海面は光を撒いたように輝いていた。雲ひとつない濃く鮮やかな青空、燦々として目の眩むような強い陽射し、磯の香りが混じる強い風、あるいは凪いだ海に助けられて進む船の揺れに誘われて、手摺から身を乗り出した。
ボートならともかくフェリーのデッキからでは届かないのを分かっていて波に手を伸ばしていると、後ろから襟を引っ張られる。
「落ちたりしませんよ?」
一歩下がって振り返り言ったスキピオに、ハンニバルは襟から手を離してその隣に並んだ。
「わざと落ちるつもりなら止めないが」
「それこそ止めてほしいけどな」
どこまで本気で言っているのか、一際強く吹いた汐風にハンニバルは目を細めて、船内のどこかで買ってきたらしいミネラルウォーターのボトルをスキピオに渡した。展望デッキは日陰になって涼しかったが、飲んでおけと念を押される。父があんなことを言うからだとスキピオはむず痒さを感じ、捻った蓋がすでに開けられているのに気がついてそれが顔に出た。
夏の盛り、バカンスの時期とあって離島へ向かうフェリーは混み合っている。はしゃぐ子供たちがデッキを駆け回り、老夫婦がそれに優しい眼差しを注ぐ一方で、若者のグループが到着後の予定についてあれこれ話し合う、四方八方からの賑やかさで満ちていた。それでも彼の隣にいるとその喧騒から隔てられているような気がする。
海原を見つめる横顔に視線を送っていると、どうしたと問うようにこちらを向いた。
「似合いますね」
海がとも船がとも指さない曖昧な言い方に彼は何も返さずに、船旅は久しぶりだと呟く。弟が船も海も駄目で、小学校の行事以来だと。その弟はたぶん自分と同学年の方だろうとスキピオは想像した、泳げないのだとか聞いたことがある。
「じゃあ久しぶりの船旅は楽しみでした?」
「ああ。昨夜はよく眠れなかった」
絶対に嘘だったのでスキピオは喉を鳴らして笑った。そうして意味もなく肩に頭を乗せても、ハンニバルは以前のようにはそれを避けなかった。怪訝に思う気配が伝わってはくるが、それも警戒に寄ったものではない。
デッキに立つ乗客の手から何かを奪った海鳥が、悲鳴や笑い声を背にして彼らの前を通り過ぎていった。舳先が波を割って進む先へと、その姿は小さくなっていく。
ハンニバルが自分と同じようにそれを目で追っているのを確かめたあと、その腕を抱いて、手摺に乗せられた手を取った。自分のものよりも大きなその手に手のひらを合わせて、指を絡めても、誰もげんなりとした顔でこちらを見たり、よそでやれと追い払おうとはしない。浮かれた旅行者たちはみな陽気になって、寄り添う者たちはありふれていた。スキピオに話しかけて来る者も、彼らの姿に驚く者も、ハンニバルに何かを手渡そうとする者もない。彼らを知る者が誰もいないという稀な偶然がこの船にはあるようだった。
このふたり旅は、いわばこの秋に大学へ進むハンニバルの合格祝いだ。随分前からまず母に相談しそこから父にお伺いを立て、いい子に過ごしてお許しを貰った旅行だった。父は何やら考えるところがあるらしく許可を出す前にハンニバルと話をして、スキピオがいかに体調を崩しやすく幼い頃の遠出にはどれほどその対策が必要だったかを言い含めていた。ハンニバルが大真面目にそんな話を聞くものだから、スキピオは彼らの後ろで貝のようになってしまったほどだ。
それでもあれは楽しいドライブだった。行き先や移動方法などのおおよそを説明されたものの、まだ免許を取得して日の浅いハンニバルの運転を信用しきれない様子の父に「じゃあ乗ってみればいいですよ」とスキピオが横槍を入れた時にふたりから漂った、重力が数倍になったような空気の割には。昔から私有地で車を乗り回していたらしいハンニバルの腕に父も納得し、こうして思い描いていた通りの旅に出ることができている。
車輌甲板に預けていた車に乗り込んでフェリーを降り上陸した離島は、ほとんど全体が観光地として開発されていた。車を使えば数時間で一周できる小さな島を、何か特別な理由があって選んだわけではない。
一泊二日の旅程はスキピオが組んで、詳しいところはハンニバルにも明かさないままにしていた。とはいえ島の南方に目的地を設定したナビに導かれ、海沿いの道に車を走らせるのはハンニバルなのだけれど。
