青果
2026-03-22 18:53:12
19868文字
Public
 

【サンプル】春は別れの季節じゃない

『春は別れの季節じゃない』
九龍妖魔學園紀:皆守と葉佩 / 文庫 / 全年齢 / 本文94ページ/600円(会場)・750円(通頒)
2026/3/29 大阪インテ:アナザーコントロール27(May the treasure be with you! 2)
1号館 お76b『彷徨書房』にて頒布予定の前半サンプルです。

左右を決する描写・示唆する表現はありません。

通頒:https://prim-caca.booth.pm/

今日も明日も、あのときの思い出が併走する

・サンプルは読みやすいように改行がありますが、本では詰まっています


アウトライン


 卒業式の日に、葉佩は来なかった。もしかしたら卒業式の日付を忘れていたのかもしれない。葉佩はそそっかしいところがあったし、ツメが甘いのだ。けれども、メールの返信もなかった。もしも葉佩がメールアドレスを捨てていたのなら、その旨の自動返信があるはずだがそれもない。皆守は数日のうちに、電子メールの仕組みに詳しくなった。

 誰も、葉佩からの連絡について話さない。かといって、自分だけは連絡を受け取っているのだという優越を滲ませた者もいなかった。皆守は退寮日の申告締切ぎりぎりまで、天香學園の寮でカレンダーを噛んでいた。

 皆守だけでなく、他の皆もが同じような心持ちだっただろう。ひときわ寒い冬だった。

 八千穂は関西の大学に進むのだと言って、卒業式の三日後に寮を出た。巣穴からのそのそ出てくる穴熊のような有様の皆守を見て、八千穂は笑って言った。

「んじゃね、皆守クン! 達者で元気に暮らすんだぞッ!」

 真里野が「達者で」という言葉を使うのを聞いてから、八千穂も真似るようになった。皆守は適当に返事を返す。
 卒業式が終わって講堂から出てきたときは落ち込んでいたのに、三日のあいだに気を取り直したようだ。笑顔には、取り繕ったような陰りもなかった。

「九龍クンから連絡あったら、あたしにも教えてよね!」
……ああ、お前も気をつけて帰れよ」
「うんッ」

 八千穂はダッフルコートの留め具をいくつか開けたままで、マフラーを握った手を振った。空中で毛糸のマフラーが広がる。薄雲で白くぼやけた空に、その色が旗のように揺れた。

 門を出て行く彼女を見送りながら、天香學園の校門とは本当に『開く』のだな、なんてことを考えていた。

 皆守はこの學園に入学し、三年間を過ごした。留年は許されず、順当に学年を上げてきたのだから、同様に卒業していった生徒が皆守を含めて三年分、いるはずだ。だというのに、今はじめて『天香學園にも卒業がある』ということを実感をもって理解した。下級生は式典に出席しないから、意識から外れるのだろうか。今までの春も、こうして天香學園の門はもう二度と戻らない教え子を送り出してきたのだ。

 八千穂が見えなくなるまで突っ立っていたが、初春の肌寒さは堪える。皆守は踵を返した。かといって、部屋に戻る気分にもならなかった。皆守の部屋には、いま、山ほど参考書と大学案内のコピーが積まれている。

 この學園で皆守が自由に出入りできるところは少ない。もちろん、まだ皆守はこの學園の生徒であるから基本的にはどこに出入りしてもかまわないのだが、皆守が自分に許せる範囲が狭い。職員室に至っては、今や雛川を訪ねに行くことはあるにせよ、未だに薄い膜を破るような罪悪感が募る。
 皆守が自身に許しているのは寮の自室と、屋上、マミーズ、それから墓地だった。

 いま現在の墓地には、容易に近寄れない。皆守は泥と瓦礫の惨状を、立ち入り禁止の立て札越しに見つめた。校則で縛らなければならない「墓地への立ち入り禁止」は反抗する生徒たちの格好の的だったが、今や誰もが納得する校則になっていた。これほど瓦礫だらけでは、宝探しもままならない。

