mohu09
2026-03-21 19:08:06
19662文字
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灯りに絆されて

ステが苦手なジェから始まるジェステ


 一人の人間から身体が分裂して三人になりました、だなんて突拍子もないこと、誰に言っても信じてもらえないだろう。ジェイクだって、自分がそうなる以前だったら鼻で笑って返すレベルの話だ。
 ジェイクは、マーク・スペクターという男から生まれた。マークが自分を守る為に生み出した人格、それがジェイクだ。本人も生み出したことを自覚していなかったから、ジェイクは影のように隠れて生きていくことを選んだ。マークという人間から滲み出した影にひっそりと身を隠して、時々表に出て汚れ仕事を担う。それがジェイクの役割であり、生き方だった。不満を覚えたことはない。マークを守れるならば、その方法は何だって良いと思っていたから。別に褒められたくて生きている訳でもないし、隠れられるのならば一生隠れて生きていこうと思った。
 マークが生み出した人格は、ジェイクだけではない。スティーヴン・グラントという人格もいた。彼は前向きで、優しくて、暖かくて、まるで光そのものといったような人間だ。        
 そんなスティーヴンはドゥアトでマークと協力し、最終的には和解してマークと共同生活を送っていくことを選んだ。ジェイクとは正反対だ。それはいい。別にどうこう言うつもりはない。
 ただ、スティーヴンと違ってジェイクは隠れて生きていきたかったのに、異常事態が起こった。マークからスティーヴンとジェイクの身体が分裂したのだ。理由なんてものはわからない。ある日突然そうなった。
 ドゥアトで面会を果たしていたスティーヴンとマークは兎も角、ジェイクは二人に存在を悟らせたことがなかったから、分裂したその時はそれはもう大混乱だった。「お前は誰だ」「どこから来たの」だなんて質問が何度も飛び交って、ジェイクはうんざりした。幾ら時間が経っても、二人は追求を止めようとはしなかったから。だからジェイクは懇切丁寧に説明をしてやることにしたのだ。自分という存在が如何にして生まれたのか、どのように過ごしていたのか、そしてどんな人間なのかを。
 説明を大人しく聞いていた二人は暫く呆然とした後顔を見合わせて頷き、何故だか涙声で「これからは一緒に過ごそう」と同時に言われた。その時、ジェイクは酷く歪んだ表情をしていた。
 先述した通りジェイクは隠れて生きていきたかったし、これから先だって皆で仲良く暮らしていくつもりなんて毛頭なかったのだ。二人を置いて旅にでも出ようかと思った。だのに、二人はジェイクと暮らす気満々で勝手に部屋まで探し始めて、外堀を埋められていた。挙げ句の果てにはマークに「もうお前に辛い思いはさせない」だなんて言われて、余計に表情が歪んだ。辛い思いなんて最初からしていないというのに。
 まあそんなこんなで始まった三人の共同生活は、今のところ上手くいっていると言えるだろう。部屋もあの薄汚い屋根裏部屋のような部屋から広い部屋へと引っ越し、家事なんかも三人で交代に回し合いながら生活している。
 とはいえ、ジェイクは今の生活に満足しているかと言われれば、首を横に振らざるを得ない。ジェイクには共同生活なんてものは向いていないし、存在を認知されることに慣れない。放っておいて欲しいというのが正直なところだ。やっぱり二人を置いて旅に出ようかと思ったが、そうもいかない事情があった。
「ねえねえ、ジェイク」
 静かにソファで本を読んでいたジェイクの横に腰掛けて、スティーヴンがしつこく呼びかけてくる。最初は無視を決め込んでいたのだが、何分経っても「聞いてる?」だとか「おーい」だとか話しかけてくるので、もう対応せざるを得なかった。
「何なんだよ」
「あ、やっと反応してくれた」
「何の用だ」
「あのね、話があるんだ。だから読書やめて、僕と話さない?」
 スティーヴンはにっこりと花のように美しく微笑んで、首を傾げた。それを見て、ジェイクの表情が歪む。
「嫌だ。断る」
「そう言わずにさ、ほら。もう紅茶も用意してあるんだ」
「あ、おいっ。引っ張るな」
 有無を言わさずソファから立ち上がらせられたと思ったら、ダイニングの方へと連れて行かれて、ジェイクは声を荒げた。本当に話を聞かない人間である。
 ジェイクが旅に出られない理由はこれだ。スティーヴンが何もかも邪魔をする。正確には、スティーヴンが付き纏ってきて全てをぶち壊す、だ。
 一度旅に出ようと旅支度をしたことがあったのだが、それを目撃したスティーヴンに「そんなことしてる暇があったらお互いのこと知ろうよ」とよくわからないことを言われて荷物を全部片付けられてしまった。本当に意味がわからない。
 それ以外にも、トイレにまで付き纏われそうになったり出自などを根掘り葉掘り聞かれたり散々だ。今まで無視してやり過ごしてきたけれど、それももう限界を迎えようとしている。スティーヴンの付き纏いが激しくなっているし、何よりジェイクが耐えられそうもない。一度くらい相手の好きにさせてやらないとこの地獄は終わりそうにもないなと思った。
 ダイニングの椅子に無理矢理座らせられて、正面にご機嫌なスティーヴンが座った。目の前には、ご丁寧にソーサーまで用意されたカップと紅茶のポット、クッキーまで置いてあった。アフタヌーンティーでもするつもりなのか、この男は。
「やっと話聞いてくれる気になった?」
……そうでもしないと、お前一生俺に付き纏うだろ」
「そうだよ。わかってるじゃないか」
 本当に面倒臭い。楽しくお茶を飲みながら会話なんて別にしたくもなかったが、こうなってしまってはもうスティーヴンに従うしかないだろう。
 ジェイクは、スティーヴンが苦手だ。嫌いな訳じゃない。苦手なのだ。