彼は運転そのものが好きで、車を走らせるために目的地を探すようなところがあった。だから鉄道やバスを使うよりも、こういう旅行が楽しいだろうと思ったのだ。受験を終え、もしかすると人生で最も身軽な瞬間にいるのに、常通りの安全運転でハンドルを握るハンニバルに浮かれた様子はない。
合格祝いと言っても、誰もハンニバルが志望する大学に合格できないとは思っていなかった。通知を受け取った当人にも感動はなく、それよりも同じ大学に志願したマハルバルのことを心配しているようだった。無事に合格通知を得たあの先輩にお祝いを言ったら、初めて屈託のない笑顔を向けられてスキピオも嬉しく思ったものだ。その顔のまま「絶対についてくるなよ」と言われてしまったけれど、そんなふうに釘を刺されるまでもなく、スキピオは別の大学に進むつもりでいた。
カーステレオのラジオは親たちが懐かしみそうな曲ばかりが流している。遠い街にいる恋人の変節を責める詞が、スキピオに口を開かせた。
「まだ先ですけど、遠距離恋愛になるかも」
助手席の相手が珍しく静かなので寝ているものと思っていたのか、ハンニバルは少し間を置いてこちらを横目にした。
どこを受けるのだと問われて名を挙げた大学に、なるほどと彼は頷いて、知人が卒業生だがいい学校らしいと教えてくれた。二年後の話だからか、あるいは合否を心配する気持ちがないからか、深刻に受け取っていない様子である。
「離れているのは確かだが。遠距離というほどでもないだろう」
「毎日は会えないでしょ?」
「毎日会うつもりなのか」
「だっていまはほとんど毎日会ってるじゃないですか」
同じ学校に通うとはそういうことで、だからマハルバルはついてくるなと言ったのだろう。
「どうせ秋からは毎日は会えない」
「毎日電話しましょうね」
「しない。しつこくかけてくるなよ」
照れ隠しでなく心底嫌がっているハンニバルの頬をつつくと無視された。彼は実家を出て一人暮らしを始める準備をすでに進めていて、県外に出るのだから毎日会えるはずもない。約束をして、日時を決めなくては会えない相手になってしまう。
別に、それを寂しいとまでは思っていなかった。少し退屈になってしまうだろうけれど、車内に流れる歌のように裏切られる心配もちっともしていない。
放っておかれるのをいいことに耳に触れ髪を撫でて遊び続け、運転中だと本気で諌められた頃には、車は山間の道に入って目的地まで十分ほどのところに来ていた。
「僕たち遠距離に向いてると思います。特にあなたは」
「向き不向きがあるか?」
「そりゃあ、ありますよ。例えばうちの両親は絶対に向いていませんね」
父は毎日顔を見て様子を確かめていないと気が済まないだろうし、母は会わないでいればいるほど相手にとっての自分の存在を希薄に感じていく。いつだったか、長期の出張から戻った父は妻の態度にほんの僅かな変化を感じ取って右往左往していたものだ。
弟と共に呆れ半分にそれを見守った思い出話に、想像がつかないとハンニバルは呟いた。彼はその仕事柄不在の多い父親を持つが、それだけに家族は離れて過ごすことに慣れているということかとスキピオが納得していると、眉を寄せて何か思い出している顔をした。
「何です?」
「……いや、なんでもない」
なんでもないという顔ではない、そう食い下がろうとしたとき、ナビが目的地到着を告げた。
「お待ちしておりました、スキピオさん。ハンニバルさん」
笑顔で迎えてくれた少年は、可愛らしい容貌に親しみをいっぱいに浮かべていた。それを見るハンニバルの顔に怪訝さと、次いでスキピオへの疑いが浮かぶのは、そのくっきりとした目鼻立ちが彼の嫌いな人間を否応なく思い出させたせいだった。
指定された目的地が観光牧場ではないことを察した時点で何か嗅ぎ取ってはいたが、これは予想しなかったらしい。車を降りて出迎えの姿を認めてからずっと眉間の皺が取れていない。
スキピオはメッセージでやり取りをしていた少年とハンニバルの間に立って、いかにも邪気のない顔でまだ小学生だという相手を紹介した。
「マッシワくんはこの牧場の管理をしてる方のご子息で、マシニッサの甥っ子さんなんです」
「叔父からはくれぐれも失礼のないようにと申しつかっております」
「……なるほど」
