けーだい
2026-03-07 03:04:02
3629文字
Public
 

無垢な瞳


対岸の崖に日が阻まれて、女神像を囲む広場は一足先に薄暗くなっていた。重い身体をここまで運んできた脚はどうやら限界だったらしい。宿に行かなきゃという意思を無視して、広場のベンチへと吸い寄せられていく。そうして屋根の足にもたれるように腰かければ、身体は深く沈み込んで、そのまま動けなくなってしまった。
立ち上がる気力もなくただ目の前の光景を眺める。落ち葉を掃き集める女の人。商人に値切り交渉をする若い男。夜へと向かう町の中、それぞれの日常を過ごすその景色は長閑でありながらどこか活力に溢れている。
その中で、一際元気の有り余る存在がふと目に付いた。
「捕まえた!」
「えー、またぼく~?」
「早く数えてよー!」
急かされた少年がしぶしぶその場で数を数え始める。すると一緒に遊んでいる子供達は、一斉に彼から離れるように駆け出した。どうやらそういう遊びらしい。
無邪気な悲鳴が広場に響く。それがとても楽しそうで、気付けば子供達を目で追っていた。
「珍しいな」
声をかけられて左へ振り向くと、仕事終わりなのか道具箱を片手に持ったエノキダがそこにいた。意外そうに小さな目を見開いている。
「お前も休憩するのか」
まるで俺が止まることを知らない猪だとでも思っているような言い草だった。それにどういう意味かと問うと、彼は「そのままの意味だ」と言いながら俺の隣に腰掛ける。帰るんじゃなかったのか、と思いながら見やると彼は黙って正面の店先を眺めていた。そういう気分なのだろう。あるいは、彼が言ったように〝休憩〟しているのかもしれない。
視線が泳いで、また子供達の姿を捉えた。追いかける少年が前を行く女の子に迫る。けれど女の子の方が少し速いのだろう。あと少し、というところで彼の手は空を掻く。
「ねぇ」
ぼんやりとそんな光景を眺めながら、気付いたらエノキダに話しかけていた。
「子供がいるって、どんな感じ?」
後ろで振り向く気配がする。彼はこちらを伺うそぶりを見せながら、静かに「どうした」と言った。
「いや……なんとなく」
本当に、深い意味はなかった。ただ、遊ぶ子供達を見ながらふとそう思っただけだった。
それが伝わったのかはわからない。けれどエノキダは少し考えた後、口を開いた。
「俺がウィッダに初めて会った時、どう感じたと思う」
質問に質問で返されて振り向くと、彼は相変わらず正面の店先を見つめていた。さっきの俺を気にする様子はもうそこにはない。
初めての娘に会って父親が思うこと。そんなこと、俺は今までで一度だって考えたこともなかった。
「え……かわいい、とか?」
眉をひそめながらそう答える。実際のところは全く想像もつかなかったから、ただの当てずっぽうだった。そもそも俺は赤ん坊に遭遇した記憶さえない。だから訊いているのに、と思う俺の前で彼はゆっくりと首を横に振った。
「赤ん坊はこんなに髪があるのか……と思った」
「なにそれ」
全く予想外の、予想しようなんてなかった感想に少しだけ笑いが出た。そんな俺を横目で見た彼の目も細くなる。まるで安心したように。
「俺もパウダも髪が多い。だから当然ではあったが……赤ん坊は髪が薄いものだと思っていたんだ。だからとても驚いた」
ウィッダが生まれてまだ四年かそこらしか経っていないのに、そう語る彼の目には懐かしさが滲んでいる。俺にとってはほんの数年前だけれど、彼らにとってはもっと長い時間のようだったのかもしれない、と思う。
「それから、初めて抱っこした時も驚いたな。俺が誰なのかもわかっていない顔で、俺に全てを預けてくるんだ。……こんな生き物がいるのか、と思った」