 だってスティーヴンは光という概念をかき集めたかのように眩しくて暖かい存在で、影として生きてきたジェイクにはあまりにも眩しすぎる人間なのだ。分かり合えるはずがない。そこにきてあのしつこさだ。苦手にもなるというものである。
 ジェイクは隠れて生きていくことを選んで、一生そうでありたいと願っていた。でもスティーヴンは違う。表に出て、必死に自分の人生を歩もうとしていた。マークとぶつかり合ってまで。それはジェイクには理解し難い想いだ。所詮マークに作られただけの人間が、どうしてマークの邪魔をしてまで自分の人生を得ようとするのか。それがわからない。理解出来ないのだ。だからこそ、スティーヴンとは分かり合えないと思っていた。話し合うことさえ無駄だと。
 だが、こうなってしまったからには話し合うしかない。スティーヴンが満足するまで、彼に付き合ってやる他ない。
「で? 何が話したいんだ」
「君の出自とか、考え方とか。もっと詳しく聞かせて?」
「初めて会った時話してやったろ」
「あれだけじゃ足りないよ。君って人を理解するには物足りない」
 欲張りな奴だ、と思う。ジェイクが初めて二人と対面した時に話してやった内容だけじゃ物足りないときた。ジェイクからしたら自分という人間を説明するのに十分なくらい丁寧に話したつもりだったのだが、スティーヴンからすると理解とまでは至らなかったらしい。理解力が足りないんじゃないか、なんて失礼なことを考えてしまった。
 スティーヴンはポットに入った熱々の紅茶をジェイクの方のカップに注ぎながら、何故だか嬉しそうに続ける。
「君ともっとわかり合いたいんだ。沢山会話して、色んなことを知りたい」
……物好きだな」
「そう? 別に物好きでも何でも良いけどさ、もっと僕らと仲良くしようよ」
「それは難しい相談だな」
 ジェイクはスティーヴンとは分かり合えないと思っている。そんな人間と仲良くなんて出来るはずがない。別にいがみ合おうとまでは思わないが、程々に距離をとって暮らしたいとは思う。だが、そんなことをこのスティーヴンが許すはずもない。それはわかっている。だから困っているのだ。
 どうすれば分かり合えないと理解してもらえるだろうか。いっそハッキリと、自分の思いを告げてみるしかないのだろうか。そうすれば流石のスティーヴンも諦めてくれるかもしれない。
「俺はな、スティーヴン。お前とは分かり合えないと思ってる」
「どうして?」
「正直俺は、マークとぶつかり合ってまで自分の人生とやらに固執するお前が理解出来ない。しようとも思わない。そんな人間がお前と分かり合えるか? 無理だろ」
 淹れてもらったばかりの熱々の紅茶にふう、と息を吹きかけながら、ジェイクは淡々と告げる。言いたいことを言い終わって息を吐き、火傷しないよう僅かに紅茶を口に含んだ。フルーティで上品な渋みが口内に広がり、これはダージリンだなとどうでもいいことを考えた。
 スティーヴンは俯いて、黙り込んでいる。打ちのめされたか、と思った瞬間だった。
「分かり合えるよ」
「は?」
 唐突にスティーヴンが顔を上げてそう言ったので、ジェイクは思わず素っ頓狂な声を出してしまった。まだ食い下がるのか。ジェイクとしては最大限スティーヴンを突き放したつもりだったのだが、スティーヴンは諦めるつもりはないらしい。
「だってさ、僕らはまだ話し合ってないから理解してもらえないだけで、ちゃんと話せば分かり合えるよ」
 スティーヴンは綺麗な笑顔で言い放って、ジェイクと同じようにカップの紅茶を口にした。あちちっと紅茶を熱がる姿はどう見ても間抜けで、分かり合えるなんて大口を叩いた男の姿には見えない。
 正直なところ、スティーヴンは今のジェイクの発言で引き下がると思っていた。気弱な奴なんてちょっと強く突き放せば、すぐに引いていくと思ったからだ。だけど、どうやらスティーヴンという男は別に気弱な訳ではないらしい。そう見えていただけで、芯はしっかりとした人間だったのだ。それは新しい発見だった。
 ジェイクは仕方ないと溜息を吐いて、取り敢えずは話を聞いてやることにする。
「で? 言い分は何なんだ」
「僕はね、ジェイク。エジプト神話を読み解きたいんだ」
「はあ?」
 また素っ頓狂な声が出た。この男、やっぱり訳がわからない。
「ヒエログリフだってもっと理解したいし、エジプトの神様達がどういう成り立ちで生まれたのかとか
「おいおい、待て待て。お前、結局何が言いたい」
「そうだね……僕はやりたいことがいっぱいあって、それは譲れない。でも、マークと共存は出来ると思うんだ。こうなる前は三人で一つの身体だったから難しかったかもしれないけど、それでも共存は出来たと思う」
「マークの人生はどうなる。あいつはまた我慢か?」
「違うよ。一緒に暮らすんだ。君はどうしたい? とか僕はああしたいとか、話し合うんだよ。それから、二人で一緒に何でもやっていく。片方の独りよがりにならないようにね。それが共存だ」
 わからない理屈でもない。最初マークとぶつかり合ったのは、片方が片方の生き方を押し付けあっていたからだ。だから衝突した。でも、スティーヴンの言う共存はそうじゃない。二人で話し合って、これから何をしたいかを決める。そして何事も二人で成していくのだ。決して一人ではなく。それはジェイクにはない発想だった。
 ジェイクは何事も一人でやってきた。生活も、戦いも、全て一人だ。マークやスティーヴンと協力しようだとか共存しようだとか、そんな発想は生まれてこなかった。だって一人で事足りていたから。だが、この男はそうじゃない。マークと二人で一つだと思っているのだ。マークの理想や生き方を否定することなく、けれどスティーヴンのやりたいことはやって行く。そういう生き方だ。
「あ、でも今は君がいるから何でも三人で、だね。僕はそんな生き方をしたいと思ってるよ」