姉の子だというが、実子と言われても納得するくらいよく似ているのだ。とりあえず案内をと敷地に入っていくマッシワは艶やかな黒髪を、叔父と同じように長く伸ばして編み込んでいた。
牧場は敷地の広さに対してそれほど多くの馬を抱えてはいなかった。引退した競走馬の管理であるとか、原生種の保全であるとか、そういったことを主として行なっており、ちらほらと見かけるスタッフの様子には利益を出す目的で運営されていない長閑さがある。
厩舎へ向かう途中、放牧地の柵に沿って歩きながら周囲に見えるものをあれこれ説明してくれるマッシワに、ハンニバルは大人げない態度こそ取らなかったものの、仲良くなる気もなさそうだった。
「マシニッサが出てきたりはしませんよ、あまりここには来ないそうですから。マゴーネの馬はまた別の牧場に預けているんですって」
「分かりきっていると面白くないから詳しく調べるなと言ったのはここのことだけか?」
「だって知ってたら来ないじゃないですか。この島で乗馬ができるのはここだけなのに。楽しみだったでしょう?」
「行き先自体変えればよかっただけだ」
「そんなに意地を張らなくても……」
喧嘩と呼ぶほどでもない言い合いを、マッシワは不思議そうに、興味深そうでもある顔で聞いていた。
厩舎には、すでに鞍を着けられた馬が二頭、スタッフに手綱を引かれて彼らを待っていた。靴をブーツに履き替えヘルメットを借りて歩み寄ると、何の用かもう分かっているのだろう、栗毛の馬が人懐っこく鼻先を近付けてくる。
青毛のもう一頭は神経質さを思わせる仕草で首を振って足踏みしていたが、ハンニバルが手綱を受け取って目を覗き込むと途端に温順しくなった。その様子にしても体の大きさにしても、気軽に客に貸すような馬には見えない。しかしマッシワはまったく心配する素振りを見せずにそれぞれの馬の名を教えてくれた。
「ここから林を抜けて、岬までが敷地です。馬の行きたがらないところの他はご自由に。おふたりとも乗馬のご経験がおありと伺っていますし、同行は不要かと……」
「うん、ありがとう」
ハンニバルに言うとややこしくなりそうで黙っているが、マゴーネの馬が預けられている牧場にはスキピオもマシニッサに招かれて行ったことがある。そこで幼い頃以来の乗馬の手ほどきを受けてそれなりのものになっているのだった。ハンニバルの方は嗜みと言ったところだろうか。
マッシワと時間のことなどを話していると、蹄の音がした。いつの間にか鞍に跨っていたハンニバルを乗せて、青毛の馬は鞭を受けてもいないのに林の方へ駆け出した。
名前を呼ぶ間もなく、こちらに一瞥もない。呆気に取られているとマッシワが微笑んだ。
「大丈夫でしょう、あの方なら」
そう言ってスキピオを見上げた瞳はきらきらと輝き、まるで長年憧れを募らせてきた相手を見ているような表情だった。マシニッサにこの離島に行くのだと話したら必ず牧場に立ち寄るよう言われたのは、もしかすると親切でなく甥のためだったかもしれない。
一体自分の何が少年にこんな嬉しげな顔をさせるのか、スキピオが教えてもらうことはないのだろう。幼い頃から慣れた類の気配がしたが、ハンニバルを追うスキピオを見送ったマッシワから悪意は感じなかった。
おっとりとした気性の馬をどうにか急かしているうち、ハンニバルの姿はすぐに見つかった。林に通された道の途中で足を止め、どうやらスキピオを待っていたようだった。目が合うと、先ほどより落ち着いた様子の馬の首を撫でる。
「早くしろと急かされてな」
だからしょうがない、そんな風に笑われると咎める気にならなかった。
ハンニバルはスキピオの手綱捌きに不安がないのを確かめて馬首を巡らせた。林を抜けると、岬まで続く緩やかな丘の勾配の向こうに水平線が広がっている。日差しは強かったが風が涼やかで、軽やかな駈歩で進むと心地よかった。見渡す限り他の誰の姿もない。沢を渡り、岬に出た頃には、馬は彼らにぴったりと息を合わせてくれていた。
岬には点々と花が咲いて、足を止めた馬たちがおやつ代わりに食む。それを好きにさせながら景色を眺め、写真に撮ったおこうかとスマートフォンを探したところでスキピオは大切なことを思い出した。
「そうだ、写真。お互いに撮っておかないと」
