か食むようなキスを受け止めている内に掴まれていた両手に指が深く絡みついてきて、ぎゅっと強く握られた。その手をソファの肘置きに押さえつけられ、いつの間にかソファに押し倒されるような体勢になっている。酷くゆっくりと身体を押し倒されていたせいで、今の今まで全く気付くことができなかった。こんな体勢にならずとも抵抗したりなんてしないのに、と思うけれど、キスをされている今は何も言うことが出来ない。
きっとこの体勢はマークの支配欲の表れなのだろう。支配したいと思われているのだと考えると、何故だか背筋がゾクゾクとして全身が熱くなる。マークになら支配されても良い、と思っている自分がいると気付いて、スティーヴンはぶるりと全身を震わせた。
マークから降ってくる軽いキスを何度も受け止めていると、段々と頭がぼんやりとしてくる。酸欠なのか全身に奔る熱のせいなのかわからないけれど、思考が上手くできなくなってきてしまう。何でこんなことになったんだっけ、とぼんやりと考えて、テレビから聞こえてくる雑音によってそういえば映画のキスシーンを見てたからだと思い出すことが出来た。
見ていた映画はもうクライマックスを迎えたのか、アクションシーンが続いているようで銃声や爆発音が激しく部屋に鳴り響いていた。けれどそんな雑音は最早スティーヴンにもマークの耳にも届いてなくて、耳に届くのは互いの荒い呼吸音と微かなリップ音だけだった。
「
……
まぁく、まって」
スティーヴンは絶え間なく落ちてくる小さなキスを受け止めながら、キスの隙間から制止の言葉を吐き出す。するとマークはすぐにキスを止めてくれて、スティーヴンをじっと見つめてきた。
「いき、くるしい」
「あぁ‥
…
悪い。つい、興奮しすぎて」
マークは大丈夫か、と呟いて額同士をこつんと突き合わせ、スティーヴンの頬を親指で優しく撫でてくれる。その撫で方がえも言われぬ心地よさで、つい頬を撫でる親指にすりすりと寄り添ってしまう。
やっと、マークとキスが出来た。それだけでもう言葉にしようがないほど嬉しくて、幸せで、胸がいっぱいだった。これ以上幸せな事ってあるのだろうか、と思う。きっとマークと過ごしていれば幸せなことなどいくらでも生まれてくるのだろうけれど、現時点でスティーヴンの人生で最も幸せだったのはマークとキスが出来た瞬間だった。
「初めてのキスはどうだった?」
頬を撫でられながら不意にマークからそう問われて、スティーヴンは我に返る。
初めてのキスは柔らかくて気持ちが良くて、そしてポップコーンのほのかな塩気を感じた。初めてのキスの味がポップコーンの味ってどうなんだろう、と思わなくもないが、直前まで食べてたのだから仕方が無いか、と諦める。
「ポップコーンの味がした、かな」
スティーヴンが呟くとマークはワンテンポ遅れてからまた失笑して、自分の唇を指先で軽く拭う。
「たしかに、ポップコーンの味だったな」
二人でクスクスと笑い合い、その後またじっと見つめ合う。これってまだキスする流れなのかな、とふと疑問に思ったけれど流石に聞き出せはしなくて、黙ってマークの顔を見つめる。自分と全く同じ顔をしているはずなのに、どうしてマークだけはこんなにハンサムに見えるんだろう。本当に不思議でならない。
スティーヴンはじっと下からマークを見上げながら、もぞもぞと身じろいで、囁くような声で言う。
「ねぇ、マーク」
「ん?」
「さっき″マーク″がしてたキス、してくれる?」
「俺が?」
訳が分からない、といった風に眉を顰めて見せるマークに、スティーヴンはくすりと笑みを漏らして首を横に振る。
「ううん。君じゃなくて。映画の中のマークがしてたキス」
そう、映画の中で主人公がヒロインと交わしていた濃厚な深いキス。そのキスもマークからされてみたい、と思った。キスの経験がないスティーヴンにはその違いがわからないけれど、きっと先程のキスよりも幸せな気持ちになれるに違いないという確信があった。だって画面の中の二人はあんなにも幸せそうだった。