 スティーヴンは柔く微笑み、クッキーを手に取った。そして一口齧って頬を押さえながら「美味しい」と喜び、ジェイクにも一つクッキーを押し付けてきた。無言で見つめられている。食べろ、という意味らしい。
 ジェイクはクッキーを一口齧る。素朴な小麦の味がして、何だか落ち着く味だった。スティーヴンが同意を求めて首を傾げている。
 本当に不思議な男だ。あんなにジェイクに突き放されても尚、共に生きたいと言ってくる。何故そんなにも寄り添ってくるのだろう。理由がわからない。わからないから、少しだけ恐ろしいと思った。底抜けの明るさと、包み込むような優しさ。そこにはきっと、理由などないのだろう。それが恐ろしいし、近寄り難い。ジェイクには眩しすぎる。
「ジェイクはさ、ずっと僕らに見つからないように生きてきたでしょ。君って、そんな生き方を選んだんじゃなくてそれしか知らないみたい。寂しいよ、そんなの。僕は君と生きていきたい。きっとマークもそう思ってるよ」
 ジェイクはクッキーをもう一口齧って、軽く俯いた。何か返事をする気にはなれなかった。
 心臓がトクトクと静かに鳴っている。何だろうこれは。感じたことのない感覚だった。全身が暖かいような、ほわほわと浮かんで地に足がつかないような、不思議な感覚。嬉しい、のだろうか。スティーヴンやマークに共に生きたいと思ってもらえたことが。ジェイクのスタンスからすればそんなわけない筈なのに、その考えが頭から離れない。スティーヴンの優しさに絆されてしまっているのかも、なんて考える。
 ジェイクはもう一口クッキーを齧る。手の中にあったクッキーは跡形もなく無くなり、カップの中の紅茶もすっかり冷め切っていた。それが寂しく感じるのは、一体誰のせいなんだろう。





 あれからジェイクとスティーヴンは、時々何気ない会話を交わすようになった。今日は天気が良いなとか、これ美味いなとか。言ってしまえばどうでもいい会話だ。だが、これはマークにも驚かれるくらい、劇的な変化だ。
 今までジェイクは、スティーヴンとの会話を意図的に避けてきていた。分かり合えない人間との対話など無駄なだけだと思っていたから。だが、先日の会話で少し認識が変わった。これから先、スティーヴンと共に暮らしていけば少しは彼のことも理解できるんじゃないかと思ったのだ。そうして生きてみるのも少しは悪くはないと。だから対話をしてみることにした。
 すると、意外なことがわかってきた。スティーヴンはあれでいて一本芯の通った人間だし、言いたいことはハッキリ言う性格だ。あと、お喋りが大好きで存外に毒舌でもある。優しさは変わらずあって、それは誰にでも分け隔てなく与えられる。マークにだって、ジェイクにだって、近所のご婦人にだって。やはりそれがジェイクには理解し難い部分だったけれど、それも彼を観察していればわかることなのかもしれない。
「今日も曇ってるねぇ」
 窓の外を覗き込んで、スティーヴンが間延びした声で言う。つられてジェイクも窓の外を見遣れば、空は確かに厚い雲で覆われていた。しかしジェイクにとってそんなことは心底どうでも良くて、読んでいた本に視線を戻す。
 今は最早習慣となったスティーヴンとのお茶会の時間だった。あれから、こういったお茶会は幾度となく開かれている。特に意味はない。ただ単に美味しい紅茶が飲めるからやっているだけだ。少なくともジェイクはそう思っている。スティーヴンの方がどう思っているかは知らない。
……その本、面白い?」
「別に」
「じゃあ何で読んでるの?」
「暇だから」
「だったら僕と話そうよ」
 スティーヴンが子供のように駄々を捏ねて、人の本を勝手に奪っていった。つまらないとは言っても読みかけで栞すら挟んでいなかったのに、と若干名残惜しくも思うも、まあ良いかとすぐに思い直した。つまらない本を読むのも、スティーヴンと意味のない会話をするのも、どちらでも大して変わりはない。ただ暇を潰すだけの手段だ。
 ジェイクはまだ湯気の登り立つ紅茶を飲み込んでから、スティーヴンの方を見て首を傾げた。
「話すって、何を」
「例えばさ……ジェイクのしたいことについてとか」
「したいこと?」
 語尾を吊り上げて言えば、スティーヴンが頷く。
 したいことと言われても、すぐには思い浮かばない。ジェイクは時々マークの代わりに汚れ仕事を担うのだけが役目だったから、自分にしたいことなど特に無い。マークを守れればそれで良かった。それだけがジェイクの存在意義だった。だからしたいことなんて無いにも等しいし、これから先だって生まれてくることもないだろう。
「無いな、そんなもの」
「無いの!? 将来ああなりたいとか、こういうことに挑戦してみたいとか、そういうの普通あるでしょ」
「無い。俺はマークを守れればそれで良い」
 ジェイクが独り言のように呟くと、スティーヴンが黙り込んでしまった。何かおかしなことを言っただろうか。
 スティーヴンは紅茶に砂糖を放り込んで、ぐるぐるとかき混ぜながらそれを眺め、言葉を選ぶようにして喋りだした。
「マークを守りたいっていうのは同意するけど……やりたいことを見つけるのは、悪くないと思うよ。それが人間らしさってやつだから」
「人間らしさ?」
「うん。生きる意味って言い換えても良い。君にこそ、そういうの必要でしょ?」
 必要なんだろうか。そんなもの考えたこともなかった。ジェイクにはやりたいことがない。けれどそれを不満に思ったことはないし、それで良いとさえ思っていた。だけど今スティーヴンに生きる意味とやらが必要だと言われて、何となくそんな気もした。今までのジェイクであればそうは思わなかったのだろうが、最近のジェイクは違う。"生きる"ということに意識が向いて、それが何なのかと考えるようになった。生きる意味が必要なのなら、見つけるのも悪くはない。
 とはいえ、どんなことが生きる意味になり得るんだろうか。さっぱり見当もつかない。マークを守る……のは違うと言われた。ならば、ジェイクのやりたいことは?