「……別にいいだろう」
「だめですよ。今日はまだフェリーで一枚しか撮ってないじゃないですか」
それもSNSにアップするのを忘れている。さほど一生懸命投稿しているわけではないが、この旅行中は別だ。
レンズを向けるとハンニバルは馬に頭を上げさせて、にこりともしないながらも慣れた様子でフレームに収まった。彼が写真慣れしているのは間違いなくスキピオと同じ理由である。スキピオの求める通りハンニバルも写真を撮ってくれたものの、馬上でこんなもの無粋だとばかりにすぐにスマートフォンを仕舞ってしまう。
写真を二枚添付し、適当なコメントをつけた投稿には、すぐに反応がついた。父はどうやら投稿そのものの通知が来るように設定しているらしい。
「ずっと気になっているんですけど」
さほどフォロー数の多くないアカウントだからタイムラインの進みは遅い。ハンニバルは相変わらず見るだけで投稿はなく、しかし彼のアカウントにも最近変化があった。
「僕と、父と、あとひとりフォローしてるでしょう。茶トラの猫がアイコンのアカウント。お知り合いですよね?」
「猫に罪はない」
「……アカウントの主には罪があるんですか?」
なくはない。そんな風に言ってハンニバルはそれ以上何も説明しなかった。茶トラの猫の写真を気まぐれに投稿するだけの、人格の見えないアカウントである。
旅行の様子を知りたいからとスキピオのアカウントをフォローする流れでハンニバルにもアカウントの有無を尋ねた父には、何と言おうか、家庭で見せない仕事人の顔を感じた。猫のアイコンも、そういう断り難い流れがあってフォローしているのだろうと思うのだけれど。
「まあ……いいです、浮気じゃないなら。でもあなたが浮気するほどの相手が存在するならむしろお友達になりたいな、紹介してくださいね」
「お互い様だな、それは」
そう軽く言って、手綱を握り直したハンニバルが軽く腹を蹴れば馬はすぐに駆け出した。すっかり仲良くなったらしい、とまだ草を食んでいる自分の馬の顔を覗いてみるが、彼らを追いかけたい気持ちが露ほどもないつぶらな目がスキピオを見返しただけだった。
それに笑い返し、よく手入れされた毛並みを撫でた。そのゆったりとした足取りに任せ、あっという間に遠くなり小さくなってしまった姿を見つめていると、不意にハンニバルが振り返り海の方を指差した。
崖下に打ちつける波の音が繰り返されていたが、指し示された方を見ると同時に風が強く吹いた。遠く、風上に灰色の雲が見えた。
予報では旅行のあいだ天気は安定しているはずだったのに、窓ガラスを揺らす勢いで雨粒が降りしきっている。夕食をホテルのレストランで済ませる予定にしていてよかった、そう思いつつもスキピオは窓の外を睨みつけていた。夏の夕方だというのに空はどんよりと暗い。
「明日は観光スポットをたくさん巡ろうと思ってたのに」
空きができたとかでアップグレードされた部屋は広く、ゆっくり過ごすのに何の不足もない。海に向けて見晴らしのよい露台には椅子も据え置かれているのに、言うまでもなく雨に曝されて座れる状態ではなかった。
牧場を出た時には小雨で、マッシワも明日には晴れるだろうと言っていたが、少しばかり怪しいとスキピオは思っていた。
「またこれだ。僕があなたに何かしようとすると雷が落ちるんです」
季節も予報も関係なしに大雨が降り雷が落ちる。既に雷鳴が遠くに響いていた。
館内案内に目を通していたハンニバルがこちらを向いたのが窓に映ったが、彼はガラス越しにスキピオと目が合う前にまた冊子に向き直った。今日に限って、避難経路を二度も確認するほど心配症になったらしい。
ソファの隣に座ってにじり寄るスキピオが何か言うより先に、ハンニバルはリモコンを取り上げてテレビをつけた。子供向けアニメ番組の陽気な音楽が、雨音に囲まれた客室の空気を上滑りする。警戒されていると思うと胸がそわそわして悪い癖が出そうで、触れるのだけはどうにか堪える。
「美術館でも突然雷が鳴ったし」
ついさっきよりも近くなった落雷が、ほんの一瞬部屋の照明を途切れさせた。
「ほら、あなたにキスして投げ飛ばされた時も嵐だったでしょう」
「そんなことまで覚えていない」