 広い地下遺跡の崩壊跡は、《生徒会》を初めとする生徒の手に負えるものではなかった。阿門と保健医が少々作為的な手配をした末に、業者が入って重機を動かしている。業者は何の吐息に煽られてここにたどり着いたものか、皆守ははっきりしたことを聞かされていなかった。

 あれだけ大規模な遺跡、あれだけ多くの化人がいたというのにニュースには何も上らない。全て織り込み済みだということだろう。見たことのある金色のブロックが、まるで積み木のように運ばれていく。子供たちが遊びほうけた後の後始末だった。

 何度も同じ動作を繰り返す重機を眺めながら、皆守は影が近づいていることに気付いていた。まだ三月だ。太陽は低く、影が長い。影が皆守に話しかけた。

「何か、取り残したものでもあったか」
「いいや……暇つぶしだ」

 阿門は、そうか、と言って皆守の横に並んだ。彼は制服ではなかったが、黒い服を着ているので印象はさほど変わらなかった。

「ここにいて、暇つぶしになるのか?」
「面白いもんがあるわけじゃないが……考え事は進むからな」
「例えばどういうことを考えるんだ?」

 皆守は横目で阿門のことを見た。いつになく質問が多いな、と思ったが、逆らわずに答えた。今までなら、あれこれ言って躱していただろう。
 思えば、従うことがもっとも体力を使わない。反抗には体力を使う。無視もまた自分の意思が必要だ。
 天香學園で墓守に身をやつした皆守は自堕落に、流れに従うだけの無気力でいたつもりだった。だが皆守も自分のスタンスについては、頑固だったのかもしれない。それが皆守個人の意思のうちのひとつだったのかもしれない。

「この遺跡の迷宮が作られたときは、平野にある盗人厳禁の迷い道に過ぎなかったんだろう。だが、どこかの墓守が、ここを学校にすることを許したんだよな、と思う。学校なんて、一年に一回は何十人何百人と新しい人間がやってきて、出て行って、その循環のまっただ中だろ。本当にこの遺跡を隠したいのなら、学校には向かない土地だ。だが、阿門……お前の家の誰かが、それを許した。それについて考えていた」
「結論は出たか?」
……過去のそいつも、この遺跡も、このときを待っていたのかもしれない。俺たち墓守も」

 一年ごとに開き、閉じる門から入ってくる生徒たちは迎え入れられた。転校生にも門扉を閉ざさなかった。入れ替わりが激しいといわれるほど目まぐるしい人間の川底で、石が丸くなるほど時が過ぎた。丸い石は転がっていき、《宝探し屋》の靴にぶつかった。

 阿門は眉を一度上下させた。それ以上に言葉も動作も、彼は返さなかった。

 眺めているうちに、瓦礫のひと山が片付いた。手際がいいもんだな、と皆守が感心していると、阿門が声を掛けた。

「退寮日は決めたのか」
「まだだったんだが……そろそろ決めないとまずい。たいした荷物じゃないんだがな」
「そうか。決まったら連絡を入れろ、いつでもいい。電話なら千貫が取るだろう」

 予想もしていない言葉だった。皆守が思わず阿門の顔を確認すると、彼は涼しい顔をしていた。

「餞別くらいは贈るつもりだ」
「はは……慣れないことして、体調崩すなよ」

 阿門は皆守に向けて唇だけで笑い、背を向けた。

 地面に杭を落とすかのような背中を見送った。そうしながら、阿門は頻繁にこの墓地の様子を見に来ているのだろう、と察した。墓地は平らにされ、地下が埋められていく。それが阿門に何を与えるのかは、未来の彼にしか分からないことだ。
 皆守はそう考えながら、自分も他者の現況を慮るようになったものだな、と思った。

 考えることも、日々、たくさんある。同じ事をずっと、何度も考えているのではなく、多種多様なことを少しずつ考えている。本来の高校生はこうであるものなのだろうか。日常と友人と委員会と勉強と、部活動に励む生徒なら部活動のことについても考えても考えても尽きないのかもしれない。皆守は、自分がようやくそこに追いついたような気がしたが、もう卒業式も終わっていた。