 ふと、こういう時間が続けば良いなと思った。それは小さな小さな願いだったけれど、見過ごしはしない。つまり、スティーヴンとのお茶会がジェイクのしたいことなのか。お茶会、とは違う気がする。会話をする時間なのかもしれない。
 最近は、スティーヴンとの会話で色々なことを気付かされてばかりだ。それは悪いことじゃない。むしろ、良いことだ。ジェイクの心がふっと軽くなる時もある。ならば、それを続けたい。そう思うのは不自然なことじゃないだろう。
……こういう時間が続くのは悪くない」
「え?」
「だから、お前との会話は嫌いじゃない」
「それって……僕と会話してたいってこと?」
「まあ、好きにとれ」
 ふい、と視線を逸らすと、スティーヴンが明らかな喜色を浮かべて顔を覗き込んできた。その視線が甘ったるくて、思わずジェイクは顔を歪めた。何なんだ、一体。
「ジェイクも可愛いところあるねぇ」
 意味がわからなかった。何故そうなるのか理解不能で、ジェイクは眉を顰める。まあ、可愛いというのならスティーヴンの中ではそうなのだろう。スティーヴンの中では、だ。ジェイクにはさっぱり理解できない。しようとも思わない。
 ジェイクは顔を歪めたままクッキーの乗せられた皿へと手を伸ばす。そしてクッキーを取ろうとした時、スティーヴンの手とジェイクの手が重なった。どうやら最後の一枚だったらしい。「俺が先に手を取ったんだ」なんて言おうとした瞬間、スティーヴンが手を引いていった。
「どうぞ」
……なんだ。いらないのか?」
「欲しいけど、それ、ジェイクのお気に入りでしょ。なら君にあげたい」
 やっぱり変わった奴だ、と思う。欲しいくせに他人に簡単に譲るなんて、ジェイクならばあり得ない話だ。欲しいのなら、何が何でも手に入れる。それがジェイクの在り方だ。だがスティーヴンは違うようだ。"ジェイクのお気に入りならばあげたい"らしい。それは優しさからくるものなのだろうか。多分、そうなのだろう。
 スティーヴンの優しさは、やはり理解できない。近寄り難いと思ってしまう原因の一つだ。スティーヴンは誰にでも優しさを振り撒く。当たり前のように。それが理解できなかった。
 スティーヴンこそ、もっと自分の生きたいように生きるべきなのではないだろうか。こうやって人の為に我慢したりするのではなくて、自分のしたいようにする。それが大事なのだと自分でも言っていたはず。何故そうしないのだろう。
「お前って……なんでそんな優しいんだ」
「優しい?」
「優しいだろ。本当は食べたいくせに、俺にクッキー譲ったり。お前こそもっと自分の好きに生きるべきなんじゃないか」
「あぁ、ふふっ……そういうことか」
 スティーヴンは笑みを溢して、楽しげに笑っている。何がそんなに面白いのかわからない。ジェイクが首を傾げると、スティーヴンが柔らかな笑みを浮かべながら言った。
「僕はね、好きな人にしか優しくしないよ。だからしたくてしてるの。ある意味勝手なんだ」
 好きな人、とそう言ったか。言葉を嚥下した瞬間、ジェイクの心臓がトクンと鳴る。その意味が自分のことながらわからなくて、また首を傾げる。これも初めて感じる感覚だった。嬉しいのとはまた違う。それより、もう少し苦しい感じだ。何なのだろう、と思うも理由などわかるはずもなく、ジェイクは首を傾げたまま続ける。
「好きな人?」
「そう、好きな人」
「あの近所のご婦人もか?」
「もちろん。あの人すっごく感じの良い人でしょ」
 スティーヴンのその言葉を聞いたら、何故だか心臓がもっと苦しくなった。今度は先程とは違う苦しさだ。もっと胸を締め付けられるような、悲しみのような、そんな苦しさ。落胆、なのだろうか。一体何に? わからない。わからないから、対処のしようもない。
……お前、やっぱり変な奴だ」
「ジェイクには言われたくないです」
 軽口を言い合って、ふっと軽く微笑む。そう、こんな時間だ。こんな時間が続けば良い。それがジェイクの今の願いだ。
 ジェイクはスティーヴンから譲ってもらったクッキーを手に取り、一口齧る。やはり小麦の焼けた良い香りがして、美味しかった。今度はスティーヴンに譲ってもらわなくても良いよう、きちんと数を揃えて用意しておこうと思った。





「ねえねえジェイク」
 休日、平和な朝の朝食の時間。スティーヴンが、やけに楽しそうな声色で話しかけてくる。新聞から目を逸らしてスティーヴンを見れば、表情も楽しげに弾んでいるようだった。
「一緒に買い物行かない?」
……俺と?」
「そう。欲しかった本が入荷するんだ。一緒に買いに行こうよ」
「何で俺となんだ。マークと行けばいいだろ」
「マークは仕事だってさ」
 不貞腐れた声でスティーヴンが言うので、マークの方を見る。彼は困ったような顔をして肩を竦めていた。どうやら事実らしい。だからと言って、敢えてジェイクと買い物に行く必要はないだろう。そもそも一緒に買い物に行く程の仲ではなかったはずだ。
「一人で行けば?」
「あ、ひどい。一緒に嬉しさを分かち合いたいから誘ってるのに」
「だから何で俺と」
「君が大事な人だからに決まってるだろ」
 また心臓が鳴った。最近この謎の現象が多くて困っている。スティーヴンが近い時、スキンシップをしてきた時。何故か心臓がトクンと大きく鳴るのだ。原因不明の現象だから対処のしようもなくて、参っている。まあ大した話でもないので気にする必要もないのかもしれないが。
 兎に角、スティーヴンはジェイクと買い物に行きたがっている。特に断る理由もないが、ついて行ってやる理由もない。どうしようか考えあぐねていると、マークが口を開いた。
「俺は今日仕事で遅いから、買い物に行っておいて貰えると助かる。スティーヴン一人じゃ心許ないから、ジェイクもついて行ってやってくれ」
「マークもひどいな! 僕の何が心許ないのさ!」