そんなふうにそっぽを向かれるとだからどうしたと言われるよりずっと可愛く思えるのだが、ハンニバルはそのあたりの感覚が鈍かった。養われていないだけ、慣れていないだけで、欠けているわけではないことはもう知っている。
ようやく冊子からスキピオの方へ向けられた紫の瞳、そこに浮かんだ辟易した色の奥に、以前にも見たことのあるものが見え隠れした。
何か、他愛のない賭け事をしていたのだ。まだ肌寒く、彼らの周囲が落ち着きを取り戻し始めた頃だった。どちらもさほどスポーツ観戦に熱を上げる方ではなかったけれど親の影響などで自然と応援するフットサルのチームがあって、それが違っていたのでその日行われる試合でどちらが勝つかを冗談半分に競っていた。
勝った方が負けた方に、何か秘密を教えるという話だった。幼い頃の恥ずかしい思い出とか、実は食べられないものとか、そんなことでよかった。
ハンニバルの部屋には壁掛けの大きなテレビがあって、そこで過ごすときにはよくそれで一緒に映画を観る。観戦はその時が初めてだった。数時間の白熱した試合の結果、賭けはスキピオの勝ちで、さあ何か打ち明けてくださいと囃し立てた。
きっと昔話でもしてくれるのだろうと思っていたからふざけて急かしたのだけれど、なかなか口を開かないので訝しんでその前に回り込むと、思いもよらない顔をしていた。拗ねたような、悔しげ、口惜しげな? 思い出しても上手く言えないのだけれど、ハンニバルは負けず嫌いな性分なのだと初めて知ったとき重い蓋が呆気なく開いたのが分かった。
衝動に任せて両手で頬を包んで引き寄せ、唇を重ねた。重なったと思った次の瞬間には床に背をつけてひっくり返っていたので感想は何もない。初めてだったのに。
彼は怒ってはいなかった。自分がスキピオを床に放り出したことに驚いたようでもあったし、何をされたのか理解して不気味がっているようでもあった。年下の恋人からのくちづけをそんなふうに扱っていいものだろうか。でも意外ではなかった、それまでにも腕を組むとかぴったりと寄り添って座るとか、そういうことにいちいち理由を求められていたから。
戸惑いには、投げ返し方を知らないという当惑が混ざっている。
「あれ? あの時の、秘密──何も教えてもらってない」
騒音を聞きつけた彼の家族が部屋にやってきたせいで有耶無耶になって、それきりだった。何の話かと問わないあたりハンニバルは覚えていたらしい。
「どうしても言いたくないなら、キスしてくれたら見逃してあげますけど」
ソファの背凭れに首を傾けて不遜な笑い方をしてみる。なにせ、あれ以来そんな触れ合いが一度も生じていないのである。こんなに可愛い恋人を前にして。誰も憚ってそうとは言わないけれど、この旅行が関係を発展させることをみんな心配しているのに。
ハンニバルが手にしていた冊子をテーブルに放った。彼らしくない乱暴な所作で、冊子はぱさりと少し強い音を立てる。
「どちらの方がいい」
「……どちら?」
「どちらもという選択肢もなくはないか」
目を瞬いている間に、伸ばされた手が耳元の髪を後ろへと流した。まっすぐな長い指が頭の形をなぞる感触に心地よさを覚えて細めた目を、スキピオはすぐに瞠ることになった。
意外と柔らかい。覚えていられなかっただけで以前もそう思ったはずだ。荒れた感触もなく、ほのかに甘いのはホテルまでの道中でスキピオが彼の口に放り込んだ飴のせいだろうか。伏せられていた目が、瞬きを忘れて自分を凝視している瞳に気が付いて上げられる。
ただ重ね合わせて離れると思ったものが角度を変えてもう一度触れたので、思わず背がぎくりと震えた。それを拒絶と誤解されなければいいと思ったのに、三度目はなかった。
ソファの上に固まったスキピオと同じ角度に首を傾けて、ハンニバルがあのときと呟く。
「お前はあれが初めてだったらしいが、俺もそうだった」
それってもはや秘密というほどでもないんですけど──そんな軽口を叩くこともできずにスキピオが呆けていると、彼が吐息するように笑う。
ああそうだった、負けず嫌いなんだ。それに、あんな軽い挑発に乗るくらいには、気にしていたんだろう。賭けを有耶無耶にしたことも投げ飛ばしたことも。
「……ねえ、一年かけて進展がこれだけだと、弟さんに笑われてしまうんじゃ?」