 三年間もあったのに、土にこだわってへばりついて過ごしてきた。生徒たちが学んできたことのほとんどは、皆守は意図して見て見ぬふりをしてきた。だから、住処が崩れ去って立ち上がらざるをえなくなったいま、取り戻すしかないのだ。

 皆守は月が変わっても、入学式はない。入試を蔑ろにしたので、まずは浪人生活が始まる。

 アロマを一本だけ吸った。今日最初の一本だった。
 気が向かない足に鞭を打ってマミーズへ行き、カレーライスを食べて自室へ戻った。今日は舞草が休みらしく、他の店員が注文を取りに来た。皆守はすなおに「カレーライスひとつお願いします」と言った。

 半日空けていた自室は冷え切っていた。靴を脱ぎ、靴下越しにも床の冷たさが沁みる。

 さっさと着替えを取って、さっさと風呂に向かった。夷澤とすれ違ったが、彼は同級生と一緒だった。目線だけで挨拶をして、言葉は交わさなかった。

 部屋に戻り、半乾きの髪を無造作にタオルで拭いたのちに洗い物の籠に放り込んだ。デスクに座り、昨日の続きから参考書を開く。皆守は、教科のほとんどのことがあいまいで、赤本や模擬試験から始めることができなかった。定期試験の過去問ですら歯が立たなかった。

 各教科担任からお勧めを聞いてきたから、と雛川が受験用参考書のリストを渡してきたとき、皆守は己の身長が半分になったかのような心地がした。

 明日は朝にまず洗濯から始める必要がある、それから、退寮日の申告もしなければならない。実家への連絡と、住居の手配と、引っ越し業者の手配も必要だというのに、退寮日申告は締め切り日が明日だ……
 それに気がついてしまうと、皆守は胸が詰まる。

 参考書をまだ二ページも進めていないのに、携帯電話を手に取った。
 新着メールはない。

 皆守の携帯電話には元々、連絡はほとんど入らない。《生徒会》関連の連絡が届くことはあったが、いまや皆無だ。静かな手のひらサイズの電子機器は、皆守にとってメールの受信ボックスを確認し、おまけに時間も確認できるだけの装置だった。もはや文鎮だ。そのためだけに充電コードを挿している。

 葉佩が天香學園を出て行ってから、最初に送ったメールは年明けだった。明けましておめでとう、というだけの内容だった。返信はなかった。
 一月中旬、俺も卒業できるらしい、というメールを送った。返信はなかった。
 卒業式前日、明日が卒業式だが調子はどうだ、無茶はしてないか、と送った。返信はなかった。
 卒業式当日、夕薙と八千穂と並んで撮らされた写真だけを送った。撮影したのは七瀬だった。背景となっている黒板には雛川の字で「卒業おめでとう!」と大きく書かれ、花のイラストで余白が埋まっている。返信はなかった。

 連絡がないとはいえ、たった数ヶ月だ、と思いたい。だが、年明けから今までの時間をたった数ヶ月と軽んじてしまうと、皆守が葉佩と過ごした時間も同じたった数ヶ月であることに気付いてしまう。
 頭の中に暗雲がさす。
 どうやら、今日はだめだ。もう寝るべきだ。

 だが、許してしまうと、だめだ、と思えばすぐに眠ればいいと頭が学習してしまう。雛川からも「とりあえず、一日確実に五ページやる、十ページやる、と立てた目標を必ず実行することから初めてみましょう。正解できるかどうかは、その次の目標にしたらいいわ」という生きた忠告を受けている。

 皆守は幾度もため息をつきながら、普段よりもずっと遅いスピードで十ページをやりきった。アロマを一本吸った。灰を集めて捨ててから、よたよたとベッドにたどり着き、横たわりながら腕を伸ばして電気を消した。

 今日吸ったアロマは二本だけだ。最近、これを数えることにしている。
 真っ暗になった部屋を、まぶたを閉じて遮断する。カーテンの向こう側にある新宿の街が明るいことすら、今の皆守を逆撫でしている。

