冬暁
2026-03-06 01:43:00
3303文字
Public ホム主
 

フロントの朝日

ぐろおか展示作品その2。
疲れて眠れない彼女と、そんな彼女に寄り添うホムラの話。

「随分と草臥れているね」
 聞き慣れたその声に反射的に顔を向けようとして止める。勢いよく首を振ったらそれだけで倒れてしまいそうだった。声の主が足音を鳴らして近づいたのを確認してからノロノロと顔を上げる。
「いつの間に亀に転職したの? そんな動きじゃ帰るのに数日はかかりそうだ」
「本当に亀になりたいくらいだよ」
 軽く息を吐くつもりが、重たいため息になる。それでも数時間後には武器を手に走らなきゃいけない。
「ニュースでも連日報道しているのを見てるよ。お疲れさま。この後は?」
「十二時間後には出る」
「お風呂は入ってるよ。一人で平気かい?」
「うん……
「ゆっくり浸かっておいで、と言いたいところだけどそうしたら出てこなくなりそうだな……。早めに出ておいで、簡単に食べられるものを作っておくから」
「うん……
 浴室に向かおうとして、着替えを忘れたことに気づく。
「僕が用意してあげる」
「ありがと」

 お風呂を上がるとふわりと良い香りがした。もう寝てしまいたい、と思っていた気持ちが食欲に傾く。
「お粥を作ったけど食べれそう?」
……おいしそう」
 湯気が立ち上るお粥は、短時間で炊いたはずなのに出汁の優しい香りと溶けている。ネギと胡麻をぱらりとかけられれば、香ばしさが加わってさらに美味しそうだった。
 あまりお腹は空いていないけど、せっかく分けてくれたし……
 少し冷ましてから一口。口の中に広がる貝や魚の出汁。そこに加わる生姜の辛味が、ピリッと味を引き締めてくれていて美味しい。お腹の底から温かくなって、ほぅと息を吐く。添えられていたザーサイを入れるとまた風味が変わって、気づけば茶碗は空になっていた。
「おかわりはいる?」
「う〜ん、もう少しだけ欲しいな」
 私の答えにホムラが微笑んだ。
「食欲が出てきたみたいでよかった」
「お腹が空いてたことも忘れてたみたい」
 思い返してみれば、まともに食事を摂ったのなんて昨日の朝。あとは手早くプロテインバーとかゼリー飲料で補給して終わりだった。
 各地に発生したワンダラーの対応に東に西に行ったり来たりで忙しかったからなぁ。
 二杯目もペロリと食べた私は、温かく満たされたお腹を抱えてベッドに転がった。
 程よい反発のマットレスに包み込まれ、ふわふわの布団をかける。隣に寝転んだホムラの腕の中に収まれば、穏やかな鼓動が耳を打つ。
「おやすみ」
 額にキスを落とされて瞼を下ろせば、疲労を強く感じる。遠く聞こえる潮騒が緩やかに意識を攫って——————
 ———私は飛び跳ねるように体を震わせた。
「ッ!!」
 焦燥感が胸を騒がせる。このまま眠ってしまいたいのに落ち着かない。一度それを意識してしまえば、重たい瞼とは裏腹に目が覚めてしまった。
 温かい胸に額を押し当てて目を瞑るのに、ハッキリとした意識は音や触感から情報を拾い上げる。眠りたい。早く寝てしまいたいのに、……もう眠れない。
 ホムラを起こさないようにベッドからそっと抜け出す。
 夜の冷たい空気は、ポカポカと温まっていた体の熱を奪っていった。
……はぁ」
 リビングのソファで体を丸める。体を起こしていると少し楽な気もするけれど、眠れるかと言ったらそうじゃない。意識は明瞭なままで、目を閉じればより研ぎ澄まされてしまうだけ。
 いっそ外に出て気分を変えたほうがいいかもしれない。
 車……、エンジン音とか聞きたいなぁ。あの揺れと音は心地よくて好き。
「車借りていいかな……
 チャリ、とキーが鳴る。ここにはホムラの車しかない。流石に勝手に借りるのはよくないかも。でも動かすつもりはないから……
「眠れないのかい?」
……ホムラ」
「車は好きに使っていいけど、今の君は運転席よりも助手席の方がいいんじゃないかな」
 ホムラはブランケットを私の肩にかけると車のキーを抜き取った。
「たまには深夜のドライブデートなんていいんじゃない?」
「でも……。ホムラは寝てていいんだよ?」
「どうして? せっかく君と出かけられるのに、ゆっくり寝てなんていられないよ」
 寝ていたところを起こされたはずなのに、ホムラは声を弾ませていた。
「おいで」
 差し伸べられた手をつい取れば、目尻を下げた彼が歩き出した。
 上着を羽織って車に乗り込む。アトリエとは違うホムラの匂い。ベッドよりも硬いシートは、エンジンをかけると微かに振動を伝えた。
「ねぇ、本当にいいの?」
「むしろどうしてそんなに遠慮するんだ。この時間に起きていることは辛くないし、君と一緒に出かけるなら夜更かしだって楽しいよ」
 温かい手のひらが私の頭をくしゃりと撫でる。
「君と見る景色はいつだって新鮮で、僕にインスピレーションを与えてくれる。僕にとっても嬉しいことばかりさ」
 シートベルトをつけると、シートが軽く倒された。夜の微かな灯りに照らされた横顔は、喜色を浮かべこそすれ憂いはない。私の視線に気づいた彼は乱れた髪を撫でつけてキスをした。

 タイヤが回転して轟々とアスファルトを走る音。段差にカタリと揺れては、エンジンの振動が規則的に響く。ウィンカーがカチカチと音を立てたかと思えば緩やかに停止して、また静かに走り出す。
 窓の向こうは道路を点々と照らす街灯が過ぎていった。風に揺れる木々と、車のライトの奥にある暗闇。沿岸を走っているからか、光は少なく走る車は多くない。
 いなくなったはずの眠気がとろりと思考を溶かしていく。運転してもらってるのに、と意識が浮上してもまた規則的な機械音と振動に遠のいていく。
 ベッドで眠るには気が張り過ぎているのかもしれない。でも、完全に気を抜ける状況でもなくて。
 だから、——————
 意識の片隅で吐息の音を聞く。それは押し殺した笑みのようにも、安堵に漏れたようにも聞こえた。

Posted by 冬暁/薄明