 スティーヴンが何か文句を言っているが、聞き流して頷く。買い物に行く理由はできた。仕方がないのでスティーヴンについて行ってやろうと思う。
「仕方ないな。ついて行ってやるよ」
「あっ、本当? 嬉しいな!」
 ジェイクの言葉を聞いた途端、表情を緩めて嬉しそうにするスティーヴンが子供のようで、ほんの少し微笑ましさを覚えた。これがスティーヴンの良いところってやつなのかもしれないな、なんて考えた。





まだ肌寒い風が吹く中、肩を縮ませて歩きながら数ブロック先の本屋を目指す。スティーヴンが言うには、ここらじゃその本屋にしか入荷しない新刊らしい。どんなマイナーな本なんだか。
 日向を見つけてその中を歩き、漸く目当ての本屋に到着する。いかにもな怪しい雰囲気の本屋だ。多分、普通の人間が買うような新書なんかは置いてないタイプの店だろう。
 狭い本屋の中の本棚を見つめて二人で新刊を探していると、暫くしてからスティーヴンが「あっ」と小さく声を漏らした。やっと新刊を見つけたらしい。本を見つけてニコニコと嬉しそうに微笑んでいる。何だかジェイクまで嬉しくなってしまって、つられてしまったことに何故か若干の悔しさを覚えた。
 スティーヴンはその新刊をレジへ持って行って会計を済ませ、本を大事そうに両腕で抱え込みながら店を出た。先に店を出てふんふんと鼻歌を歌っているスティーヴンの手元を覗き込み、ジェイクはずっと思っていたことを口にした。
「どんな本なんだ、それ」
「これ!? これね、ヒエログリフの解読に挑戦した天才学者の話で、神々の言語とも呼ばれたヒエログリフが
「あー、もういい。聞いてもわからんことがわかった」
 ジェイクはスティーヴンの言葉を止めたつもりなのだが、スティーヴンは聞こえていないのか何事かをずっと一人で喋り続けている。おーい、と語りかけながら顔を覗き込むと、その表情は酷く無邪気なものだった。ジェイクの息が止まる。
 プレゼントをもらった子供のように目がキラキラと輝いていて、楽しそうに喋り続ける姿は無邪気そのもの。その姿を見て、ジェイクは無意識のうちにスティーヴンを「可愛い」と思ってしまった。
 そんな感情が胸に湧いてきた瞬間、ジェイクは自身の口を押さえて目を見開く。今、何を思った? スティーヴンを可愛いと思うなんて、そんなのどうかしている。あんなに苦手だった相手を、あろうことか可愛いだなんて。あり得ない。あり得ないはずなのに、心臓はトクトクと音を鳴らしている。今口を開けば、「可愛い」と一言口にしてしまう自信がある。だから口を塞いだ。
 なるほど、心臓がトクンと鳴るのはスティーヴンを可愛いと思ったからなのか、と漸く合点がいく。だからと言って、そう思うことに納得したわけではないけれど。
「ジェイク?」
 突然名前を呼ばれて、身体がこわばった。慌ててスティーヴンを見れば、先程までの無邪気さは消え去って怪訝な表情を浮かべていた。察するに、何度かジェイクの名前を呼んだのに返事がなくて訝しんでいたのだろう。
 ジェイクは咳払いをして胸の高鳴りを消し去り、咄嗟ににっこりと胡乱な笑顔を作った。
「悪い。何だ?」
「そろそろ買い出し行かない? 目当ての本も買えたし」
「そうだな。スーパー行くか」
 適当に返事を返して、スーパーに向けて歩き出す。目の前を歩くスティーヴンのふわふわな後頭部を見ながら、ジェイクは先程の感情について考えていた。
 可愛いという感情を初めて覚えてから、何だか心の中の様子がおかしい。スティーヴンのふわふわくるくるとした髪の毛まで何だか可愛らしく思えてくるし、ご機嫌なのかどこか弾んだ足取りもまた可愛い。そんなことを考えていることが信じられない。
 だって、相手はあのスティーヴンだ。ジェイクが最も苦手とする類の人間だったはず。それが今では、定期的に開かれるお茶会のせいか苦手意識は消え、それどころか若干の親しみまで覚えている。数ヶ月前からは信じられない進歩だ。いや、進歩と呼んでいいものなのか。
 苦手意識が消えたのは良い。親しみを覚えるのも、まあ悪いことではないだろう。だが、「可愛い」は違うはずだ。同じ顔をした男相手に抱く感情じゃない。そう思っているはずなのに、脳が勝手に可愛いという感情を吐き出す。軽く混乱状態だった。
「スティーヴン」
「なあに?」
 スティーヴンが振り向いた時、どこからか甘い香りが漂ってきた気がした。匂いまで可愛らしいのかこの男は。
 ジェイクは混乱して、次に続く言葉を失った。そもそも、どうしてスティーヴンを呼び止めたのかもわからない。何がしたかったのだっけ。
……間抜け面だな」
「ひどい! いきなりなに!?」
 特に思ってもいないことを呟くしかなかった。悪態を吐くくらいしかすることが思い浮かばなかったからだ。ジェイクはこういう時、どうすべきかなんて知識は持ち合わせていなかった。何事かをぎゃあぎゃあと叫んでいるスティーヴンのことは無視をする。
 そんなこんなしているうちにスーパーに着いたので、カートを取って店内を見て回る。ジェイクはカートを押す係で、スティーヴンが商品を吟味する係だ。ジェイクには商品を目利きする能力はない。スティーヴンにその能力があるのかは定かではないが。
 スティーヴンはアボカド、トマト、レタス、そしてソイミルクなどをポンポンとカートに投入していき、着々と買い物メモに書かれていたものを手に取っていく。そんな中、突然スティーヴンが立ち止まった。アイス売り場だ。その視線の先には、ヴィーガン向けのアイスが置かれていた。
……これ、買っても良いと思う?」
「出かける時、余計なもの買うなって言われなかったか」
「うぅ……でも……
 スティーヴンは頭を抱えて、欲望との葛藤に苦しんでいるようだった。彼が甘いもの好きなのは知っている。お茶会の時でも、時折チョコレートやらマカロンやらを持ち寄っては美味しそうに頬張っている姿を目にしたことがある。多分生粋の甘党だ。