「いいのか? さっきよりも息が苦しくなるかもしれないぞ」
「大丈夫。いいからして欲しいんだ」
そう言ってマークの腕を引っ張れば、マークがスティーヴンへと深く覆い被さる体勢になる。顔同士もぐっと近付いて、今にもキスが始まりそうな距離感だった。
「お前が良いなら良いんだが
……
辛かったらすぐに言うんだぞ?」
「うん、わかってる」
スティーヴンが小さく頷くとじゃあ、とマークがより顔を近づけてきた。そして小さく瞼の辺りにキスを落としてから、唇に再びキスを落としてきた。
最初は先程したキスと変わらないと思ったのだけれど、不意に唇を舌先で突かれて、スティーヴンの身体が跳ね上がった。
マークの舌が唇の表面を撫で上げ、唇のあわいをしつこく舌先で突かれる。しばらくその意味が分からなくて戸惑ったけれども、何度も突かれて漸く唇を開けてくれという意味だと悟った。
スティーヴンがおずおずと唇を開くと、マークの舌がゆっくりと口内へ侵入してくる。その未知の快感に鳥肌が立って、ゾクゾクと全身が震えあがった。
なにこれ、さっきと全然違う。そんな言葉は喉の奥へと消えていき、スティーヴンは力なくマークに縋りつくしかなかった。
「んんっ、ぅ、ん」
口内に入り込んだマークの舌は歯列をなぞり、上顎の敏感なところを撫でてきたので、スティーヴンはびくんと全身を慄かせた。そんなことをされたら、快感で全身から力が抜けてしまうではないか。なんて文句が言えるはずもなく、マークの背中に腕を回してしがみつきながらただただ全身を震わせるしかなかった。
しつこく上顎を撫ぜてきていたマークの舌が、不意にスティーヴンの喉奥に逃げ込んだ舌を絡めとる。舌同士が深く絡み合って、快感がぞわりと背筋を奔っていった。
映像で見たことだけはあったけれど、ディープキスってこんなにも気持ちが良いものなんだ、とぼんやり思う。こんなに気持ちが良くて幸せな気持ちになれるのなら、毎日だってしてもらいたい。そう思うのは流石に強欲すぎるだろうか。
テレビの画面に流れる映画はそっちのけで、二人してひたすらにキスにのめり込む。舌同士を深く絡め合って、垂れてくる涎すらも厭わずにキスを続けた。
キスに夢中になっていたら酸欠のせいなのか段々と視界が狭まってきて、スティーヴンはマークの肩をぽんぽんと叩く。苦しい、という意味を込めて。するとマークは三回も肩を叩かないうちに唇を離していき、身体を起き上がらせて伸びた銀糸を手の甲で拭った。
「大丈夫か、スティーヴン?」
マークは心配そうに問いかけて来ながら、スティーヴンの唇も優しく親指で拭ってくれた。口端から漏れた涎がついてしまっていたのだろう。
「
……
大丈夫。ちょっと苦しくなっちゃっただけ」
スティーヴンは呼吸を弾ませて胸を上下させながら、自分でも唇を拭って途切れ途切れに言葉を紡ぐ。キス初心者であるスティーヴンには少し刺激の強いキスであったけれど、普通のキスと比べると快感が段違いだった。本当はもっとしていたいと思っていたが、流石にそれは恥ずかしくて口には出せなかった。
スティーヴンは瞳を潤ませてマークを見上げ、彼の首元へと腕を回して引き寄せる。もっとキスをしていたい、という意味が籠もった動作だったけれど、マークには伝わってくれただろうか。
「スティーヴン? どうかしたのか?」
どうやら、ちっとも伝わってはいなかったらしい。マークときたら、肝心な時に限ってこうしてひどく鈍くなるものだから、本当に困ってしまう。仕方がないから、濁すのではなくしっかりともっとキスをしていたいのだと口にする必要がある。恥ずかしくはあるけれど、気持ちを察してもらうのにも限度がある。特に、マーク相手では。
「ねえ、今度はさ、僕からキスしてもいい?」
「スティーヴンから?」
「うん。だめ、かな」
「だめじゃないが
……
どうしたんだ、今日はやけに積極的だな」