 そうやって無理矢理に眠った夜に見た夢が、初回だった。

 眠るときはいつも不思議だ。ベッドに横たわったときのことは覚えている。まぶたを閉じたときのことは覚えている。だが、いつ眠りに落ちたのかは分からない。いつから夢を見ているのかも分からない。
 気がついたときには皆守の目の前に人間がいて、それが葉佩九龍だった。黒いベストを着た後ろ姿は、皆守の記憶に焼き付いているものと同じだった。
 舞台がどこなのか、何時なのか、そんなことは夢の中では無関係だ。背景は明るかった。まっさらな画用紙の上に立っているかのような気分になった。空は薄い色をして、鳥が群れをなして飛んでいた。

 葉佩は遠いどこかを見ながら、鳥の羽ばたきに目を細めていたようだったが、皆守に気付いて振り返った。

「や、皆守。久しぶり」

 久しぶり、と言いながらも、まるで昨日も会ったかのような口振りだった。皆守は応えられず、葉佩の顔を見つめた。
 夢を見ているとき、それが夢だと気付くことが可能だという。だが、当時の皆守にはまだできなかった。皆守は、夢のカメラが自分だという意識はあったが、カメラを自分の意思で動かすことはできなかった。

 夢のスクリーンに映り続ける葉佩は、応えない皆守を見て笑った。

「落ち込んでんじゃん。どうしたよ。……あ、卒業式、今頃なんだよね。悪いね、行けなくて。でもこうして会いに来たんだし、チャラにしてよ」
……九ちゃん?」
「おお。それ聞くと感慨深いね。見て分かんないか? おれだよ。特に変わってないと思うんだけどな」
「変わってるとか……変わってないとかの話じゃないだろ」

 皆守はそう言い、ゆっくりと歩いて彼に並んだ。
 どういう顔をしていたか、自分ではよく分からない。笑えていただろうか。夢の中の自分について反省するのも馬鹿馬鹿しいことだが、久しぶりに会った葉佩の前で、みっともない姿をさらしたくなかった。

「どうなん? 皆守のほうは。おれのほうはぜんぜんだめだよ。仕事が。終わんないんだ。まじ」
「そうか。俺は浪人することになったよ」
「おっ、いいね。ヒナ先生にあんまり無茶苦茶を言うなよ」
「もう言った後だよ」
「来年、受かったらヒナ先生に御礼に行けよ」
「もう来年の話か? 俺はまだ考えたくないぜ……再来年になる可能性もあるしな」
「そんなに酷いのか、おまえの成績」
「いやだって……九ちゃん、俺が勉強してんのを見たことがあるか?」
「はは」

 一度会話が続けば、何も考える必要はなかった。身体に馴染んだテンポで進んでいく。相槌代わりに葉佩が笑い声をたてるのが、数ヶ月越しに聞くともう懐かしかった。
 葉佩は笑ったあとに「うん」と言うと、「ん」の音が少しだけかすれる。痺れるほど懐かしかった。
 皆守は、横に立つ葉佩の全身を見た。いつも遺跡に入るときは頭部にプロテクターをつけていたが、今はない。髪の毛の長さは整えられている。顔にも、胴にも、見えるところに傷も治療跡もなかった。安全靴は記憶のものより新しい。天香學園を出て次の仕事場となるときに買い換えたのかもしれない。

 ああ、でもこれは夢の記憶だ。観察したって、何にもなりはしない。

「うん?」

 見られている葉佩がそう言った。皆守は「いつも通りだな」とだけ告げた。

「ああ、まあね。ちょっと擦り傷こさえたくらいかな。天香のあの遺跡ほどは殺傷能力高くなくて助かったよ」
「今の仕事は一人なのか?」
「そんなところ。遺跡の近くに住んでるって人がたまに様子を見に来てくれるけど、ご飯を一緒に食べるくらいだから、まあ一人だな」
「遠いのか、そこは」
「遠いかって。あはは、どこから? 天香から? 皆守、来てくれるのか?」