「夜中とか……急に食べたくなるんだよね」
「太るぞそれ」
「わかってるけど止められないんだよぉ」
 涙声でそう言って、スティーヴンはアイスに手を伸ばした。結局買うことにしたらしい。無駄遣いするなと言われたのはわかっているが止められない、ということなのだろう。
 アイスをカートに入れて、悪戯っぽく微笑むスティーヴンがまた可愛いなと思う。もう諦めた。可愛いものは可愛い。そう開き直ることにする。こんな感覚、制御できなくて当然だ。
 買い物メモに書かれたものは網羅したし、とレジに向かうことにした。レジで会計を済まし、商品を袋詰めして店を出る。冷たい風が吹き抜けていって、二人して身を縮めた。
 よいしょ、と呟きながら袋を抱えるスティーヴンの手から、ジェイクは無言で袋を奪い取る。重いものを持つのはジェイクの担当だ。スティーヴンの非力さでは文字通り荷が重い。
 そうして暫く何も喋らぬまま歩いていたら、唐突にスティーヴンが話の口火を切った。
「ジェイクって格好良いよね」
「は?」
 あまりにも突然すぎて意味がわからなかった。スティーヴンは時々こういうことを言う。唐突すぎる発言。多分、自分の中で既に自己完結していて、それを何も考えずに口に出すからこうなるのだ。本当に不思議な奴である。
「いきなり何のことだ」
「だってさ、そうやってさりげなく荷物持ってくれるところとか車道側歩いてくれるとか、紳士的で格好良いと思うよ」
 特に意識はしていなかった。重そうにしている奴の荷物を持ってやるのも、誰かと並んで歩いている時は車道側に立つのも当然だと思っていたし、それを紳士的と言われると少しむず痒い。そして胸がほわほわと暖かくなった。格好良いと言われたのが嬉しい、と思ってしまったらしい。自分のことながらよく分かっていないが、多分この感覚はそういうことだ。
……スティーヴンは気が利かないし、何でもやってやってって人任せだよな」
「えっ、突然なに。貶してる? なんで?」
 照れ隠しに、スティーヴンを貶すことしか出来なかった。おかしい。良いところを言ってやろうと思ったのだが、正反対のことが口に出てしまった。
 だが実際そうだ。スティーヴンは気が利かない。マークが荷物いっぱいで辛そうにして帰ってきても「おかえり〜」と呑気そうにしているし、お茶会の時だってジェイクの紅茶が減っても特に気にせず本を読んだりしている。それに、他人任せなところもある。大したことでもないくせに「ジェイクやって」と丸投げされたことが何回もある。
 けれど、ジェイクはスティーヴンのそんなところを知っても特に軽蔑などはしなかった。むしろ自由奔放でいいな、と思った。自由奔放なのは魅力に繋がるし、他人任せなのだって人に頼れるという素直なところは良いところだ。どれもジェイクにはない特性だ。だから、見ていて飽きない。ずっと見ていたいとすら思う。やっぱり、いつからかジェイクはスティーヴンに絆されてしまったのだと今気が付いた。
 まあ兎も角、今の発言は貶したように思えて実は褒めていたのだ。……というのは、若干無理があるだろうか。
「貶してない。褒めてる」
「嘘だ。あんなの褒めてるとは言わないよ」
 まあ、そうとられてもおかしくないことを言った。だがジェイク的にはマイナスな意味ではなかった、ということは言いたい。
 スティーヴンは若干頬を膨らませて、いじけたような表情をしている。少し言い過ぎたか、と思っていると、スティーヴンが突然ジェイクを見つめて言った。
「ジェイクってさ、僕のこと好き?」
 また唐突すぎる発言だ。スティーヴンの頭の中はどんな思考回路になっているのだろうと少し気になってしまった。
「何で突然そんなことを聞く?」
「だって、何だか貶されてばっかりで君から好いてもらえてる自信なかったから」
 スティーヴンの問いに答えるのは難しい。彼を好きかどうかなんて、考えたことがなかった。最初はスティーヴンのことが苦手だったし、好きかと言われたら首を横に振るくらい苦手だった。別に嫌いなわけではなかったのだが。
 だが今はどうだろう。当初覚えていた苦手意識は消え去っている。親しみだって覚えた。これは好きと言えるのだろうか。中々答えは出ない。だが少なくとも、悪い印象はもう持っていないのは確かだ。
「俺は
「でも、僕はね」
 ジェイクの言葉を遮って、スティーヴンが口を開く。酷く優しい声音だった。スティーヴンは突然ジェイクの前に躍り出て、柔く微笑みながら言うのだ。
「ジェイクのこと大好きだって思ってるよ」
 ジェイクは目を見開いた。途轍もない衝撃を受けたからだ。荷物を思わず落としてしまいそうな程だった。
 スティーヴンはジェイクを大好きだと言った。それはきっと、嘘偽りない心からの言葉なのだろう。ジェイクはそれが嬉しかった。心が躍ってしまうほどに。スティーヴンの周りに美しい花が咲いたように見えたし、世界がキラキラと輝いて見えた。そんな感覚、初めてだったのだ。だから衝撃を受けた。
 そしてそれ以上に驚いたのは、胸が酷く高鳴ったことだ。トクン、なんて生優しいものじゃない。ドキン、と激しく鳴った。その胸の高鳴りは勢いを落とさずに今も続いていて、ジェイクの胸を締め付けている。苦しい、と思った。息が上手く出来ない気がするし、視界が僅かに狭窄するほどだ。こんな感覚、ジェイクは知らない。生まれて初めて感じた。
 これが好き、ということなのだろうか。ジェイクにもわからない。けれど、スティーヴンに悪い印象は持たなかった。むしろ、素敵だとすら思った。ということは、やっぱりこれが好きという感情なのかもしれない。