噛み締めるように瞼を閉じた彼には、もしかしたら今も娘の姿が見えているのかもしれない。その感覚だけはなんとなくわかるような気がして、彼の声に耳を傾ける。
無防備な、寝ているだけだった子があっという間に寝返りを覚え、自分で立つことを覚え、そうして言葉を話すようになること。
そのどれもが一瞬で、新しいことができるようになる度驚かされていたこと。
そしてそれが、何よりも面白く、うれしかったこと。
「大変なことも多かったが……飽きる暇もないほど、楽しかったよ」
彼の娘は今、遠い砂漠で生活している。それが寂しくない訳はないのに、彼はもうそれをおくびにも出さない。ただ、過去の幸せな記憶を大事そうに抱えているだけだった。
訊ねておいて相槌も打たない俺に、ふとエノキダの視線が戻ってくる。目が合って首をかしげた俺に彼は少し笑って、こんなことを言った。
「お前も髪が多いから、お前の子供もそうなるかもしれないな」
「俺?」
「ああ」
それこそ全く想像も及ばないことを言われて面食らう。エノキダにした最初の質問は単に気になったからしただけで、自分が親になるなんて、そんな可能性があることさえ頭になかった。
「考えたことなかった」
「なんだ、そういう予定があるんじゃないのか」
「ないよ」
俺の返答にエノキダは笑うだけだった。そうして日の落ちかけた空を見上げて、立ち上がる。
「俺はそろそろ帰るが……お前はどうする」
彼の中の俺はよほど走り回っているらしい。確かにベンチでいくらか回復したとはいえ疲れはまだ残っているし、何より明日からはまた忙しくなる。今からここを発つつもりはない。
「宿でも取るよ。もう少し休んだら」
俺の返答に彼はふむ、とまた考えるそぶりを見せた。それから俺の後ろを指差して、「パウダがな」と言う。
「あそこに作った平地をお前の家にしたらどうかと言っていた。ドアの礼にと」
「家?」
差された方を見上げると、確かに祠の近くに均された区画が見えた。この村からは少し遠いけれど、見晴らしのよさそうな高台だ。
「今ならまだ夜までに建てられるぞ」
どうやら今日の宿を自宅にしないかと言っているらしい。
確かに今日は夢も見ないくらい深く眠りたかったから、他に誰もいない空間はありがたい。ただその前に、一つだけ確認しておかないといけないことがある。
「それ、ただじゃないよね」
「もちろん、友情価格だ」
とんだ商人根性だ。彼はきっと俺が酷く疲れていることも、だから一人になりたいことも理解した上でこう言っている。
「逞しいね」
そう言うと、彼は「守るものがあるからな」と笑った。

ベッドだけの部屋に入ると、まず木の匂いがした。真新しい部屋は今まさに組み上げてもらったばかりで、ひたすらに殺風景だ。ただ、そもそも睡眠さえ取れれば何でもいいから、ここはこのままになるだろうとも思う。
ものの数十分の待ち時間の間に水浴びは済ませておいたから、もう後は寝るだけだった。剣帯を外し、革鎧を外し、鎖帷子まで全部脱ぎ終わるとベッドへと潜り込む。そうして暗闇の中に一人でいると、昼間の記憶がぐるぐると頭の中で渦を巻いた。
(飽きる暇もないほど、楽しかった……
そう言う友人は幸せそうだった。多分あれは誰もが持っている、ごく個人的な幸せだったのだろう。少なくとも、俺にはそう見えたし――だから、どうしても考えてしまう。
もしも。
もしも彼女が、そんな幸せを望んでくれていたら。
……やめよう)
息を深く吐いて、無理矢理思考を断ち切る。そうしてやっぱり今日は疲れているな、ともう一度思った。だから考えても仕方のないような、もうどうにもならないようなことばかり考えている。
明日こそ、白龍の後を追う。
それだけを考えながら、瞼を閉じた。