 葉佩が笑った。あっけらかんとした声だったが、皆守に「おまえにそんなことはできない」と突きつけるかのように聞こえた。皆守は呼吸を呑み、「違う」と絞り出した。皆守が勝手に傷ついただけだというのに、それを聞いた葉佩は素直な顔で、会話を続ける。

「なんだ。違うのか」
「どこから、って……日本からだよ。だっておまえ……天香に来る前はエジプトだったって、言ってたろ。今は日本なのか?」
「ああ、そういうことか。日本じゃないよ。めちゃ遠い。おれは協会のチャーターに運ばれてるから普通に来ようとすると何時間か知らないけど、日本からの直行便はなさそうだな。調べたことないけど。たぶん」

 皆守は、相槌だけを返した。

 薄い色をした空が、ぼんやりとした光を寄越している。明るい場所にいることは分かるのに、そのほかの情報がぼやけているのは光のせいだ、と皆守は思った。
 夢が始まったときの静かな高揚は消え失せていた。あるのは、葉佩と自分とのあいだにある隔たりで、皆守はその幅広さに足をすくませていた。皆守は底を見ようとしているのに、谷間は深すぎて底の闇を打ち払えていなかった。

 久しぶりに葉佩の顔を見て、気が動転している。思考があれこれ散逸した。

 天香學園にいたころの葉佩を思い返した。
 葉佩は高校に通っていなかったと言っていた。中学校の記憶もあいまいで、集団行動には慣れていない、とも語っていた覚えがある。けれどもどうしてか、彼は他人の機微に聡く、気遣うのが上手かった。

 皆守の記憶が、夢の中の葉佩にも反映されているのだと皆守は思う。

 背中を勢いよく、何度か叩かれた。振動が骨に響き、腹に響くと、まるで笑っているかのような錯覚に陥った。葉佩はグローブを填めていて、普段よりも手のひらが大きくなっている。

「なんだよ、その顔。ちょっと意地悪言って悪かったって。もしかして追いかけてきてくれる気なんかな、と思ったら突っ込みたくなっただけ。……安心しなよ、おれもロゼッタ協会の試験、かなり落ちたから」
……おまえの勤務先、合否なんてあんのか」
「あるよ! ちゃんと選抜しないと殉職されて経費がパーだもん」

 さすがに笑えない。苦い顔をした。皆守の顔を見て、また葉佩が笑った。

「皆守もさ、そんな気にしいなくせに、おれが天香行くまでよく一人でフラついてられたもんだ」
「気にしいなわけじゃない。慣れてないだけだ」

 葉佩はきょとんとした。そんな顔も懐かしかった。

「はは。何に?」
「その、つまりだな。ああ、どう説明したらいいんだか」

 皆守が口をもごもごさせているのを、葉佩は面白そうな顔で見た。彼の顔の角度が変わって、そこでようやく、顎に泥がついていることに気がついた。

「九ちゃん、顎……

 思わず片手が伸びた。葉佩の顎に指先が触れそうになったとき、

「おっと」

 と彼が一歩退いた。

「何かついてた? ……ああ、午前中に出土品の水洗いしてたからだ。ありがと」
……おう」

 避けられたことに、皆守は気付いた。片手を下ろす。夢の中では、容易に触れられないのかもしれない。
 いや、違う。再現できないのだ。皆守は、葉佩の顔に触れたことなんてなかったのだと気付いた。

 葉佩は自分で拭って汚れた指先を擦り合わせながら、「そろそろ時間だ」と言った。

「行くのか」

 そう呼びかけると、葉佩は「残念だけどね」と歯を見せて笑った。靴紐を確認するような素振りをしてから、

「じゃ、皆守。また」
「また?」
「え。変だった? おれもさ、皆守と同じで慣れてないから……こういうとき、なんていうんだ? ふつう」

 首をかしげる葉佩は、まるで明日も会うつもりでいるかのようだった。

 二人で墓地から上がってきたとき、寮の入り口で靴を脱いだ。特に葉佩の靴は安全靴でつま先に金属が入っていたから重量があり、廊下を不用意に歩くと音が響くのだ。靴下を汚しながら二人で寮の中を歩いた。幸い、誰にも出くわしたことはなかった。小さな囁き声で話しかけてきては笑う葉佩の声を聞き流しながら、皆守は廊下の窓に積もった埃を見つめていた。男子寮はいつも埃っぽかった。曇った窓ガラスに映る《宝探し屋》の目を見るたび、何度でも懲りずに動揺していた。