 好きというのはこんなにも苦しいものなのだろうか。ジェイクは今とても苦しい。胸が高鳴って呼吸を邪魔しているし、心臓がバクバクと煩いから鬱陶しくて仕方がない。好きがこんなにも苦しいなら、スティーヴンはこんな苦しみに耐えているというのか。そんな風には見えない。好きどころか大好きとまで言ってくれたのに、スティーヴンは至って平常だ。穏やかに見える。きっとジェイクと同じ感覚ではないのだろう。
 ならば、この感覚は何だというのだ。胸が高鳴って、苦しくて、スティーヴンがキラキラと輝いて見えるこの不思議な感覚は。
 一つ、頭の中をよぎった考えがある。それは馬鹿馬鹿しくてあり得ないような考えだったけれど、見過ごすわけにはいかない。だって、あまりにも的を得ている。
 もしも。もしも、だ。ジェイクがスティーヴンに抱いている感情が、好きを通り越して"愛"だとしたら? だとしたら、どうすればいいのだろう。
 スティーヴンを可愛く思うのも、事あるごとに胸が高鳴るのも、全て愛情からくるものだとしたら納得がいく。それも、親愛の情ではなくて"そういう意味"での愛だ。ただの親愛だとしたら胸が高鳴ったりはしないだろう。多分、愛とはそういうものだ。ジェイクだってまだよくはわかっていないのだけれど。
 本当にそういう意味での愛なのだろうか、と今一度考えてみる。ハグはできるか、キスはしたいか、そしてその先だってしたいと思うのか。考えてみて、スティーヴンとならしてみたい、という興味が勝った。ジェイクはマークにそれなりの好意を持っている自覚はあるが、マークとそんなことをしたいとは思わない。こんなことを思うのは、スティーヴンだけだ。
 スティーヴンとキスをしたらどんな感情になるのだろうと興味があるし、その先を想像しても嫌悪感はない。これはもう、"そういう意味"で確定なんじゃなかろうか。
 人をそういう意味で好きになるなんて、ジェイクの人生で初めての出来事だ。眩しくて近寄り難くて、苦手だった相手に絆されて好きになるだなんて、人生何があるかわかったものじゃないなと思う。
 ジェイクは俯き気味だった顔を上げて、横を歩くスティーヴンを見つめる。横顔が美しいな、と思った。
「スティーヴン。俺は
「あっ、もう着いちゃったね。ほらジェイク、荷物持つから部屋の鍵出して」
 なんと間の悪いことだろう。考え事をしながら歩いていたらあっという間にフラットに着いてしまっていた。スーパーが案外と近かったのが悪い。
 仕方がないのでジェイクはスティーヴンに荷物を預けて、ジャケットのポケットから部屋の鍵を取り出す。そしてそのまま住んでいる部屋がある階まで登って、玄関扉に鍵を差し込む。
「ただいまー……って誰もいないんだっけ」
 マークは仕事中だ。部屋に誰もいないのは当たり前だった。
 スティーヴンは荷物を抱えながらキッチンに向かい、買ってきた食材やアイスを冷蔵庫や冷凍庫に素早く詰め込んでから、ソファの方へそそくさと向かって勢いよく座り込んだ。恐らく、買ってきた本を早く読みたいのだろう。本の包み紙を荒く破り、表紙を見つめて目をキラキラとさせている。本当に無邪気だ。
 ジェイクは黙って本のページを捲り出したスティーヴンの横に座って、彼を見つめる。夢中で本を読み耽る姿が可愛らしいな、なんて考えてしまった。もうジェイクは重症かもしれない。
「スティーヴン」
「んー?」
「好きだ」
 スティーヴンに負けず劣らず唐突なことを口にすると、スティーヴンが勢いよく顔を上げた。目をまん丸に見開いている。もっと近くでその様子を見たくて、ジェイクは顔をスティーヴンに近付けた。
「え、なに、突然」
「さっき好きかって聞いただろ。だから答えた」
「あ、あぁ、そういう……びっくりした。てっきり僕は違う意味かと……っていうか顔近くない?」
「そうか?」
 惚けてみると、スティーヴンが身体をのけ反らせた。わざと顔を近付けているのだから、近いのは当然だ。逃げるスティーヴンを追いかけて顔をぐいぐいと近付けると、とうとうソファの端まで追い込んでしまった。
「ちょっと、なに、何なのさ。顔近いよ」
「わざと近付けてる」
「なんで!」
「実験」
 スティーヴンが心底わけがわからないって顔をした。まあ、それもそうだろう。
 ジェイクはスティーヴンと近付くと自分はどうなるのかと実験してみたかった。やっぱり、胸がドキドキと高鳴る。心臓が煩い。きっと、これは恋だ。いや、愛だったか。まあどちらでもいい。ジェイクはスティーヴンに特別な感情を抱いてしまっている。それがわかった。
 一体いつからなんてものはわからない。興味もない。ただ、スティーヴンを好きになってしまったという事実がわかりさえすればそれでいい。実験は成功だ。
 スティーヴンが、どこか怯えたような眼差しでジェイクを見つめてきている。その表情が加虐心を唆って、ジェイクはもう一つだけ実験をしてみることにした。
 怯えてしまったスティーヴンの両肩を掴んで、近付けた顔を傾ける。え、とスティーヴンが短く呟いたのが聞こえて、口端が吊り上がった。
 チュ、と小鳥の囀りのような音を鳴らして唇にキスをする。本当に、唇同士を軽く触れ合わせるだけのキス。やっぱり嫌悪感はなかった。あるのは、胸の高鳴りだけ。
 どさりと本が床に落ちる音がして、スティーヴンが目をまん丸にして何度も瞬きを繰り返していた。可愛らしいな、と思う。
「へっ……い、いまの、なに」
 スティーヴンは片手で唇を押さえて、裏返った声で呟く。まだ状況が整理できていないみたいだ。今となっては、これくらいのことで困惑するスティーヴンが愛おしく感じる。
 そう、愛おしいのだ。可愛いを通り越して、愛おしい。キスをしたことでそんな感情さえ生まれた。これはもう確定だろう。ジェイクはスティーヴンに恋をしている。愛していると言ってもいい。ジェイクとしては、どちらもそんなに大差はない。
「キスだよ」
「わかってるよそれは。何で僕にそんな……
