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冬
2026-03-23 18:43:45
4303文字
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uzume リバイバル公演 ホシガクレ 感想
uzumeリバイバル公演「ホシガクレ」の感想です。3月13日(金)夜公演と15日(日)昼公演を観劇しました。
ホシガクレ感想
すとん、と理解できて、綺麗にまとめられて練られた作品だなと思う部分と、何か引っかかる違和感がある部分が混ざり合っているというのが率直な感想。
これは脚本の問題なのではなく、おそらく、この作品自身が描き出した「体験した人」と「同じ時代に生きてはいたけど体験しなかった人」のどうしようもない差に起因するのだと思う。
いわば人類に普遍的な共通の課題としての、災害に備えること、そのために忘却しないこと、という部分と、「体験した人」以外には想像もできないようなことをそう簡単に語ってよいのかという躊躇いが引き起こす矛盾が、作品の中にも存在していて、その矛盾ごと現れるのが、因果を覆す存在としてのホシガクレ後の山城武なのかな、とか。
と、思って書きだしたけど書ききれないまま、1週間考えて、最終的には、「体験した人」と「同じ時代に生きてはいたけど体験しなかった人」の境界を、様々なメディアー特に今回は演劇
―
で縫うような作品だったからこそ、登場人物たちが最後は普遍的な部分にまとまっていくという風に私は理解して、この物語を受け止めることができた。
綺麗にまとめられて練られていると思った部分は、たくさんある。
「ん?今の場面にグレーの服のADのバイトの人いなかった気がする?」とか、黙とうの場面で「忘れないために」と割と大きな声で言うんだけど、同時に「忘れたくても忘れられない」と言っている人がいて、「体験した人」ならば「忘れたくても忘れられない」トラウマのはずなのに、どうして「忘れないために」とテレビの報道特番から借りて来たような言葉を言うんだろう?とか。自分のこと忘れて車を発進された、という笑い話をしている中でボソッと「みんなもなんだけどね」というとか。
そういう違和感が、「あの時、自分はここにいなかった」という告白に繋がっていったときのなるほどね!感はすごかった。
そして、あぁ観劇に来る前にHPで脚本家の言葉を読んだな~、前説も含めて、(おそらく「体験していない人」が多い)客席と物語を文字通り繋ぐ存在だと気づく。
だからこそ、報道特番のような、どこか誰かから借りて来たような言葉を、懸命に自分の言葉にしようとしている。「忘れない」「風化させない」という大事だけど、15年の間にどこか陳腐な慰めの言葉となっていたとそれを自分の言葉に、自分の使命にする。
そして、最後の彼の語りは、同じ時代に生きて、「体験していない人」であってもできることについて話していて、まさにその言葉は直接に「体験していない」客席に戻ってくる言葉。
あぁ、実はこの物語は、客席という「外側」から舞台上という「世界」であり、「震災を体験した人」を眺める物語ではなくて、前説からずっと、「こっち側」の物語だったんだ、と気づかされる構造。
こういう物語の構造というか、仕組みも含めて、脚本家の思いや、公演のタイミング(3月上旬)含めて、すごく練られていて素敵な試みだなぁと思った。
もちろん「体験した人」の物語も、些細な日常の会話みたいなものが、終盤の大事な場面でどんどん回収されていく。
そもそも、序盤の愉快な野球のシーンは、「はいはい、ここで登場人物紹介ね(ちょっと2.5のキャスパレみたいな作りだな...)」と思って観ていた。
それが、いろいろなネタバラシを経て、最後の大人になった彼らの野球のシーンで、出て来るはずのない山城コーチが、空にボールが行った場面で出て来る。
あぁ、序盤の野球のシーンはここでこうやって効いてくるのか......!と唸りつつ、目の前で起きたフィクションならではの「奇跡」に涙が止まらなかった。
ほかにも、「大学生は人生の夏休み、だから俺は休んでないってこと」「ポジティブだな~」なんて、ふざけたなんでもない会話が、山城コーチとのやり取りで「ポジティブ」という言葉がもう一度出て来て想起させる、とか。ヨシキにソラが「もう謝るのはやめよう」と言っていたのに、逆にヨシキがソラに言うとか。
個人的に一番、涙が止まらなかったし、そうだよなぁ、それはやっぱり物語の中で言及されるべきだよなぁと思ったのは「二十歳なんて、まだ子供」という部分。
序盤、山城がモノローグ的に「二浪している」と語り、二十歳であることが明示されて、物語の小学生たちからするととんでもない大人だけど、見に来ている人からすると「ん?大分若いし子どもじゃん」と思う。
そういう小さい違和感が、ちゃ~~~~んと終盤に「今、もうコーチよりも年上です」「二十歳なんて、まだ子供」と12年後の彼らに語らせて、戻ってくる感じがすごく観てて安心した。丁寧な話だなぁと思って。
小学生からするとすごく大人に見えるけど、浪人生で、おそらく厳格なお家は居心地が悪く、それでも地域の人からは「お医者さんのところの息子さん」として子供を預けても問題ないと思われていて、なにより真っすぐに子どもたちが自分を慕ってくれる。そういう場所が、彼にとってのスターマインであり、だからこそグローブを取りに戻った。
