2026-03-14 14:12:29
3389文字
Public ワンドロ
 

やわらかな檻⑵

やわらかな檻1
を読んでからを推奨。
パーバソワンドロライ
お題・不可逆
鍵の続き R15ぐらい

 「玄関の鍵は、問題なく開くと思うよ」

 バーソロミューの真後ろに立つ年下の恋人が、耳元に囁いた。その吐息はすでに熱を帯びており、まだ何も始まっていないはずなのに、それだけで身体は予感に震えた。
雨は強く、車外に出ても、やはり閉じ込められたような閉塞感を感じていた。濡れたアスファルトの匂いも、遠くの街灯の揺らいだ光も、外に出たはずの身体を解放してはくれない。雨の雫に囲まれた、透明な檻の中にいる。
この雨の中、マンションの部屋の前で、不毛なやりとりが続いていた。雨音だけが、絶え間なく続いている。
……君の部屋だろ。自分で開けてくれ」
鍵を差し込んだまま、それを回せず、バーソロミューは振り返ってこの部屋の家主を睨んだ。
視線の高さが合った。その瞳が思ったよりも近く、思わず逃げるように視線を逸らす。
「うん。でも練習だよ。……貴方が、一人で来たときのために」
家主は小首を傾げ、その手をバーソロミューの顔の横をかすめて、玄関扉に添えた。
背後を塞がれ、距離だけが、ゆっくりと失われていく。
おいおい……それって、と言いかけて言葉を飲み込む。
鍵穴に差したままの鍵を持つ指が、わずかに震えている。
握り直すほどのことでもないのに、指先だけが落ち着かない。
目の前の扉の金属の冷たさと、背後から伝わる熱い体温の差が、思考を遅らせた。

思えば、マンションの駐車場もそうだった。
バーソロミューの年上の恋人が、雨に打たれながら一晩待っている駐車スペースは、来客用だと思っていたが、いつの間にかパーシヴァルが契約したスペースだと、先ほど初めて知った。
車も持たないくせに、勿体ない、と車内で小さく説教した直後、「だから、いつでも泊まりにきて」と首を傾げ、前髪がゆらりと右目を隠した。
その様子に言葉が詰まり、唇を結ぶと、それを唇で塞がれた。

外堀から、静かに、ゆっくりと、確実に埋められていく。
そして、墓穴を掘っているのが自分自身だと気づくのは、いつも遅すぎる。
パーシヴァルは、強要しない。
今この瞬間も、バーソロミューが拒めば――きっと、それは通る。
それでも、そうさせない圧が、善意だけで形作られた、朗らかに笑うこの男にはあった。
選択権を与えられているようで、与えられていない。
この扉を自分で開けるということは――この先に起こるすべてを、バーソロミュー自身が選び、受け入れたという合図になる。
扉を開けさせたのは、ほんの一言だった。
「バーソロミュー。私は、ここでキスをしても構わないけど……
今度は意図的に、耳へ熱を吹き込まれる。
息がかかるだけで、背骨の奥が微かに痺れる。
バーソロミューは息を止めた。鍵を回すか、回さないか。残っているのは、それだけだった。
鍵は、回される前に一度だけ止まった。
金属が小さな音を立て、次の瞬間、ドアが開く。