「好きだから。さっき言ったろ」
 隠す必要もないので馬鹿正直に想いを口にすると、スティーヴンがまた目を丸くした。虹彩がふるふると震えている。動揺が隠しきれていない。その様子が何だか面白くて、揶揄ってしまいたくなる。ジェイクの悪い癖だ。
「あ、そ、そう……。君って結構……なんというか、情熱的なんだね。キスって普通特別な人としかしないんだけど……
「言っておくけど、俺はそういう特別な意味でお前が好きだからな」
「え……
 今度はカチコチに固まった。本当に面白い。笑みが抑えきれなくなって、ジェイクはふはっと楽しげに息を漏らして破顔した。実験は大成功だし、スティーヴンの反応は初心で面白い。こんなに楽しいことはない。もしかしたら、ジェイクは生まれて初めて心から楽しいと思って笑ったかもしれない。
 固まったスティーヴンの頬が、じわじわと赤みがかっていく。言葉の意味を理解し始めたのだろう。その様子を見ていることすら楽しくて、脂下がった笑みが止まらない。
「えっ、えっ……好きって、そういう意味で、君が?」
「そう。悪いか?」
「悪いっていうか……君、僕のこと嫌いだったんじゃないの」
「そんなこといつ言った? 好きって言ってるだろ」
「え、でも、そんな……
 スティーヴンは頬を真っ赤にして、俯いている。与えられる情報を脳が処理しきれないのかもしれない。
 確かに、ジェイクはスティーヴンが苦手だった。その時の対応からして、嫌いに思われてると解釈されても仕方がないだろう。でも今は違う。惹かれたのだ、彼の光に。眩しくて近寄り難かった光は今や心地良い灯りに感じられて、側にいると酷く居心地が良い。ずっとスティーヴンと話していたいと思うし、側にいられればと思う。
 スティーヴンは俯いたまま、手元で指を弄って何かをモゴモゴと喋っている。
……ごめん。返事は、まだ出来ない。整理つかなくて」
「別に良い。返事を求めて言ったわけじゃないからな」
「そ、そうなの? じゃあ何で……
「反応が知りたかっただけだ。俺と、お前のな」
 首を傾げているスティーヴンの頬の赤みが愛おしくて、思わず頬にキスを落としてしまう。スティーヴンが「ひえっ」と間抜けな声を出してのけ反った。その反応がやっぱり面白くて、ジェイクはくすりと笑った。
「精々悩め。俺は高みの見物してる」
 ジェイクは微笑んで、床に落ちていた本をスティーヴンの膝に乗せてそれをポンポンと叩いた。
 ジェイクは別に、スティーヴンと付き合いたいから告白をしたわけじゃない。そりゃあ勿論付き合えたら嬉しいが、断られたってジェイクは勝手にスティーヴンを好きでいるから問題はない。生まれて初めて得たこの感情を大切にしたいだけだ。それはもう丁寧に、宝箱に仕舞って大切に扱いたい。
 スティーヴンの方へ迫らせていた顔を引いて、サイドテーブルに置いてあった適当な本を取って読み始める。エジプトの神々がどうとかいう本だった。
「ちょっと待ってよ。もう少しちゃんと君の感情を聞きたいんだけど」
 焦ったようにスティーヴンが言うけれど、それは無視して本を読み続ける。精々沢山悩んで、色々な反応をジェイクに見せて欲しい。それがジェイクの願いだ。
 その後暫く「ねえ」だとか「聞いてるの」だとか話しかけてくるスティーヴンを無視し続けていたら、とうとうスティーヴンが泣き始めてしまったので、ジェイクは対応せざるを得なかった。
「何で泣くんだよ。なんか泣くようなこと言ったか?」
「だって、君が無視するから、わけわかんなくなって」
「わかった、悪かったよ。だから落ち着けって」
 しゃくり上がっているスティーヴンの涙をシャツの袖で拭ってやって、頬を優しく片手で叩く。そうして数分経った後、漸く落ち着いたのかスティーヴンが赤くなった目でジェイクを見つめて恐る恐る問い掛けてきた。
「ジェイクは、僕のどこが好きなの」
「鈍臭いところと、マイペースすぎるところと、鈍いところと……
「何一つ褒めてない!」
「そうか? 俺は褒めてるつもりだが」
 ジェイクが首を傾げると、スティーヴンが怪訝な表情を浮かべた。
「君、本当に僕のこと好きなの?」
「まだ信じてないのかよ。もう一回キスでもしてやろうか?」
「い、いい! いらない! わかったから顔近付けないで!」
 失礼だな、と思いつつも顔を遠ざければ、スティーヴンがホッと胸を撫で下ろして安心の溜息を吐き出した。そんなにキスが嫌なのか。ジェイクはスティーヴンとキスすると幸せな気分になれたが、どうやらスティーヴンは違うらしい。これは断られたも同然なのでは。
「拒絶したいなら拒絶しろよ。別に俺は気にしない」
「えっ……違うよ。そうじゃなくて……まだ気持ちの整理がついてないだけで……
「それって嫌なのとは違うのか?」
「全然違うじゃないか! 君って人の感情の機微わかんないの?」
「わからんな。だから正直お前が何に悩んでるのかよくわからん」
 嫌なら拒絶すれば良いし、受け入れたいなら受け入れれば良い。そういう単純な話ではないのか。ジェイクには悩む意味がわからない。わからないが、悩んでいるスティーヴンを見ているのは楽しい。それだけで告白した甲斐があったというものだ。
「さっきも言ったが、悩みたいなら悩めば良い。俺は返事がなくても気にしないし、返事したいって言うんならいつまででも待ってやる」
……ジェイクってやっぱり変わってるよ……
「お前に言われたくはない」
 いつかと同じようなやり取りをして、ジェイクは本に意識を戻した。文章を読み進めながら、内容を覚えてお茶会の時の話のネタにすれば、スティーヴンは喜ぶだろうか。そんなことを思ったのだった。
 スティーヴンが数日後に「つ、付き合っても良いよ」なんて上から目線で声を裏返しながら言ったのを聞いて、ジェイクが大爆笑したというのはまた別のお話。