「調子に乗るな。明日は行きたいところが色々あるんだろう」
「それってどういう……」
「どこにも行けなくなっていいならふざけていても構わないが」
いいですと宣言するより先に、予約の時間だとか言ってハンニバルはソファを離れた。
楽しみにしていただろうと言われて夕食のことだと頭が追いついたものの、正直それどころではない。なのに彼がスキピオを放って部屋を出て行こうとするから、追いかけないわけにいかなかった。
海の幸がふんだんに並べられた夕食の席でちっとも落ち着かず、味もよく分からなかったというのに、結論から言えば何もなかった。慣れない枕なのに一晩ぐっすり眠って、カーテンの隙間から差し込む朝日に誘われた目覚めはすっきりとしてとてもいいものだった。
カーテンの外は明るく、雨音は消え去っている。嵐が過ぎ去ってよかったと言うべきなのになんだか釈然としないで、スキピオはしばらくベッドの上に膝を抱えていた。
もしも、ハンニバルと出会ったのがもっと幼い頃だったなら、中学生くらいでやることはすべてやっていただろう。スキピオは単純に容姿のせいで純粋さや無垢さを投影されがちだが、実際にはそのあたり平均的な十代の少年だった。そうではないと明かしてもスキピオを傷つけない相手、スキピオがじっと見つめても精神の均衡を崩さない相手、あるいはそんな自重の蓋を吹き飛ばすような相手がこれまでいなかったから経験がないだけだ。
「だからって、僕があなたで遊んでると思ってます?」
なんとなく先に起きているに違いないと思って声をかけたが、こちらに背を向けたハンニバルからの返事はない。
そろりとベッドを抜け出しスリッパに足を入れ、壁際に回り込んでベッドのそばにしゃがみ込んだ。そうして覗き見た寝顔は、この顔はいつなら隙ができるのだろうという様子だった。静かな寝息に耳を澄ませていると、膨れているのが勿体ないという気分になった。
シーツの上に頬を乗せて、額にかかる髪に触れる。少し硬い感触の髪は、いままさに跳ね回っているスキピオの髪よりもずっと聞き分けがいいようだった。
しばらくそうして指先に髪を巻きつけて遊んでいるうちに、ハンニバルが目を開いた。スキピオと目が合うと、時計を見もしないで、まだ早いだろうと柔らかく言う。
腕が伸ばされてスキピオをベッドの上に引っ張り上げた。彼の目覚めのよさを知らなければ寝惚けて弟か誰かと間違えていると思っただろう。隣に寝転んだスキピオに布団をかけた腕がそのまま体に回されて、それがちっともぎこちなくないのだから尚更。
「早起きして散歩をするのもいいなって思ってたんですけど」
「……ああ」
「ハンニバルって、小さい頃から寝足りないと言ったら家族みんなが好きなだけ寝かせておいてくれたんじゃないですか?」
いまでさえよく分からない理由で学校に来ないのを誰かに咎められる様子がない。それに、スキピオもそうだった。
もっと休んでいたい、一緒に寝ていてほしいとくっついていると、両親も弟もそれに付き合ってくれた。さすがにそのまま学校を休むなんてことはなかったけれど、休日には一緒に朝寝坊をしてくれて、みんななんだかそれが嬉しそうだった。
目覚めがいいなら寝つきもよく、すぐにまた寝息が聞こえ始める。悪戯をする心配くらいしてくれてもいいのに、そんなことをするよりこうして同じぬくもりの中にいる方がずっと心地よいと分かっているようだった。
どんな夜中でも布団の中に招き入れてくれて、いつまででも頭を撫でてくれる手に育てられ、見守ってくれる幾つもの目がそばにあった。スキピオの知り得ない縁を理由にして、まるでこの世の誰よりも特別な存在にするかのように注がれる眼差し。幼い心の移り変わりを丸ごと受け止めてくれる柔らかな世界で生きて、スキピオにはいつでも楽しいことがたくさんあった。
それでも何か足りなくて、その足りないものを見つけたから、彼のそばにいれば満足するのかと思った。最初はただ、同じだということが嬉しかったのだ。友達になったって構わなかったのに恋人という名前を選んだのは、胸を擽るときめきにそれが相応しいと思ったからだった。
スキピオの直感はいつも正しい。こうして触れるほどに満たされなくなっていくのは、不思議と嫌な心地ではなかった。
「僕の秘密も教えてあげますね」