そう言われると、確かにそうだ、と思う。指摘されるまで気が付かなかった。多分、映画の中の主人公たちに触発されてしまったのだろう。主人公の名前がマークだったのも、きっと理由の内に入る。マーク、と呼ばれながらヒロインからのキスを受け止める主人公の姿を見ていたら何だか居ても立っても居られなくなってしまったのだ。これはひょっとしたらヤキモチにも似た感情なのかもしれない。恥ずかしいので、マークには伝えはしないけれど。
「積極的な僕は嫌い?」
「
……
まさか。そういう意味で言ったわけじゃない」
「わかってるよ。僕らしくないよね。でも、してみたいって思ったんだ。変かな」
「変なものか。お前がしたいことなら、何だって叶えてやる」
「本当?」
スティーヴンは期待に目を煌めかせて、勢いよく身体を起き上がらせる。その勢いに驚いて目を瞬かせているマークの肩を掴み、じっと真正面から彼を見つめた。きょとんと鳩が豆鉄砲を食ったような表情を浮かべているマークが可笑しくて、少しだけ笑みが漏れてしまった。
「じゃあ、いくよ?」
「あ、あぁ」
いくよ、と宣言はしたものの、まだ覚悟が出来てなくてもだもだと尻込みしてしまう。マークから向けられる真っ直ぐな視線を受けとめていると、決めたはずの覚悟が揺らいでしまうのだ。あんまりこっちを見ないでくれるかなと言いたくなるけれど、そういう訳にもいかないだろうなと思ったのでその言葉は喉の奥へと追いやった。
スティーヴンはごくりと大きく生唾を呑み込んで、心の中で「僕ならやれる」と何度も唱える。そして目をぎゅっと固く閉じながら、マークの唇へと徐に口づけた。掴んだマークの肩がぴくんと小さく跳ねる。
キスって、唇を重ね合わせたあとはどうすればいいんだろう。さっきマークはどうしていたっけ。必死に記憶を手繰るけれど、あの時はあの時で頭がいっぱいいっぱいだったので録に覚えてはいなかった。兎にも角にも何かしなくては、と焦って、スティーヴンは力任せに唇を何度もマークの唇へと押し付ける。すると、マークの口端からふふっと小さな笑みが漏れ聞こえてきたので、一時キスを中断させる。
「
……
何笑ってるのさ」
「ふふっ
……
いや。何でもないんだ」
「うそ。何にもないのに笑ったりなんかしないだろ君は」
「
……
その、キスが下手くそで可愛いなと思って」
笑いを堪えながら告げられたその言葉を聞いて、スティーヴンの頬が真っ赤に染まっていく。まさか直球に下手だと揶揄されるとは思ってなくて、何も言葉が紡げない。スティーヴンはぱくぱくと口を開閉させ、短く様々な言葉を紡ごうとしながらマークを睨みつける事しかできなかった。
「へ、へた、下手って言うことないじゃないか」
「悪い。あんまりにも慣れてないキスだったから、笑いが堪えきれなくて」
「言い方変えたって駄目だよ!」
スティーヴンがキスに慣れてない事なんか百も承知だった癖に、何てひどいことを言うんだ、と思う。スティーヴンだって必死に覚悟を決めてキスをしたのだから、その覚悟くらいは褒めてもらったっていいはずだ。
悔しさと、恥ずかしさと、ほんの少しの苛立ちで瞳に薄らと涙の膜が張る。今にも泣きだしてしまいそうだったけれど、キスを下手と揶揄われて泣くなんて情けないにも程があるので必死に堪えた。穴があったら入りたい気分だ。
キスが下手なんてことは、そんなのする前から自分でもわかっていた。だって、経験が少ないのだから仕方がない。でもまさか笑われるほどだとは正直思ってなくて、悔しさと恥ずかしさが交互に押し寄せてもう頭がパンクしそうだった。マークの馬鹿、と罵ってやりたい気持ちをぐっと堪えて、鋭くマークを睨みつける。
「初めて自分からキスしようとしてる恋人にそんなひどいこと言うわけ?」
「悪かった。そんなに怒らないでくれ。可愛いなって意味で言ったつもりだったんだ。馬鹿にしたかったわけじゃない」
「
……
本当に?」
「本当だ。お詫びに、ちゃんとしたキスの仕方を教えるから、許してくれないか?」