で、この感想を書き始めたとき、「違和感」として書こうと思っていたのは、ホシガクレの儀式(?)によって出て来た山城が語る言葉。
彼の語る言葉まで、備えること、忘れないこと、という報道のような言葉でよかったのか?という部分。
気丈に振舞っていたソラが、コーチを前にして「交代」を申し出る。ヨシキの怒りは当然だけど、でもきっと、ソラは割り切りたくても割り切れないものを抱え続けてきた。
それがこぼれてどうしようもなくなったときに、既に亡くなっているコーチは何を語るのか?と。
それは、「自然災害だ」「俺だってもう二十歳だ」「いつかまた必ず起こる」「だから備えるんだ」という一般的な(?)普遍的な(?)ものでいいのか、と。
でも、私はあの2011年に関東にいて、たくさん揺れた記憶はあっても、いわゆる「被災地」の人ではないし、やっぱり自分にとって震災を知ることは「報道の言葉」と一緒にあった。
だから、この言葉の良しあしを判断しようがない。
判断しようがないから、なんか、「体験していない」自分が、観劇に行って、その部分に安易に共感していいのか?という葛藤があったんだよね。
ただ、一週間くらい観劇のあと、時間を置いてみて、もしかしたらそうやってある程度、実際に起こったことから距離を置いた普遍的な言葉でなければ、整理できないものもあったのかもしれないと理解した。
震災の場面、印象的な雪が降るシーン。
雪を表現するのは、新聞紙で、白い紙とかじゃない。「新聞」というメディアの「言葉」が、雪という「事実/自然現象」を表現している。
このホシガクレという物語は、実は冒頭の前説から、「体験していない人」の目線が紛れ込んでいて、その「体験していない人」と「体験した人」の境界をうまく縫い留めて、ともによりよい未来を想像するための装置が様々なメディア
―
ーテレビ報道や新聞、そして最もメタ的には演劇も
――
であるとすれば、物語の序盤はバラバラだった登場人物たちの「震災」との距離が、メディアを通じて「記録/記憶」と「忘れない・風化させない・そして備える」という普遍的で一般的な言葉にまとまっていくことを描いた作品だったのかも、と思い直した。
そして、そうやって「体験」と「体験していない人」の境界を縫っていくことで、初めて、「体験した人」は死者に思いを馳せるような事実との距離もとれるし、「体験していない人」はこうやって考え込み、記憶することができる。
あまりに生々しい、荒々しい、「事実/体験」としての「震災」が、メディア(テレビ、新聞、演劇)を通じて「記憶」になっていく物語。
そう整理すると、ホシガクレで出て来た山城は、やっぱり何らかの意味の幻覚で、ソラとヨシキが言ってほしい言葉を言う存在だったのかもしれない。
視覚的に、ヨシキは真っ赤なセーターを、ソラは青いシャツを着ていて、山城がその色を両方纏った派手なスポーツウェアなんだよね。
この配色は、おそらく意図的に行われていて、だから、3人がホシガクレで舞台に上がって、もっとも激しく感情をぶつけ合うところで、赤い照明と青い照明が舞台を照らす。
それで、私は、あぁ山城ってやっぱりソラとヨシキの心残りと執念が産んだ奇跡なんだって思ったし、だからこそ、二人の意思を調停するように、自然災害だから必ずまた起こる、だから備えろ、そして今を楽しんで生きろと伝えて、彼らの中の「忘れたくても忘れられない」ほど過去と距離の取れない部分が、「記憶」にされていく。
個人的に最終盤で一番好きだったのは、カズマの「広島旅行に行く」「あそこにも忘れちゃいけないものがあるから」のくだり。
カズマは、中盤の黙とうのシーンで「忘れたくても忘れられない」と言っていて、当事者性の強さから過去との距離が微妙で、記憶することとトラウマが密接に結びついていたのが、
終盤には「風化させないこと」的な、普遍的な台詞に辿り着いていく。その彼が最後に自分が「体験した」人ではない戦争の記憶を観に広島に行こうとすることは、
世の中に沢山ある「忘れてはいけないこと」の一つに自分の経験を位置づけることができて、だからこそ「体験した人」が「体験していない人」として、「記憶すること」に参加できるという落としどころなのかな~~~とかなり好きなオチでした。
だから、彼は若葉が芽吹くような緑の服を着ていたのかもしれない。
ずっと、赤のヨシキでも、青のソラでもない立場から2011年3月11日を見つめていた人だった。
そして、こうやって「体験した人」も「そうでない人」も、「記憶する/風化させない/備える」ということに「同時代人」として参加できるとすれば、そこにこそこの作品の意味があったのかな~~~と。
最も観客と物語を繋ぐキーパーソンである宮沢煌が、最後にそう語って終わるのも、なんだか1週間くらい置いて考えて、納得がいった。
結果、いい作品だったな~~と今、噛みしめている。
あとは、オタク的な感想になるけど、大きくない劇場は目の奥のお芝居までみれていいね。
瞳の奥から、お前のせいじゃないと訴える山城の表情。
子どもに語り掛けていたせいか、大人になったはずの彼らにもかなり大きな声で語り掛ける姿。きらきらした瞳。
あるいは、空の頬を流れる一筋の涙。
そういうものを感じとれる、濃密な場で。すごく良かったです。
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