kanaco
2026-03-29 10:44:11
1571文字
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【九信】足りないまま

《九信》洛軍を逃した後、王九に攫われてしまった信一のお話。脳内イメージのシーンを文字起こししたもの。1ページ目は縦書きver、2ページ目は横書きverです。


九信 『足りないまま』

 子朗は目の前に立つ王九を、緊張の面持ちで見つめた。表情が推し量れない。それが反対に不気味で怖ろしかった。

 藍信一を逃がしたことは、とっくにバレているだろう。
 あの医者のように、自分も殺されるだろうか。
 攫い、閉じ込め、壊すくせに。
 治療し、淫らに抱き、他人に触れられるのを嫌う。
 藍信一は、魔性だ。
 あの部屋にいるだけで……人の心を狂わせてしまう。
 王九はそれを許さない。
 だから——焦がれた結果の罪は、死で取り直されるのだろう。
 
 でも、気にかかることがある。あんな衝動的な計画が、うまくいった理由はなんだろう。藍信一の監禁場所を、ただ見張っているだけの未熟で無力な自分が、王九の目を盗めるなどと。

 子朗は固唾をのみ込んだ。
 考えたところで、分からない。
 王九と藍信一の間に流れる、愛憎劇など。

「あんた、これから、どうするんだ」
 
 心から尽くしていたボスも。
 心を揺さぶった想い相手も。
 両方とも自分から葬り、手放しちまって。

「なぁ、兄貴」

 子朗の呼びかけに、王九は何も返さなかった。サングラスの奥へと必死に目を凝らしても、感情は見えない。王九は静かに踵を返した。子朗はその王九の背中を、黙って見つめることしかできなかった。
 
 
 ********* 
 
 信一が、虎兄貴に教えられた場所……水上小屋へ辿りついた時。
 
 最初に目が合ったのは、信一がよく知る幼馴染みだった。あちこちの包帯姿や、ギプスで固定された足が痛ましくて、体が動かなくなる。お互い様だった。少しの間、見つめ合う。こんなにも距離があるのに、十二が大きく目を見開いたのが分かった。

 先に動いたのは十二だった。表情を硬くしたまま、松葉杖をついてこちらにくる。走れないのだろう。それなのに松葉杖さえ煩わしいと言うように、歪な歩行で一心不乱に直進してくる。いつ転んでもおかしくない様子に、信一は気がつけば走り出していた。

 ついに足を崩した十二を、ギリギリで抱きとめることに成功した信一は、縋るようにしがみつかれた。強い男に成長し、架勢堂の若頭にまであっと言う間に上りつめた勝気な友人は、まるで子供みたいに泣きじゃくった。

 十二からぼたぼたと零れる涙が、信一の薄いシャツに沁み込んでいく。十二の熱い息が肌に触れる。信一もほう……と息をついた。久しぶりに、呼吸をした気分だった。知った体温、潮風や埃に紛れる、知った匂い。体を締めつける強い力は、恐怖ではなく安心を生む。

 違う人影に気がついた。
 少しだけ離れた距離に四仔が立っていた。

 馴染みのマスクはない。布を巻いて、目だけが覗いていた。大人びた男の、今にも泣きそうに潤んだ瞳を、信一は初めて見た。自分はどんな顔をしているだろうと、思う。四仔と同じ表情をしているはずだ。今にも泣き出しそうな、心配と安堵と喜びが、今にも決壊しそうな表情を。

 十二が信一を離さないので、四仔の方が近づいてきた。慎重にゆっくり、それでもしっかりとした足取りで。四仔が十二ごと信一を抱きしめた。信一は、コツン、と首を傾けて、四仔の頭に自分の頭を合わせた。

 四仔に沁みついていたはずの、診療所の匂いがしない。二ヵ月だ。王九に囚われて、もうすぐ二ヵ月。でも微かに、医薬品の匂いがする。

 呼吸だけではない。
 体温も戻ってきたように、信一は感じた。

 ああでも、足りない、と信一は思う。
 ひとつ、欠けている。
 あいつにも、会いたい。
 やっぱり、俺たちは四人じゃないと。
 
 
 ふと、別の男のことが浮かんだ。
 あの男にも、こんな友人がいれば、違ったのだろうか。
 
 答えは、出す必要もなかった。