 部屋の並び順の都合で、皆守の部屋の前で別れることになってきた。

――んじゃ、また明日な。

 葉佩はいつもそう言って別れた。皆守はその台詞をほとんど毎日、ドアノブに手を掛けながら聞いていた。
 たった数ヶ月前の風景が、切り傷のような鮮烈さで蘇る。首をかしげる葉佩に、「なんでもない」と皆守はごまかした。

「てか九ちゃん、今、俺と同じって言ったか? 何の話だよ」
「友達に慣れてないよなお互いって話! あ、まじで時間がやばい! んじゃ、皆守。またな」
「え、九ちゃん。おい!」

 そして、目が覚めた。

 カーテンをしっかりしめていなかったせいで、朝日がベッドに差し込んでいた。眩しさのあまり目覚めたらしい。
 目元を直撃する光を手でよけながら、ぼんやりと壁を見た。長い年月、何度も生徒を見送ってきた男子寮の壁はきれいだとはいいがたい。そのおかげで、皆守は壁のしみを目で追うことで気を落ち着けた。

 いい夢だったといえるのだろうか。

 葉佩のことを忘れた日など、この数ヶ月のうちにはほとんどない。けれども、わざわざすべての時間で彼のことを考えていたわけでもない。
 傍らに立ち、同じ教室に通っていた時期に比べれば、葉佩の存在は遠くなりはじめている。そんな日々の中で、皆守の夢の中に登場した葉佩はまるでそのままだった。自分の記憶力も想像力も、舐めたものではないな、と思った。

 葉佩らしい葉佩だった。

 会話のテンポも、彼の選ぶ言葉遣いも、よく笑うところも同じだった。数ヶ月会わないでいたとしても、彼はあんなふうにふるまいそうだった。まるで昨日も会っていて、明日も会うかのような気楽さだった。

 彼とのエピソードを思い返したことはあるが、いま改めて葉佩とのやりとりを想像したことはないつもりだった。それにしては、と皆守は思う。

 自分が生んだ幻に慰められていては世話ない。

 皆守は身を起こして、完全にカーテンを開けた。皆守の部屋からは木の枝が見える。裸の枝だが、新芽がついていた。桜ではないことは知っているが、何の木だかは知らないままだった。そのまま卒業するだろう。
 時間を確かめるために、携帯電話を開いた。七時十三分の表示の下に、新着メッセージ一件、という文字があった。メールボックスのアイコンが光っている。

 息が漏れた。
 三月の朝は冷えるもので、吐息は白く曇った。
 布団からはみだした上半身は肌寒さを訴えるが、心臓が熱くなっている。
 皆守はメールボックスを開いた。知らず知らず、ボタンを強く押し込んでいた。

 フロム:マミーズ【メールマガジン】
 件 名:卒業おめでとうございます! 春満開!いちごスイーツのご案内♪

 携帯電話をそっと閉じた。デスクの上に置き、あくびをする。
 洗い物の籠を持ち上げつつ、部屋を出た。鍵を掛けて、ランドリールームに向かう。學園の事務室が開く時間までには洗濯も終わるだろう。

 今日のうちに、退寮日の連絡をしなければならない。来週かな、と皆守は思った。あまり遅くなると、引っ越し業者が捕まらない。今の段階でもぎりぎりだろう。
 そしてその退寮日、皆守はメールを送るだろう。返信のない葉佩宛だ。

――今日、天香を出た。新しい住所を送っておく。なんかあったら、宿にでもしろよ。