そんなもの秘密でもなんでもないと笑ってくれるといいと思いながら目を閉じた。
「これって、僕の初恋なんです」
一泊二日の旅行はあっという間に終わってしまう。夜遅くならないうちにスキピオを送り届ける約束なのだから仕方がないけれど、再びフェリーに乗り込んだ時にはまだ夕方にもなっていなかった。
その短い旅行の割には荷物は二倍ほどに増えていたし、今日は分刻みの過密スケジュールをむしろ楽しむといった有様だったけれど、まだ遊び足りなかった。往路と同じようにデッキに立ち潮風を浴びていると小学生の頃に遊園地から帰りたくないと駄々を捏ねた思い出が蘇ってくる。
「どこかでごはんを食べて帰りましょうよ。それくらいならいいでしょ?」
「家族がお前の分も夕食を作って待っているんじゃないのか」
「……ハンニバルはさっさと帰りたいんですね」
冗談半ばに拗ねた顔をしたスキピオには乗せられず、ハンニバルは遠ざかっていく離島を写真に収めた。こんな良い被写体を無視する気かとそのレンズの前に身を乗り出せばシャッター音が数度、あまりにも適当なのできっとブレている。
「何事も最初が肝心だろう」
首を傾げたスキピオは、すぐに言わんとするところを察して機嫌を直した。もっと楽しんでくればよかったのにと思わせるくらいの方が、両親は次の機会を許してくれやすいだろう。それがハンニバルの父親にも通用するのかは知らないけれど。
彼の方はどうやって交渉してお許しを得たものか、スキピオは詳しく教えてもらっていなかった。成人して大学生にもなろうというのに許可など必要かという態度で押し通したか、その逆に情に訴えたのか、一年をかけてもバルカの人々とはさほど距離が縮まらなかったので想像も曖昧になる。
「あの吹きガラスのコップ、ご家族のどなたにあげるんですか?」
工房での製作体験で、スキピオは一輪挿しを作った。素人の作るものなのでコップも一輪挿しもさほど変わらないけれど、それなりの出来だったので母に渡すつもりだ。
考えていなかったらしいハンニバルは欲しがった誰かに渡すと、争いの火種になりそうなことを言った。スキピオほどではないがあれこれお土産を選んでいたのに、それも同じように分けるつもりだろうか。
誰に何を渡すか、買い漏らしはないかと買い込んだ品々を思い返してみると、自分のためのものはひとつも買っていなかった。あのコップを欲しがってみようかと思ったスキピオの鼻先にハンニバルが何か差し出したのは、フェリーが岸に近付いた頃だった。
受け取ってみると鍵がひとつ、見覚えはない。
「どこの鍵ですか、これ?」
「部屋の鍵だ」
「部屋……」
「毎日は来るなよ」
スキピオは両手にそれを握り込んで、ハンニバルの手の届かないところまで離れた。
「じゃあ毎週行きます」
返せと言われるかと思ったけれど、好きにしろと言われただけだった。やっぱり駄目だと取り上げられる気配もない。
荷物は車に積んだままでキーホルダーの類もなく、ポケットに入れるのも不安で、しかしずっと握り込んでいると手のひらの熱が移った鍵の在処に確信が持てなくなり、スキピオはそろりと手を開いた。銀色の、何の変哲もない鍵だ。ハンニバルの選んだ部屋が大抵の学生が暮らすような物件でないことは確かだが、そこにスキピオを招き入れる鍵だった。
また手を握って、ついさっき離れた距離を詰める。鍵を渡すかどうか、ずっと迷っていたのだろうかと思うと際限なく言葉が口を滑り出てきそうだったが、どうにか堪えた。これを取り上げられないのにいちばんいい選択は沈黙のような気がした。
注がれる視線に顔を上げると、ハンニバルがらしくもなく曖昧な表情を浮かべていた。
「重いか」
「え? もっと重かったら失くしそうになくて、いいですね……?」
「……そうだな」
「僕いま変なこと言いましたよね」
「いや、いい。しばらくは秘密にしていてくれ、面倒が起きそうだ」
それなのにくれるんですかと、数限りなく言いたいことがあったけれどスキピオはやはり口を噤んだ。そんなに喜ぶとは思わなかったと困ったような声が降ってきても、いつまでも手を握ってそれを見つめていた。
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