転がり込むように部屋へ入る。
バーソロミュー自身が、自分で掘った穴に飛び込んだのだと理解したのは、翌朝、この玄関から出ていくときだった。

ドアの音は短く、静かに閉じた。
それだけなのに、廊下の空気が一段、濃くなる。
玄関は薄暗いまま、二人分の濃い影を壁に重ね、ほどなく一つにする。
視界が追いつくより早く、唇を塞がれる。
躊躇のないキス。呼吸を奪われ、言葉は失われ、距離だけが消えていく。
バーソロミューが反射的に後ろ手をついたのは、腰ほどの高さのキャビネットだった。
初めて訪れた部屋。そこにあると知っていたわけではない。ただ、触れてしまったから、支えにしただけだった。
拍子に、上に置かれていたディフューザーが揺れる。
ガラスが傾き、液体が縁を越えた。落ちる音はなく、香りだけが先に広がる。
シダーウッド。
甘さと苦みが混ざり、低い位置から空間へ満ちてくる。足元、膝、腰へと遅れて上がり、肺に届く頃には、その香りの逃げ場はない。
塞がれた唇の代わりに、鼻腔から肺の奥まで染み込む香りと、角度を変えるたびに深くなる口づけに、目眩がした。
……ッ、倒れた……! 拭くもの、……ッ」
口づけの合間、逃れるように紡いだ言葉は、すぐに追いかけられる。
……うん、後で」
そのまま、逃げた唇はとらえられ、舌を絡めとられた。
息が詰まり、喉が鳴る音だけが、やけに大きく響く。
先ほどは雨音に紛れていた水音が、音のない玄関では、やけに響いた。
布が擦れるわずかな音さえ、天井にぶつかって跳ね返る。
遠くでエレベーターの到着音が鳴った。
続いたのは、廊下を歩く靴音。玄関扉の向こうでは、隣人が帰宅する。鞄の中で鍵を探す乾いた音。
この扉を隔てた向こうでは日常が、正確に進んでいる。
きっと今しがた帰宅した隣人も、まさか、この半径二メートル以内の距離で、男二人が必死になってお互いの唾液を交換しているとは、想像もしないだろう。
混ざり合った唾液は、甘いのに、沸騰するように熱い。
その熱さのせいでうまく飲み込めず、唇の端から透明な線が溢れた。甘えたような、鼻にかかった声が漏れる。
指先に伝わるキャビネットの木の硬さだけが、バーソロミューがそこに立っているという事実を繋ぎ留めていた。
体重がわずかに傾いた瞬間、腰を掴まれる。
快楽に溺れかけた体を引き上げるように、落ちないように、引き寄せる力。
太腿の内側に、足が入り込む。立っていたはずの距離が、急に曖昧になる。
身体の間の隙間を無くすように、力強く抱きしめられると、離れた唇から、泣きそうな声で、ただ、好きだと耳元で囁かれた。
「今、死ねたら、幸せだと思う」
額を肩口に預け、囁いたのはパーシヴァルだった。
暗闇に慣れた目が、涙の膜を張った空色の瞳とぶつかる。
……まだ何もしてないのに?」
思わずそう問い返しながら、その柔らかな髪へ手を差し込む。普段なら前へ前へと指を流すが、今は撫でつけるように、後ろへ掻き上げる。
指の間をすり抜ける白銀は、雨のせいか、少し湿っていた。
……そうだね。……死んでも死にきれないね」
パーシヴァルは、微かに唇の端を緩めてそう言った。
その声は低く、喉の奥で一度つかえたあと、ゆっくりと零れる。
これから始まることを煽るような甘さはなく、どこか幼く、縋るような、許しを求めるような、響きが混じっていた。
それを聞いた瞬間、早くこの男の身体を自分の体温で包み込みたいと思った。冷えた部分を探して、ふたりで同じ温度になれたら、きっと、この胸の奥の痛みも和らぐ気がして、いとおしくて、どうしようもなかった。

その距離を埋めるように、再び唇が重なった。
一度、離れたかと思うほどに緩められ、次の瞬間、ゆっくりと深く押し戻される。
下唇をなぞられ、口腔に誘われる。
舌が触れては引き、引いてはまた確かめるように戻ってくる。ただ、呼吸の間を測るように。
息を吸うたび、舌で触れられる位置が少しずつ変わり、吐くたびに、その熱が奥へ押し込まれていく。
唇が離れた瞬間に、名残が残り、残った熱が、次の接触を呼び戻した。
衣服を乱され、できた隙間から、ひやりとした掌が差し込まれる。
脇腹、臍、背中――その内側の熱を確かめるように、輪郭を丁寧になぞられた。
唇は耳へ、首筋へ、鎖骨の窪みへ。鎖骨の皮膚の下の骨の形を確認するかのように、舌がゆっくりと移動する。
首筋に唇を落とされ、きつく吸われる。
吸われた箇所から、理性がほどけ、熱となって腰へ落ちていく。
首筋から唇が離れたあとも、そこに触れられていた感覚だけが残った。
熱を含んだ息がかかり、再び肩口へ額が触れ、短く息を整える間が与えられる。
腰に回された腕が、逃げる方向を消し、歩き出す合図のように、ゆっくりと力がかかる。

玄関から寝室までの短い廊下が、異様に長い。
溢れたシダーウッドの香りは床に広がり、もう戻らない。
結局、それを拭いたのは、翌朝呼んだレッカーが到着する三十分前だった。
足音と呼吸が重なり、途中で何かが床に落ちる。
振り返らなくても、それが何かはわかる。
コート。
シャツ。
ベルト。
その先で、また一枚。
童話の兄妹ではないが、ふたりは互いの服を、道標のように脱ぎ落としていった。
帰り道を覚えるためではない。
――もう、戻れないことは、どこかで知っていた。