そんなことを言われたら、許すほかないじゃないか。本当はもっととやかく言ってやりたかったのだけれど、今日のところは許してやろう、と思う。これ以上何か揶揄ってくるようだったら話は別だが。
「
……
ちゃんとしたキスの仕方って?」
「そうだな
……
実演して見せるから、もっとこっちに来てくれ」
スティーヴンはうん、と頷いて、マークに顔を近付ける。当然ながら至近距離にマークの真剣な顔が迫って、今更ドキドキしてしまう。いくぞ?という言葉を合図に口づけられ、スティーヴンは身体を固く強張らせた。そんなに緊張するな、という意味が込められているのか優しく背中を撫でさすられて、少しだけ身体から力が抜ける。
マークは何度か食むように唇にキスを落としてから、徐に唇を離していき、至近距離に顔を寄せたまま口を開いた。
「キスはな、力任せにするものじゃない。優しく丁寧に唇同士を重ね合わせて、ゆっくり愛を確かめ合う手段なんだ。わかるか?」
「う、うん」
「顔をゆっくり傾けて、そっと相手の唇に自分の唇を添える。ほら、やってみてくれ」
そう促されたので、スティーヴンは身体をまた固くしながらもそっと顔を傾けて、言われた通り優しく唇同士を重ね合わせる。そして何度か違う角度で唇を重ねて、ゆっくりと顔を離していく。
「どう、かな」
「うん。悪くない。さっきより断然上手くなった」
褒められたのが嬉しくて、思わず安堵の溜息を吐いてしまった。スティーヴンは頬を薄く桃色に染め上げてマークを上目遣いで見つめ、まだしてもいい?と言外に問う。それを察したのか、マークが小さく微笑んで身体を引き寄せてきたので、教わった通りにまた優しく口づける。丁寧に、角度を変えて唇を重ね合い、身体をぴったりとくっつけ合う。そしてマークがしていたように唇を食んでみると、マークはぴくりと肩を震わせて反応を示してくれた。笑われなかったところを見るに、今のは下手くそではなかったようだ。よかった、とスティーヴンは内心安堵して、キスを続ける。
そうして唇をやんわりと重ね合って暫く経ったころ、またも不意にマークが口端から笑みを漏らした。またキスが下手だとか笑うつもりか、と眉を顰めると、マークが更に口角を持ち上げていく。
「悪い。映画、すっかり終わってしまったなと思って」
その言葉を聞いた瞬間に漸く映画の存在を思い出して、テレビの方へ視線を移す。映画はクライマックスの場面などとうに終わって、既にエンドロールへと突入していた。内容なんて途中から全く頭に入ってこなかったし、終盤に至っては画面を見てすらいなかった。映画鑑賞会だったはずなのにどうしてこうなったんだっけ、と思案に暮れるが、自分のせいだったと思い出してスティーヴンは苦々しく笑みを浮かべた。
「本当だね。ごめん、僕のせいで」
「良いんだ。また再生すれば良い話だろう?」
「うん。もう一回見よっか」
くすくすと二人で笑い合ってから、どちらからともなく起き上がる。ソファにきちんと座り直し、サイドテーブルに追いやっていたポップコーンの皿をまたソファの真ん中に置く。そして視線だけで合図を送り合って、また映画を最初から再生し直した。今度はキスシーンで変な気を起こさないようにしなくては。
再び流れる配給会社のロゴを何とはなしに眺めながら、スティーヴンはポップコーンを口に放り込む。ポップコーンのほのかな塩気と香ばしさが口内を満たしたとき、マークとのキスの味を思い出して少し頬が熱くなった。
マークに気付かれないようそっと手を唇に伸ばして、はふ、と熱い溜息を吐く。ポップコーンを食べるたび、今日マークと交わした熱いキスを思い出すのかな。
そんなことを思い浮かべながら、スティーヴンは頬をほんのりと朱色に染めて、ポップコーンを口いっぱいに頬張るのだった。
終
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