kanaco
2026-03-29 14:34:35
1898文字
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【四信】ラストスマイル

《四信》触れなかった別れと、春のはじまりの話。1ページ目は縦書きver、2ページ目は横書きverです。


 四信 『ラストスマイル』

 抱き合った日はあった。
 
 その時間はドライなようで、本当は砂糖菓子のように甘かった気がする。病みつきのように止められなかったのは、きっとそのせいだ。二人揃って、口をつぐみ、関係を曖昧にすることを選んだ。
 
 恋人だと名乗ったことはない。
 思ったことさえ、無かった。
 信一も、四仔もだ。

 だから、四仔から「日本へ行く」と告げられた日も。九龍城砦から日本へと旅立つ日も。信一は四仔が次の一歩へと歩み出したのだと、心の底から喜んだ。
 
 四仔がいつ、香港に戻ってくるかは分からない。九龍城砦は、あと数日で封鎖される。見送ることはできても、ここで待ってやることはできない。そのことは寂しくて、感傷的な気分になった。

「いつでも、戻って来ていいぜ」
……ここは、無くなるだろ」
「大事なのは場所じゃねぇよ。人だろ。俺を訪ねてくりゃいいさ」
「殊勝なことを言うじゃないか」
「まぁ場所じゃなくて人ってのは……兄貴からの受け売りだけどさ」
 
 四仔が戻ってくる頃に、自分がどこで何をしているのか、信一自身の予想も怪しいものだった。それでも求められれば、必然のように繋がるのではないか、と。

「つまり……アレだ。お前は一人じゃないってことだ」
 
 四仔が、小さく瞳を揺らした。
 それから、そっと静かに笑った。

 
 気恥ずかしさ、喜び……切なさ。複雑な感情が入り混じっているのに、ストンと心に落ちてくる。

 花びら散るように儚く、美しい笑顔だった。

 それは、キスや抱擁、握手を飛び越えて、感謝と別れを信一に告げていた。向かい合った二人は一歩も動かず、触れもしなかった。わずかな時間を静かに共有し、別れた。
 
 その日から、信一は四仔のことを考え続けた。
 もうそばにいないというのに、気がつけば四仔の顔が浮かんでしまうのだ。
 
 目をつぶれば、すぐに思い出せた。
 なぜなら、ずっと見てきたからだ。

 馴れあって、遊び、ケンカだってよくした。
 文句が多いくせに、面倒見の良い男だった。
 命の預け合いもした。必死だったが、乗り越えた。
 体を繋げる関係になったのは、一番の予想外だ。
 心地が良かったのは、自分だけじゃなかったらいい。
 
 そうして、四仔のことを考えると、最後に瞼に浮かんでくるのは、別れの日に見たあの笑顔だった。

 距離を保ったまま、決して踏み込んでは来ない。
 最後に見た、淡いが、優しさに満ちた笑み。

 恋人ではなかった。
 気持ちを言葉にしたことは、一度も無い。
 でも。
 本当は、いつでも結ばれたかったのかもしれない。

 今さらに気づく。
 信一は四仔がたまらなく恋しくなった。

 二週間後、ポストに一通の手紙が届いた。
 
 
 封筒に書かれた名前と住所から、差出人が誰であるかはすぐに分かった。なんだろう、と首を傾げながら封を開ける。

 中には、紙が二枚入っていた。

 一枚は、絵ハガキだった。
 美しい、桜の木が描かれている。
 夜桜だ。
 たくさんのピンクの花びらが空の黒に映える。
 幻想的な表情をみせていた。
 
 クルリと裏返す。
 文字はない。
 押し花された桜の花びらが、3枚だけ色づいていた。
 薄くて、小さな花びらだ。
 指でそっと触れてみると、薄くて繊細だった。
 桜が散る姿は、儚くて美しい。
 指先に残るその軽さは、四仔のあの笑顔に似ていた。
 
 信一は少し緊張しながら、もう一枚の紙を取り出す。

 「あ」と思わず声を出した。
 航空チケットだった。
 
 信一はガクッと膝を折り、その場に思わずしゃがみ込んだ。ちょっと待ってくれ、ともの申したい気分だった。
 
 あんなに距離を保っておいて。
 触れちゃいけないような、笑顔をしておいて。
 お前だって、未練タラタラじゃねぇか!

「ああ!クソッ」
 信一は頭をかきむしる。荒れたフリをして信一は笑った。ムズムズするような喜びが全身を走って、衝動のまま駆けだしたい気持ちになる。

 しかも、いつでも戻って来ていい、とは言ったけど。
 行くのは俺かよ!

 「場所じゃなくて、人なんだろ?」という、幻聴さえ聞こえてくる。

 二人は恋人ではなかった。
 でも、踏み込みが足りないだけだった。
 
 信一はチケットを大事そうに掴む。
 桜のハガキも丁寧にポケットにしまった。
 
 そして意志の強い瞳を輝かせ、アパートを飛び出した。
 春の風が、どこからか柔らかく吹き抜けた。